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2013年8月27日火曜日

谷岡一郎(2000/2011)『「社会調査」のウソ-リサーチ・リテラシーのすすめ-』文藝春秋

統計の勉強をしようと、学部一年生の頃に受講した「英語教師のためのコンピュータ入門」の授業資料を見返していると、『「社会調査」のウソ-リサーチ・リテラシーのすすめ-』という本が参考書籍で紹介されているではありませんか。


なんとなく面白そうと読み始めてみると、読めば読むほど一部の社会調査の“テキトーさ”が浮かび上がり、読み終える頃には新聞記事やネットの記事などが信じられなくなるほど「数字」や「統計」への感覚がついたようでした。(もちろん、まだまだ未熟者ですが。)

■ 用語の整理(いくつか気になったものをピックアップして)

まずは本書で重要と思われる用語の整理をしておきます。(本書で用いられている説明+自分なりに当てはめた例を掲載します。思いつかない場合は本書から引用させていただきました。笑)

・キャリーオーバー効果(carryover effect)
質問調査において、「最後(後半)の質問に向け、前段部でわざといくつかの問題点を設けておく(p.75)」ことにより、回答者の印象をコントロールすることが可能である。この効果をキャリーオーバー効果という。
例えば、「英語の授業における母語(日本語)使用に関するインタビュー調査」を行ったとしましょう。この調査の目的は、学習者が英語の授業中に母語を使用することの意識を記述することだとします。調査研究ではアンケート項目の選択・配列が難しいのだと思いますが、仮に研究実施者が意図的に質問を以下のようにしたとしたらどうでしょうか。

Q1: SLA研究ではInput Hypothesisという仮説があります。これはインプットの量を増やせば増やすほど言語獲得しやすくなるというものですが、このことを知っていましたか。(はい・いいえ)

Q2: 英語教師が授業中に用いる英語はteacher talkと呼ばれており、学習者の既習事項や発話速度・量などをを考慮されたinputとなる可能性があります。teacher talkという言葉は知っていますか。(はい・いいえ)

Q3: さて、現行高等学校学習指導要領では英語の授業は「原則英語を使用」といわれています。これについてどう思いますか。(とても良い・良い・普通・悪い・とても悪い)

Q4: 英語教師が母語(日本語)を使用することについて賛成ですか。反対ですか。その理由も答えてください。(賛成・反対)理由:[         ]

~ 以下省略 ~

さすがにここまで明らかだと笑いの種になります。明らかに実験者はQ1-3で英語授業における母語使用に否定的な情報を与えています。これらを踏まえればQ4の問題を答える時には調査協力者にはバイアスがかかり、「反対」と回答する方が多くなるでしょう。この結果をまとめれば、「日本人英語学習者(n=100)は教師が英語の授業で母語使用するべきという考えに否定的な考えをもっている」という結果を導くことも可能となります。(リサーチ・リテラシーと逆のことを言えば、この質問作成者の意図を見抜き公平な判断をすることが、メディア・リテラシーなのだと思います。)

ちなみに心理学ではある刺激により次以降の刺激に対する反応が影響されることを(※)プライミング効果といいます。キャリーオーバー効果は統計上のプライミング効果とも呼べるのではないでしょうか。

※例えば、10回クイズなどで「シカ」と10回言わせた後に、サンタが乗るのは?と聞かれたら「トナカイ」と答えたくなると思います。ちなみに答えはソリです。10回言う段階を飛ばした上で「サンタが乗るのは?」と聞けば大方「ソリ」と答えられるはずです。しかしシカという刺激に引きづられて「トナカイ」と言ってしまいたくなるのが人というものでしょうか。ここまで読まれればキャリーオーバー効果との類似点にお気づきの方も多いと思います。


・アプリオリと(a priori)アポステリオリ(a posteriori)
アプリオリは「論理構成が事前に決定されている状況(p.108)」で、アポステリオリは事後に決定される状況を指します。換言すれば、アプリオリな実験では調査方法や予想などが事前になされた実験を指します。それに対してとりあえず実験してみて、面白そうな結果がでたら「後付け」で理論や予想を組み立てる場合がアポステリオリに当てはまります。

仮に音読の効果を検証する実験研究を行うのであっても、以下の2つのパターンがあり得ます。
(1) 先行研究はそこそこに読み、実験を作ります。しばらく続けると、「おっ!なんか行間が大きいと音読ができるようになってね?」となり、急いで「行間と音読速度に関する研究」と題し、卒論を書いていく。

(2) 先行研究を読み進めると、音読のスピードを変化させる変数の一つに行間の広さがあることが判明。そこで、独立変数X=行間の広さ(cm)、従属変数(Y)=音読スピードとすることで、これらに相関関係がでるのではないかと予想を立てて実験する。

これら両者は、同じような実験結果の論文になるかもしれません。本書の分類によれば、(1)はアポステリオリで(2)がアプリオリと言えます。
これらのうち筆者が特に問題視しているのはアポステリオリで、以下のような記述があります。

社会科学では、前述したように、理論が正しくても同じ結果が出るとは限らないし、逆に理論は正しくなくても一定の結果が出ることもある。社会科学というのは、自然科学以上にアプリオリな計画をもっていなければ、何でも証明できてしまうという危険性を孕んでいるのである。そして実際、都合のよいデータと後づけ理論で、本当は正しくないことまで理論として通用してしまっている。例えば、「生まれた正座と結婚の相性」などあるはずいのに、ある種のデータはそれを証明したと主張するように。(p.110)


また、自然科学と社会科学の相違点として「データ公開の有無」を指摘しています。

日出づる処にある社会科学会である。むろん例外もないわけではないが、ほとんどの日本の学者はデータ公開を拒否して構わないと考えており、実際、そのように振舞っている。データ公開拒否の理由は、「プライヴァシーを守る義務があるから見せられない」「統計法のせいで公開できない」「私の資金で集めたデータだから他人には見せない」「めんどくさい」など様々だが、陰の、そしてそれが本音であるところの理由は、「恥ずかしくて見せられない」のである。(p.111)

もちろんプライヴァシーは考慮するものであるが、データ公開拒否の理由が保身であるとすれば、学問発展のための機会を損していることにもなりそうです。


・スプリアス効果(spurious effect)
「複数の変数の表面上の相関関係が、どれも一つの共通の原因から生じた結果にすぎないということが間々ある。これをスプリアス効果という(p.135)」。
よく心理学で出されるのは以下のような例です。

スプリアス効果のわかりやすい例として、家にある「灰皿の数」と家族の誰かが「肺ガンにかかる事」の関係を考えてもらいたい。「灰皿」が「肺ガン」を引き起こすわけでないことは誰にでもわかるだろう。逆に「肺ガン」になるとむやみやたらと「灰皿」を集めたがるわけでもない。どちらも「喫煙習慣」からの結果にすぎない。つまり〔灰皿⇔肺ガン〕という相関関係が証明されたとして、両者の間に因果関係はありえない。(p.133)

すなわちスプリアス効果とは、本来隠れている真の原因があるにも関わらず、それを見過ごして表面上の相関関係を追及しがちになる心理を表しています。


・リサーチ・デザイン(reserch design)
リサーチ・デザインは本書では「どうやって知りたいことを知るかという計画主体(p.141)」と説明されている。通常以下の5項目を含んでいます。

① 時期・回数(Time Frame)
② データ収集法(Data Collecting Method)
③  質問票(Questionnaire)
④ サンプル抽出(Sampling)
⑤ 分析(Analysis) 

※おそらく本書では調査研究を想定しているため、③のような調査研究特有の項目も含まれていると考えられます。実験研究などの場合はまた別に存在するものと考えられるが、大枠は参考にできるのではないでしょうか。


・トランスレイション・バイアス(translation bias)
国際比較を行うと、どうしてもある言語の指示文を翻訳して使用することになります。翻訳学では定説であるが、そもそもある意味を別言語で完全に再生することなど不可能であります(翻訳不可能性)。したがって、翻訳を行うと多少のニュアンスや意味合いの差異が生じます。これによって生まれる実験への影響をトランスレイション・バイアスと呼びます。

日本語から英語に翻訳すると意味が変ってしまったり、実験に影響を与えるようなニュアンス上の違いも出るかもしれないので、これらはもちろん翻訳中に意識するべきであろう。面白いのは、interlingual translation(言語間翻訳)のみならず、intralingual translation(同一言語での翻訳)やsemiotic translation(記号翻訳)にもトランスレイション・バイアスは見られるという点です。

例えば東京と大阪では、「アホ」とか「おもしろい」「いじめる」などの意味やニュアンスは必ずしも同じではないからである。一応の翻訳が出来るのはまだよい方で、筆者が係わったものには、識字率の低い国における調査さえあったことをつけ加えておく。この場合、翻訳というより、リサーチ・デザイン全般から計画し直す必要がある。(p.144)

すなわち、言葉のような表現様式を用いる限り、ニュアンスの伝え損ないやミスコミュニケーションという問題は常に発生しうるわけです。調査上で考慮できる範囲で気にする必要がありそうですね。



■ 本書の主張~批判的読みと結びつけて~

ここまで本書で用いられた用語の説明と解説を書きました。上を読んで頂ければ、本書がどのような立場で書かれているかも納得いただけるかもしれませんが、より著者の主張が表れている部分を引用しつつ本書の魅力を紹介して記事を締めたいと思います。

これほど社会調査が増え、それも玉石混交ということになってくると、それらのリサーチが本物であるかどうかを見極める能力が必要になってくる。本書の主眼はまさにそこにある。つまり「リサーチ・リテラシー(research literacy)」の提唱である。[...]なぜリサーチ・リテラシー教育が必要かといえば、人々のリサーチに対する無知につけ込み、ゴミの情報を流す者、それを広める者、それを利用する者だちが、あまりにも多いからである。これらの者に対抗できる能力を持たない限り、今の、そしてこれからの社会では、損ばかり重ねる不幸な人間を生み出すだけである。[...]情報機器やシステムの進んだ現代では、他人より、より多くの情報を集めることを競っても意味がない。情報など、集めようと思えばいくらでも集められるからである。むしろ今後、必要となるのは、あふれるデータの中から真に必要なものをかぎ分ける能力、いわゆる「セレンディピティ(serendipity)」と呼ばれる能力であろう。(pp.191-193)


今日の教育界の流行言葉の一つに「批判的○○(思考、読み、など)」があります。この言葉自体抽象的で紛らわしいため、下位構成概念が何かよくわかりません。
大学の授業を受けながらぼんやり考えていたのは、レトリックの知識が批判的読みの土台になる可能性です。筆者の意図がレトリックという形で文章中に表れているのであれば、本文の筆者の立場を明らかにした上で客体的に読めるはずであるし、虚偽の修辞技法などは知っておかなければ、巧みな表現に操られて受動的読みしかできなくなるかもしれません。したがって、持論としてはレトリック教育も一つありではないでしょうか。


しかし本書で提唱されるセレンディピティも批判的読みには必要のはずです。セレンディピティはあえて翻訳するとすれば「情報見極め能力」だろうか。書かれている情報が信頼できるかを見極める能力であり、統計学やバイアス効果についての知識を持った上で文章読解する技能の育成も批判的読みに含まれないのでしょうか。


論文を読む時も「おかしいと思うところに線を引きながら読みなさい」という指導を受けたことがありますが、この「おかしいと思う」矛先も「論理の飛躍」「大前提への疑問」「統計・データ収集への違和感」など多岐にわたります。仮に「おかしいと思うところに線を引きながら読む」のも批判的読みだとすれば、「統計・データ収集への違和感」はセレンディピティの育成により感覚が鋭くなると期待されます。

「社会調査」のウソ―リサーチ・リテラシーのすすめ (文春新書)
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2013年8月20日火曜日

鈴木翔・解説 本田由紀(2012)『教室内(スクール)カースト』光文社新書

♪ソイヤッサー、ソイヤッサー(頭から離れない・・・笑)



本屋さんをブラブラしていた時、このような本を見つけました。


教室内(スクール)カースト (光文社新書)
教室内(スクール)カースト (光文社新書)鈴木 翔 解説・本田由紀

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ゼミの先輩が以前関連した本を読まれていたこともあり、手にとってみました。

最近は、学園ドラマでも「一群」「三軍」といった呼び方がされており、「スクールカースト」がより一般的に認知されるようになってきました。

本書はそのようなスクールカーストにスポットライトを当て、インタビュー法を用いた質的研究を中心にスクールカーストの全貌を暴こうとしたところに意義があります。特に、スクールカーストに対する生徒と教師での認識の違いに関する考察は、思わずはっとしてしまいます。

そこで、本書の書評としてスクールカーストとは何か、生徒と教師のスクールカーストに対する認識の違いを中心に書きたいと思います。(本書の第五章は特に教育学部の学生であれば、ここに出てくる教師の台詞に対してどのような感想を持つか、一度読んで確かめてみると良いかもしれません。)また、それらの原因の考察については私見を交えて書いております。

■ スクールカーストとは

「同学年の児童や生徒の間で共有されている「地位の差」(p.6)」という説明がされています。例えば、あるクラスでいつも目立つサッカー部のグループやおしゃれに気をつかうギャルのグループ。彼らはクラスでの影響力も強く、教室内での地位も高いといえるかもしれません。それに対して、普段地味で目立たない子たちのグループもありますが、彼らは発言力も低く思われるでしょう。

スクールカーストという概念の利点は、このようなグループ間であるグループが別のグループを「下に見る」という行為を説明できることだと思います。現に掃除などのやりたくない仕事を地味な子にやらせるときに、「一段低い者への態度(p.66)」をとることも観察されます。従来は「これはいじめではないだろうか。でも本人が精神的苦痛を感じていたら…」という曖昧な「いじめ」概念で片付けていたものを、力関係や恐怖感などを観点に記述することが可能となるでしょう。

以下は本書からの引用です。

 まず、「スクールカースト」地位の中で下位に置かれた生徒は、クラスメイトから身分の低い存在、つまり目下の存在だと見なされて、いじめの標的になりやすくなるということ。そしてもう一つは、たとえいじめにあわなかったとしても、自分に自身をなくし、学校生活への適応に大きな影響を及ぼすということです。(p.39)
スクールカーストは「いじめ研究」が見落としてきたところと、「生徒文化研究」が見落としてきたところがちょうど重なり合う、エアポケットのような部分だということができるでしょう。(p.82)

ここからは本書を基に図示したものを用いたいと思います。



上位層はにぎやか、気が強い、異性の評価が高い、若者文化へのコミットメントが高い、努力を欠かさないなどの特徴を有しています。他にも、「遠足のバスは最後列を仲間内で占拠(p.34)」といった項目も観察されます。おそらく多くの方は小中高に通っていた頃を思い返せば、このようなグループの子たちがいたことも思い出していただけるかと思います。
逆に下位層は「特徴がない」という特徴があります。すなわち、上位層に当てはまる特徴を有していない場合に階層の下へと追いやられるのでしょう。
両者は互いに「権力」「恐怖心」という関係があります。興味深いのは、下位層の生徒が必ずしも恐怖心や畏怖の念を抱いているというわけではなく、面倒くさいけれども従わないと後でややこしいから従うということです。


■ 教師の各層に対する接触と認識

以下に示すのは、第五章で紹介される教師がスクールカーストをどうとらえているかに関するまとめです。現場の教師の意見ということで、非常に生々しいものに感じるかもしれませんが、面白い事実も浮かび上がってくるかと思います。以下は(1) 教師から各層への接触(コミュニケーション)量、(2) 教師の想定する階層の原因、(3) 教師のスクールカーストの意義に関する一意見




(1) 接触量
上位層の生徒に対して教師は多く接触する傾向にあり、下位になるにしたがって接触量が減少する。教師にとっては上位の生徒は「カリスマがあって、雰囲気を和やかに出来る(p.235)」ためにコミュニケーションがとりやすいのかもしれません。しかし、生徒にとっては、権力を持っていない教師が強い権力を持つ上位の生徒に媚を売って権力を分けてもらっているようにとらえられる可能性があります。

(2) 教師の想定する階層の原因
教師にとっては「能力」がスクールカーストの原因になっていると見られます。例えば、コミュニケーション能力が高い生徒は必然的に上位に行き、自己主張が低かったり向上心がない生徒(現状に甘んじる子)は下に落ちていく。
ちなみに、このような「○○力」のことをメリトクラシーと呼んでおり、今日ではこのようなメリトクラシーが増えたハイパーメリトクラシー社会と呼ばれています。


 たとえば、「人間力」や「考える力」、「問題解決能力」「対人関係能力」「生きる力」、「母親力」「女子力」なんていうのもあります。挙げるとキリがありませんが、『○○力』という本がよく出版されていることからも、単なる学力以外のもっといろいろな能力が、社会の中で重要視されていることがうかがえます。このような「メリトクラシー」が新たな段階に進み、さまざまな「○○力」が重視されるようになった社会を、「ハイパー・メリトクラシー」と呼びます(本田由紀『多元化する「能力」と日本社会』NTT出版・2005年)。(pp.71-72)

これらは、非常に曖昧な概念であり、メリトクラシーを育成したり評価したいするのが困難で、教師はこれらを伸ばさなければならないという強迫観念に押されながらも現場にいます。したがって、これらメリトクラシーが目につき、スクールカーストの原因帰属としてこのような曖昧な能力を用いているのではないでしょうか。

(3) 教師のスクールカーストの意義に関する一意見

今回のインタビュー対象者の教師からは、「スクールカースト」に対する否定的な見解はあまり聞かれず、むしろ、同学年の集団に、「地位の差」が存在することに対して、肯定的な見解を示す言葉が多く聞かれました。[...]加藤先生は、もし、「スクールカースト」の下位に位置づけられる生徒が傷ついたりしていたとしても、生徒たちがこれから社会に出て行くことを踏まえれば、なぜ自分がクラスメイトから下位だと見なされているのかを考えることは、必要なことだと考えています。
そして、「立場の弱い」生徒に関しては、「スクールカースト」の中でなぜ自分がかいだと見なされえていたのかということを考えることによって、自分がなぜ立場が「弱い」のかに「気づ」き、そうした弱い自分を修正して、社会に巣立つことができるようになればいいのではないか、と考えているようです。[...]このように教師たちは、「スクールカースト」による「地位の差」を、「生きる力」や「コミュニケーション能力」、「リーダー性」といった「能力」の違いによるものだと解釈し、そのため「スクールカースト」それ自体に肯定的な見解を示すようになると考えることができます。(pp.260-262)

※本研究では4名の現場の教員からインタビューを行っていますが、その4人ともスクールカーストの存在を肯定的に見ていたという結果がでていました。


ここまでを表にまとめれば、以下のようになるのではないでしょうか。



■ 教師生徒間のスクールカーストの認識の違いの理由(勝手な解釈ですが…)

上の表に見られるような違いはなぜ見られるのでしょうか。
先ほどの教師のスクールカースト観は能力により地位が決まるということで、このように表されるでしょう。



しかし、現実的には能力のみで地位が決まるということはないように思います。そこで、本研究で紹介された教師の想定を修正したモデルは以下のようになるかと思います。


私が指摘したいのは、以下の2点です。

指摘①:能力によってSC地位が決まるだけでなく、SC地位によっても能力やパフォーマンスが影響されるのではないか。

→能力が高いから地位が高い、のではなく、地位が高いから能力が高まったり、自分の能力を発揮する機会が増えるとも考えられないのでしょうか。現に下位層にもコミュニケーション能力は高いけれども、「オタク」ということで下に見られる場合もありそうなものです。


指摘②:SC地位は能力以外の様々な諸要因によって決定づけられているのではないか。

→そもそもスクールカーストを決定する要因は他にもあるのではないか、という点です。したがって教師はコミュニケーション能力や生きる力の高さのみしか地位の決定要因とみなしていなくても、現実的には見た目や性格なども入るのではないかという点です。



もちろん教員として現場で働いたこともない自分の勝手な解釈なので、あまり説得力はないかもしれません。しかし、自分の高校生の頃の経験なども踏まえるとこのようにも考えられるのではないか、というあくまでも解釈の一例としてとらえていただければ幸いです。


■ 疑問点

最後に、本書を読んだ疑問点と現時点でのぼんやりした考えを述べて終わりにしたいと思います。

・大学の学部やクラスにはスクールカーストのようなものは存在しないのだろうか。もしするなら、なぜ本書では取り上げられていないのだろうか。もし存在しないなら、それはなぜか。

本書では小・中・高に関するカーストのみ述べられており、大学については述べられていません。また、定義にも「児童生徒」という言葉があっても「学生」という言葉は用いられていません。大学では果たしてカーストのようなものはないのでしょうか。もしないのであれば、なぜスクールカーストが存在しないのでしょうか。
私は「コミュニケーション能力」や「見た目」「性格」などのスクールカーストを決定付ける要因は中高で特に重視されても、大学ではより多くの価値観が存在し、カーストを決定するのに十分な独裁的要因が存在しないからではないかと思います。(つまり、みんな違ってみんな良い!と学生なら相手のことを認められそうということです。)
また、調査法として大学生にインタビューをとったということで、現在自分が通っている大学に関するカーストは述べたくても述べられない(現在の自分の立場を明らかにしなければならない)からかもしれないと思いました。なので、大学卒業者を対象としたインタビューなどを行えば明らかにされるのかもしれません。


・「調子に乗る」というメタファーの表す意味。

中学高校ではよく「あいつ調子に乗ってない?」という言葉が聞かれたと記憶しています。この言葉も本書ではスクールカーストの存在によって説明されます。

「スクールカースト」の上位に位置づけられる生徒は、権力を保持しており、そのため、自分の権力の届かないところで行動されることを「調子にの」っているという言葉で表し、制裁を加えることもあります。(p.188)

とすると、「調子にのる」はカースト上位軍から下位軍へ用いられるものとなりますが、おそらくその逆(下位軍から上位軍)でも用いられるのではないかと疑問に思いました。
例えば、上位の生徒が授業中にずっとふざけていれば、「調子にのりすぎている」という言葉も使われるのではないかと思うのです。

もちろん言葉づかいなので人によって違うとも考えられますが、果たしてどうなんでしょうか。


■最後に

まさに中高のころ学校の“空気”を支配していた構造がこのようにも表されるのだな、と面白く読みました。教職につかれる方は一度読まれるといろいろな発見があると思います。

感想やご指摘等ございましたら、コメント欄までお願いします。

2013年8月16日金曜日

川島 幸希(2000)『英語教師 夏目漱石』新潮選書

♪バリバリバンバンバリバンバン~(某CMの鼻歌が頭からはなれない・・・笑)


さて、夏休みも2週間経ちました。皆さんいかがお過ごしでしょうか。

私はこの2週間オープンキャンバスや塾の生徒さんとの面談など普段できない経験もできました。また初等コースの皆さんと宮島旅行(?)へも行き、そこそこ楽しく過ごしています(^^)

7セメが終わって授業ノートなどを見返していると、「日本語の表現と論理」で通読した『こゝろ』がでてきました。高校生の時に読んで以来でしたが、改めて読み返すと当時思いつかなかった解釈もできたり、友人と解釈の相違で盛り上がったりと、面白かったです!

そんな夏目漱石。『我輩は猫である』『坊ちゃん』『こゝろ』など多くの作品で有名な明治時代の作家ですが、彼が処女作『我輩は猫である』を発表するまで英語の教師をしていたという事実は、つい最近まで知りませんでした。

夏休みの課題図書用に購入してちびちびと読んできましたが、だんだんと今日の英語教育に通じる点も多く見つかり、読み終わった後は自分が理想とする英語教師像を改めて考え直してしまいました。そういうわけで今回は、本書を読んだ感想と自分の英語教師観を交じえながら書いてみました。

書評としては読みにくいところもあるかもしれませんが、よろしければお読みください(^^)



■ 教育内容(英語の知識・技能)か、教育方法(英語の教え方)か。

以前オープンキャンパスで高校生に教英の授業を紹介させて頂く機会があり、「僕が思うよい英語教師は”英語の知識が豊富・技能も高い”且つ”教え方が上手”」と(偉そうに)話させて頂きました。ただ、どちらかと言えば後者の方が重要と考えていました。たとえ英語の知識が豊富でも、それを生徒に上手に届けられなければ意味がないのではないか。協働学習などの学習者中心型の授業でも、教師としての裁量に委ねられるため、英語を知っていることよりもどう教えるかがより重視されるべきだ、と。
急いで付け加えると、もちろん教育実習でも英語の知識の必要性は認識しました。ただ、相対的に教え方が自分には魅力的に見えたわけです。

ところが、以下のようなエピソードがいくつもあります。

また、ある生徒が漱石の訳に対して「辞書に違った訳があります」と質問したところ、「そんなウソが書いてある辞書は直しておけ」と漱石は答えた。辞書ほど偉いものはないと思っていた生徒は度肝を抜かれ、「辞書を直す先生」ということで、漱石の評判は瞬く間に高まった(「漱石氏と字引」)。[...]このように抜群の英語力を武器に、漱石は田舎の悪がきどもを圧倒した。(pp.144-145)

また、英語教育廃止論で有名な藤村作も漱石の授業を受けたことを以下のように述懐しています。

先生は意地悪なので、ある時みんなで一つ困らしてやろうと相談して、うんと調べていって先生に掛かったが、どうしても先生を困らすことが出来なかった。それほど夏目さんは実力があった。自然とそういう人に、生徒は皆頭が下がって尊敬した。(p.161)

他にも「睾丸」の英訳を尋ねられて即時に答えたり(p.144)、イギリス留学の際に英語話者から褒められたり(p.67)、漱石の英語力を示す証拠は枚挙に遑がありません。

では、漱石は教育方法(教授法)に対してはどのような考え方を持っていたのでしょうか。英語の知識が優れていても、それをどのように伝えるかは教師として重要な観点ではないのでしょうか。

教授法については『語学養成法』という漱石の英語教育論に次のように示されています。

ここで注目すべきは、この談話で漱石が「教授法」について、終始冷ややかな態度を示していることだと思う。まず漱石は「語学養成法」の前半で、「教授法」を「教師」「時間」と並んで英語教育における三つの改良点の一つと上げながらも、「教授法は随分肝腎なものであるが、いくら細目が立派に出来てゐた所で、教授法自身が活動して呉れる訳でないから、よくそれを体得した教師が、十分の活用をして呉れなければ巧果が揚がるものではない」とそっけない。そしてなんと後半では、三つの改良点は「教師」「教科書」「時間」と変わってしまい、「教授法」は完全に無視されてしまうのだ。(p.121)

このように、教授法の工夫については漱石はあまり魅力を感じていなかった様子。現に松山中学での教壇実践でも、プレフィックスやサフィックスの説明を長々と行う(p.150)など、特に工夫をした様子も伺えません。
「適当な教師さへあれば、教授法などが制定せられなくとも、その行ふ所が自然教授法の規定した細目に合ふ訳である(p.121)」という言葉も示すとおり、教師英語力こそ勝負の鍵と考えていたのでしょうか。

これは、教え方こそ第一!と考えていた自分にとってはある種の衝撃でした。もちろん現代と明治時代を直接比較することに大きな意義があるとは思いませんが、英語教師としての英語力を高める重要性を示しています。

※そもそも「内容」か「方法」か、という二項対立には意味はありません。(虚偽二者択一とも言えますか。)どちらも大切で両方を追求するのが基本ですが、あえてどちらがより大切か、という視点で読んで頂ければ幸いです。

■ 「厳しさ」と「優しさ」

私は他にも、教師は生徒に優しくあるべきという信条があります。これは中高の頃の先生が厳しかった反動ですが(笑)、恐怖や力で児童生徒を支配しようとするのにはあまり賛成しません。
夏目先生の以下の実践は、私の考えとは一致していないように見えます。

例えば、ある生徒は漱石が「直覚」という表現を用いたので、「直カクとは何です」と尋ねたところ、「直覚とは直覚だよ」としかられている。また、何となしに質問などしようものなら、「どの字が解らない?……字引を引いたのか?」と反問されるからうっかり質問もできなかったという。
とりわけ漱石は、「下読み」つまり予習をしてこない生徒には容赦なかった。単語の意味を聞かれて「忘れました」などと答えると、たちどころに「忘れたのではなかろう。知らないのだろう。調べて来ないのだろう」と突っ込まれた。(pp.159-160)

この描写のみを読むと、漱石はいかにも恐怖で生徒を抑圧しているように見えるし、生徒がついてこないのではないかと思いました。この一件で英語を嫌いになる生徒も出てくるのではないでしょうか。

ところが、以下の描写もありました。

漱石が英語以外のところでも生徒思いの先生であったことは、書生として自宅に住み込ませた五校の生徒、俣野義郎・土屋忠治・湯浅廉孫への応対から知れる。湯浅の場合などは、彼が困窮していることを知ると「そんなに困つてゐるなら、宅へ来て居れ」と自ら勧め、学費も援助した。さらに、ドイツ語の点数が足りなくて卒業できないはずだったところを、教授会の席上で「こんな篤学者(湯浅は漢学に関しては教授以上と言われる実力であった-筆者注)を全く関係のない外国語の点位で大学へ送らぬといふ筈はない」と力説して落第を免れさせている。(p.162)

一見、上記2つの例は同一人物の行動として一貫性がないようですが、全く問題がありません。そもそも「厳しい」という言葉の対義語は「厳しくない→甘い」であり、「優しい」とは軸が異なるわけです。
英語の実用力をつけるために予習をしない生徒を叱る厳しさと、学費が払えない生徒を援助する優しさの2つの軸を持っていると考えれば、むしろ漱石の教師像がよりはっきりと浮かび上がってきます。

甘いだけでは生徒の力はつかない、よって厳しさも必要。しかし冷たい先生には生徒はついてこない、よって優しさも必要。この互いに独立した二本の軸を意識することができました。


■ 漱石の英語教育信念あれこれ

最後に、漱石が英語教育について持っていた信念を列挙する。今日の英語教育に通じる点も多々あります。

・技能統合型の中学英語授業

漱石が主張したのが、一人の教師が一クラスの総ての英語の授業を担当することであった。[...]例えば、愛媛県尋常中学校で漱石から学んだ真鍋嘉一郎(後に東大医学部教授、漱石の主治医で臨終に立ち会った)は、「わしに文法も何もかも時間を持たせれば、君等をもっと解るようにしてやるのだが」といわれたという。また「福岡佐賀二県尋常中学参観報告書」で、佐賀中学二年生の会話作文文法の授業について「一時間内ニ在ツテ会話作文文法ノ三科ヲ教授スルハ諸科ヲ融合シテ打テ一丸トナスノ便利アリ」と評価しているのも、この主張と同趣旨である。(p.120)

私が海外留学した時も、「文法は切り離して教えてはいけない(Grammar Nugget)」と教わりました。これは、文法規則を学ぶだけで終始せず、実際に使いながら習得させるための手段だったのでしょう。漱石の上の主張もこれに似ており、文法を学び、会話で使い、作文で書いてみる、といった一連の流れで生徒は言語材料を着実に身に着けていくのかもしれません。
今日の中学英語は言語の四技能を有機的に組み合わせて授業を行うために、「作文」「文法」とは分かれていません。本書の川島氏は「教師が優秀であればこの形態は語学教育の理想だと思う(p.121)」と述べています。逆に言えば、力量のない教師にとってはこのような型はリスクが高いと示唆しているのでしょうか。。

・英語教師の研修に試験!?

さらに、「中学改良策」では教員研修が取り上げられていたが、漱石は「語学養成法」において、既に教師となっている者に対して定期的に試験を課すという新しい考えを打ち出している。[...]漱石はこの試験を実施する付加価値として、試験管が普段から各地の英語教師と気脈を通じて、英語に関する情報交換や質疑応答などの交流を図ることを考えていた。だが現実には、いつの時代も「先生と呼ばれる人間が試験されるなんて」という教師なる人種の不思議なプライドと、能力給の是非の問題が立ちはだかるのであった。(pp.114-115)

現在では英語教師の研修が行われています。(校内研修以外にも初任者研修、10年経験者研修などがある。)しかし教師に対する試験は課していないと思います。仮にその試験で及第点を満たさなければ研修追加や免許停止などになる、という制度もないはずです。
「専門職」であればそこまでしてもよいのでは、という気もしなくもないが、実行されない原因の根底には「教師なる人種の不思議なプライド」がからんでいるのかもしれません。


夏目先生は現代の英語教育を見たらどのようにおっしゃるんでしょう。

そして英語教師としてどうあるべきか、どのように語るのでしょう。

実際に確かめることはできませんが、上のような発言やエピソードから少しだけでも垣間見れた気がします。

にしても、やはり自分の普段の考えは浅はかだな~と感じた次第です(泣)。まぁ理想の教師像なんて実習以来あまり考えてこなかったので、良い機会だったかもしれませんねー。

英語教育史関連の書籍を読むときは、常に現在ある自分や教育状況に関連づけて考えるのが面白いです(^^)


皆さんも、何かお勧めの本などございましたら教えてください♪


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2013年8月7日水曜日

初等教育まとめ(3)~理科・4QS:仮説思考型授業の原理~

なんとか院試願書を完成させられてホッとしています。(現在、締め切りの15時間前。)我ながら間に合うかどうか冷や冷やしていましたが、まぁ良かった。笑
特に今回は日本語の文章の書き方がまだまだ体得できておらず、自分の文章を推敲しながら自己鍛錬せねばと実感しました。このブログで自身が成長できれば良いなーと思います。


さて、初等教育についてのまとめ、第三弾です!(切り替え早ッ!)

いつも英語教育をやっている自分は、他教科に関しては全くの素人であります。
したがってここでまとめていることは的外れであったり、ずれていたりすることが多々あるかもしれません。というか、多々あります!そのような場合は、ご遠慮なくご指摘頂ければ幸いです。特に、英語科以外の方が本記事をご覧になっていらっしゃれば、是非ご意見寄せて頂ければ幸いです。
このブログで初等についてまとめを行うことは、(おそらく)英語教育専攻の方が多くご覧になっているので、他教科から英語科に活かせる部分を発見するのにもつながると期待しています。
時間を見つけて、できるだけ初等のまとめは今後も更新していきたいですね。

今回は、「理科教育」です。


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■ 自分にとって、「理科」とは?
とりあえず自分が受けてきた中では、あまり良い思い出がない教科です(苦笑)。兄は生物部に所属していて、植物や動物に詳しく、化学や物理もいつも上手に説明してくれます。(その兄の反動で、自分は文系になったのかな、と考えてしまうこともよくあります笑)

そんな兄は普段生活をしている時もよく理科の話をしてくれます。例えば、アイスコーヒーに牛乳を少し入れたとき、「待て。まだかき混ぜるな。」といってずっと見続けていました。僕もそのまま見ていると、牛乳が勝手にコーヒーに混ざっていくではありませんか。

「これが対流だよ。」


兄の一言で、それまで用語で無理やり覚えた「タイリュウ」が実感を伴ったものとなりました。これが、自分が理科に少し興味を持ったきっかけでもあります。(ただ、この経験をもっと早くにしていればよかったのですが、残念ながら私は当時既に大学3年生。兄よ、もう少し早く言ってくれれば・・・笑)



■ 原体験と理科

この経験が示すように、理科嫌いの少年でも実感を伴えば自然現象に十分興味を持ちうるものです。今回初等理科の勉強に用いた本書では以下のように説明されていました。

自然の事物や現象を認識する場合、まず、その実物や現象に触れてからそれに関する知識を学ぶと認識や理解が深まる。ところが、情報化時代といわれる現在は実物を知らずに、知識だけが豊富になっている児童生徒が多くなっていると思われる。(p.6)

例えば、私が中学受験をした時に「月の満ち欠け」について学習しました。月と星は割りと得意な領域だったので、得点源だった覚えがあります(記憶のすり替えがないことを祈りますが。)しかしふと空を見上げて月を見ても、それが上弦か下弦かよく分かっていなかったりする。しかし、よくある問題文と図があれば、記号で「上弦の月」と答えられる。「知識だけが豊富になっている」とはこのようなことではないでしょうか。

そうならないためにも、「原体験」が必要になります。原体験は「生物やその他の自然物、あるいはそれらにより醸成される自然現象を触覚・嗅覚・味覚をはじめとする五感を用いて知覚したもので、その後の事物・現象の認識に影響を及ぼす体験のこと(p.7)」と定義されています。


理科の学習の対象となる自然の事物・現象に興味や関心をもち、積極的に探究しようとする姿勢は、好奇心や感性によりもたらされるものである。したがって、原体験は、単に自然認識を深めることだけを目的としたものではない。原体験は好奇心等、人間として生きる力を身につけさせることを目的とした根源的な体験であり、教育の視点でみると360°の方向性をもったものである。[...]そして、体験に裏づけされた知識や概念は生きて働く力になると共に、判断力、表現力、思考力、創造性を豊かにすると考えられる。(p.8)

いかに科学的思考力をつけようとしても、原体験がなければ抽象論となり実感が湧かずに親しみが湧かない・・・。だからこそ、原体験→探究・科学的問題解決という流れが重要になります。
仮に「電流」という単元を扱う場合にも、まずは豆電球が明るくなったり暗くなったり、モーターカーが速く走ったりゆっくりになったりするのを目で見たり触ってみたりして「感じる」ことが必要となって、「なぜだろう」という探究活動へつながり科学的思考力の育成が始まります。



■ 4QS

探究活動のためには、仮説を立てて検証するという作業が必要です。もちろん「では仮説を立ててみなさい」といわれてもすぐに立てられる子ばかりではありません。以下に示すのはCothoron. j. hらによる"Four Question Strategy"(小林氏はこれを頭文字をとって4QSと呼んでいる)で、子どもたちが現時点で持っている知識や経験から仮説を立てさせる手立てです。

4QSは以下の4つのステップから成り立つ。

STEP 1 変化する事象を従属変数として簡潔に記述する
STEP 2 従属変数に影響を及ぼす独立変数に気づかせる
STEP 3 STEP 2で挙げた独立変数を実験条件としてどのように変化させるのかを考えさせる
STEP 4 STEP 1で挙げた従属変数を数量としてあらわす方法を考えさせる
(pp.16-17)
   
→これらを組み合わせて仮説をつくることができるようになります。

※従属変数と独立変数とは
簡単に説明すると、独立変数は実験者が意図的に操作することで変えられる値である。それに対して、従属変数は独立変数の値を変えることによって変わる値のことである。たとえば、暑い部屋でクーラーの設定温度を25℃, 28℃と自由に設定すると、それにともない部屋の室温も変わる。この場合、私が設定するクーラーの設定温度の値が「独立変数(実験者が操作可能)」であり、実際の部屋の室温は「従属変数(実験者が直接操作はできないが、独立変数の変化にともなって変化する)」といえる。
(あまり良い例でなかったらすいません。ご指摘ください。)

これら4つのSTEPを経ることで、児童が自力で仮説を立てることができるようになります。




例えば「直列つなぎと並列つなぎの違い」という単元に当てはめて考えると以下のようになるのではないでしょうか。

学習課題:モーターカーを速く走らせるにはどうしたら良いのだろう。
STEP 1 : モーターカーの速さ
STEP 2 : 電池の個数?, 配線の長さ?, 電池の種類(単一, 単三など)
STEP 3 : 電池1, 2, 3個,配線 2, 4, 8cm,単一, 単二, 単三
STEP 4 : 速度(m/s),10mを走りきる時間(秒)など
立てられる仮説(例)
・電池の個数を1, 2, 3個と増やすと、モーターカーが10mを走りきる時間は短くなる。
・配線の長さを2, 4, 8cmと長くしていけば、モーターカーが20mを走りきる時間は長くなる。


ただ「モーターカーを速く走らせるにはどうしたら良い?」という発問ではアイデアが思い浮かばない児童でも、この4QSを用いれば具体的数量に表す方法や結果に影響を与える変数の存在といった特定の箇所について考えれば良いので、より事象を単純にとらえられるという効果があります。そして仮説を立てることでそれを検証したいという動機付けになり、実験に対する関心も高まると期待されます。

ただし、このやり方では間違った仮説をたててしまうのではないかという反論もあるかもしれません。(実際に配線の長さに関する仮説は誤り。)だが、これも「予想をして確かめて結果をまとめる」というプロセスをたどることに変わりはなく、科学的思考の育成には十分寄与するものと考えられます。(もちろん実験後には他班との交流により真実を知る機会は確保される必要があるのは当然です。)



【感想】
今回は、英語教育に応用できる余白はあまり見られなかった・・・。(まあ技能科目ですし、あまり独立変数・従属変数という考えは用いないのでしょうか。)なにか良いアイデアがあれば、英語科の皆様お願いします。

ちなみに、卒業論文のマインドマップ代わりにも使えるのかな?と感じました。
例)英語の文章を速く読ませるにはどうしたら良いのだろう?
STEP 1 : 読みの速さ
STEP 2 : 文章中の未知語数,読み手の英語学習年,留学年数
STEP 3 : 文中の未知語=χ/300語,読み手の英語学習=y年,留学=zヶ月
STEP 4 : 速度値(wpm)
→仮説:文中の未知語が少なく、読み手の学習歴が長ければ、速読値は大きくなる。

さて、どうでしょうか。このような関連の論文を読んだ経験が少なく、仮説の立て方があっているかすら自信がありませんが、何か参考になれば幸いです(汗)


さて、明日はオープンキャンパス!頑張りましょー!(夏休み、早く来い。涙)