2013年9月29日日曜日

未来授業広島(2013年9月23日)の振り返り~豊かさとはなにか~



9/23(月)に開催された「三菱商事presents FM festival未来授業」に参加してきました。趣旨としては、若者(主に大学生)が集まり、著名人の講演を通じて将来について語り合う、というもので、詳しくは11月にエフエム広島で紹介されるそうです。

今回は広島大学の長沼先生が「ニッポンの転換点・未来を創る ~協調する人種 ホモ・パックスへの進化」というテーマでご講演いただきました。とても面白く、あっという間の2時間でした。

ちなみに自分は講演を聴いただけで、特に発言をしたわけではありません。授業では「どんどん発表してみよう」と言っているくせに・・・と児童生徒から叱責を受けそうですが(汗)。でも、自分が授業を受ける側に立たないと、発言するときの緊張感や不安は忘れてしまいそうなので、良い機会だったのかもしれません。

その贖罪意識というわけではありませんが(笑)、当日発言できなかったこと、講演後に振り返って感じたことなどを以下にまとめようと思います。この企画は全国各地で行われているようですので、興味をお持ちのかたはどうぞ次の機会にご参加ください。




■ 生態学の知見

・ダーウィンの「生命の樹」

生物学(進化学)において重要な考え方の一つに、「どのような生物ももとは同じ」というのがあります。これは、ダーウィンが「生命の樹」という言葉で表したそうで、様々な種の生物が木の枝にあると考えます。どの生物ももとをたどれば、同じ幹・根から生まれたもののはずで、進化の過程で分かれていったと考えます。

例えばヒト(ホモ族)とチンパンジー(パン族)ももとをたどれば同じ種だったはずです。現に両者のゲノム(遺伝子全体)は96-99%が共通しています。

・わたしたち個体は「遺伝子の乗り物」なのか

もう一つ、講演で紹介された考え方で、「遺伝において継承されるのはDNAのみ」というものがあります。たとえば、mochiという個体が次世代に遺伝として引き継ぐのは、mochiの人格や感情、意識ではなく、彼の遺伝子(性染色体や髪質など?)のみです。mochiがどのような人なのか、という点は次世代には伝わらないようです。

すると、私たち個体の存在意義は、前世代から受け継いだDNAを次世代に運ぶ「乗り物」のような存在なのでしょうか。そこには感情や意識などが果たす役割はないのでしょうか。
長沼先生によれば、最近の考え方ではジーンのみならずミーム(文化)も伝わるとあります。したがって、今日の文化を作り上げることは次世代にも必ず生きていくわけで、意識や感情はこのような点で重要なのでしょう。


■ “The Selfish Genes”~お・も・て・な・し~

リチャード・トーキンズの著作に“The Selfish Genes"があります。"selfish"という単語の連想から、「わがまま」「利己的」というイメージが生まれそうですが、それは著者の意図とは異なり、実際は「協調する」遺伝子という意味に解釈すべきだ、と長沼先生はおっしゃいます。
「情けは人のためならず」ということわざが示す通り、相手に親切にしたり協力したりすることで、生存に有利となるために、ヒトは協力することができるそうです。

少し分かりづらいかもしれないのでキリンの例から補足します。キリンは首が長いのですが、キリンが首が長い理由は「首が長い方が高いところにある草を食べることができるため、生存に有利だから」だそうです。それと同じで、ヒトも「他人と協力しない個体よりも、他人と協力する個体の方が生存する可能性が高いから」協力をするわけです。具体的には、集めた食料を分け合う個体の方が、食料を独り占めする個体よりも、困っているときに助けてもらう可能性が高まり、結果的に生き残りやすいでしょう。

講演では、昨今話題の「おもてなし」について議論になりました。オリンピック招致の最終プレゼンテーションで、「おもてなし」を“日本の魅力”というニュアンスで紹介されていました。確かに「おもてなし」と聞くと、旅館で接客する仲居さんなどが連想され、日本っぽいイメージが強いかもしれません。しかし「おもてなし」は日本人特有のものでしょうか?

結論から言うと、Noです。英語にもhospitalityという語は存在し、アフガニスタンでもおもてなしという概念はあるそうです。これは、国籍や文化に関わらず、私たちヒトに協調する遺伝子が備わっていることから、おもいやりが自然にできるためと考えられます。

※補足※
しかし、「では日本がおもてなしをアピールするのは間違っている」のでしょうか。「世界中でおもてなしが存在するなら、取り立てて日本がおもてなしにおいて優れているわけではないのではないか」と思われるかもしれません。現に未来授業でもそのような議論がありました。
これについてははっきりとした答えは出ませんでしたが、面白いと思った意見として「日本人はおもてなしが自然にできる」「生活におもてなしが埋め込まれている」というものでした。ハイコンテクスト文化という一面があるからかもしれませんが、言葉で伝えなくても相手が察して思いやりを持ち行動をすることが日本では割と自然だと思います。ならば、日本のおもてなしも世界に誇れる文化なのかもしれません。



■ 豊かさとはなにか

未来授業の後半は「豊かさ」とは何ですか、という問いに対する答えを話し合いました。以下は長沼先生が参考図書として指定された「国富論」です。山岡先生の訳で今年度中にはチャレンジしたいと思っていましたが・・・まずはまんがで読んでみたいなと思います(笑)

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参加者からは「自己実現」「笑顔」「余裕」「自己表現」など多くの意見が出ており、とても面白く聞きました。長沼先生は「知足(足るを知る」を挙げられていました。これは老子の「足るを知る者は富むを知る」からのようで、個人的にも大きくうなずけるものでした。

ただ、ディスカッションでよくありがちなのですが、私はなかなか自分の考えがまとまらず、他人の意見を聞いて「なるほど」とどんどん更新されて結論を出すことができませんでした。「よし、これかな?」と思った時には、すでに次の話題に移っており(苦笑)、結局発言することができませんでした。

ということで、ここからは、当日自分が発言できなかったことを書いてみます。

私が豊かだと思うのは、「剰余性」です。剰余性は平田オリザ氏の著書に出てきた言葉で、ある目的を達成するために行う行動「以外」で価値のある行動を指します。例えば、授業中に先生がねらいとは関係のない余談をすることがありますが、その余談も剰余的といえます。またディスカッションの際に「えっと、何を言いたかったか忘れちゃいました」と言って場をなごます時、ディスカッションという本来の目的からはずれているため剰余的です。これら2つの例に共通しているのは、どちらも価値があり、最終的には目的達成に寄与することです。授業中の余談も、集中力の続かない子にとっては興味を持たせるきっかけとなりえますし、ディスカッション中の笑いも、場を暖めて次の意見を出しやすくなるならば価値はあるはずです。

今日では「生産目標」「到達目標」など数字が並べられ、それを達成するための行動を重視し、それ以外を無駄と切り捨てる傾向があるのかもしれません。(世間知らずの学部生には断定はできませんが。)確かに目標を定めてそれに必要な手立てを取ることは効率的といえるでしょう。しかし、時には剰余性を取り入れて、あえて無駄なことをしてみるのもっ必要なのではないでしょうか。むしろ無駄なことをしているときにこそ人は喜びを感じるのではないでしょうか。(余談やディスカッション中の笑いは格好の例かと考えます。)

私がゼミの先生から昔うかがった話ですが、タスク管理にはimportant, urgentの2軸が必要だそうです。

+important, + urgentなことは「目標達成のために必要な行為(重要な仕事)」です。タスク中で最重要なため、期日を定めて行わなければなりません。
-important, + urgentなことは「重要ではなくてもやるべきこと(※仕事)」で、自分にとっては重要ではなくてもやらなければならない事務処理などが含まれます。
もちろん目標達成のためには必要なことですが、これらだけに自分の時間を当ててしまっては、豊かさは得られないように思えます。
むしろ+ important, - urgentな「緊急ではないが、自分にとって重要なこと(※活動)」を生活にいかに取り入れるかが、自分の生活を豊かにするのだと思います。

※仕事、活動はアレントによる用語です。ただ、アレントについては著書を全く読んだことがなく、授業で触れた程度の知識です。ぴったり合う、と思って書いてみたのですが、もし誤っていればご指摘ください。

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(補足)
最近好きなSMAPの曲「JOY」に、こんな歌詞があります。

無駄なことを一緒にしよう忘れられてた魔法とはつまりJOY!JOY!

好きな歌詞なので引用してみました。笑
無駄なことを避けるのではなく、取り入れることに豊かさを感じたいですね(^^)


■ 友人の文章

ちなみに以下は、わたしのゼミの友人が書いた文章です。本人の許可をもらったので、リンク先を貼っておきます。

「目標に受かって-直線に進むことのリスク」~ある学部4年生の述懐/英語教育の哲学的探究2

彼も、本文とは関係のなさそうな「回り道」こそ大切ではないか、という論調で進めています。この記事を書くことにしたのも、彼の文章を今朝読んだことがきっかけだったので、彼には感謝しています。

自分もこれくらい分かりやすい文章が書ければ良いな、とうらやましく思います。彼が深く内省することができ、感性が豊かだからこそこんな文章が書けるのだと思うと・・・

まだまだ修行が足りないですねww

自分も倍返しする勢いで、もっと分かりやすい文章を書けるように訓練します!
(↑いいたいだけ笑)

■ まとめ

「未来授業」全体の感想としては、とても面白かったです。生物学は全くの無知だったので、新鮮な話がたくさん聞けました。議論も途中から熱くなり、多くの人の考えを知ることもできました。(唯一残念だったのは、大テーマ「明日の日本人たちへ~ニッポンの転換点・未来を創る」とのかかわりが薄く感じられたことです。このような大規模なイベントで一貫性を持たせるために必要な大テーマだったと思いますが、少しこじつけている印象を受けました。しかし全体的には満足しています。

このようなイベントも学部の間に多く参加したいです。なにか面白いイベントがあれば、ぜひご紹介ください。

では、ご機嫌よう~!

2013年9月27日金曜日

半沢直樹


ご無沙汰しております。 もう一人のブログ管理人のSavaです。
長い旅から帰ってきました。これからはわたくしも記事の更新をします。


(Mochi君に記事を) 書かれたら書き返す。 倍返しだ!!!!

Sava

子安潤(2013)『リスク社会の授業づくり』から学ぶ


久しぶりに大学に帰り、打ち合わせやゼミ、塾バイトが始まりました。来週からは大学の授業もまた始まります。久しぶりに塾で授業をすると、小学校とは違うテンポの授業で、懐かしさを感じさえします。

実は、先週まで小学校教育実習に参加していました。本ブログでも初等教育の授業法に関するまとめを掲載してきましたが、その中で特に難しいと思ったのは社会科でした。

社会の授業を担当する前日に「もっと社会教育の勉強をしておけばよかったな・・・」と感じ、「今からでも遅くない!」と思い立った自分は、社会科教育に関する本を探し、本書に出会いました。

その場の勢いとノリで注文し(夜3時頃)、そのまま寝てしまい次の日の社会の授業に臨みました。
授業は割と予定通りに進み、安心して家に帰ると、注文した本書が届いていたわけです。(正直、夜3時のことで、注文したこともあまりはっきりとは覚えていませんでした。笑)


リスク社会の授業づくり
リスク社会の授業づくり子安 潤

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「今さら他教科の勉強・・・」と思いながらも、せっかく注文したので読んでいると、自分の授業づくりの考え方の甘さであったり、社会教育のみではないリスク社会における授業づくりの原理だったり、今後に活かせると思える点が多々ありました。

やはり、他教科から学べることは学ぶべきですね(0^^0)

今回の記事では、前半は社会科教育やリスク社会の理論面についてまとめ、後半ではどのような授業づくりが求められるか、といった点について言及したいと思います。


■ リスク社会(2つのアプローチ)


ウルリッヒ・ベックによると、リスク社会には4つの特徴があります。

ある危険が人間の目に見えないという不可視性。危険が国家を超える可能性のあるグローバル性。産業社会によってある危険が利益を生むために自己増殖させる無限欲望性。危険が前触れなしに一気に出現する破局性。

このようなリスク社会への対応には「未然防止」アプローチ「予防原則」アプローチの2種類があります。従来は前者がとられてきたが、今日では後者の重要性も認められています。

「未然防止」アプローチとは、「リスクの因果関係や発生確率が科学的に解明されている場合に、リスクの現実化を未然に抑える対策をとること(p.23)です。なにかリスクがあることがはっきりわかっている場合には、そのリスクは予め防止しましょうという立場ですが、この言説には次のような前提がある。そのリスクの因果関係が解明されていないような場合は、未然に抑える対策は取らなくてもよいという考えです。たとえば、Aという教授法があるとしましょう。この教授法は教師にとってやりやすく学習者も満足しているようにみえていた。しかし、有名な研究論文によって、Aは学習者にとって悪影響を与えることが示された。これによって、「ではAの教授法を使うときにはどうしたら悪影響がでないだろう」と考えるようになるのが「未然防止」アプローチ。大胆にいえば「わかっているリスクに対してだけ対策をとっていれば免罪される(同頁)」。

それに対して、「予防原則」アプローチでは「因果関係の科学的証明がなくても、深刻なリスクが考えられる場合には、事前に予防措置が取られなければならない(p.24))」。従来とは異なり、はっきりと因果関係や影響が示されていないリスクに対しても起こりうるならば事前に防止しようと心掛けなければなりません。今度は指導法Bを考えましょう。指導法Bもこれまで教師によって使われていました。しかし、ある教師が「これを続けたら子供たちが後で困るのではないか」と言い出した。過去の研究論文を探してもそのような記述はなかったが、教師は指導法Bが起こしうるリスクを回避するために、自ら対応策を求めていった。

Aの例では、教師は「言われたから対応する」のに対して、Bは「言われなくてもやる」という特徴がある。これこそが両者を決定づける特性の一つである。(もちろん前者の方が客観的で、後者は主観的という点も指摘できますが。)

■ リスク社会における授業構想


上で述べたようなリスク社会においては、授業や教材研究の営みも変わってきます。


教材研究では、「事実(Fact)と、判断(Judgement)もしくは価値(Worth)の二つに仕分ける(p.31)」重要性が指摘されています。これは、以前国語教育に関する記事でも紹介したが、現代文であればある文章のうち、客観的事実と主観的判断に整理して読むことにあたります。読みでは、客観的な部分は正しく理解する読み方、主観的判断に対しては、読者として賛成できるかどうかの評価を下すことが求められます。

従来は、「特定の解釈を押し付けられ(p.152)」たり、「一方の見解だけを採用し、その結論にそった教育が行われ(p.114)」たりしてきました。

学校と教師は、最終的結論を出したがる。結論を明示しないと教えたことにならないなどと言う人までいる。簡単に決着がつく事柄ならそうしたらよい。しかし、ここで取り上げている事柄はそう簡単に決着はつかない問題であり、その結論は社会的・政治的問題である可能性も高い事柄である。これを行政や学校、教師が結論として提出することは、子供自身が判断する自由権の侵害となる可能性がある。(p.33)

これから求められるのは、児童・生徒一人ひとりが価値判断を下すことができる環境づくりです。

そうではなくて、集められた知やデータから子供たち一人ひとりが結論を出してみたり、複数の結論の前で考え込む経験をつくり出すことが重要なのではないか。そういう役割を果たす時に、教師はウソを教えることから脱出することができる。そこに思慮深い子供を育てる教育活動が生まれているのではないか。(pp.34)

そのためには、教師は児童・生徒の価値判断に十分なデータや材料を用意することが必要でしょう。たとえば、自然に関する授業を行うときでも「人間側」から考える自然(西洋的自然観)に関する文章のみを読ませて価値判断をさせても、児童・生徒の判断は一方に偏ったものとなるかもしれない。むしろ“対立”(この言葉は本書のキーワードの1つだと思うが)を見出させるために両極のデータを提示することが望ましいはずです。そこで、「自然側」から考える自然についても提示することで、対立の構図を学習者に理解させ、判断を行わせるのも良いのではないでしょうか。

本書では原発問題について、従来の教育では1つの考え方に導くような教え方がなされていたことを批判しており、代案として子供たちとともに新たな可能性を探るような授業展開例が示されています。「何ミリシーベルトなら安全だろうか」といった小さな議論ではなく、「原発の功罪を認めたうえで、これからの望ましい在り方は何だろうか」といった建設的な議論を行えるようにデザインされていました。


■ 心にしみる学び


・対象認識と関係認識

学校授業(特に教科教育)の欠点として、「取り上げる事柄が子どもの生活と直ちにかかわりの深い事柄に見えない内容も多い(p.133)」ことがあります。授業ではこう習ったけど、自分には関係のないと思わせてしまえば彼(女)らの深い学びはあまり期待できない。筆者は、「対象認識」「関係認識」という概念を援用して、以下のように心にしみる学びを示しています。

人の認識には、対象認識と関係認識とがある。[...]学びが成立するとは、対象に関する認識を形成することであり、同時に対象と学び手との関係認識を作り出すこと、この二つが生まれることである。 
対象認識は、モノそのものに関する認識だから分かりやすいであろう。 
他方、関係認識とは、その対象と認識主体とのかかわりに関する議論である。(p.123)


言い換えると、対象認識は学習内容のことであり、関係認識とは学習内容と学習者のつながりでしょう。たとえば不定詞の名詞的用法について理解(対象認識)し、「これを使えば将来の夢について語ることができるな(関係認識)」と思うこともあるでしょう。小学四年生の地域学習で宮島杓子の伝統や課題を知り(対象認識)、今後の宮島杓子はどうなるかの評価や宮島杓子の伝統に自分ができることの探求(関係認識)をすることもあるかもしれません。このように、学びにおいては両者が常に存在することになります。

教科におけるよい学びとは、「対象認識と関係認識の二つが必要(p.125)」であり、「関係認識の再編を期待しつつも、それは子どもに委ねることでよい(同頁)」。したがって、対象認識のみでとどまり、学習者にとって必要性や関係性を感じさせなければ無駄な知識ととらえられてしまうかもしれないし、逆に関係認識のみを重視するだけでは知識が身につかない。関係認識を変えようと躍起になると行われがちなのですが、家庭科などで「整理整頓」の学習を終え、「さあ、家でも整理整頓をしましょう」とワークシートを配布して、“無理やり”整理整頓を家で行わせることである。(自分もこのような指導案をつい先日作っていた・・・。)このような学びでは、本当に整理整頓が子どもたちの心に染みついているのだろうか。無理にやらされているのでは、単元終了後には元に戻るかもしれません。

むしろ、整理整頓について学習し、その関係認識形成は子供たちに“任せる”ことで自発的に整理整頓を行うのを待つのも必要なのかもしれません。これが「子どもに委ねる」という意味なのでしょう。


・心に染みるとは?

心に染みるは以下のように定義されます。

心に染みるとは、共感する(反発する)という行為や精神活動として捉えることができる。(p.127)
「私」(教師と子ども)が、対象である他社の中に「私」と「あなた」を見つけ、さらに語りの向う相手(教師は子ども、子どもは教師と他の子どもたち)とを意識化する時である。そんな時に、内的な対話が生まれ、世界を広げながら自己を捉え返す学びとなり、「私」を育てる。(p.128)

では、どのように心に染みる授業が作れるのか。筆者は以下の3点を指摘しています。

(1) ベースとしての真理と事実 
(2) 言葉の意味集め 
(3) 他者の中に自己を見る

先ほどの概念を用いれば、(1)は対象認識、(2)-(3)が関係認識の形成といえるでしょうか。そもそも学びには内容がありますので、(1)で真理・事実を追求します。(当たり前のようですが、ゲーム重視の授業では事実や真理の確認を抜きに「君はどう思う?」と考えさせることがあるのではないでしょうか。)
事実を追求する中で、学習者は「言葉」の意味のあいまいさに気付くはずです。原発であれば「ただちに影響はありません」「想定外」(p.129)といった言葉が多く用いられていましたが、これらの言葉は発話者・受け手によって意味が異なるかもしれません。

私たちは、だから、言葉の意味について事実を確かめ合うこと、どのような意味で理解しあっているのかを互いに確認し合う方法に熟知する必要がある。念のために述べれば、言葉の意味を確かめ合うとは、辞書を調べることを意味しない。自分たちにとっての言葉の意味を探すということだ。[...] 
言葉には、①言語記号の表層の語義と②語義に対応する現実・事実があり、③その発話行為によって生まれる社会的機能がある。電力不足という記号の場合、①電力が足りないという語義と、②足りない現実があるかどうかがまず問題となる。次に、その言葉を発することによって、③原発が必要だと思わせたいという社会的機能があるかもしれないということだ。(p.129-130)

先ほどの「ただちに影響がありません」も、「安心しろよ」というメッセージなのか、「ただちに、ではないということは、いずれ影響があるのか」という暗示なのか、学習者によって受け取り方も様々です。これらの「自分たちにとっての言葉の意味を探す」という作業を行い、各自の意見を交流することこそが、「言葉の意味集め」に他なりません。

(3)の「他者の中に自己を見る」は、言葉の意味集めの最中に起こりうるもので、各々にとっての言葉の「意味」を交流する過程で、他者の意見に共感しあったり反対したりすることを指します。意見交流や感想文作成などが具体的にあげられますが、相手の意見を知る・聞くだけでなく、「この人はこう考えているんだ。自分もそう思う」といった自分自身の考えも確認しながら聴くことで成立します。

(1)-(3)を通じて、児童は「ただ単に原発について学んだ(対象認識のみの学び)」段階から、「原発は~~~だと思う(対象認識+関係認識における学び)」へと深化させていくのでしょう。 




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確かに、社会教育の原理が示されており、本書通じて原発に関する教育の見直しがされていますが、その根底には「決まった答え1つのみではなく多様性を認める教育」や「子ども自身が学習内容との関連を見出す」という哲学があるのだと思い、それは他の教科にも当然いえることなのだと思います。

改めて、他教科から学ぶ意義を思い知りました。

さらに、今日のリスク社会において、これまでは考慮されなかった軸で授業作りについて考える必要も今後はあるのかもしれません。大切なのは児童生徒に判断させること、と本書では述べられていましたが、これは推論発問・評価発問という名目で生徒の意見を引き出す英語教育にも他人事ではないのかもしれません。知らず知らずのうちに教師が用いる教材や、発問の仕方1つを取っても彼らの考え方に影響を与えるかもしれないし、特定の解釈を押し付ける教育をしているかもしれません。そういった意味で英語科が本書から学ぶ点は以下にあると思います。
(あくまで英語リーディングに限定しています。)

・生徒が題材に対して判断をする機会を与える。
・特定の解釈を押し付けないで自由な回答をさせる。
・多くの教材に見られる「政治性」を教師が見抜き、授業づくりの際に考慮する。(どう考慮するかについては、今の段階では答えが出ていません。)

また、フレイレの識字教育、海辺のカフカや暗夜行路の解釈など、興味深い話題も載っていて、それらについてものちのち調べてみたいな、と思いました。(海辺のカフカの議論は数ページでしたが、解釈の相違に関する絶好の例だと思います。そういった意味では以下の書籍は、絶対に面白いだろうなと思います。)

村上春樹論 『海辺のカフカ』を精読する (平凡社新書)
村上春樹論 『海辺のカフカ』を精読する (平凡社新書)小森 陽一

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いつもながら、まとまりのない記事となってしまい恐縮です。

さて、あと少しの夏休みをエンジョイしましょうかね(^^)♪♪ご機嫌よう~!

2013年9月22日日曜日

クワス算とは?―クリプキの議論から―



クリプキの名前はウィトゲンシュタイン関連の本でよく引用されており、知ってはいるという程度でした。本書は自分のような入門レベルにもわかるように平易な語り口を使いつつ、私たちが普段「意味」と思っているものはどれだけ不安定なものかを考えさせます。

クリプキという哲学者について先に簡単に紹介しておきます。飯田氏は彼のことを以下のように評しています。

クリプキというひとは、何か自分の哲学というものをひとつもっていて、それを体系的に展開するというタイプの哲学者ではないという印象が、私にはある。このひとはむしろ、その時々の興味にしたがってある問題を取り上げ、それについていちおうの結論が得られたならば、またつぎの問題に進んでいくというタイプの哲学者なのではないかと思うのである。(p.123)

これに当てはめるならば、本書では主にクリプキがウィトゲンシュタインの論考に関する興味から独自の解釈を発展させた経緯・原理が示されています。以下は自分の中途半端な理解と解釈によるまとめなので、分かりづらいかもしれませんが、主に第2章のクワス算の概要とそれに対する自分の考えを示すことで、クリプキの議論の一部が紹介できれば幸いです。


■ 私たちがこれまで「足し算」だと思っていたものは…。


まずは以下の数式をご覧いただきたい。

(1) 3 + 8 = ?

この式に対する答えは11になります。ちょうど算数を学んでいる途中の小学生にも同じ答えが出せるはずです。しかし、その小学生が計算ドリルなどで足した最大の数が「56」であるとします。ゆえに、

(2) 25 + 56 = ?

に対しても同じように計算をし、81を出します。


では、その小学生と以下のやり取りをしたとしましょう。

私「これまで君は足し算を学んできたね。(1)の式も(2)の式も答えが出せたし、しっかり理解できているようだ。」
小「もちろん。足し算は得意だからね。」
私「では、次の式はどうだろうか。

(3) 68 + 57 = ?

どうだい?」
小「楽チンだ。125だ!」
私「それは違う。答えは5だ。」
小「えっ?」


ここまで読まれた方は、私と小学生のどちらが正しいかと言われたら「小学生」と答えるのではないでしょうか。しかし、以下を続けてお読みください。


私「君はこれまで足す数が56を超えるまでの"+"を用いた計算を行ってきた。それは、君が呼ぶ足し算のやり方で答えられた。しかし、君がこれまでプラスだと思い込んでいたものは、実はクワスという記号なんだ。クワス算は以下のように行われる。」

・条件①:x, yのどちらも56以下の時、x+y=xとyの和
・条件②:①以外の時、x+y=5

小「そんな・・・。」
私「(3)の式は条件②にあてはまるから、x+y=5となる。」
小「・・・。」


ここまでが、クリプキのクワス算の考え方です(ただし会話形式にしてはありますが。)ウィトゲンシュタインの数列のパラドックスと似ている部分があるのは、「『哲学探究』のこの部分(数列のパラドックス)にクリプキは自身の議論の材料を求めているから(p.109)」のようです。。

さて、ここから小学生はどのように私に向かって言ってくるでしょうか。予想される反応を考えてみましょうか。

・「クワス算なんてないよ。僕がこれまでやってきたのは足し算だ。」

まずはこの反論が考えられます。しかし、それに対してはクリプキはこのような問いを立てると述べています。

私がこれまで「+」で+のことを意味してきたということを、どうして私は知っているのか。

といった問いとして現れる。こうした疑いは、つぎのような懐疑的仮説を斥けることができるかという形で提起される。

私はこれまで「+」でクワスのことを意味してきた。

つまり、これが誤りであることを立証できない限り、私がこれまで「+」で+のことを意味してきたということを私が知っているとは言えない(pp.43-44一部改:「グル―」についての例を省略しました。)

ここで懐疑的仮説という言葉がでてきましたので、少し説明を付け加えます。

懐疑論はしばしば「懐疑的仮説」と呼ばれるものの助けを借りて述べられる。哲学史上有名ないくつかの懐疑的仮説がある。もっとも有名なのは、デカルトの「夢の懐疑」である。私はいま夢を見ているという想定が正しいならば、私がいま目にしているもの、私がいま触れているものすべてが本当ではないということがありうる。たとえば、私はいま自分が靴をはいているということは、あまりありそうにないことである。したがって、もしも自分がいま夢を見ているという可能性を私が排除できない限り、いま自分が靴をはいていることを知っていると言う権利は私にはない。このように、懐疑的仮説とは、それを斥けることができない限り、自分が当然知っていると思ってきた事柄をわれわれは実は知っていないと結論せざるをえないような想定のことである。(pp.41-42)

さきほどの小学生は「僕がこれまでやってきたのは足し算」と言いますが、彼は「自分がこれまで+でクワスを意味してきた」という懐疑的仮説を斥けることはできるのでしょうか。

本書の第二章はどのように反論するか、それに対してさらに反駁する方法は何か、という点について語られています。これについては長く、また複雑であるため省略しますが、その小学生には反駁は不可能であることが丁寧に示されています。(この部分が複雑ですが、重要なのは以下の点かと思います。)



■ クリプキの議論によって示される点


クリプキの比喩によって、まずは私たちが「絶対」と思い込んでいるものを疑う姿勢の必要性が示され、懐疑的思考について学ぶことができます。しかし、クリプキがより強調したかった点はおそらく、私たちが概念上持たないものについて証明することはできない、という点ではないでしょうか。
クワス算でも、「私たちがプラスだと思っていた演算記号がクワスだったということについて、反証は不可能でした。ならば、「私たちがふだん青だと思っていたものは、実はグル―だった」に対しても反証することはできません。極端に言えば、私たちがパソコンとして目に見えているものは、目に見えていない間はお化けの形をしている、ということに対してもどのように反駁するのでしょうか。
このような例から、自分たちの持つ概念の「限定範囲」というものが浮かび上がるのではないか、というのが自分が読んだ感想です。


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まだまだ理解していない点もあり、誤った解釈もあるかと思いますので、お気づきの方はご指摘・ご批判いただければ幸いです。

2013年9月16日月曜日

泉谷閑示 (2013)『反教育論-猿の思考から超猿の思考へ-』(第1章)真の思考力とは?



これから数回にわたって、『反教育論-猿の思考から超猿の思考へ-』をまとめていきたいと思います。
本書は大学の授業で紹介され、興味は持っていたもののまだ読んでいませんでした。しかし、学校教育の課題がとても分析的にまとめられており、教育のみならず社会が抱える問題点も浮かび上がっています。

本稿では、学校教育での記憶力偏重主義の指摘・真の思考力の定義をまとめていきます。(本書では第一章に該当します。お持ちの方はぜひご参照ください。)


反教育論 猿の思考から超猿の思考へ (講談社現代新書)
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■ 記憶力を重視しすぎている今日の教育


学校教育で行われるペーパーテストでは記憶力を確認するものが多くなる傾向にあります。その波及効果(テストにより教育内容・方法に影響が出る効果)によって、カリキュラムを通しても記憶力重視となります。

学習心理学では記憶力に「流動性能力」「結晶性能力」という分類がなされます。流動性能力は年齢とともに落ちてしまう正確な記憶力を指し、結晶性能力とは年齢を積み重ねてもより磨きがかかる類であいまいさや柔軟性に富んだ経験記憶を指します。これら両者について、泉谷氏は以下のように述べている。

今日の社会において、入試や資格試験など多くの場面で試されているものは、このいわば知性の原始的な側面である「流動性能力」にひたすら偏ってしまっているのが実情である。私自身の経験から思い起こしてみても、大学入試でも医師国家試験においても試されるのは知識や解法パターンの暗記力であり、「バカになったつもり」で本来の思考力や懐疑的誓信を停止させ、膨大な丸暗記をしなければクリアできない類のものであった。もちろん、そんなふうにして詰め込んだ知識などはすぐに消失してしまって、のちのち何の役にも立たなかったことは言うまでもない。(p.23)

これによって、全国規模で暗記が得意でも思考が苦手な「思考停止人間」が増えていると述べられており(p.24)、大学入試を経た自分も思い当たりが山ほどあります。特に歴史などは自分の身にならなかったと反省しています。周りの友人にも英単語は受験当時は5000語とか覚えていたけど、大学に入って全く思い出せないという人が多いです。大学入試に小論文や面接を重視すべきだ、と短絡的に主張するわけではありませんが、「結晶性能力」を考慮するような方法を模索する必要があります。

流動性能力を極端に重視する今日、暗記型試験をクリアしさえすれば望みの職業に就けるため、「他者感覚」や共感能力に障害をかかえた人が教育や医療、法曹関係の職業につくことも多く現場でトラブルが生ずるリスクが増えているようです。(p.27)現に教員採用試験でも面接や小論文などの課題はありますが、一次試験では多くの県がペーパーテスト(一般教養や教職教養)を課しています。これにより教育現場に他者感覚が低い方が入る可能性も高くなります。
もちろん教職に求められる能力はたくさんあると思います。専門知識、教授法の理論・実践、経験、人生観・・・しかし、生身の人間を相手にする職業とあっては共感的理解などが重要であることは言うまでもありません。(自分にとっては耳の痛い言葉ですが…笑)


■ 「考える」とは?


以前、ちくま書房の数学的思考のレッスンの記事でもまとめましたが、「考える」という言葉も曖昧なもので、その下位構成要素が何かを考えることは必要でしょう。以下の3点にまとめてみたいと思います。

・懐疑的精神
ある既存の考えを示された時に、まずは「本当にそうだろうか?」と疑うことからはじめる、ということである。これは、そもそも人間の自我の本性にかなった性質でもある。(p.28)


・即興性
即興性とは、人間の「心=身体」側に備えられている野性的英知である。しかしやっかいなことに、進化上では後から登場した「頭」という理性システムによって「心=身体」自体が劣ったものと見なされ、その特質である即興性までもが軽視されてしまった。(p.39)

つまり真の思考とは、何が起こるかわからない不安に備えてあらかじめ準備を行ったり「想定」したりするのではなく、何が起ころうとも瞬時に最良の方策を導き出せるような、即興性に満ちた「生きた」思考のことなのである。(p.42)


※即興性という要素に関する論考としては、「伝わらないことから-コミュニケーション能力とは-」も優れていると思います。特に「目標・ねらい」を第一とし、それを達成するための手立てを教師が行うという考えが強い今こそ、“ランダム”の持つ意味を考えることも大事だと思います。興味のある方はそちらもご参照ください。


・好奇心

好奇心が思考か?と問われると困りますが、明らかに泉谷氏は好奇心も思考にとって重要な部分としています。(思考に含める、というよりも思考へと方向付ける動機のようなものととらえるのが良いかと私は思います。)

未知の対象について、それが何ものであるか知りたい、把握し掌握したいという好奇心こそが、対象物を観察したりそれについて思考を巡らす基本動機となる。好奇心は、未知なるものを未知のままにしておくことを嫌う。それゆえ、好奇心に動機づけられた思考は、ブラックボックスをブラックボックスのままに受け入れることを不快に感じるものだ。(pp.42-43)

このように真の思考にとって重要な要素を懐疑的精神、即興性、好奇心としてきましたが、「真の思考とは何か」という章題でもある質問に答えるとしたら、「好奇心を持った上で懐疑的精神を働かせながら既存のものを疑ったり、未知なるものに対して瞬時に最良の方策を導き出したりすること」とでも答えられるでしょうか。
これをよく示す例として、マニュアルの存在を示しています。マニュアルにそって仕事をすることには上で定義づけた思考はあまり必要ありません。したがって、真の思考はマニュアルを離れた「アンチ・マニュアル」の環境ではぐくまれるのでしょう。

マニュアルにはもちろんすぐれた部分はありますし、以前紹介した三田氏の『個性を捨てろ!型にはまれ』ではマニュアルの正当性が論じられていました。しかし、解き方が定まっていないような状態でこそ、考える必要が出るわけで、そういった意味では「総合的な学習の時間」やイベント運営(特別活動)などのカリキュラム上の意義があるのかな、と思いました。

■ 感想~「考える」「思考力」が呪文的に用いられている今日の学校~


ここまでを読んだ感想をまとめたいと思います。


「考えなさい」「考えればわかるでしょ」のように、「考える」は教育現場では多く用いられるマジックワードになりつつあるのではないでしょうか。「思考・判断・表現」が文科省から出され、考えさせることの重要性が広まっているのでしょうが、「考える」が何かについては経験的に理解されているにすぎないのではないでしょうか。子どもとしても「考える」という実態のわからないものを強制されればストレスも高まる気がします。したがって「考える」とは何か、その言葉によって何を意味しているのかを振り返る必要があると思われます。

また、子どもが「考える」ことができるように、教師としては、①子どもの好奇心を刺激するような導入、②即興性を重視した柔軟な授業構成、③資料や教科書などを疑うことの重要性を伝えるなどが授業中には可能かと思います。(授業時間外にはこれらを心がければより多くの働きかけも可能だと思います。)

特に①・②については、授業をしながら生徒の声(つぶやき)を拾いつつ、計画から多少はずれてでも彼らの興味にそった展開をすることも良いのではないでしょうか。これは指導案や細案から外れるために教師としても不安でしょうが、オンラインでの教育が広まる中で教室に教師がいる意義として子どもの声を拾って展開することはリアルタイムの授業の重要資源の一つのはずです。

と、偉そうには言ってみたものの、そのような力は自分には全くありません。残念。日々精進していきたいですね(苦笑)


平田オリザ(2012)『わかりあえないことから—コミュニケーション能力とは何か—』講談社現代新書

コミュニケーション能力論は、昨年度「コミュニケーション能力と英語教育」という学部での授業を受けて以来興味がある分野でした。
本書の存在も知ってはいたのですが、いざ読もうとなるまで長くかかってしまいました(反省)。
読み始めると、塾講師としての経験や他の教育批評書と関連する部分が多く、様々な考えを巡らせながら読むことができました。特に、以下で示すダブルバインドやランダムのプログラミングはとても鋭い指摘だと思い、一種の感動を覚えました。

以下は自分が特に重要と思う部分をまとめたものですが、いつも通り拙い説明ですので、興味を持たれた方はぜひ本をお読みください。また、ブログ記事に関するご指摘・ご質問などは歓迎しておりますので、コメント欄までどうぞお気軽にお寄せください。



わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か (講談社現代新書 2177)
わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か (講談社現代新書 2177)平田 オリザ

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■ コミュニケーション能力のタブルバインド


今日コミュニケーション能力が求められることに多くの人が同意するでしょう。しかし、コミュニケーション能力とは何かについて共通の理解がないために、議論が進まないという現実もあります。

平田氏は今日求められるコミュニケーション能力には2つの基準があり、若者たちはダブルバインドに苦しめられていると指摘します。

結論から先に行ってしまえば、いま、企業が求めるコミュニケーション能力は、完全にダブルバインド(二重拘束)の状態にある。
ダブルバインドとは、簡単に言えば二つの矛盾したコマンド(特に否定的なコマンド)が強制されている状態をいう。[...]現在、表向き、企業が新入社員に要求するコミュニケーション能力は、「グローバル・コミュニケーション・スキル」=「異文化理解能力」である。[...]しかし、実は、日本企業は人事採用にあたって、自分たちも気が付かないうちに、もう一つの能力を学生たちに求めている。あるいはそのまったく別の能力は、採用にあたってというよりも、その後の社員教育、もしくは現場での職務の中で、無意識に若者たちに要求されてくる。
日本企業の中で求められているもう一つの能力とは、「上司の意図を察して機敏に行動する」「会議の空気を読んで反対意見は言わない」「輪を乱さない」といった日本社会における従来型のコミュニケーション能力だ。(pp.16-17)

氏の定義では「異文化理解能力」は「異なる文化、異なる価値観を持った人に対しても、きちんと自分の主張を伝えることができる。文化的な背景の違う人の意見も、その背景(コンテクスト)を理解し、時間をかけて説得・納得し、妥協点を見出すことができる。そして、そのような能力を以て、グローバルな経済環境でも、ぞんぶんに力を発揮できる。(p.16)」ような能力です。現に学校現場でも「さぁ、自分の思ったことを発表してみましょう」といった声かけはなされているように、「自分の考えを相手に伝える」ことが異文化理解能力です。

それに対して、日本では相手への思いやりが必要不可欠で、時には自分の意見を出すのを留めて全体の調和を目指す風潮があり、これが後者の「日本社会における従来型のコミュニケーション能力」です。

これら2つが同じように重視されていたとしたら、子どもたちはどのようにふるまえばよいのでしょうか。ある時は「思ったことははっきり言いなさい」と言われ、また別の時には「周りのことを考えて今は黙っておきなさい」という雰囲気を出される。相反する二つの要求をうまくやりすごす子たちは大丈夫でしょうが、「ダブルバインドが繰り返されれば、それが統合失調症や引きこもりの原因となる(p.19)」と氏は述べています。このような文化的背景にも不登校のような現象の理由が隠れているのかもしれません。

このような現状に対して、教育者はどのような対応が求められるのでしょうか。難しい問ですが、本書の末尾では「ダブルバインドをダブルバインドとして受け入れ、そこから出発した方がいい。(p.149)」とあり、今後むしろどのようにしてダブルバインドの中で生き抜く子に育てるかという点に課題を焦点化しています。

ちなみに、中原徹氏の『国際的日本人が生まれる教室』にも同趣旨の記述が見られますので、引用しておきます。彼がアメリカのロー・スクールへ留学していたときに感じたアメリカのスタンダードと日本のスタンダードについてです。

米国で米国人と議論をする際には、どんどん意見を交換します。日本人から見ると、邪悪な雰囲気の中、喧嘩をしているように感じるほどです。しかし、米国では、これが適度な議論の雰囲気であり、最後に多数決を通じてか、またはリーダー(意思決定者)が意思決定をすれば、それで議論は終わりです。[...]反対に、日本では、すべての人が相手を気遣っていますので、相手を気遣わずに自分の意見をぶつけ過ぎると、気配りのできない人間とみなされ、意見が採用されないどころか、人格的にも疑問符をつけられかねません。それぞれが自分の主張を明確にし、常に会議ではっきりとした結論を出して終わるというよりは、一定の方向性の空気を作り、全員一致に持っていく努力をします。
私個人の意見としては、どちらが正しいというよりも、場面に応じて両者のバランスを取ることが大切であると思います。(p.44)

現に世界で活躍されていた中原氏がこのように感じていることからも、日本とアメリカにはスタンダードの違いあるのがわかります。さらにアメリカ式が世界では標準的であることも併せて述べています。

したがって日本の学校教育では、世界規模で使用範囲の広い米国式スタンダード(平田氏の「異文化理解能力」に相当)を体得させるべきと論じています。(中原氏の実践や教育哲学はうなずける部分も多く、ひとえにTOEFL賛成派としてくくるのは乱暴だと感じました。機会があれば、本書に関するレビューも掲載したく考えております。小学校英語や大学入試TOEFL導入へ興味をお持ちの方は、どうぞ本書もお読みください。)

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■ コミュニケーション教育の際に気を付けるべきこと


このような背景があり、全国各地の学校でコミュニケ―ションの取り方の練習が行われています。英語科でも1分間スピーチやディベートなどのよりコミュニケーション的な活動が多く取り入れられています。
そのような中で気をつけるべきと指摘されている点を3つにまとめます。

・伝えたいという気持ち

「では1分間スピーチをしましょう。最近のマイブームについて。どうぞ」と教師が放り投げて、子どもたちがしどろもどろする姿を見ているという光景。英語の授業でよくありそうですが、そこに「伝えたいという気持ち」がなければ「伝える技術」は身につきません。
現に毎日顔を合わせている生徒たちが、今更授業の時間でみんなの前でマイブームについて話さなくても、ほとんどの人たちは知っているわけです。
では、どのようにしたら「伝えたい」という気持ちを持つのでしょうか。平田氏はここで「伝わらない経験」の必要性を説きます。

表現とは、他者を必要とする。しかし、教室には他者はいない。
わかりあう、察しあうといった温室の中のコミュニケーションで育てられながら、高校、大学、あるいは私の勤務先のように大学院性になってから、さらには企業に入ってから、突然、やれ異文化コミュニケーションだ、グローバルスタンダードの説明責任だと追い立てられる。[...]
今の子供たちには、この「伝わらない」という経験が、決定的に不足しているのだ。[...]おそらく、一番いいのは体験教育だ。障碍者施設や高齢者施設を訪問したり、ボランティアやインターンシップ制度を充実させる。あるいは外国人とコミュニケーションをとる機会を格段に増やしていく。とにかく、自分と価値観やライフスタイルの違う「他者」と接触する機会を、シャワーを浴びるように増やしていかなければならない。(pp.24-26)

さらに、氏は「演劇」が大きな役割を果たすと期待しています。私自身の経験していますが、演劇では自分が自分である必要がなく、筆者の言葉を借りれば「常に他者を演じることができる(p.26)」わけです。よって、他者がいない教室環境から、人為的に「他者」をつくり出すことが可能となり、伝わらない経験、伝えたいという気持ちが生まれます。


・コミュニケーションは人格教育ではない。

本書を読んでいて、「おとなしい子たちはどうすればよいのだろう」と思いました。現に大学での話し合いの授業でも、おとなしい子たちは頭の中で思考を深めていてもそれを周りに出しません。これが小学校や中学校の段階では、「将来就職で不利になってしまうし発表させたいけれど、その子に表現を押し付けるのも悩ましい」と考えてしまいそうです。
現に氏も同様の質問を受けたことがあるそうですが、以下のように答えたそうです。

世間でコミュニケーション能力と呼ばれるものの大半は、スキルやマナーの問題と捉えて解決できる。だとすればそれは、教育可能な事柄となる。
そう考えていけば、「理科の苦手な子」「音楽の苦手な子」と同じレベルで、「コミュニケーションの苦手な子」というとらえ方もできるはずだ。そして「苦手科目の克服」ということなら、どんな子どもでも、あるいはどんな教師でも、普通に取り組んでいる課題であって、それほど深刻に考える必要はない。
コミュニケーション教育は、ペラペラと口のうまい子どもを作る教育ではない。口べたな子でも、現代社会で生きていくための最低限の能力を身に着けさせるための教育だ。
口べたな子どもが、人格に問題があるわけでもない。だから、そういう子どもは、あと少しだけ、はっきりとものが言えるようにしてあげればいい。
コミュニケーション教育に、過度な期待をしてはならない。その程度のものだ。その程度のものであることが重要だ。(pp.30-32)

コミュニケーションができないからといって、その子の人格まで否定するわけではありません。あくまで技能の一つとみなし、気長に教育すべきではないかというものです。

※友人とこの部分について話した時、「コミュニケーション」を「理科」や「音楽」と同等に扱うことに疑問を感じました。アナロジーとしてはわかりやすいのですが、「なるほど!音楽の感性とコミュニケーションは同じ程度でよいのか」と合点しても良さそうですが、現に氏が前半述べたようにコミュニケーション能力が今日重視されていることを鑑みれば、やはりこの書き方は誤解を招きそうだと思いました。(本書を読んだ際の唯一の疑問点でした。自分の解釈へのご指摘ありましたらコメント欄へお願いします。)


・発表のみならず、理解面も―弱者のコンテクストを理解する能力

上までは発表面でのコミュニケーション能力が論じられてきましたが、もちろん理解面もあります。氏はリーダーに求められる能力の一つに、弱者のコンテクストを理解する能力を挙げています。

社会的弱者は、何らかの理由で、理路整然と気持ちを伝えることができないケースが多い。いや、理路整然と伝えられる立場にあるなら、その人は、たいていの場合、もはや社会的弱者ではない。
社会的弱者と言語的弱者は、ほぼ等しい。私は、自分が担当する学生たちには、論理的にしゃべる能力を身につけるよりも、論理的にしゃべれない立場の人びとの気持ちをくみ取れる人間になってもらいたいと願っている。(p.183)

ここでいう「弱者」とは具体的には誰を指すのでしょう。例えば子どもたちは論理的思考力が発達していません。外国人で日本語をまだ使いこなせない状態であれば、こちらから相手が何を言おうとしているか汲もうとする必要があります。
これは、明らかに日本従来式のコミュニケーションなのだろうと思います。英語は書き手責任の言語で、言い手がわかりづらい表現を使えば発信者の責任になりますが、日本語は確かに読み手責任であるため、文章の読み手や聞き手も想像力を働かせて相手が何を言おうとしているのかを考える必要はあります。
先程のダブルスタンダードも、このような言語的特性が影響しているのかもしれません。


つらつらと述べてきましたが、他にも「対話と対論の違い」「冗長率の操作」といった重要概念も本書では紹介されます。これらを踏まえた上でコミュニケーション教育に取り組む必要があるのでしょう。

(平田氏は特に演劇に力点を置いて後半議論していますが、より一般的に気を付けることという旨でまとめているため、演劇関連の話題は書けませんでした。氏の主張を正確に理解するためには、ぜひ本書をお読みください。)


■ ランダムをプログラム(教育界への示唆)


最後に、話をコミュニケーションに限定せず、教育界にとって重要と思われる示唆を1点紹介したいと思います。

『反教育論』(1)の記事でも紹介した通り、現在は流動性知能(正確な知識)を試験では重視します。「流動」という言葉が意味する通り、この類の知識は「短期的な記憶」とも言えます。氏もこれを問題視しており、「たくさん覚える」「早く覚える」教育から「よく覚える」という教育への転換を主張しています。

以前、小学校理科のブログ記事で自分が「対流」という概念をアイスコーヒーとミルクが勝手に混ざる様子から覚えたという話をしましたが、これも「よく覚える」の例ではないでしょうか。小学校理科の用語を用いれば「原体験」を重視した教育です。氏もこのような体験型の教育に同意していますが、その問題点も以下のように挙げています。

だが、こういった教育方法には、当然落とし穴もある。
教える側には、なんだかんだと言っても、発達段階に応じて教えておかなければならない知識や技術というものがある。しかし、こういった体験重視の教育では、教え漏れや遅滞が起こる可能性が高い。
せっかくキャンプ場で星座の名前を教えようと思っていても、空が曇ってしまっては台無しだ。
こういった体験型、双方向型、ワークショップ型の授業のファシリテーター(先導役)を志す学生たちには、「一回のワークショップで教えなければならないことなど、何もない」と教えている。そのくらいの覚悟がないと、自分の作ったプログラムに縛られて、「あれも教えなきゃ、これも教えなきゃ」と焦ってしまうのだ。ワークショップでは、子どもの反応に応じて、柔軟にプログラムを変えながら、「あ、ここではこれが伝えられた」という程度でかまわない。(pp.72-73)

偶然性を授業に取り入れるのは、ライブ感が出て盛り上がるし、児童生徒の素朴な疑問から授業展開ができるため、より充実したものになるかもしれません。しかし、偶然性にあまりに左右されすぎると、本来教師がねらいとして定めた部分が教えられない危険も出てきます。

自分も塾などで授業を行う場合は、できるだけねらいは持っていますが、その場で出された質問などはできる限り拾って膨らませようと心がけます。(もちろんうまくいかないことがほとんどですが、)そのような回では生徒さんも納得してくださっていることが多いように思えます。

授業にランダムをプログラミングするには、教師自身の腕も必要になりますが、これからますますこのような授業づくりが求められるようになるでしょう。(自分はまだまだできていないので、今後も頑張らなければ・・・)



■ 感想


非常に面白く読みました。コミュニケーション教育に携わる英語科の自分であれば、このようなことは意識しておくべきだと思います。例えば、言語活動を行う前に「児童生徒は本当に伝えたいと思っているのだろうか」と内省してみることも、技能を磨くうえでは必須なのでしょう。
特に最後の「ランダムのプログラミング」は今後の自分の授業実践の課題ととらえて、精進していきたいです。(ただし、急に児童生徒に任せるのでは向こうも困ってしまうと思うので、まずは教師として一人前に説明・主導できるようになるのが先ではないかと個人的には思いますが、同時に伸ばすことが不可能だとも思わないので、今後も意識していければ良いです。)

また演劇に関する氏の論考も興味深かったので、引き続き以下の著書などを読めればと考えています。


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