2013年12月25日水曜日

上田紀行著 (2005) 『生きる意味』岩波新書(新赤版)931

お久しぶりです。
卒業論文に四苦八苦しております mochi です。


生きる意味 (岩波新書)
生きる意味 (岩波新書)上田 紀行

岩波書店 2005-01-20
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大学院の先輩からお貸し頂いた本です。
卒論の合間に「そういえばちょっと読んで見よう」と読み始めたのですが、読み始めたら止まらず一気に読み進められました。(何度も書きますが自分は読書経験が浅いのでとても珍しいです。)

せっかくなので、今年最後の記事として本書を紹介したいと思います。自分が読みながら思いついた例も含めているため、本書の論旨から脱線していますがご容赦ください。


■ 「他者の欲求」を生きる私達

自分が高校を卒業するとき、英語の先生から次のメッセージをもらいました。今でもとても心に残っている言葉です。

Love your life you live, live your life you love.


この言葉のおかげで、自分がこれから生きていく人生は自分のものであるとこれまで実感してきた“つもり”でした。

しかし本書を読んでいて、自分の人生が本当に自分のものか?をいわれると、自信がなくなってきました。

本書の筆者は、人生は誰のものかと疑問視しています。例えば私達が「良い大学」「入りたい大学」とはどのようなところでしょうか。人によってはその施設や自分の目的との合致度、教授陣の研究分野などをパラメータとするでしょうが、「他の人も入りたがっているから良い大学」と考える人が多いのもまた現実ではないでしょうか。

教育もまたそうだ。いい大学とは、他の人が入りたい大学だ。なぜ東大に入りたいのかといえば、それは他の人が入りたい大学で、なおかつなかなか入れない大学だからだ。...
「自分が何を欲しているか」よりも「他の人が何を欲しがっているのか」を自動的に考えてしまうような「欲求」のシステムを私達はずっと生きてきた。 (pp.16-17)

確かに自分が高校生の時も偏差値表で大学の名前を見ていましたが、その大学には何があってどのような魅力があるのか、あるいは自分が何をしたいのか、と考える人は多くはなかったのかもしれません。しかしこのように他人の欲求を自分の判断の基準とすることで、私達は一種の責任転嫁による快楽を得るのかもしれません。

しかし、それは実はひとりひとりにとっては楽な社会でも会ったとも言える。なぜならそのような社会では「自分の頭」や「自分の完成」をほとんど使わなくてもいい体。いま社会で求められていそうな線を狙って生きていけばいい。自分は何が欲しいのか、自分にとっての人生の意味や幸福は何なのかなどという、私の「生きる意味」など突き詰める必要はなかったのである。 (p.17)

大学に限らず自分の進路をどうするかという人生の大きな岐路のはずですが、お互い他人はどうするかと考えながら道を選んでいるのかもしれません。

■ 効率性・合理性を重んじる現代社会

今日は効率性を重んじる社会とも言えます。塾で教えていても「○級取れるにはどうしたら一番いいですか?」と最短距離・近道を求める質問を良く受けるのもその現れでしょうか。

「構造改革」以降の私達にとって、「効率性」は人生において意識するべき最大の課題となる。常に「私はいま効率的に生きているか?」という意識を強く持たなければいけない。もし効率的に生きていないとするならば、それはすぐに改善しなければいけない。 (p.87)

しかし、このような「目的」に合致する行動のみを選択する「効率性」は本当に私達の幸せなのでしょうか。例えば先ほどの英検の例でも、「そんな英語の多読とか映画とかは英検の勉強に“直接”つながらないでしょう。それよりも過去問やりなさい。間違えた問題や分からなかった単語は単語カードに書きなさい。」と指導した方がはるかに効率的でしょう。そこに無駄はないように思えます。

ところが、このような勉強法を続けて英検を取った子はどのような気持ちなのでしょうか。もちろん「やった!○級受かった!」と喜び、それ以降の英語学習への動機付けとなるでしょう。しかし、その子が続けてきた勉強法だけが本当に英語学習の喜びと言えるでしょうか。映画を見て「この単語知ってる」という喜びも、英語版のマンガを読んで「英語でマンガ読んでる」と達成感も味わうこともない。だんだんと○級を取ること自体が目的となり、自分は「○級保持者」という数字により満足をし、その内の実力については目が行き届かなくなる。(現に○級保持者であっても、その実力が本当にあるか怪しい、という人もゼロではないように思えます。)

※補足※
ここまで英語の資格試験を例に話してきましたが、別に資格試験のための勉強を全否定しているわけではありません。英語を勉強する必要性が少ない日本という環境ではよいモチベーションにもなります。しかし、「それだけでいいのか?」というのが自分の立場です。

私の偏った解釈が入っているのは重々承知ですが、やはり目的のみを追い求めて効率性に固執するのでは、私達の本来の生きる意味や喜びとはつながらないのではないでしょうか。その原因として筆者が挙げているのは「数」の支配です。

■ 「数」の力

数による評価は分かりやすく客観的であるという良い面もあります。「○級」というのも、その人の英語運用能力はだいたいこの程度はあるのだろうという目安にもなり、それが誰かの主観的な判断ではなく客観性を帯びていることも保証されます。
しかし、「数」によって失われるものもあるのだと筆者は言います。

「数字」の犠牲として「生命の輝き」が失われる。そして「生命力」の失われた若者が生み出される。そして、その若者はどうして自分が自分でなければいけないのか分からない。そのくらい勉強ができる生徒はどこにでもいる。そうやって嫌々勉強をしている生徒などどこにでもいるのだ。自分自身の中に明確な動機が無く、単に数字を追い求めて、「より高い数字」を目指して生きていくのでは、人間は単なるロボットになってしまう。 (p.119)

数字のみを追い求める、いわば「数字信仰」ともいえる状況が存在しています。そうではなく、「数字」の効用も認めつつその内実を探究する態度が私達には求められるのかもしれません。

※余談※
そういえば質的研究と量的研究があるなかで、自分は卒業研究に質的手法を選びました。理由は最近の授業で量には限界があり質によってしか分かりえない部分もあると聞いていたからです。しかし「数」を軽視するのもまた愚かな行為だと本書を読んで感じました。学部の忘年会でお会いした先生からも「量的研究の作法を身に付けてから質的研究を行うと良いのではないか。」と伺い、とても納得しました。哲学史でも実証主義があったからカント、新カント派、ディルタイらが台頭して、現象学が生まれたわけで、量の追及抜きには質は考えられなかったのかもしれません。



■ 内的成長

私はこの本においてひとつの新しい言葉を提示しようと思う。
それは「内的成長」という言葉だ。私達の社会はこれまで、年収や成績といった数字に表されるような指標によって、私達を外側から見る成長間に支えられてきた。それは「経済成長教」が力を持っていた時代には機能してきた成長観だった。しかし、そうした成長観はもはや私達の生きることを支えてはいけない。私達の成長を内側から見る目がいま求められれている。そして、私はそれを「内的成長」と呼びたいのだ。(p.143)

内的成長は「生きる意味の変化(p.143)」とも言えます。自分が何をしたら満足するかを理解し、それを追求することでさらに自分がしたいことを見つけていける人は内的成長をしている人です。

私も忙しいときは目の前の課題に追われて提出すること自体が目的となってしまうこともあります。教育実習中は特に「50分間なんとかミスをしないように」とか「みんなから批評会で指摘されないように」と言う方向で授業設計をしていました。
しかしそれらは「他者の目」を意識している段階で、自分の内実が振り返れておらず大きな成長はできていなかったのだと思います。むしろ自分が納得できる授業を行い、その後に足りない点についてコメントをもらうのが良いのでしょう。内的成長のために必要なことは「わくわくすること」と「苦悩すること」と述べられています。自分が情熱を持って取り組んでいるときに内的成長は起きるのであって、ただ作業としてやっていても何も吸収できません。また、現実と理想のギャップを感じ取った瞬間、私達は苦悩します。その苦悩が、次の「わくわく」を生み出し、循環的に内的成長が起きるという原理です。


■ 「オリジナリティー」とは?

最後に、最も心に残った節を引用します。
以前「三田紀房(2009)『個性を捨てろ!型にはまれ!』(だいわ文庫)」という記事で「オリジナル」は不可能か?についてまとめましたが、本章でもオリジナリティーとは何か、という話が出ています。
通常私達が「オリジナリティー」という言葉を使うときは、「他の人とと違う」という意味の場合が多いです。「その作品にはオリジナリティーがない」とは「他の人と同じような作品だ」と言っているのに近いのでしょう。
本書では少し異なった角度から「オリジナリティー」を見ています。

オリジナリティーとは何よりもまず「自分自身にオリジン(源)がある」ことである。他人の言うことを鵜呑みにしたり、他人に同調して同じことしか言わなければそれは「オリジナリティーがない」ということになるが、私が私自身の「生きる意味」を創造する中で結果的に他人と同じ結論に至るのならば、それは私のオリジナリティーなのだ。 (p.218)

例えば、「お年寄りを大切にしよう」という言葉があります。A君は先生に言われるからそのように復唱します。B君は自分のおじいちゃんとのふれあいからお年寄りに対する敬意の念を持つようになり上の言葉を言います。
この場合A君の言葉のオリジンは他人である先生ですが、B君の言葉のオリジンはB君自身にあります。したがってB君にはオリジナリティーがあるといえます。このように考えると、「なんだかみんなと同じようなことをやっているな」と感じるときも、その起源が自分自身であるならオリジナリティーはあるわけです。逆に「みんなと違うことをやらなきゃ」と考えてしまうと、無理に独創性を作ろうとしてしまい追い詰められてしまいます。
自分の考えや信念のオリジンが何だったのか考えるのも、また面白いと思います。


全体を通じて、現代社会であったり教育現場であったりと、多くの事柄に結びつけながら納得できる内容が多かったように思えます。
自分に本書を貸して下さった先輩に感謝して、本記事を締めたいと思います。

最後まで読んでいただきありがとうございました。来年からも時折更新しますので、またご覧ください。 sava 君も頭の中では記事を書いているようなので、もうすぐ更新してくれると思います…笑。ではよいお年を (^^) 。




2013年12月5日木曜日

翻訳学をとりまく近年の議論:Juliane House(2008) "Translation" Oxford: Chapter 6

こんにちは。

最近はバイトも少し落ち着いて、自分のことに使える時間がだんだん増えてきました。

この半年ほどドイツ語教室に通っています。やっと現在完了や過去基本形まできて、少し達成感を覚えているのですが、ドイツ語の不規則変化を覚えなければならないと分かったときに、「自分の塾の中学生はこんなに大変な作業をしていたのか」と実感。(人にやらせる前に、まずは自分でやれ!と中学生から突っ込まれてしまいそうですが、)やはり覚えるのは大変ですね。「来週までに覚えてくるんよ!」といわれるだけでは、まったくやる気が出ないことに気づき、しみじみ普段の自分の指導の不徹底さを反省。


さて。今日で翻訳読書会も最後になったので、そのまとめだけ下に載せておきます。
ここで翻訳学の勉強をしなおしていて、改めて翻訳という行為の面白さであったり、言語の持つ可能性を再発見できました。

Chapter 6では以下の4つの話題が述べられているので、順番どおりに、且つ具体例などを織り交ぜながら紹介していきたいと思います。

・Translation as intercultural communication(異文化間コミュニケーションとしての翻訳)
・The nature of translation process(翻訳プロセスの本質)
・Corpus Studies in translation(翻訳のコーパス研究)
・Translation and Globalization(翻訳とグローバリゼーション)


Translation as intercultural communication(異文化間コミュニケーションとしての翻訳)

以前にも説明がありましたが、改めて確認から入りましょう。

covert translation(潜在化翻訳)では、翻訳作品であるにも関わらず、あたかも原著者が書いたように訳すことを指します。
それに対してovert translation(顕在化翻訳)では、読んで「これは翻訳作品だ」とすぐに分かるように訳すことです。

たとえばJ.D.Salinger による “The Catcher in the Rye” はいくつかの翻訳が出ていますが、村上春樹訳の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』訳は、あえて英語らしさを残した訳し方がされています。下はホールデンがフィービーを探しているときに出会った子供たちとの会話です。

キャッチャー・イン・ザ・ライ
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「僕はフィービーのお兄さんなんだよ。フィービーが今どこにいるか知らない?」
「ミス・キャロンのクラスにいる子でしょ?」とその子は行った。
「えーと。どうかな。たぶんそうじゃないかと思うけど」
「じゃあきっとミュージアムに行ってるはずだよ。先週の土曜日にわたしたちが行ったから」とその女の子は言った。
「どっちのミュージアム?美術館か、博物館か、どっち?」と僕は尋ねた。
彼女はちょっと方をすくめるような格好をした。「わかんない」と言った。「とにかく、ミュージアム」(p.197) 
※注:下線筆者による。 


この部分はmuseumという英語の特徴を用いたエピソードでした。日本語訳としては村上訳しか読んでいないのだが、この部分だけ読んでも明らかに英語の作品を翻訳したのだな、と読者は感じるでしょう。上の定義にあてはめるなら、この部分の訳し方は顕在化翻訳でしょう。
この部分をもし潜在化翻訳するとしたら、どうなるだろうか。毎度拙い訳で恐縮ですが、以下のような訳し方もあり得ないのでしょうか。

「あの子はどこに行ったって言ったかな。なんとか館っていっていたけど。」
「何館かな?美術館?それとも博物館?」と僕は尋ねた。

この訳し方では、読むだけでは英語の原作があったとは感じにくい。したがって、先ほどの村上訳と比べて潜在化翻訳と呼べるのではないのでしょうか。


※補足※
ちなみに、訳者である村上氏は『翻訳夜話2サリンジャー戦記』で、原著者であるサリンジャーの文体をできるだけそのまま伝えようという姿勢をとっていることを明かしている。したがって、ホールデンの話し方やリズムなどを再現する工夫が多く紹介されている。翻訳のみならず文学的な解釈という点からもとても面白い本です。

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さて、covert translation と overt translation に戻りましょう。それぞれについて、一部原文から引用します。

In a covert translation, a ‘cultural filter’ is applied in order to adapt the source text to the communicative norms of the target culture. (p.71) 
潜在化翻訳では、「文化フィルター」によって原典を目標文化でのコミュニケーションの基準へ合わせる。 
In overt translation, intercultural transfer is explicitly present and so likely to be perceived by recipients. They are presented with aspects of the foreign culture dressed in their own language, and are thus invited to enter into an intercultural dialogue. (p.72) 
顕在化翻訳において、異文化間的転移ははっきりと表れているため受容者にとって感じ取りやすい。受容者の既得言語を身に纏った外国文化の側面が表れ、異文化間的対話の世界へと読者は招待される。

どちらのタイプで翻訳するかによって、読み手に与える影響は大きく変わることが分かって頂けるかと思います。また他の人文系や社会学と同様、ポスト現代主義、ポストコロニアル主義、またフェミニズムの影響によって、翻訳学の対象は言語そのものから、文化へと変わってきている。すると、翻訳者達はこれまでよりも高い位置が与えられ、原典の文化をいかに目標文化に伝えるか(あるいは伝えないで改変するか)といった選択権を持つことになり、そこには翻訳者の意図がつねに関わってきます。



The nature of translation process(翻訳プロセスの本質)


Translationという用語は翻訳プロセスを指すこともあれば翻訳プロダクトを指すこともある。これは、現象学において意識が意識作用と意識対象(ノエシスとノエマ)に区別されたことと似ています。

したがって、翻訳学の研究でもプロダクト研究とプロセス研究に分けられます。プロセス研究では、翻訳中に考えていることを話してもらう thinking aloud ( introspection ) や、翻訳後すぐに翻訳最中のことを振り返ってもらいプロセスを明らかにする retrospection などが手法として用いられています。

翻訳プロセスを研究する際には以下の点に気をつけなければなりません。

In using the term process of translation, we must bear in mind that we are here dealing not just with one particular unitary process but with a complex series of problem-solving and decision making operations. (p.75)
翻訳プロセスという用語を使う際に気をつけなければならないのだが、私達はここで1つの特別なプロセスではなく、複雑な問題解決および意思決定の作動の集まりを扱っている。

今日の翻訳プロセス研究で得られている仮定には、翻訳者は少なくとも自分がしていることを統制し、頭の中での活動に“部分的に”入り込めるというものがあります。つまり、意識的な活動と無意識的な活動があるとして、意識的な部分は言語化可能であるが、言語化不可能な無意識な部分の存在も認めています。


※余談※
閑話休題。先日のルーマン読書会では意識と無意識の話になりました。読書会の参加者の中に合気道を嗜まれている方がいらっしゃり(!?)、韓氏意拳という話を伺うことができました。その方によれば、武道では意識によって体を動かしてしまうと相手にすぐに察知され技を止められてしまう。しかし意識して体を動かすのではなくて、体が動くままに(自然に)動かせることで、相手に自分の動きが察知されないようになるらしく、そのためには練習中もずっと自分の体の状態を「感じ」、自然に体が動くのを「感じ」るとおっしゃっていました。

正直この話を聞いてもあまり実感がわきませんでした。自分にもこのような経験はあまりないと思いましたが、実は日常生活でも体が自然に動くことはよくあるそうです。たとえば足元に段差があってつまずいたとき、意識はしなくても足が勝手に動いて転ばずに済みます。これも体が自然に動くことの例です。他にも眠っているときにかゆいところを勝手に掻く動作も意識はしていないはずで、このように動作の中には意識によってコントロールを受けなくてもされる部分が多くあるはずです。(しかし、西洋的発想で因果関係のもとに人の動きを分析しても、このような自然に任せた身の動かしは扱えない・・・。そこに東洋武道やルーマンのシステム理論が活躍するのかもしれません。)

この話を聞いて、翻訳でも「意識」をして統制をかけながら作業をする反面で、優れた翻訳者であれば言語化はできなくても、自然に上手な訳をするための工夫が体にしみついているのかもしれないと感じました。

(長々とすみません。急いで本題に戻ります。)



Corpus Studies in translation(翻訳のコーパス研究)

コーパスとは簡単に言えば言語使用のデータベースで、たとえば、日本語では「少納言」といったウェブサイトがあり、英語にはBritish National Corpusがあります。

翻訳学でのコーパス使用は以下の利点があります。
・実際に翻訳で用いられる言語使用であるため、言語に焦点を当て、テクストタイプとしてどのような典型例があるのか決めることができる。
・単語の組み合わせを知ることができる。
・parallel corporaによって翻訳の分析を行うことも可能となる。
・目標言語で書かれた文章と、目標言語の翻訳の文章を比べて、翻訳がどのように完全な文章と異なるかを調べることができる。

翻訳学でのコーパス研究はまだ新しい領域であるが、文脈がある豊富なデータを用いた量的分析や比較に終始してしまうべきではありません。

Translation and Globalization(翻訳とグローバリゼーション)

英語教育の議論において「国際化」という言葉は必ずと言っていいほど取り立たされるキーワードと言えると思いますが、翻訳学でも同様に「国際化」は入念に考えるべきでしょう(国際化と翻訳の議論を本書の最後にとってあったのも偶然ではないのかもしれません。)

モナ・ベイカー & ガブリエラ・サルダーニャ『翻訳研究のキーワード』では、「遠心的・求心的」という2つのタイプのグローバリゼーションの緊張関係について説明してあります。


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一方の求心的なタイプはグローバリゼーションを均質化と捉えるもので、暗に帝国主義、征服、ヘゲモニー、西洋化、アメリカ化を指す。他方の遠心的なタイプは、相互依存、相互浸透、異種混交、シンクレティズム、クレオール化、横断等をもたらすものとしてのグローバリゼーションを指す。(pp.102-103)

大幅な言い換えになってしまいますが、翻訳することで「世界が均一になる」ととらえるなら遠心的であり、翻訳することで「世界がつながる」ととらえれば求心的といえると思います。

国境を越えて情報を伝える際には、翻訳という行為は必要不可欠になります。特に近年翻訳学で生まれた領域にローカリゼーション(localization)があります。ここでは、国際化にともなって、ある原文を特定の地域のために翻訳する行為を指します。たとえば日本の電子辞書が世界中に輸出されたときその説明書やマニュアルは日本語で書いてありますが、これを輸出先の言語で翻訳するのはローカリゼーションになります。

英語が大きな力を持つことになった今日、翻訳学研究でも念頭に入れるべき点が最後に述べられています。

Translators should intervene in cases where the translation flow in certain influential genres (economic and scientific texts, for example) is exclusively unidirectional - from English into other languages, but never the other way round. Clearly, there is a paradox here, as in all translation: this is not yours, but I shall make it available to you, I shall bring it over to your side, I will translate it, ( p.81 ) 
特定の影響力のあるジャンル(例えば経済学や科学的文章など)が絶対的に一方通行-英語から他言語で、決して逆ではない-という場合、翻訳者は介入をするべきである。明らかに、全ての翻訳には逆説がある。この文章は君たちのものではないが、私が君達でも読めるようにする。君達の方に持っていってあげて翻訳してあげる。


翻訳を言語のみでとらえたり、文章(text)という単位のみで分析するのではなく、この文章をその言語で訳すことが果たしてどのような影響を与えるのだろうか、という点まで踏み込むことが、国際化という今日の特殊な文脈で翻訳学は求められているのかもしれません。


大変長々となってしまいましたが、本書のまとめはこれで終わりです。

読みにくく分かりにくい記事で、申し訳ありませんでした。(特に翻訳の文章にも関わらず、邦訳が読みにくすぎる・・・。)
今後も翻訳について面白い文章があれば、記事にまとめてみたいと思います。

長々と最後まで読んでいただいた方には感謝申し上げます。




本記事はJuliane Houseの"Translation"のまとめ記事です。
他のChapterについては、以下の記事をご覧ください。


2013年11月30日土曜日

訳と言語教育:Juliane House(2009) "Translation" (Oxford)を読む(3) :Chapter 5

mochiです。

今週は学部の後輩への進路説明会やフリースクールでの英語講座、サークルでお世話になっている学園の文化祭など、イベントがたくさんありました。文化祭ではダンスに参加させてもらいましたが、若々しい後輩たちと同じステージに立ったということで、次の日は筋肉痛に悩まされました。やはり年はとっていくもののようで・・・。



さて、今回の章は言語教育と訳に関するもので、訳反対派と賛成派の両方から言語教育における訳の役割を考察していきます。

※ 本章で用いられているtranslationは「翻訳」までいかない「訳」程度なのかもしれません。Houseは本書ではtranslationの定義をJakobsonのintralingual translationを用いているため、厳密に翻訳と訳の区別を行っておらず、以下に示すのは「訳の教育学的使用」であって、「翻訳の教育学的使用」とまでとらえないほうが良いと思われます。



本記事はJuliane Houseの"Translation"のまとめ記事です。
他のChapterについては、以下の記事をご覧ください。


Arguments against translation(訳反対派の議論)


■ 改革運動による訳への攻撃
These uses of translation provoked fierce opposition in the latter half of the nineteenth century by members of the so-called Reform Movement, a group of language teaching theorists who advocated a less formalized and teaching. (p.60)

もともとは訳読式教授法(Grammar-Translation Methods)によってラテン語教授が行われており、日本でも変則式教授が行われておりました。しかし1850-60年頃の「改革運動(Reform Movement)」によって、書き言葉のみならず話し言葉の言語教育を進めたり、人工的文法規則の例示から意味の繋がった文章の使用へと転じたりしてきた。これにともない、訳というものも改革運動から攻撃を受けることになった。

■ 2方向の翻訳: どちらも反対されてきた。
(1) Translation into the foreign language(例:日英翻訳)
自然な言語習得が進むのが妨げられたり、不自然に母語が媒介することで外国語の使用がだめになってしまう。

(2) Translation into the mother language(例:英日翻訳)
学習者が母語を使うと干渉(interference)が起きてしまい、外国語が頭の中に入って混乱してしまう。また、語や句の意味説明の手段として日本語で説明すると、受動的な知識となってしまい、能動的には用いなくなると考えられていた。さらに、言語間に「1対1の関係(one-to-one correspondence)」があると思わせてしまう。

※ただしどちらも実証的に示されているわけではない。

■ bilingualism
二言語併用には、compound bilingualism ( 複合二カ国語併用)とcoordinate bilingualism(等位二カ国語併用)がある。前者は母語と外国語それぞれの語彙が一緒に頭の中に入っているとする立場であり、後者は別々に頭の中に入っているととらえている。

この区別に関して、以下の記述がある。
A further opposition to translation was based on the belief that it produced the ‘wrong’ kind of bilingualism: compound rather than coordinate bilingualism.(p.61)

訳を行うことで、等位二ヶ国語併用よりも複合二ヶ国語併用になってしまうと考えられ、訳はより非難を受けた。ここには "Think in English"のように、英語で考えて話すというnative-likeを理想とする考えが隠れているように思える。


Arguments for translation(訳賛成派の議論)


ここでは、先ほどとは逆に訳擁護派の意見を紹介していく。

大前提としては、先ほどと異なりcoordinate bilingualismを良しとしている。

■ 言語学習はバイリンガル化
If the foreign language is viewed as co-existing bilingually with the L1 in the minds of language learners, then language learning becomes a ‘bilingualization process’, i.e. a process promoting bilingualism. (p.63)

→言語学習の目標を「英語ペラペラ」とするか、「英語も日本語も」とするかによって、訳の効用は大きく変わるようである。そんな中、multilingualismやmulticultualismは、外国語学習の意義に影響を与えないだろうか。

■ 訳の効用
本文では、以下の点が挙げられています。すこし長くなりますが、それぞれに具体例や私自身の経験を当てはめながら説明していきます。

(1) 訳で言語項目の意味を説明し、正確さを高めて熟達度を高める

たとえば「英語は英語で」に従って、ある単語の意味を英語で説明したとしましょう。 "This is a cloth usually hung by the window. You usually have this in your house. This word starts with c. Can you guess what it is?"これに対して「カーテン」と分かれば良いのですが、分からなければいつまでたってもこの単語の意味が分かりません。(curtainはカタカナでも用いられていますが...)

むしろ「curtainはカーテンのこと」と簡潔に意味を説明したほうが、効率的に意味を知ることができ、結果的に正確さが高まるのではないでしょうか。


(2) 外国語の“奇妙さ”を下げるという心理的効果

小学校の外国語活動の授業を観察する機会がありました。児童は楽しそうに歌を歌ったりゲームをしたりしているのですが、ALT(Assistant Language Teacher)が英語で少し長めに話すと、「は?何言っとん?」「分からんし」といった反応が返ってくることもあります。

「分からない」というのは児童にとってstressfulな体験で、これが高まると「英語(外国語)は嫌だ」という気持ちにつながってしまうかもしれません。(もちろん外国語活動という領域上、相手の言っていることを分かろうとする姿勢も身に付けさせるべきなのでしょうが...)

先ほどの授業の場合は、日本人のHRT(Home Room Teacher)が「今のは...と言っていたんだよ」と一言言えば、子どもたちも安心できると思います。

現に、昨日英会話教室で小学生とネイティブの先生の授業をみていましたが、先生が"always means 100 %. Judy always plays tennis every Friday."といったとき、ほとんどの子はちんぷんかんぷんといった感じでした。しかしある女の子が「今のは、テニスを毎週金曜日に100%するって言ったんだよ」とみんなに教えました。すると他の子たちも元気を取り戻して「え、誰がテニスをしたの?」「100%するってどういうこと?」と再び授業に参加できていました。このように“たまに”訳を用いることで心理的な不安が取り除かれるのではないでしょうか。
(もちろん訳をいちいちしていたら誰も英語を聞かなくなってしまうので、タイミングが大事なのでしょうが。)


(3) 様々な言語のレベルで言語の共通点・相違点を内省する機会を多く作れるので、翻訳は言語意識をあげるきっかけとして働きうる。

Translation can act as a trigger for raising awareness of language because it creates many opportunities for reflection on contrasts and similarities between languages at various linguistic levels. (p.64)

翻訳をすることで言語意識があがるのではないかという論点です。以下の点については、「等価と翻訳可能性: Juliane House(2009) "Translation"(Oxford)を読む(2): Chapter3」で述べております。

The very limits of translatability can draw attention to linguistic contrasts and similarities, and to the context- and culture-dependent nature of meaning. (p.64)

そういえば前回の記事を書いて以来、フリースクールのボランティアや英会話教室などで翻訳タスクをたまに行っています。そこで以前紹介した " You have written "skill" with a "c" again, instead of a "k""を訳させてみるのですが
、十人十色の解答がでてきてとても面白く思っております。ただ、英文自体が理解できないと翻訳のしようもないので、難易度の統制は必要だと実感しております。(先ほどの文では、instead of やagainが正しく意味が分かっていないと、訳しようもないですね。)


(4) 異文化間理解を促進する。

たとえば、"Don't Sleep, There Are Snakes"という文はどう訳すのでしょうか。「寝るな、ヘビがいるぞ」でしょうか。

実はこれはアマゾンのジャングルに住む人々が使うピダハンという言語では夜の別れのあいさつとして用いられるそうです。(重訳なのであまりよくないのですが...)

つまり、先ほどの"Don't Sleep, There Are Snakes"は、日本語に相当するのは「おやすみなさい」なわけです。文字通りの意味とは異なりますが、語用論的、文化的にはこちらが等価となります。

この翻訳体験をすれば、アマゾンに住む人々の生活を想像したり他の国の別れのあいさつに興味を持ったりすることができます。英語科教育では異文化理解、国際理解学習も大切とすれば、翻訳もその一助となるのかもしれません。


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(5) 翻訳活動 (translation activities) に用いられる。

最後はより具体的な活動例です。翻訳活動は、翻訳自体を1つのスキルとして、実生活で翻訳をする場面を想定して活動を行うものです。たとえば海外の友人から手紙が届いた。その手紙の内容を自分は理解できる。しかし5歳下の妹はそれを理解できない。そこで、あなたは妹のために翻訳することになりました。...

このような翻訳は実際に行う機会もあるのではないでしょうか。自分も大学に入ってからイギリスのホストファミリーから受け取った手紙を、母親のために翻訳した覚えがあります。こう考えると、翻訳も決してnon-communicativeとは言いがたい気がしますね。

ただ、いつまでも翻訳活動のみをしていても、英語運用能力が上がるかは怪しいので、コミュニケーション重視のカリキュラムに翻訳を「少しだけ」取り入れるのが現実的なのかもしれませんね。








なお、訳と言語教育についてはいくつか関連記事もあるので、興味があればぜひご覧ください。


菅原克也(2011)『英語と日本語のあいだ』(講談社現代新書):授業での使用言語は?

山岡洋一(2001)『翻訳とは何かー職業としての翻訳』日外アソシエーツ



また、先月出された本書にも訳と言語教育に関するページがありましたので、興味のある方はお読みください。抄訳本ですが、日本の言語教育という枠組みで語られているので、Guy Cookらの本と合わせて読むと良いのではないでしょうか。


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2013年11月13日水曜日

等価と翻訳可能性: Juliane House(2009) "Translation"(Oxford)を読む(2): Chapter3:

本記事はJuliane Houseの"Translation"のまとめ記事です。
他のChapterについては、以下の記事をご覧ください。



(注)引用箇所の下の日本語は私の試訳です。訳す際は最大限注意を払っておりますが、お気づきの際はご指摘頂ければ幸いです。


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第3章では、等価という概念について主に扱われています。
友人の研究テーマということもあり、前回の勉強会で一緒に読んできました。

When we say two things are equivalent we do not mean that they are identical but that they have certain things in common, and function in similar ways. […] what count as similarity will vary according to where one sets one’s priorities and where one’s focus of interest lies (p.29) 
2つのものが等価であるというとき、それらが一致するということではなく、共通して持つ点や似た機能を有することを意味する。…何を共通と見なすかは、何を重要とするか、どのような興味をもつか、によって変わる。

そもそも翻訳学では、ある言語で書かれた内容を別の言語に置き換えるとき、完全に再現することは目指していない。できるだけ似ているものを目指すというスタンスが近いかもしれない。これこそが等価概念の重要な点で、ある観点において満足できるくらい共通していれば良いとする立場である。

例えば、文学作品やマンガでは、完全な字義通りに翻訳することが目標というわけではなく、あくまでも相手を楽しませたり原著者の作った世界観を伝えたりというのが本質のはず。ならば、“多少の”内容のズレはあって然るべきなのかもしれない。(この「多少」というのもくせ者で、どこまで認めるのかは個人の判断ということになるのでしょうね。)

本章では主に等価概念の区分について紹介されています。元来は言語学の影響もあり、意味や形式に関する等価が多かったのですが、徐々に言語の語用論的な等価、機能的等価なども登場します。

そして、Juliane Houseの評価枠組みも登場します。(やはり導入書よりも原著で読んだほうが分かりやすい。)その枠組みでovert translationやcovert translationの評価例も示されています。

また、cultural filterという概念も登場することで、言語上の意味というものだけで考えることが、どれだけ狭い視野かを気づかせてくれます。


本記事では、後半に登場するTranslatabilityに関して詳しく述べたいと思います。

まずは言語学のお堅い話になりますが、言語相対仮説という考え方があります。簡単に言えば、ある言語を用いて暮らしている人の思考は、その言語によって影響を受けるというものです。例えば、日本語を母語としている人とドイツ語と母語としている人では、考え方が変わってくる、というものです。

よくドイツ語は論理的で「哲学の言語」という方がいらっしゃいますが、それもこの考え方に近いのかもしれません。(私はそうは思いませんが笑)

すると、翻訳という行為はとんでもないことをしているように思えませんか。

ある言語で規定された思考を、別の言語で再現するのは不可能ではないでしょうか。だって、言語相対仮説では言語によって考え方も影響するのですから。

この点について、Juliane Houseは以下のようにまとめています。

To sum up, there is no direct correlation between language, thought, and reality. Speakers are not imprisoned by the language they speak. There is always an escape through the creative potential of language itself, and through the creativity of its users. (p.40) 
要約すると、言語、思考、そして現実には直接的な相関はない。話し手は自分の言語によって考え方が囚われることはなく、創造可能である言語を創造的に使用することで縛られなくて済む。

完全に言語相対仮説を棄却しているわけではありませんが、「直接的な関係」の存在には否定的に述べています。そもそも言語がcreative potentialを有しているわけだから、ある意味内容を別の言語で表すことも可能となるわけです。

では、翻訳とは可能な行為なのでしょうか。

どのようなテクストでも翻訳可能なのでしょうか。

残念ながら、そういうわけではありません。最後に翻訳可能性に制限がある事例をいくつかみてみましょう。( p.41 )

(1) Is life worth living? It depends on the liver! 
(2) You have written "skill" with a "c" again, instead of a "k"

これらを日本語に訳すとしたら、みなさんならどう表しますか。
(ぜひ皆さんのご意見をお寄せ頂ければありがたいです。)

(1) はliverという単語が「生活者」と「肝臓」という掛詞(ダブルミーニング)になっています。このような場合、日本語で表すのはなかなか困難になります。

(2) はメタ言語(言語に関する言語)を用いているため、日本語でも同様にはいきません。

このような場合は翻訳可能性(translatability)が低く、翻訳者も頭を悩ませます。おそらく訳注などをつけることで対応する場合が多いのではないでしょうか。

最後に、自分だったらどう訳すかを出しておきます。

(1) 人生に生きる価値があるかって?肝心なのは肝臓じゃないか。
  生きるか死ぬか?飲むか飲まないかだろ。

(2) おいおい、また「技術」を「枝術」って書いているじゃないか。

うーん、センスのなさが表れていますね。特に(1)が。
みなさんならどう訳すか、教えていただきたいです(^^)


ちなみに、roomieというサイトを最近よくチェックしているのですが、そこではこのような記事が紹介されていました。

翻訳できない11の言葉


例えば、Waldeinsamkeit というドイツ語は「森でひとりぼっちでいるような気持ち」という日本語で表すことができます。これを本記事では「翻訳できない」とまとめています。

最初にこの記事を読んだときはとても面白かったです。ただ、「あれは翻訳できているのではないか」と思うようになりました。現に「森でひとりぼっちでいるような気持ち」と日本語で表しているわけですから。

さて、これは翻訳できているのでしょうか。できていないのでしょうか。

Our thinking is to a certain degree influenced by the linguistic organization of experience because concepts encoded in a single term are simply more readily available than concepts for which no single term is available. (p.40) 
私たちの思考はある程度は言語組織によって影響を受けている。なぜなら1語で表すことができる概念は、1語で表せない概念よりも簡単に使用できるからである。

ということで、一問一答式に答えると、翻訳はできている!
しかし、やはり両者の思考は違う。なぜなら、Waldeinsamkeitという一語の方が使用しやすいからである。


やはり翻訳は奥が深いですね(^^;)このような話は中高生には通じるのでしょうか。

個人的には高校生くらいであれば、翻訳したくてもできないもどかしさの体験はさせてみたいものです。普段無意識に使用している言語への「気づき」が生まれるのではないでしょうか。


2013年11月12日火曜日

竹田青嗣(2011) 超解読!はじめてのカント『純粋理性批判』 , 講談社現代新書

こんにちは。mochiです。

まずは近況報告から。

・BBSの中国地方60周年記念大会に参加させて頂きました。
友人が表彰されたり、新中B君が誕生したり、懇親会で他県の方と交流できたり、大変充実したものになりました。特に、ともだち活動について、保護観察所の方とお話できて良かったです。

・学園祭の漫才大会に出場してきました!
結果は見事3位!大学生活の良い思いでになりました。
 ※参加チームは3組だった模様。

・卒業論文の中間発表が終わりました!
とりあえず、このまま進めればよいのだと少し自信がつきました。教授方からの質問には緊張しましたが・・・。というより、質問自体の意味が理解できない自分って・・・。



さて、少し落ち着いたところで、読み溜めていた本のまとめを行っておこうと思います。


超解読! はじめてのカント『純粋理性批判』 (講談社現代新書)
超解読! はじめてのカント『純粋理性批判』 (講談社現代新書)竹田 青嗣

講談社 2011-04-15
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前回の英語教育みんなで書けば怖くない!企画のときは、多くの方がアクセスをして頂きました。拙文にも関わらず感謝です!それに対して、おそらく今回の記事は、タイトルから判断して、読む人が圧倒的に少ないだろうなとすでに予感しています(が、めげずに頑張ります!)。

さて、センター倫理(今は政治経済もあるんでしたね)をもうすぐ受験する高校生たちは、カントと聞いてどのようなことを思い浮かべるのでしょうか。

「感性」「悟性」「先天的(アプリオリ)」「善意志」「当為」「道徳命令」「仮言命法」「定言命法」「物自体」「コペルニクス的転回」...

確か、こんな用語が書いてあったように思います。

ただ、受験勉強のときは「コペルニクス的転回」のようなキーワードさえ覚えておけばセンターの問題はある程度対応できた覚えがあるのですが(あいまいな記憶で、間違っていたらすいません)、本書を読むとそのような理解は浅いことに気づかされます。

今回は、まだまだ浅い理解の段階ですが、現時点で分かったことをまとめたいと思います。

1. カントの問題意識


カント以前は「経験論」と「合理論」の対立が主だったようです。簡単に言えば、経験論は人間は経験によって学習するため、生まれてくるときにはまだ頭の中には知識は入っていない、という立場です。合理論は、すでに頭の中に知識が入っている状態で生まれてくるとする立場です。この両者の対立は、言語教育史的にはB.F. Skinnerらの行動主義とChomskyの生成文法理論(生得主義)の対立に非常に似ていると思います。Chomskyの普遍文法の考え方は、合理論的な考え方ともいえるのではないでしょうか。(自分もこのアナロジーで理解できました。)

しかし、カントはこのどちらの立場も否定するところから始まります。

原文の第1文目の"That all our knowledge begins with experience there can be no doubt."によって合理論の立場は否定されます。しかし、経験主義であればタブラ・ラサ状態であるはずが、"with"という前置詞を用いていることからも、頭の中には生まれる前から(ア・プリオリに)何かしら備わっていることが分かります。(詳しくは後述。)


2. 物自体という概念


ここで、1つのテーブルについて考えて見ましょう。

僕がパソコンを置いているこの机。自分の目には茶色と黄土色の中間に見え、触ると堅く、うっすら木の模様が入っています。

しかし、それは本当の「机」の存在なのでしょうか。

実際のところ、上の私の記述は、私の目に映った机にすぎません。現に他の人がこの机を見たら別のように記述するでしょうし、明日の私がこれと同じように述べるかどうか確証はありません。この机を晴れた日に外に出せば、もっと明るい色に見えるでしょう。

このように、ある実在するもの(あるいは世界)と私たちが認識しているもの(世界)は必ずしも同じものではありません。カントは、私たちの認識がlimited knowledgeであることを強調し、本来世界に存在しているのは物自体であるといいます。

世界の「完全な認識」は、「神」のような全知の存在だけに可能で、そのような世界のありようをカントは「物自体」(=世界それ自体)と呼ぶ。(p.28)

ここで重要なのは、私たちが認識している世界というのは、そもそも限定されているということです。


3. 感性、悟性、理性

私たちの認識は、「感性」「悟性」「理性」によって行われています。

人間は、およそ事物(対象)を「直観」によって知覚し認識する。つまり、事物は、われわれの五官の近くを通して、意識に表れてくる。これを「感覚」による直観というが、人間がもつこの「対象を感覚的に直観する能力」を、ここでは「感性」と呼ぶ。
しかし、われわれは、ものごとや事物対象を「感性」だけで認識するわけではない。「感性」のほかに、「悟性」と「理性」の働きが必要である。ここで「悟性」は、主としてものごとを概念的に判断する働き、「理性」は主として判断されたものをもとにしてこれを「推論」する能力を意味する。(pp.23-24)

それぞれには決まった役割がある。簡単に言えば、「感性」で感覚を通して事物を直感的に受け取り、「悟性」ではその直観をまとめて判断を行い、「理性」ではさらに推論によって全体像を導く。特に理性では「今・ここ」から離れた超越的な概念についても扱うことができる。


① 感性

感性には最初から備わっている部分があり、それを形式と呼ぶ。形式は主に「時間」と「空間」がある。それに対して質量の部分はア・ポステリオリな部分のため、世界から感覚を通して得た情報が当てはまる。

例えば、ある机を目で見た場合、机に関する様々な情報がア・ポステリオリに与えられる。しかし、そもそもその空間を直感的に把握する力は感覚にア・プリオリに与えられている。また、今見ている机と2分前に見た机について考えるときには、内面では時間という形式が働いている。これもア・プリオリに与えられたものである。



② 悟性

感性の次には、悟性が働く。

「悟性」は、この多様な直観をまとめあげ(綜合し)、それを一つの概念的な判断へとまとめあげる役割をはたす。(p.45)
つまり、経験的な対象(事物)の認識は、「感性」と「悟性」という二つの働きの結びつきによって可能となっているわけだ。「感性」はいわば受動的な働きであり、「悟性」は自発的、能動的な働きだといえる。(p.48)

知覚は意識を働かさなくても可能(see, hearなど)であるが、それらで得た情報について「これは何だろう」と考えるのは、能動的である。

感性と同様、悟性にもア・プリオリに与えられた形式が存在しており、それはカテゴリー(純粋悟性概念)と呼ばれている。

( p.58 より)


この表を見て、「おっ!知っている!」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、これはGriceのCooperative Principleの公理と同じものになっています。(カントから影響を受けたものでしょう。)

また、「必然」「蓋然」などは、英文法ではモダリティの区分などにも用いられている。

cf) なお、「感性」と「悟性」の間には、厳密に言えば「構想力」(図式)がある。また、感性、構想力、悟性ら全てで伴いうる「私は考える」という意識が統覚(Apperzeption)と呼ばれている。


③ 理性


理性は、これまで述べてきた感性、悟性とはやや異なるものである。

理性は、悟性が作り出した対象存在についての諸判断を「推論」によって統一し、そのことで事象から何らかの「原理」(「普遍的なもの」)を取り出す能力だと考えればよい。(p.124)

理性によって、抽象的概念(コミュニケーション能力、哲学とは何かなど)についても我々は考えることが可能となるが、その際に考えるべき区別に「構成的原理(konstitutive Prinzip)」と「統制的原理(regulatives Prinzip)」がある。簡単に言えば、構成的原理はある概念をさらに細かく分けることで対象化するものであるが、統制的原理は以下の前提がある。

世界の全体についての推論は、経験の領域を超えたものだから、ここではわれわれは与えられたものから出発し、経験世界を超えてどこまでも推論を続けることで世界の全体像を想定する「統制的原理regulatives Prinzip」を用いるほかはない。(pp.205-206)

※本来ならアンチノミーという話題も避けて通ることができないのでしょうが、今日はここで断念しますw


まだまだカントの解読本を読み始めた身分で、誤っている解釈もたくさんあるかと思います。(特に図で表した部分。)お気づきの際はご教示頂ければ大変助かります。




2013年11月1日金曜日

(第5回英語教育ブログ、みんなで書けば怖くない)なんで英語なんか勉強しなくちゃいけないんですか?

『英語教育ブログ』みんなで書けば怖くない!という企画に参加しております。


こんにちは。初めて当ブログにお越し頂いた方も多いと思いますので、簡単に自己紹介をさせて頂きます。mochiです。大学で英語教育を専攻しています。将来中高英語教員となることを夢見ており、現在は翻訳学(特に翻訳推敲)をテーマにした卒業研究を行っています。

みんなで書けば怖くない!は去年までは、先生方が書かれる記事を読んで楽しむ側でしたが、今年は自分のブログを作ったことと、最近参加した組田先生の講演会で同じようなことを考えていたことをきっかけに、参加することに。
英語教育に携わる多くの方が同じテーマで書かれるということなので、「学部生で、日頃から思考を働かせない若造がこんなことを書いているぞ(笑)」「それに対して、やはり現場の先生方の文章は素晴らしいな」という、比較材料として読んで頂ければ幸いです笑。正直、自分自身も他の方々の文章を読ませていただくのがとても楽しみです。
そういう意味では、今回は未完成でも自分なりの答えを示せればよいかなと開き直って、ある意味気楽に書いております。

今回のお題は、以下の通りです。

「生徒に、『なんで英語なんか勉強しなくちゃいけないんですか?』と訊かれたら、何と答えますか」

実は以前に、これと非常に関連した文章を書いたことがあります。(「藤本一勇(2009)「外国語学」ーなぜ外国語を学ぶかー」)しかし、その記事を書いてから半年近くが経ち、ある程度自分の考えも変わってきていると思い、再度同じテーマで書くことにしました。したがって、興味をお持ちの方は以前の文章もお読み頂ければ幸いです。
(だらだらと書いてしまったので、お時間のない方は「4.結論」のみお読みください。)


1. 英語教育目的論と英語学習目的論


この質問は英語教育の目的論にも関わる質問だと思います。ただ、「目的論」というカッコイイ言葉では、なんとなく分かった気になって満足してしまいそうなので、目的論をさらに細分化して、以下のような図に示しました。



英語教育に関わる目的論を、(1)「制度としての英語教育目的」(2)「教師としての英語教育目的」(3)「学習者としての英語学習目的」に分けました。それぞれの概要と、お題の生徒の質問への解答として有効かどうかを以下に示します。

(1)「制度としての英語教育目的」は、教育基本法や学習指導要領の文言がそのまま当てはまります。(たとえば「人格の形成」であったり、「コミュニケーション能力の育成」であったり・・・。)また、このような超越的な目的論は、英語教育史上で何度も議論されてきました。岡倉由三郎は「英語教育」で実用面と教養面に分けて論じており、「英語教育大論争」では平泉・渡辺がエリートのためか一般の知的教養面かと議論しました。このような面もきちんと考慮すれば、先ほどの生徒の質問にも答えることができるかもしれません。しかし、本稿では長くなるのでこの部分に立ち入ることはしません。(というか、自分がきちんと理解していない・・・w。)


(2)「教師としての英語教育目的」は、一教師として「なんのために自分は目の前の生徒に英語を教えているか」の答えです。以前、組田幸一郎先生が大学にいらっしゃって、講演をして下さいました。そこで、「英語教師哲学」という言葉が繰り返し出てきました。つまり、英語教師は「なぜ自分が英語を教えてるか」に対する答えを考えるべきということです。あくまでも(1)の制度としての目的は頭に入れた上で、自分なりの教える理由というものもぜひ教師としては持ちたいものです。この意味での目的は、先ほどの生徒の質問への解答と共通している部分も大きいと思われ、有効だと思います。


(3)「学習者としての英語学習目的」は、一人ひとりの学習者が自分なりに持っている英語を学ぶ理由です。上の2つは「教える」目的だったので教育者側が主体だったのですが、ここでは学習者自らが持つべき目的と言えます。ここで重要なのは、教育目的と学習目的が必ず一致するわけではないということで、別に全ての生徒たちが「コミュニケーション能力」とか「人格の形成」など意識していることは考えにくいです。一人ひとりがそれなりに納得できる英語を学ぶ意義が見出せるのが理想だと思います。


しかし、このような概念整理をしているだけでは、生徒を煙に巻いているにすぎません。そこで、自分なりの「教師としての英語教育目的」と「学習者としての英語学習目的」を1つずつ紹介することによって、生徒の質問への答えとしたいと思います。


2. 教師としての英語教育目的:自己変容


今年の4月に購入した『外国語学』が、自分なりの現在の考え方に最も近いように思えます。その中でも特に印象に残っている節を引用します。

外国語学 (ヒューマニティーズ)
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外国語を学ぶことの効用は、まずは、新しい言語を習得することによって、新しい「メガネ」、新しい者の見方、新しい意味世界を獲得できることだろう。私たちの認識は、さらには感性さえもが、言語の表象システムによって知らぬ間に構築されている。「人格」さえ、言語に大きく規定されているかもしれない。(p.39)

私は小学生の頃から視力が低く(両目ともC)、あまりよく見えませんでした。しかし眼鏡をかけるのが嫌で裸眼で生活していました。ところが受験勉強の時に「そろそろ眼鏡がないと」と思って眼鏡屋へ行き、初めて眼鏡をかけたときは感動でした。(眼鏡を買ったことがある方なら経験があると思います。)看板の文字とか学校の廊下の壁の色とか、今まで生きてきたはずの世界の景色が変わったようでした。

私は英語の勉強もこれと同じような効果があるのではないかと思います。小学六年生までの12年間をほぼ日本語のみで生活してきた子たちは知らず知らずのうちに日本語というメガネをかけてきたわけです。しかし、英語との出会いによって新しいメガネが使えるようになります。
眼鏡をかけてこれまで見えなかったものが見えるようになったり、今まで「こういう見方」と思い込んでいたものが別の見方ができるように、英語というメガネにも世界観を変える力があるのでしょう。


言語を「替える」ことは、発想や行動を「替える」きわめて有効な手段の一つである。[...]言語を替えれば、如実に思考が変わる。まるでコンピュータのOSを切り替える場合のように。メッセージは同じ内容であっても、言語を替えてそれを表現すると印象が変わったり、さらにその内容自体が違ったものになることは、通訳や翻訳をすれば、誰もが経験することである。(p.41)

世界を見る可能性を与えると同時に制限を課すメディアである言語、これを新しく獲得しなおすことで、メガネを交換するかのごとく、一つの言語世界の拘束を離れ、新たな世界が与えられる。外国語を学び、新しいまなざしを手に入れることによって、現状を離脱した新しい「私」に変身する可能性が与えられる。(p.41)

もちろん、「英会話ができるようになれば友達が作れる」「グローバル社会では当たり前」といった実用的な理由付けも必要ですが、「英語を学ぶことによって、物事の見方が変わり、しいては自分自身も変わる」という点に、英語を教える意味を感じます。
ただ、このような点は科学的に実証するのは難しいかもしれません。「そんな抽象的なこと言ってないで、数値で出してよ」という声も聞こえてきそうですね(笑)。しかし、藤本氏の論によって、自分が英会話をしていると性格が変わる気がしたり、英語を学ぶことによって普段使っている日本語を反省的に捉えなおすことができたり、という経験にも説明がつきます。なので、それなりに妥当性は見出しています。



3. 学習者としての英語学習目的:Connect the dots


次に、自らがなぜ英語をこれまで学んできたかをまとめます。

まずは本音で言いますと、「大学受験」「いい成績をとりたい」というinstrumental motivationは確実にありました。
他にも文法は面白かったので勉強していたり、できなかったことができるようになると嬉しかったり、という様々な理由が自分の英語学習歴を振り返ると見えてきます。

しかし、どれをとっても、生徒の質問である「どうして英語を学ぶの?」に対する答えにならない気がします。「私は文法嫌いだもん」とか「別にできるようになるなら、ダンスとか楽器でもいいじゃん。英語じゃなくても・・・」と返されそうな気がします。

そこで、少し反則かもしれませんが、私は以下の動画の台詞をそのまま答えにしたいと思います。


皆さんご存知のSteve Jobs。彼のスピーチの中で以下のような文が出てきます。

"You can't connect the dots looking forward, you can only? connect them looking backwards, so you have to trust that the dots will somehow connect in your future, you have to trust in something, your gut, destiny, life, karma, whatever, because believing that the dots will connect down the road will give you the confidence to follow your heart, even when it leads you off the well worn path, and that will make all the difference. "

何か物事に取り組んでいるときは、その意義が見えないこともあるわけで、「英語はやっているうちに意義が見えてくるよ(だからとりあえずやろうよ)」「何十年も先に、英語をやって良かった、てきっと思えるよ」というのが、私の英語学習目的論です。
例えば今年の4月からドイツ語の勉強をはじめましたが、最初はドイツ語って翻訳学でもでてくるだろうしやっとくか、という軽い気持ちでした。ところが「ドイツ語は教育学でも多く出てくる」とか「西洋哲学の文献はドイツ語が多い」といったことに最近になって気づいています。(遅っ!)このように、最初から「僕は~~のためにドイツ語をやるんだ!」とはっきり規定できなくても、後でやっていて良かった、と思えるのではないでしょうか。


4. 結論:生徒に対する答え


長々と書いてしまったので、最後に生徒へどのような答えをするかを書いておきます。


英語はなんで勉強するか?とても面白い質問だね。

僕は、みんなの考え方が広がってくれたらいいな、と思って英語を教えている。言葉っていうのはメガネみたいなもので、いつも日本語っていうメガネで生活しているだろう。でも、新しい英語というメガネをだんだん使えるようになって、これまでできなかった物の見方や考え方が出来るようになって欲しいと思う。

それと、実は僕も英語を勉強してるときは、そんなにはっきりとした目標があったわけではなかった。でも、何年もしてから初めて「英語が使えてよかった」て思えることがたくさんあった。だから、なんで英語を勉強するかに対する答えは、やっている内にわかる、だと思うよ。


うーん、自分でも書きながら、「逃げ」の答えだな、と感じます(汗)。
ただ、今の時点ではしっくり来ているので、これを現段階の考えとしておきます。

今後、大学院で研究をし、実際に現場で教える中で、どんどん考えは更新されていくと思うので、その都度この質問に立ち返りたいですね。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

2013年10月23日水曜日

教員採用試験まとめ(前半)


こんにちは。Savaです。

いよいよこのブログのページビューも5000を超えました!!


Mochi君の記事のおかげですね。笑


 私、以前の記事で長い旅から帰ってきたと書きましたが、それは嘘で(オイっ!)、教員採用試験の勉強に集中していたから今まで更新していませんでした。今振り返ると、別に記事を書くくらいのゆとりはあったのかなと思いますが、いかんせん心配性ですので試験に集中していました。まあいいわけですね笑。これからはMochi君に負けないように更新したいなと思います。


さてさて今回は、タイトルの通り、私が受けた教員採用試験のまとめを書こうかなと思います。自分がおよそ半年間行ってきたことをまとめて、自分が何を学んだのか、試験を通してどのように成長することができたのかを考えたいなと思います。
前半は試験の内容と、どんな試験勉強をしてきたのかをまとめます。


教員採用試験

Savaの場合―

1.受験内容

校種:中学校 英語科
受験地:西日本のどこか(特定されると困るかもしれないと思ったので)


{一次試験}
一次試験では教職教養、一般教養、教科専門教養(筆記とスピーチ)、集団面接と集団討論がありました。
 二次試験では、小論文、個人面接と場面指導がありました。以下、ざっくりとそれぞれの試験内容を書いていきます。



・教職教養
 教育基本法や日本国憲法、学校教育法などの教育法規や教育史、中央教育審議会の答申などが穴埋め問題や記号選択問題として出題されました。



・一般教養
 中学校までの教科書レベルの問題や、時事問題が記号選択問題として出題されました。
 私の受験した自治体では理系の問題が難問でした。



・専門教養(筆記・スピーチ)
 筆記は学習指導要領の穴埋め問題、長文読解、定義をもとに単語を選ぶ問題などが出題されました。レベルとしては大学入試レベルくらいだと思います。


 スピーチはあるテーマについて一分間スピーチを行います。スピーチ後2分間で他の受験者と質疑応答を行います。スピーチのテーマは「私の夢」、「生徒に体験させたい国際交流」、「なめらかな中高接続のために」など3つほど提示され、その中から一つ選んでスピーチをしました。英語の表現力や理解力を見られるそうです。



・集団面接・集団討論
 集団討論は七人程度のグループでテーマについて15分間討論を行いました。
 私は「生徒の問題行動の背景と対応」というテーマで討論しました。


集団面接は挙手制で面接官の質問に答えました。
質問事項は「自分が教壇に立った時に足りないと思うこと」の一つでした。人数が多かったからだと思います。




{二次試験}
・小論文
 教育に関するテーマに対して1200字(60分間)で小論文を書きました。


・個人面接・場面指導
 個人面接は主に自己アピール書(事前に提出してあるもの)から聞かれました。
 

 場面指導は、ある学校の指導場面に関して面接官とロールプレイをしました。
 私は「最近教室に飴などのごみが落ちているのが目立ちます。多くの生徒に聞くとほとんどがA君のものだと証言しています。あなたはA君とクラス全体にどう指導しますか。」という題で行いました。







2.それぞれの勉強法と反省
 それぞれの科目に対し、どんな方法で対策したか、また、その反省をここでまとめます。

教職教養(教育原理、教育心理、日本教育史、西洋教育史、教育法規、教育時事)
 教職教養はオープンセサミという教材を使って、試験に必要な知識を蓄えていきました。三月末から勉強を始めたのですが、まずは、一通り穴埋め問題を記入して、一日数ページずつ覚えていくという感じて進めていきました。この作業が終わったのが五月の中ごろだったと思います。もちろん、一回で覚えきれるわけはないので、一日一回は教材を広げて、覚えていきました。その後は、昨年の各県の過去問を解き、知識が定着しているか、抜け落ちている知識がないか確かめました。
 また、教育時事として出題される中央教育審議会答申に関しては、教採を受ける友達と勉強会を週一回のペースで開いて、基本的知識の確認やディスカッションを行い、深めていきました。
 教職教養の勉強はそれなりに効率よくできたのではないかと思います。大切なのは過去問を通して自治体の傾向を知り、出題されそうな部分を徹底的に覚えていくことだと感じました。また、暗記中心になりがちですが、教育用語などのwhyhowを考えると(なぜそんな答申が出されたのか等)、自分の中に残る(採用試験以外にも役立つ)知識になっていくのではないかなぁと思います。



・一般教養
 一般教養もまずはオープンセサミを使って、知識を蓄えていきました。一般教養はいろんな問題が出され、出題の幅が広かったので暗記ものの歴史や地理は捨てました(オイ笑)。ここら辺は自治体の過去問を解いて、あまり出ない分野は勉強しないなどしたほうがいいのかなと思います(歴史や地理の問題は出題されたけど(笑))。一通り解き終わったら、これも各県の問題を解いて演習に励みました。
 一般教養の勉強は範囲が広すぎて、どれだけやってもきりがないのでそれなりに割り切って取り組んだほうがいいのかなと今では思います。過去問を解いて傾向をつかみ、出されそうなところを予想して覚えていくことが大切だと思います。頑張って取り組んだつもりでしたが、一般教養は半分くらいわかりませんでした(多肢選択問題だったので、どれだけミリオネアの時の新庄になりたかったか(笑))。



専門教養(筆記・スピーチ)
 筆記試験の勉強は英検やTOEICの単語帳で語彙を増やし、過去問に取り組みました。長文が出題されたので、大学入試のための問題集を解いて長文に慣れていきました。
 スピーチは、教採を受ける友達と一緒に大学のネイティブの先生にお願いしてディスカッションの練習をしました。週ごとにいろんなテーマでディスカッションをして、ネイティブの先生にフィードバックをもらうという形で進めていきました。
 私の場合、語彙の増強とスピーチの練習が専門教養の勉強でした。勉強を始める前と比べると、少しは語彙が増えたかなという感じです。



・面接・集団討論
 面接や集団討論は教採を受ける友達と五月中旬くらいから週一回程度で練習しました。聞かれそうな問題をあらかじめリストアップし、自分なりの答えを事前にまとめ、実際に集まって面接をしてみるという形で進んでいきました。試験が近づくと二日に一回以上くらいのペースでしていました。
 集団面接・集団討論は仲間がいないと練習できないので、友達がいてよかったなと思います笑。
面接で大切なのは、先生っぽくふるまうこと(抽象的ですが、姿勢や声の大きさ、元気の良さなどのことです)と、簡潔に答えることではないかと練習を通じて感じました。面接官が何を見たいかということを考えると、結局は「先生になれそうかどうか」じゃないかと思うからです。
集団討論で大切なのは、自分ならこうするという具体的な案をもつ(べき論で終わらない)ことだと感じました。本番で、他の受験生は「学校(教師)は~であるべき」で終わっていることがほとんどでした。私は「(その理想に向かって)私は~ということを実践していく」ということを言ったので、もしかしたらそれが他者の違いを生み出せたのではないかなと振り返ってみると思います。また、先生っぽくふるまうこと(ここではアイコンタクトをとる、周りの意見を尊重するなどのことです)も大切だなぁと思いました。まあそりゃあ、教員採用試験ですからね(笑)。でも忘れてはいけないことだと思います。




{二次試験}
・小論文
 小論文も、教採に小論文がある友達と一緒に勉強会を開いて練習しました。週一回程度あるテーマに関して小論文を書いてきて、回し読みしながら添削していきました。最初は小論文の参考書に載っているような一般的なテーマに取り組み、その後受験する自治体の過去問に取り組み、数をこなしていきました。二次試験の一か月前くらいから一日一つ小論文を書いて、質と書くスピードを高めていきました。
 小論文の勉強は、教採の中でも一番しんどかったです。日ごろから文章を書いてないツケが回ってきました。このブログでちゃんと記事書こう(笑)。数をこなしていけばだんだんと書き方がわかり、自分のスタイルを作ることができました。また、友達に見てもらったことで、自分では気づけない部分に気づいていくことができました。自分ではわかると思っても、案外読み手にはうまく伝わらないことが多かったです。この記事もそうかもしれません笑。


・場面指導
 場面指導も面接や小論文と同様に、教採で場面指導がある仲間と一緒に取り組みました。あるテーマについてロールプレイ→みんなでどうすればいいか検討するという流れで練習していきました。
 一次試験の後(七月末)から対策を始めたので、少し勉強不足だったかなと思います。実際に本番でもテンパってしまったので、もう少し早く始めればよかったなぁと後悔しています。また、本番では相手(試験官)が予想以上にいろいろ言ってくるので、練習の質、量ともに足りなかったと反省しています。




.その他教採のためにしたこと
 課される試験ごとの対策以外にも、教採の役に立つかなと思って以下のことをしました。振り返ってみると、間接的ですが、それぞれ役にたったかのではないかなと感じます。


・雑誌を読む
 私は教職課程という、教採のための月刊誌を大学の図書館で読みました。面接のコツや小論文の書き方、教育時事など教採に関するヒントや情報があるので、勉強に疲れたら休憩がてらに読んでいました。
 教採の勉強を始める前などは、何を勉強したらいいかよくわからなかったので、この雑誌を読んで教採の概観をつかんでいました。いい本です!!!(一冊しか買わなかったけど笑)


・読書する
 勉強に疲れたり、やる気が出なかったりしたときは読書をしていました。教育系の本や教職専門に関するもの、まったく関係ない本などを読んで、リフレッシュになりました。一番面白かったのは羽生善治さんの「直感力」という本です。Mochi君みたいに書評を書きたいですね。


・適度な運動
 太らないため、また、健康でいるためにも運動は適度にしていました。週末に野球好きの友達とキャッチボールをするのが日課でした。おかげさまでスライダーチェンジアップが投げられるようになりました。これからの課題はコントロールです。


・ググる
 インターネットを利用して、教採の情報が落ちてないかを調べたり、気になった言葉を検索して遊んだりしていました。特に、教育史に出てくる人物などはwikipediaに詳しく経歴や性格がのっていて、面白かったです。もちろんインターネットなので、情報をうのみにしないということには気を付けました。




4.前半まとめ

 ここまで、教採の試験のためにしてきたことをまとめてきました。ざっくりですが、案外いろいろなことをしてきたなぁと感じます。およそ半年間取り組んできたことですから、振り返りを行えたのは良かったです。
 後半では、試験までの道のり、教員採用試験を通して成長したなと思うことをまとめていきたいと思います。

 読みづらい文章ですが、最後まで読んでいただきありがとうございました。次回は少しは記事が読みやすくなるように努力します。



Sava


2013年10月17日木曜日

千住淳(2013)『社会脳とは何か』新潮新書

脳科学では最近、「社会脳」というのが大きな話題になっているようです。卒業論文のテーマ選びの際、自分が「心の理論」について調べていたら、指導教員の先生から社会脳に関する書籍をお貸し頂きました。

それ以来、テーマ変更で翻訳論を勉強してきましたが、今でも社会脳や心の理論は興味ある分野であり、ちょうど本書が最近刊行されたので、手にとって見ました。


社会脳とは何か (新潮新書)
社会脳とは何か (新潮新書)千住 淳

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『社会脳とは何か』というタイトルですが、本書では以下の2点が主に述べられていたと思います。

1. 社会脳研究のこれまで
2. 研究者としての姿勢

タイトルから推測して、社会脳入門のような内容かと思っていましたが、どちらかと言えば、社会脳に関して著者が研究された実績についてがまとめられています。(もちろん社会脳の解説も最初にまとめられていますが。)
著者自身は自閉症児や赤ちゃんの社会性の発達などを主に研究されており、それらの紹介を通して社会脳に関する現在の研究の最先端を伺える構成になっています。
もちろん研究内容も面白かったですが、私はむしろ、研究者としてはこうあるべき、といった研究観の部分を非常に興味深く読ませて頂きました。

簡単ですが、以下にまとめを載せます。今回は特に、自分が「へぇ~」と思ったことを中心にしています。


1. 社会脳研究のこれまで


社会的な機能が脳に分化していることを進化論の立場から説明するために立てられた社会脳仮説において、社会脳は初めて登場します。たとえば人間関係を把握したり、他者から学んだりといった社会的な活動は、得意な人、苦手な人がいます。また、自閉症で他者意識を持つのが難しいと思う人もいます。このような変種を説明するのに、脳の中の「社会脳」という場所を仮定して研究していきます。社会脳は、生理学者のレスリー・ブラザーズが顔や他人の動きに反応する脳の部分をまとめてSocial Brainと名づけたことから研究対象となります。

筆者が紹介されている自身の研究を紹介すると、思いっきりネタバレになってしまうので、ここからは自分が「へぇ~」と思った「人の目」に関する部分を紹介していくことにします。

人には白目と黒目の部分がありますが、実は白目を持つのは人間のみのようです。確かにサルとかも黒目だけですね。ちなみに、小学生が描いている絵の中には、白目を持つネコなどもいますが、あれも厳密にはおかしいわけです(って、厳密すぎますね笑)。

では、なぜ人にだけ白目があるのか。以前参加した未来授業でも、このような話題が出ました。その時長沼先生は、目線を伝えるためだ、とおっしゃいました。人の場合は誰を見ているか、というのもコミュニケーション上非常に重要だから、白目が発達したのではないか、というもので、本書もこの立場を示しています(もちろん、「はっきりとはわかっていません(p.100)という留保はついています)。

確かに目線によってウソを発見するというドラマも昔見た覚えがありますし、NLPにもそのような手法があります。『こころ』の解説本にも、視線という観点から解釈した『「こころ」大人になれなかった先生』がありました。これらも、人間に白目があるからこそ生まれたのですね。


『こころ』大人になれなかった先生 (理想の教室)
『こころ』大人になれなかった先生 (理想の教室)石原 千秋

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本書では、文化間による目線のとらえ方の違いなどの研究が紹介されています。他にも、自閉症児の推論課題なども紹介されております。このような研究にご興味があれば、一読することを奨めます。



2. 研究者としての姿勢


千住氏は研究における研究者間の協力の重要性を説いているように感じました。たとえば、「巨人の肩にのって(p.188)」というニュートンの言葉が紹介されています。巨人とは、自分の研究領域においてこれまでに研究を積みかさねてきた先輩の研究者(あるいは先行研究)を指します。自分が新たに学問領域を構築するわけでなければ、それまでに近似したテーマを研究した論文を一通り読むことになります。そうすることで、何が分かっているかを理解し、「それならば、これからはこれだけすればよい」と余裕を持つことができます。

以下の言葉は自分にとって特に響いた言葉なので、そのまま引用させていただきたく存じます。

それぞれの研究はまだ“わかっていない”ことを調べるものですので、リスク(不確実性)がつきものです。そこで、1つの研究に山をかけるのではなく、リスクを分散しながら複数の研究を行うポートフォリオ管理が必要になってきます。1つの成功した実験の背後には、いくつもの失敗した、うまく行かなかった実験が存在します。(p.216)

ゼミの先生は「論文はおいしいところだけ見せなさい」とよくおっしゃいます。つまり、自分が研究したこと、調べたことを全て紹介するのではなく、相手に伝えたいこととそのために必要なことだけを厳選して華やかな舞台の上で演出をし、それ以外は全て舞台裏に押し込めておくわけです。

研究は、天才があるとき突然ひらめいて生まれるものではなく、地味で目立たない数多くの研究(者)が長い時間を掛けて積み上がることにより、その延長線上にじわじわと生まれてくるものなのです。(p.217)

自分も謙虚な気持ちで引き続き卒業研究頑張らないと、と思います。(あれを「研究」と呼んでも良いのか?という疑問はおいておきましょう笑。)



2013年10月7日月曜日

翻訳概論: Juliane House(2009) "Translation"(Oxford)を読む(1): Chapter 1-2



大学ではいくつかの勉強会に参加させていただいており、自分の知識の浅さや読書経験のなさに毎回あきれさせられます。しかし、自分の知らなかったことを教えてもらえたり、逆に自分があいまいに知っていた(つもりであった)ことを、説明することで、より自分の知識を疑うことができたりしています。

中でも特に役に立っていると思うのが、博士課程後期の先輩と学部の友人と自分の計3人で開催している翻訳学読書会です。参加者それぞれが翻訳学と英語教育に関する研究を行っているため、各自の研究の進行具合を伝え合ったり、テクストに書いてある内容を批判的に検討したりしています。翻訳学を大学の授業で学ぶ機会がほとんどなかったので、自分としては大変満足しています。

前期はJeremy Mundayの"Introducing Translation Study"の翻訳版である『翻訳学入門』、夏休みは『英語教育と「訳」の効用』を扱ってきました。


翻訳学入門
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英語教育と「訳」の効用
英語教育と「訳」の効用ガイ・クック 齋藤 兆史

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そして10月からはOxfordのIntroduction to Language Study SeriesのJuliane House (2009) "Translation"(Oxford)を読み進めています。上の「翻訳学入門」よりは初心者向けといった印象で、英語としても読みやすいものになっています。


Translation (Oxford Introduction to Language Study)
Translation (Oxford Introduction to Language Study)Juliane House H. G. Widdowson

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これまで勉強会などの資料や、研究基礎ノートなどはブログでは出しませんでしたが、翻訳学を勉強される方と共有できたり、翻訳学を研究されている方からご指摘・ご批判を頂戴できたりするという理由で、一部掲載したいと思います。

勉強会で出た話題や疑問点、ディスカッションで出た自分たちの考えなども掲載できる範囲で掲載したく考えています。

なお、以下では英語の原文の引用を必要な部分のみ行っております。読みやすさを考慮して、一部拙訳で補っています。自分の訳についてもご批判があればお願いします。

今回は初回(9/30)のChapter 1-2についてまとめを掲載します。翻訳とは何か、翻訳学は対象言語学のような多領域とどのように違うのか、といった点が説明されています。自分の乱暴な引用・訳・説明で恐縮です。興味をお持ちの方は、ぜひ本書を用いてご自身でご確認ください。繰り返しになりますが、お気づきの点はぜひご指摘お願いします。


Chapter 1: What is translation?


The nature of translation

Translation is the replacement of an original text with another text. (p.3.)
Translation has been regarded at a kind of inferior substitute for the real thing, […] it is always therefore a secondary communication (p.3.)
翻訳とは原典を他のテキストに置き換えることである。
翻訳は本物を劣った形で置き換えたものとして見なされてきた。それゆえいままでは二次的なコミュニケーションであった。 
ここでの見方は、翻訳は原典に劣る存在であり、つねに副次的という意味です。確かに、訳本が読みにくいもの(いくつかの哲学書など)は、「だめだ、翻訳が悪くて読めない」と言い訳をすることもあります(本当は自分の読解力がないだけなのですが笑)。そうすると、英語版があれば「よし、原書を読もう」となるわけです。これこそ、翻訳が二次的存在であることを示す例でしょう。

Kinds of translation

Jacobsonによる3分類 (p.4.)
(1) interlingual translation : the message in the source language text is rendered as a target text in a different language 
(2) intralingual translation : a process whereby a text in one variety of the language is reworded into another. 
(3) intersemiotic translation : the replacement involves not another language but another, non-linguistic, means of expression, in other words a different semiotic system.
(1)は言語間翻訳で、ある言語から別の言語へ置き換えられることを指す。ハリーポッターの英日翻訳、原爆体験者の手記の英訳などが挙げられる。ここでは「翻訳」「英文解釈」の区別はなされておらず、以前指摘したこれらの区別はさらに(1)の下位でなされるものと考えられる。ちなみに本書でのtranslationは原則、interlingual translationを指している。
(2)は言語内翻訳と訳され、同じ言語内での言い換えを指す。たとえば、 古英語の文章を現代語に書き換える、日本語訳の哲学探究をさらに大阪弁で言い換えるといったことが考えられる。
(3)は記号間翻訳で、別の表現様式によって内容を表すことである。 詩をダンスや絵などの別の表現形式に変換する、小説の映画化などが考えられる。

これら三者は、翻訳といっても異なるものとして分類される。しかし全て、「ある表現内容を別の形で表す、という点で共通している。

Translation Method

■ 翻訳を行うときは、要素を単位とするのではなく、テクスト全体を単位とする。
We are concerned with particular communicative uses of language, and not with linguistics forms as such. A text is never just a sum of its parts, and when words and sentences are used in communication, they combine to ‘make meaning’ in different ways. (pp.4-5)
最近翻訳ボランティアに参加させていただいています。和英翻訳をしていると、原文が「私はとにかくいらいらしていた」を”I was irritated."としたとき、「とにかく」の意味が訳されていないではないか、と 指摘されたことを思い返します。しかし、「とにかく」のニュアンスがこの文の中で表さなければならないということはありません。テクスト全体が単位なのだから、文章全体における「等価」を目指せばよいです。

■ 言語間翻訳では、完全な一致は期待できない。したがって翻訳者がどのような意図でその表現を用いたかに我々の興味がある。
We are not particularly interested in the fact that a ‘direct’ translation is not available because of differences in the two linguistic systems. Further, we will want to know how and whether a particular translation choice […] affects other translation decisions. (p.5.)

■ double-bind relationship
In translation there is thus both an orientation backwards to the message of the source text and an orientation forwards towards how similar texts are written in the target languages. (p.7.)
これについては、以下で図にまとめました。一回目に読んだときには読み飛ばしていたのですが、再度読み返すと翻訳をする時に自分が経験するものだと気づきました。




たとえば、被爆者の手記を英語に翻訳するとしたとき、翻訳者は以下の2点に配慮します。
・原文テクスト(被爆者の手記)
・英語で原爆に関連する話はどのような表現が用いられるか、スタイルはどのようなものがいいか、など

このうち前者がbackwardへの矢印で、後者はforwardへの矢印と言えます。


■ 2つのテクストが等価であるとは?
In saying that two texts, an original and its translation, are equivalent, we mean that – given their respective contexts – they are comparable in semantic and pragmatic meaning. (p.7.)
ある2つのテクスト(原文テクストと翻訳テクスト)が全く同じであるということはありえません。「翻訳者は反逆者」という言葉もあるとおり、テクストを別の言語に置き換えれば、抜け落ちてしまう要素、新たに付け加わってしまう要素が必ずでてきます。そんな中で"semantic and pragmatic meaning"が等しいときに、両者は「等価」と言えます。
したがって、意味のみが正確であったとしても、文章の効果などが原典なみであったとしても、両者を追求することが必要となります。
Translation and Interpreting

■ 翻訳と通訳の違い
The distinction between translation (writing) and interpreting(oral) is a necessary one  they are very different activities. In written translation, neither author of source texts nor addressees of target texts are usually present so no overt interaction or direct feedback can take place. In the interpreting situation, on the other hand, both author and addresses are usually present, and interaction and feedback may occur.  (p.9.)
以前、大学で「通訳法演習」という授業をとっていました。授業では先生が読む英文を聞いて、リピーティング&日本語訳を言う練習を何度もしました。半年間受講しての感想は、通訳は本当に頭の良い人にしか無理なんだな、ということです(自分がそぐわないことは重々承知w)もちろん語彙力やリスニング力は必要ですが、即座にぴたりとくる日本語表現を頭の中から引き出せなければならないわけです。
両者の区別は、日常生活では意識して区別をすることがあまりないかもしれません。しかし、研究対象となると、両者の特色は知っておくべきかと思います。


Human and machine translation

■ 機械翻訳によって人間翻訳に役に立つことは以下の3点である。
(1) インターネット辞書にアクセスすることで語彙面、語の慣習的共生から文法面などで役に立つ。
(2) 目標言語で熟語的に用いられる表現を調べて取り出せる。
(3) 辞書的知識を得ることができる。

機械による翻訳が広まり、徐々に精度を上げているようです。しかし、機械翻訳が日常言語使用に追いつくことは果たしてあるのでしょうか。実際に英語授業では「機械翻訳により訳されたものを学習者が推敲する」という実践も行われているそうです。このように機械と人間が手を組んで翻訳に取り組む方法を模索することが必要なのでしょう。

Translation as communication across cultures
Translating is not only a linguistic act, it is also a cultural one, an act of communication across cultures.
Language is culturally embedded. (p.11)
翻訳は言語的行為のみならず、文化的行為、文化間コミュニケーションの行為でもある。
言語は文化に埋め込まれている。 
言語と文化の関係は切っても切り離せないという言葉がありますが、翻訳をする際にも文化差というものは必ずついて回ります。例えば、イギリスの魔法使いを主人公とする物語(?)では、やたらと紅茶を飲むシーンがあります。これも私たちにはいまいちピンときませんが、イギリスではティータイムは文化的にとても広まっています。
このような点まで翻訳者は気をつけなければならないのですね・・・(^^;)



Chapter 2: Some perspectives on translation

Focus on the original text

■ Contrastive linguisticsとTranslation Studiesの違い
While contrastive linguists are interested in equivalences of linguistic categories within and across languages, translation scholars focus on equivalence in texts, in actual use of the languages and their component parts in communicative situations. (p.15)
対象言語学では同じ言語、あるいは他の言語との言語項目における等価に興味がもたれていた のに対して、翻訳学者たちは文章における、つまり実際の言語使用やコミュニケーション場面での言語の占める部分に主眼を置いている。

しかし、翻訳学は対象言語学の知見から多くを受け入れている

Some approaches to language description

翻訳学は言語記述という観点からのアプローチを採用してきた。大きくFormal approachesとFunctional theories of languageの2つに分けられる。前者は生成文法や認知言語学などが含められる。残念ながら、これらの領域では翻訳学はあまり効果がなかった。その原因は前項に述べたが、翻訳学が他の言語学の領域ほど、言語にこだわりがなかったためであろう。それに対してHallidayらがすすめたシステム機能文法のような後者のアプローチは社会でのコミュニケーション場面における言語使用に重点を置いた点が評価されている。

以下に、2名の言語学者を紹介する。彼らは翻訳学へ大きな影響を与えている。

■ Catford “A Linguistic Theory of Translation”
Meaning is not assumed to be ‘transferred’ from an original to its translation; rather it can only be replaced, so that it functions in a comparable way in its new contextual and textual environment. (p.17)
While the idea of transference suggests that there is meaning contained within the original text which is taken out and given a different verbal expression, replacement suggests that the meaning is a function of the relationship between text and context, and so can only be replaced by in some way replicating the relationship. (p.17)
※用語の説明
formal correspondence: a matter of the language system (langue)
textual equivalence: a matter of the realization of that system (parole)

例えば and (Eng.)とund(Ger.)は意味はほとんど同じで用法も同じだからformal correspondenceで、textual equivalenceを持つことが多い。しかし、翻訳のシフト(translation shift)を行う必要があることもある。(以下の通り。)

例)英語→ドイツ語翻訳
(英)He was hanging up his coat when the bell rang
(独)Er hing gerade seinen Mantel auf, als es klingelte.(p.18)

英語では進行相はwas –ingという文法相によって表現される。しかしドイツ語では文法相にはformal correspondenceする文法相が存在しない。したがって、textual equivalenceに達するためにも、語彙相のgerade(~ている)を用いる必要がある。本来英語では文法相を用いていたのにドイツ語で語彙相を用いているから、この翻訳においては翻訳のズレ(Translation shift)が行われているといえる。(ここらへんもドイツ語を知っていれば、もっとすんなり理解できるのですが・・・自分はドイツ語初習者のため、なんとなくの理解で終わってしまっています。泣)


■ Nida: sociolinguistic theory of translation
In Nida’s view, translation is first and foremost directed towards its recipients. He therefore takes account of the differences between source text and target text recipients in terms of their expectation norms and their knowledge of the world.
Nida sees translation as basically an adaptation of an original (the Bible) to widely differing linguistic-cultural conventions. (p.18)


さて、性懲りもなく、Nidaの手法を以下の図に表して見ました。





Analysisの段階では、深層構造(kernel sentences)を単位として翻訳が行われる。


■ 対象言語学と比較した際の翻訳学の特徴
Translation is about what people mean by the language pragmatically. In the context of translation, a focus on the (original) text means analyzing it, and systematically linking its forms and functions in order to reveal the original author’s motivated choices. (p.19)

Focus on the process of the interpretation
個人的な興味で、本章の中で最も面白いと思いました。少し長いですが、訳しました。
The texts is thus not regarded as having a life of its own, but can only be brought to life by the process of interpretation. It starts to live in the act of text interpretation. In ‘receiving’ an original text, the translator engages in a cyclical learning process – from the text to the interpretation to the text and back again. This cycle finally leads to a so-called ‘melting of horizons’ between the translating person and the text. (p.20)
(試訳)
テクストはしたがって生命が宿っているのではなく、解釈の過程で命が吹き込まれる。テクスト解釈という行為の中で命を持ち始めるのだ。原典テクストを「受け取る」中で、翻訳者はテクストから解釈へ、解釈からテクストへ、という循環的な学習過程をたどる。この循環によって、最終的には翻訳している人とテクストの境界線が解けていく。

cf) ミハイル・バフチンの「間テクスト性」概念もしっかり勉強したわけではないが、関連しているように感じる。(ただし間テクスト性は色々な意味合いで使用されているらしい。)

ここから、Nidaの述べた「テキストの意味の置き換え」といった考えは、検討されなおすべきだろう。
it is the type of representation of the text in the translator’s mind, arising in the act of understanding the original, which counts in translation.
It is thus not a matter of finding the sense contained in a text and then adjusting it to suit a receptor (as suggested by Nida), but of making sense of a text by interpretation. We are dealing here more with invention than discovery of what is already there in the text. (p.20)


Focus on variable interpretations: cultural, ideological, literary

この項も、一回目を通しただけではよくわかりませんでした。
しかし、他の翻訳概説書を読んでいたり、翻訳の練習(まねごと?)をしていると、「あ、これのことか!」と思う点もありました。
少し長いですが、3箇所引用し、それぞれに自分なりの訳をつけてみました。
分かりづらいところは、さらに意訳(大胆な言い換え)をしてみました。

・there is no reality independent of how human beings perceive it through their culturally tinted glasses. […] it becomes possible to think of an original text as being dependent on its translation. (p.21)
人間が自身の文化的に定められためがねを通して知覚することから独立した現実は存在しない。したがって原典はつねに翻訳に依存していると考えることもできる。

・it is the way texts are perceived that is real and not the text themselves. (p.22)
テキスト自体ではなく、どのようにテキストが読まれるかこそが現実である。
この文は、次のthe irrelevance and remaking of the originalの部分や、先ほどの間テクスト性の概念に関係してくるところです。
・translators are encouraged to modify the original, opening up new avenues for ‘difference’ and postponing indefinitely any possibility that the ‘meaning’ of the original text be grasped in any conclusive way. (p.22) 
(直訳)
翻訳者は原典を修正することは奨励されており、そうすることで「差異」への新たな通路を拓き、原典がどのような読み方であっても「意味」がとれるという漠然とした可能性は後回しにする。
少し分かりづらいので、大胆な意訳をしてみました。
(意訳)
翻訳者が原典を修正することは非難されることではない。それによって「違い」に対する寛容性を生み出し、原典の本来持つ「意味」をとれるようにするという点は二の次となる。
しかし、原作を修正する際には、やはり慎重になるべきでしょう。内容がガラッと変ってしまったりメッセージが伝わらなかったりしたら、それこそ「反逆者」と見なされてしまいます。


The irrelevance and remaking of the original
・the translator actually creates the original text. This is in line with ‘deconstructing’ both the notions of authorship and the authority of the original. (p.21) 
翻訳者は実際には原典を作り上げているのである。これは、著作者の意見と原典の権威を共に「脱構築」することに等しい。 
最初はこの文を読んでも意味が分かりませんでした。「翻訳者が原典を作る?」「だつこうちく?」しかし、次の文を読めば少し意味が分かるような気がします。
・although a translation may seek to hide the presence of the original, it can nevertheless serve to ensure its survival to make it ‘live on’ and ‘live beyond the means of the original author’, just as a mother lives on through her child. […] The translator gives life to the original by giving it a cultural relevance it would not otherwise have. (p.22) 
翻訳は原作の存在を隠そうとするかもしれないが、翻訳はその中で原作を生き残らせ、原著者という手段を超えても確かに生き残らせる。ちょうど母親が子どもの中でも行き続けるように。[…]翻訳者は本来持ち得なかった文化的関連性を与えることで原作に生命を与えるのである。
翻訳は原典テキストの二次的存在という見方では、翻訳者が原典を作るという文の意味は分かりづらいはずです。しかし、文章の意味は解釈をするものによって生み出されるのであれば、やはり原典の意味を作り出すのも翻訳者なわけです。さらに、翻訳では意味を目標言語にて再構成することで、新たな意味(文化的関連性)を付与します。
ここまで読むことで、Chapter 1の"secondary communication"という考えの脆さがわかる気がします。


いや、君みたいな翻訳かじりたての若造に何が分かる?という声が聞こえてきそうですが(笑)。


(※)
そもそも英語原作を他言語に翻訳することは、英語が世界の言語として認められている今日では、英語の権力を上げる行為として見なされないでしょうか。翻訳によってこのような側面が生まれることは、翻訳を研究する者としては知っておくべきだろうと思います。


Focus on the purpose of translation

skopos theory: フェルメールによって述べられた。翻訳の目的を重視する立場。



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さて、そろそろ焼きそばを作るので、これくらいで終わりにしましょう。
今週2回目の焼きそばです。

それにしても、この前小学生に「先生の得意料理は何?」と聞かれて焼きそばと答えたら笑われたな・・・(笑)。
焼きそばは料理に入るか入らないか・・・。
どうして入らないのでしょうか。
あんなに美味しいのにw

というつぶやきはさておき。
またまとめたら載せます。

こんな拙文、最後まで読んでいただき大変ありがとうございました。