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2013年11月30日土曜日

訳と言語教育:Juliane House(2009) "Translation" (Oxford)を読む(3) :Chapter 5

mochiです。

今週は学部の後輩への進路説明会やフリースクールでの英語講座、サークルでお世話になっている学園の文化祭など、イベントがたくさんありました。文化祭ではダンスに参加させてもらいましたが、若々しい後輩たちと同じステージに立ったということで、次の日は筋肉痛に悩まされました。やはり年はとっていくもののようで・・・。



さて、今回の章は言語教育と訳に関するもので、訳反対派と賛成派の両方から言語教育における訳の役割を考察していきます。

※ 本章で用いられているtranslationは「翻訳」までいかない「訳」程度なのかもしれません。Houseは本書ではtranslationの定義をJakobsonのintralingual translationを用いているため、厳密に翻訳と訳の区別を行っておらず、以下に示すのは「訳の教育学的使用」であって、「翻訳の教育学的使用」とまでとらえないほうが良いと思われます。



本記事はJuliane Houseの"Translation"のまとめ記事です。
他のChapterについては、以下の記事をご覧ください。


Arguments against translation(訳反対派の議論)


■ 改革運動による訳への攻撃
These uses of translation provoked fierce opposition in the latter half of the nineteenth century by members of the so-called Reform Movement, a group of language teaching theorists who advocated a less formalized and teaching. (p.60)

もともとは訳読式教授法(Grammar-Translation Methods)によってラテン語教授が行われており、日本でも変則式教授が行われておりました。しかし1850-60年頃の「改革運動(Reform Movement)」によって、書き言葉のみならず話し言葉の言語教育を進めたり、人工的文法規則の例示から意味の繋がった文章の使用へと転じたりしてきた。これにともない、訳というものも改革運動から攻撃を受けることになった。

■ 2方向の翻訳: どちらも反対されてきた。
(1) Translation into the foreign language(例:日英翻訳)
自然な言語習得が進むのが妨げられたり、不自然に母語が媒介することで外国語の使用がだめになってしまう。

(2) Translation into the mother language(例:英日翻訳)
学習者が母語を使うと干渉(interference)が起きてしまい、外国語が頭の中に入って混乱してしまう。また、語や句の意味説明の手段として日本語で説明すると、受動的な知識となってしまい、能動的には用いなくなると考えられていた。さらに、言語間に「1対1の関係(one-to-one correspondence)」があると思わせてしまう。

※ただしどちらも実証的に示されているわけではない。

■ bilingualism
二言語併用には、compound bilingualism ( 複合二カ国語併用)とcoordinate bilingualism(等位二カ国語併用)がある。前者は母語と外国語それぞれの語彙が一緒に頭の中に入っているとする立場であり、後者は別々に頭の中に入っているととらえている。

この区別に関して、以下の記述がある。
A further opposition to translation was based on the belief that it produced the ‘wrong’ kind of bilingualism: compound rather than coordinate bilingualism.(p.61)

訳を行うことで、等位二ヶ国語併用よりも複合二ヶ国語併用になってしまうと考えられ、訳はより非難を受けた。ここには "Think in English"のように、英語で考えて話すというnative-likeを理想とする考えが隠れているように思える。


Arguments for translation(訳賛成派の議論)


ここでは、先ほどとは逆に訳擁護派の意見を紹介していく。

大前提としては、先ほどと異なりcoordinate bilingualismを良しとしている。

■ 言語学習はバイリンガル化
If the foreign language is viewed as co-existing bilingually with the L1 in the minds of language learners, then language learning becomes a ‘bilingualization process’, i.e. a process promoting bilingualism. (p.63)

→言語学習の目標を「英語ペラペラ」とするか、「英語も日本語も」とするかによって、訳の効用は大きく変わるようである。そんな中、multilingualismやmulticultualismは、外国語学習の意義に影響を与えないだろうか。

■ 訳の効用
本文では、以下の点が挙げられています。すこし長くなりますが、それぞれに具体例や私自身の経験を当てはめながら説明していきます。

(1) 訳で言語項目の意味を説明し、正確さを高めて熟達度を高める

たとえば「英語は英語で」に従って、ある単語の意味を英語で説明したとしましょう。 "This is a cloth usually hung by the window. You usually have this in your house. This word starts with c. Can you guess what it is?"これに対して「カーテン」と分かれば良いのですが、分からなければいつまでたってもこの単語の意味が分かりません。(curtainはカタカナでも用いられていますが...)

むしろ「curtainはカーテンのこと」と簡潔に意味を説明したほうが、効率的に意味を知ることができ、結果的に正確さが高まるのではないでしょうか。


(2) 外国語の“奇妙さ”を下げるという心理的効果

小学校の外国語活動の授業を観察する機会がありました。児童は楽しそうに歌を歌ったりゲームをしたりしているのですが、ALT(Assistant Language Teacher)が英語で少し長めに話すと、「は?何言っとん?」「分からんし」といった反応が返ってくることもあります。

「分からない」というのは児童にとってstressfulな体験で、これが高まると「英語(外国語)は嫌だ」という気持ちにつながってしまうかもしれません。(もちろん外国語活動という領域上、相手の言っていることを分かろうとする姿勢も身に付けさせるべきなのでしょうが...)

先ほどの授業の場合は、日本人のHRT(Home Room Teacher)が「今のは...と言っていたんだよ」と一言言えば、子どもたちも安心できると思います。

現に、昨日英会話教室で小学生とネイティブの先生の授業をみていましたが、先生が"always means 100 %. Judy always plays tennis every Friday."といったとき、ほとんどの子はちんぷんかんぷんといった感じでした。しかしある女の子が「今のは、テニスを毎週金曜日に100%するって言ったんだよ」とみんなに教えました。すると他の子たちも元気を取り戻して「え、誰がテニスをしたの?」「100%するってどういうこと?」と再び授業に参加できていました。このように“たまに”訳を用いることで心理的な不安が取り除かれるのではないでしょうか。
(もちろん訳をいちいちしていたら誰も英語を聞かなくなってしまうので、タイミングが大事なのでしょうが。)


(3) 様々な言語のレベルで言語の共通点・相違点を内省する機会を多く作れるので、翻訳は言語意識をあげるきっかけとして働きうる。

Translation can act as a trigger for raising awareness of language because it creates many opportunities for reflection on contrasts and similarities between languages at various linguistic levels. (p.64)

翻訳をすることで言語意識があがるのではないかという論点です。以下の点については、「等価と翻訳可能性: Juliane House(2009) "Translation"(Oxford)を読む(2): Chapter3」で述べております。

The very limits of translatability can draw attention to linguistic contrasts and similarities, and to the context- and culture-dependent nature of meaning. (p.64)

そういえば前回の記事を書いて以来、フリースクールのボランティアや英会話教室などで翻訳タスクをたまに行っています。そこで以前紹介した " You have written "skill" with a "c" again, instead of a "k""を訳させてみるのですが
、十人十色の解答がでてきてとても面白く思っております。ただ、英文自体が理解できないと翻訳のしようもないので、難易度の統制は必要だと実感しております。(先ほどの文では、instead of やagainが正しく意味が分かっていないと、訳しようもないですね。)


(4) 異文化間理解を促進する。

たとえば、"Don't Sleep, There Are Snakes"という文はどう訳すのでしょうか。「寝るな、ヘビがいるぞ」でしょうか。

実はこれはアマゾンのジャングルに住む人々が使うピダハンという言語では夜の別れのあいさつとして用いられるそうです。(重訳なのであまりよくないのですが...)

つまり、先ほどの"Don't Sleep, There Are Snakes"は、日本語に相当するのは「おやすみなさい」なわけです。文字通りの意味とは異なりますが、語用論的、文化的にはこちらが等価となります。

この翻訳体験をすれば、アマゾンに住む人々の生活を想像したり他の国の別れのあいさつに興味を持ったりすることができます。英語科教育では異文化理解、国際理解学習も大切とすれば、翻訳もその一助となるのかもしれません。


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(5) 翻訳活動 (translation activities) に用いられる。

最後はより具体的な活動例です。翻訳活動は、翻訳自体を1つのスキルとして、実生活で翻訳をする場面を想定して活動を行うものです。たとえば海外の友人から手紙が届いた。その手紙の内容を自分は理解できる。しかし5歳下の妹はそれを理解できない。そこで、あなたは妹のために翻訳することになりました。...

このような翻訳は実際に行う機会もあるのではないでしょうか。自分も大学に入ってからイギリスのホストファミリーから受け取った手紙を、母親のために翻訳した覚えがあります。こう考えると、翻訳も決してnon-communicativeとは言いがたい気がしますね。

ただ、いつまでも翻訳活動のみをしていても、英語運用能力が上がるかは怪しいので、コミュニケーション重視のカリキュラムに翻訳を「少しだけ」取り入れるのが現実的なのかもしれませんね。








なお、訳と言語教育についてはいくつか関連記事もあるので、興味があればぜひご覧ください。


菅原克也(2011)『英語と日本語のあいだ』(講談社現代新書):授業での使用言語は?

山岡洋一(2001)『翻訳とは何かー職業としての翻訳』日外アソシエーツ



また、先月出された本書にも訳と言語教育に関するページがありましたので、興味のある方はお読みください。抄訳本ですが、日本の言語教育という枠組みで語られているので、Guy Cookらの本と合わせて読むと良いのではないでしょうか。


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2013年11月13日水曜日

等価と翻訳可能性: Juliane House(2009) "Translation"(Oxford)を読む(2): Chapter3:

本記事はJuliane Houseの"Translation"のまとめ記事です。
他のChapterについては、以下の記事をご覧ください。



(注)引用箇所の下の日本語は私の試訳です。訳す際は最大限注意を払っておりますが、お気づきの際はご指摘頂ければ幸いです。


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第3章では、等価という概念について主に扱われています。
友人の研究テーマということもあり、前回の勉強会で一緒に読んできました。

When we say two things are equivalent we do not mean that they are identical but that they have certain things in common, and function in similar ways. […] what count as similarity will vary according to where one sets one’s priorities and where one’s focus of interest lies (p.29) 
2つのものが等価であるというとき、それらが一致するということではなく、共通して持つ点や似た機能を有することを意味する。…何を共通と見なすかは、何を重要とするか、どのような興味をもつか、によって変わる。

そもそも翻訳学では、ある言語で書かれた内容を別の言語に置き換えるとき、完全に再現することは目指していない。できるだけ似ているものを目指すというスタンスが近いかもしれない。これこそが等価概念の重要な点で、ある観点において満足できるくらい共通していれば良いとする立場である。

例えば、文学作品やマンガでは、完全な字義通りに翻訳することが目標というわけではなく、あくまでも相手を楽しませたり原著者の作った世界観を伝えたりというのが本質のはず。ならば、“多少の”内容のズレはあって然るべきなのかもしれない。(この「多少」というのもくせ者で、どこまで認めるのかは個人の判断ということになるのでしょうね。)

本章では主に等価概念の区分について紹介されています。元来は言語学の影響もあり、意味や形式に関する等価が多かったのですが、徐々に言語の語用論的な等価、機能的等価なども登場します。

そして、Juliane Houseの評価枠組みも登場します。(やはり導入書よりも原著で読んだほうが分かりやすい。)その枠組みでovert translationやcovert translationの評価例も示されています。

また、cultural filterという概念も登場することで、言語上の意味というものだけで考えることが、どれだけ狭い視野かを気づかせてくれます。


本記事では、後半に登場するTranslatabilityに関して詳しく述べたいと思います。

まずは言語学のお堅い話になりますが、言語相対仮説という考え方があります。簡単に言えば、ある言語を用いて暮らしている人の思考は、その言語によって影響を受けるというものです。例えば、日本語を母語としている人とドイツ語と母語としている人では、考え方が変わってくる、というものです。

よくドイツ語は論理的で「哲学の言語」という方がいらっしゃいますが、それもこの考え方に近いのかもしれません。(私はそうは思いませんが笑)

すると、翻訳という行為はとんでもないことをしているように思えませんか。

ある言語で規定された思考を、別の言語で再現するのは不可能ではないでしょうか。だって、言語相対仮説では言語によって考え方も影響するのですから。

この点について、Juliane Houseは以下のようにまとめています。

To sum up, there is no direct correlation between language, thought, and reality. Speakers are not imprisoned by the language they speak. There is always an escape through the creative potential of language itself, and through the creativity of its users. (p.40) 
要約すると、言語、思考、そして現実には直接的な相関はない。話し手は自分の言語によって考え方が囚われることはなく、創造可能である言語を創造的に使用することで縛られなくて済む。

完全に言語相対仮説を棄却しているわけではありませんが、「直接的な関係」の存在には否定的に述べています。そもそも言語がcreative potentialを有しているわけだから、ある意味内容を別の言語で表すことも可能となるわけです。

では、翻訳とは可能な行為なのでしょうか。

どのようなテクストでも翻訳可能なのでしょうか。

残念ながら、そういうわけではありません。最後に翻訳可能性に制限がある事例をいくつかみてみましょう。( p.41 )

(1) Is life worth living? It depends on the liver! 
(2) You have written "skill" with a "c" again, instead of a "k"

これらを日本語に訳すとしたら、みなさんならどう表しますか。
(ぜひ皆さんのご意見をお寄せ頂ければありがたいです。)

(1) はliverという単語が「生活者」と「肝臓」という掛詞(ダブルミーニング)になっています。このような場合、日本語で表すのはなかなか困難になります。

(2) はメタ言語(言語に関する言語)を用いているため、日本語でも同様にはいきません。

このような場合は翻訳可能性(translatability)が低く、翻訳者も頭を悩ませます。おそらく訳注などをつけることで対応する場合が多いのではないでしょうか。

最後に、自分だったらどう訳すかを出しておきます。

(1) 人生に生きる価値があるかって?肝心なのは肝臓じゃないか。
  生きるか死ぬか?飲むか飲まないかだろ。

(2) おいおい、また「技術」を「枝術」って書いているじゃないか。

うーん、センスのなさが表れていますね。特に(1)が。
みなさんならどう訳すか、教えていただきたいです(^^)


ちなみに、roomieというサイトを最近よくチェックしているのですが、そこではこのような記事が紹介されていました。

翻訳できない11の言葉


例えば、Waldeinsamkeit というドイツ語は「森でひとりぼっちでいるような気持ち」という日本語で表すことができます。これを本記事では「翻訳できない」とまとめています。

最初にこの記事を読んだときはとても面白かったです。ただ、「あれは翻訳できているのではないか」と思うようになりました。現に「森でひとりぼっちでいるような気持ち」と日本語で表しているわけですから。

さて、これは翻訳できているのでしょうか。できていないのでしょうか。

Our thinking is to a certain degree influenced by the linguistic organization of experience because concepts encoded in a single term are simply more readily available than concepts for which no single term is available. (p.40) 
私たちの思考はある程度は言語組織によって影響を受けている。なぜなら1語で表すことができる概念は、1語で表せない概念よりも簡単に使用できるからである。

ということで、一問一答式に答えると、翻訳はできている!
しかし、やはり両者の思考は違う。なぜなら、Waldeinsamkeitという一語の方が使用しやすいからである。


やはり翻訳は奥が深いですね(^^;)このような話は中高生には通じるのでしょうか。

個人的には高校生くらいであれば、翻訳したくてもできないもどかしさの体験はさせてみたいものです。普段無意識に使用している言語への「気づき」が生まれるのではないでしょうか。


2013年11月12日火曜日

竹田青嗣(2011) 超解読!はじめてのカント『純粋理性批判』 , 講談社現代新書

こんにちは。mochiです。

まずは近況報告から。

・BBSの中国地方60周年記念大会に参加させて頂きました。
友人が表彰されたり、新中B君が誕生したり、懇親会で他県の方と交流できたり、大変充実したものになりました。特に、ともだち活動について、保護観察所の方とお話できて良かったです。

・学園祭の漫才大会に出場してきました!
結果は見事3位!大学生活の良い思いでになりました。
 ※参加チームは3組だった模様。

・卒業論文の中間発表が終わりました!
とりあえず、このまま進めればよいのだと少し自信がつきました。教授方からの質問には緊張しましたが・・・。というより、質問自体の意味が理解できない自分って・・・。



さて、少し落ち着いたところで、読み溜めていた本のまとめを行っておこうと思います。


超解読! はじめてのカント『純粋理性批判』 (講談社現代新書)
超解読! はじめてのカント『純粋理性批判』 (講談社現代新書)竹田 青嗣

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前回の英語教育みんなで書けば怖くない!企画のときは、多くの方がアクセスをして頂きました。拙文にも関わらず感謝です!それに対して、おそらく今回の記事は、タイトルから判断して、読む人が圧倒的に少ないだろうなとすでに予感しています(が、めげずに頑張ります!)。

さて、センター倫理(今は政治経済もあるんでしたね)をもうすぐ受験する高校生たちは、カントと聞いてどのようなことを思い浮かべるのでしょうか。

「感性」「悟性」「先天的(アプリオリ)」「善意志」「当為」「道徳命令」「仮言命法」「定言命法」「物自体」「コペルニクス的転回」...

確か、こんな用語が書いてあったように思います。

ただ、受験勉強のときは「コペルニクス的転回」のようなキーワードさえ覚えておけばセンターの問題はある程度対応できた覚えがあるのですが(あいまいな記憶で、間違っていたらすいません)、本書を読むとそのような理解は浅いことに気づかされます。

今回は、まだまだ浅い理解の段階ですが、現時点で分かったことをまとめたいと思います。

1. カントの問題意識


カント以前は「経験論」と「合理論」の対立が主だったようです。簡単に言えば、経験論は人間は経験によって学習するため、生まれてくるときにはまだ頭の中には知識は入っていない、という立場です。合理論は、すでに頭の中に知識が入っている状態で生まれてくるとする立場です。この両者の対立は、言語教育史的にはB.F. Skinnerらの行動主義とChomskyの生成文法理論(生得主義)の対立に非常に似ていると思います。Chomskyの普遍文法の考え方は、合理論的な考え方ともいえるのではないでしょうか。(自分もこのアナロジーで理解できました。)

しかし、カントはこのどちらの立場も否定するところから始まります。

原文の第1文目の"That all our knowledge begins with experience there can be no doubt."によって合理論の立場は否定されます。しかし、経験主義であればタブラ・ラサ状態であるはずが、"with"という前置詞を用いていることからも、頭の中には生まれる前から(ア・プリオリに)何かしら備わっていることが分かります。(詳しくは後述。)


2. 物自体という概念


ここで、1つのテーブルについて考えて見ましょう。

僕がパソコンを置いているこの机。自分の目には茶色と黄土色の中間に見え、触ると堅く、うっすら木の模様が入っています。

しかし、それは本当の「机」の存在なのでしょうか。

実際のところ、上の私の記述は、私の目に映った机にすぎません。現に他の人がこの机を見たら別のように記述するでしょうし、明日の私がこれと同じように述べるかどうか確証はありません。この机を晴れた日に外に出せば、もっと明るい色に見えるでしょう。

このように、ある実在するもの(あるいは世界)と私たちが認識しているもの(世界)は必ずしも同じものではありません。カントは、私たちの認識がlimited knowledgeであることを強調し、本来世界に存在しているのは物自体であるといいます。

世界の「完全な認識」は、「神」のような全知の存在だけに可能で、そのような世界のありようをカントは「物自体」(=世界それ自体)と呼ぶ。(p.28)

ここで重要なのは、私たちが認識している世界というのは、そもそも限定されているということです。


3. 感性、悟性、理性

私たちの認識は、「感性」「悟性」「理性」によって行われています。

人間は、およそ事物(対象)を「直観」によって知覚し認識する。つまり、事物は、われわれの五官の近くを通して、意識に表れてくる。これを「感覚」による直観というが、人間がもつこの「対象を感覚的に直観する能力」を、ここでは「感性」と呼ぶ。
しかし、われわれは、ものごとや事物対象を「感性」だけで認識するわけではない。「感性」のほかに、「悟性」と「理性」の働きが必要である。ここで「悟性」は、主としてものごとを概念的に判断する働き、「理性」は主として判断されたものをもとにしてこれを「推論」する能力を意味する。(pp.23-24)

それぞれには決まった役割がある。簡単に言えば、「感性」で感覚を通して事物を直感的に受け取り、「悟性」ではその直観をまとめて判断を行い、「理性」ではさらに推論によって全体像を導く。特に理性では「今・ここ」から離れた超越的な概念についても扱うことができる。


① 感性

感性には最初から備わっている部分があり、それを形式と呼ぶ。形式は主に「時間」と「空間」がある。それに対して質量の部分はア・ポステリオリな部分のため、世界から感覚を通して得た情報が当てはまる。

例えば、ある机を目で見た場合、机に関する様々な情報がア・ポステリオリに与えられる。しかし、そもそもその空間を直感的に把握する力は感覚にア・プリオリに与えられている。また、今見ている机と2分前に見た机について考えるときには、内面では時間という形式が働いている。これもア・プリオリに与えられたものである。



② 悟性

感性の次には、悟性が働く。

「悟性」は、この多様な直観をまとめあげ(綜合し)、それを一つの概念的な判断へとまとめあげる役割をはたす。(p.45)
つまり、経験的な対象(事物)の認識は、「感性」と「悟性」という二つの働きの結びつきによって可能となっているわけだ。「感性」はいわば受動的な働きであり、「悟性」は自発的、能動的な働きだといえる。(p.48)

知覚は意識を働かさなくても可能(see, hearなど)であるが、それらで得た情報について「これは何だろう」と考えるのは、能動的である。

感性と同様、悟性にもア・プリオリに与えられた形式が存在しており、それはカテゴリー(純粋悟性概念)と呼ばれている。

( p.58 より)


この表を見て、「おっ!知っている!」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、これはGriceのCooperative Principleの公理と同じものになっています。(カントから影響を受けたものでしょう。)

また、「必然」「蓋然」などは、英文法ではモダリティの区分などにも用いられている。

cf) なお、「感性」と「悟性」の間には、厳密に言えば「構想力」(図式)がある。また、感性、構想力、悟性ら全てで伴いうる「私は考える」という意識が統覚(Apperzeption)と呼ばれている。


③ 理性


理性は、これまで述べてきた感性、悟性とはやや異なるものである。

理性は、悟性が作り出した対象存在についての諸判断を「推論」によって統一し、そのことで事象から何らかの「原理」(「普遍的なもの」)を取り出す能力だと考えればよい。(p.124)

理性によって、抽象的概念(コミュニケーション能力、哲学とは何かなど)についても我々は考えることが可能となるが、その際に考えるべき区別に「構成的原理(konstitutive Prinzip)」と「統制的原理(regulatives Prinzip)」がある。簡単に言えば、構成的原理はある概念をさらに細かく分けることで対象化するものであるが、統制的原理は以下の前提がある。

世界の全体についての推論は、経験の領域を超えたものだから、ここではわれわれは与えられたものから出発し、経験世界を超えてどこまでも推論を続けることで世界の全体像を想定する「統制的原理regulatives Prinzip」を用いるほかはない。(pp.205-206)

※本来ならアンチノミーという話題も避けて通ることができないのでしょうが、今日はここで断念しますw


まだまだカントの解読本を読み始めた身分で、誤っている解釈もたくさんあるかと思います。(特に図で表した部分。)お気づきの際はご教示頂ければ大変助かります。




2013年11月1日金曜日

(第5回英語教育ブログ、みんなで書けば怖くない)なんで英語なんか勉強しなくちゃいけないんですか?

『英語教育ブログ』みんなで書けば怖くない!という企画に参加しております。


こんにちは。初めて当ブログにお越し頂いた方も多いと思いますので、簡単に自己紹介をさせて頂きます。mochiです。大学で英語教育を専攻しています。将来中高英語教員となることを夢見ており、現在は翻訳学(特に翻訳推敲)をテーマにした卒業研究を行っています。

みんなで書けば怖くない!は去年までは、先生方が書かれる記事を読んで楽しむ側でしたが、今年は自分のブログを作ったことと、最近参加した組田先生の講演会で同じようなことを考えていたことをきっかけに、参加することに。
英語教育に携わる多くの方が同じテーマで書かれるということなので、「学部生で、日頃から思考を働かせない若造がこんなことを書いているぞ(笑)」「それに対して、やはり現場の先生方の文章は素晴らしいな」という、比較材料として読んで頂ければ幸いです笑。正直、自分自身も他の方々の文章を読ませていただくのがとても楽しみです。
そういう意味では、今回は未完成でも自分なりの答えを示せればよいかなと開き直って、ある意味気楽に書いております。

今回のお題は、以下の通りです。

「生徒に、『なんで英語なんか勉強しなくちゃいけないんですか?』と訊かれたら、何と答えますか」

実は以前に、これと非常に関連した文章を書いたことがあります。(「藤本一勇(2009)「外国語学」ーなぜ外国語を学ぶかー」)しかし、その記事を書いてから半年近くが経ち、ある程度自分の考えも変わってきていると思い、再度同じテーマで書くことにしました。したがって、興味をお持ちの方は以前の文章もお読み頂ければ幸いです。
(だらだらと書いてしまったので、お時間のない方は「4.結論」のみお読みください。)


1. 英語教育目的論と英語学習目的論


この質問は英語教育の目的論にも関わる質問だと思います。ただ、「目的論」というカッコイイ言葉では、なんとなく分かった気になって満足してしまいそうなので、目的論をさらに細分化して、以下のような図に示しました。



英語教育に関わる目的論を、(1)「制度としての英語教育目的」(2)「教師としての英語教育目的」(3)「学習者としての英語学習目的」に分けました。それぞれの概要と、お題の生徒の質問への解答として有効かどうかを以下に示します。

(1)「制度としての英語教育目的」は、教育基本法や学習指導要領の文言がそのまま当てはまります。(たとえば「人格の形成」であったり、「コミュニケーション能力の育成」であったり・・・。)また、このような超越的な目的論は、英語教育史上で何度も議論されてきました。岡倉由三郎は「英語教育」で実用面と教養面に分けて論じており、「英語教育大論争」では平泉・渡辺がエリートのためか一般の知的教養面かと議論しました。このような面もきちんと考慮すれば、先ほどの生徒の質問にも答えることができるかもしれません。しかし、本稿では長くなるのでこの部分に立ち入ることはしません。(というか、自分がきちんと理解していない・・・w。)


(2)「教師としての英語教育目的」は、一教師として「なんのために自分は目の前の生徒に英語を教えているか」の答えです。以前、組田幸一郎先生が大学にいらっしゃって、講演をして下さいました。そこで、「英語教師哲学」という言葉が繰り返し出てきました。つまり、英語教師は「なぜ自分が英語を教えてるか」に対する答えを考えるべきということです。あくまでも(1)の制度としての目的は頭に入れた上で、自分なりの教える理由というものもぜひ教師としては持ちたいものです。この意味での目的は、先ほどの生徒の質問への解答と共通している部分も大きいと思われ、有効だと思います。


(3)「学習者としての英語学習目的」は、一人ひとりの学習者が自分なりに持っている英語を学ぶ理由です。上の2つは「教える」目的だったので教育者側が主体だったのですが、ここでは学習者自らが持つべき目的と言えます。ここで重要なのは、教育目的と学習目的が必ず一致するわけではないということで、別に全ての生徒たちが「コミュニケーション能力」とか「人格の形成」など意識していることは考えにくいです。一人ひとりがそれなりに納得できる英語を学ぶ意義が見出せるのが理想だと思います。


しかし、このような概念整理をしているだけでは、生徒を煙に巻いているにすぎません。そこで、自分なりの「教師としての英語教育目的」と「学習者としての英語学習目的」を1つずつ紹介することによって、生徒の質問への答えとしたいと思います。


2. 教師としての英語教育目的:自己変容


今年の4月に購入した『外国語学』が、自分なりの現在の考え方に最も近いように思えます。その中でも特に印象に残っている節を引用します。

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外国語を学ぶことの効用は、まずは、新しい言語を習得することによって、新しい「メガネ」、新しい者の見方、新しい意味世界を獲得できることだろう。私たちの認識は、さらには感性さえもが、言語の表象システムによって知らぬ間に構築されている。「人格」さえ、言語に大きく規定されているかもしれない。(p.39)

私は小学生の頃から視力が低く(両目ともC)、あまりよく見えませんでした。しかし眼鏡をかけるのが嫌で裸眼で生活していました。ところが受験勉強の時に「そろそろ眼鏡がないと」と思って眼鏡屋へ行き、初めて眼鏡をかけたときは感動でした。(眼鏡を買ったことがある方なら経験があると思います。)看板の文字とか学校の廊下の壁の色とか、今まで生きてきたはずの世界の景色が変わったようでした。

私は英語の勉強もこれと同じような効果があるのではないかと思います。小学六年生までの12年間をほぼ日本語のみで生活してきた子たちは知らず知らずのうちに日本語というメガネをかけてきたわけです。しかし、英語との出会いによって新しいメガネが使えるようになります。
眼鏡をかけてこれまで見えなかったものが見えるようになったり、今まで「こういう見方」と思い込んでいたものが別の見方ができるように、英語というメガネにも世界観を変える力があるのでしょう。


言語を「替える」ことは、発想や行動を「替える」きわめて有効な手段の一つである。[...]言語を替えれば、如実に思考が変わる。まるでコンピュータのOSを切り替える場合のように。メッセージは同じ内容であっても、言語を替えてそれを表現すると印象が変わったり、さらにその内容自体が違ったものになることは、通訳や翻訳をすれば、誰もが経験することである。(p.41)

世界を見る可能性を与えると同時に制限を課すメディアである言語、これを新しく獲得しなおすことで、メガネを交換するかのごとく、一つの言語世界の拘束を離れ、新たな世界が与えられる。外国語を学び、新しいまなざしを手に入れることによって、現状を離脱した新しい「私」に変身する可能性が与えられる。(p.41)

もちろん、「英会話ができるようになれば友達が作れる」「グローバル社会では当たり前」といった実用的な理由付けも必要ですが、「英語を学ぶことによって、物事の見方が変わり、しいては自分自身も変わる」という点に、英語を教える意味を感じます。
ただ、このような点は科学的に実証するのは難しいかもしれません。「そんな抽象的なこと言ってないで、数値で出してよ」という声も聞こえてきそうですね(笑)。しかし、藤本氏の論によって、自分が英会話をしていると性格が変わる気がしたり、英語を学ぶことによって普段使っている日本語を反省的に捉えなおすことができたり、という経験にも説明がつきます。なので、それなりに妥当性は見出しています。



3. 学習者としての英語学習目的:Connect the dots


次に、自らがなぜ英語をこれまで学んできたかをまとめます。

まずは本音で言いますと、「大学受験」「いい成績をとりたい」というinstrumental motivationは確実にありました。
他にも文法は面白かったので勉強していたり、できなかったことができるようになると嬉しかったり、という様々な理由が自分の英語学習歴を振り返ると見えてきます。

しかし、どれをとっても、生徒の質問である「どうして英語を学ぶの?」に対する答えにならない気がします。「私は文法嫌いだもん」とか「別にできるようになるなら、ダンスとか楽器でもいいじゃん。英語じゃなくても・・・」と返されそうな気がします。

そこで、少し反則かもしれませんが、私は以下の動画の台詞をそのまま答えにしたいと思います。


皆さんご存知のSteve Jobs。彼のスピーチの中で以下のような文が出てきます。

"You can't connect the dots looking forward, you can only? connect them looking backwards, so you have to trust that the dots will somehow connect in your future, you have to trust in something, your gut, destiny, life, karma, whatever, because believing that the dots will connect down the road will give you the confidence to follow your heart, even when it leads you off the well worn path, and that will make all the difference. "

何か物事に取り組んでいるときは、その意義が見えないこともあるわけで、「英語はやっているうちに意義が見えてくるよ(だからとりあえずやろうよ)」「何十年も先に、英語をやって良かった、てきっと思えるよ」というのが、私の英語学習目的論です。
例えば今年の4月からドイツ語の勉強をはじめましたが、最初はドイツ語って翻訳学でもでてくるだろうしやっとくか、という軽い気持ちでした。ところが「ドイツ語は教育学でも多く出てくる」とか「西洋哲学の文献はドイツ語が多い」といったことに最近になって気づいています。(遅っ!)このように、最初から「僕は~~のためにドイツ語をやるんだ!」とはっきり規定できなくても、後でやっていて良かった、と思えるのではないでしょうか。


4. 結論:生徒に対する答え


長々と書いてしまったので、最後に生徒へどのような答えをするかを書いておきます。


英語はなんで勉強するか?とても面白い質問だね。

僕は、みんなの考え方が広がってくれたらいいな、と思って英語を教えている。言葉っていうのはメガネみたいなもので、いつも日本語っていうメガネで生活しているだろう。でも、新しい英語というメガネをだんだん使えるようになって、これまでできなかった物の見方や考え方が出来るようになって欲しいと思う。

それと、実は僕も英語を勉強してるときは、そんなにはっきりとした目標があったわけではなかった。でも、何年もしてから初めて「英語が使えてよかった」て思えることがたくさんあった。だから、なんで英語を勉強するかに対する答えは、やっている内にわかる、だと思うよ。


うーん、自分でも書きながら、「逃げ」の答えだな、と感じます(汗)。
ただ、今の時点ではしっくり来ているので、これを現段階の考えとしておきます。

今後、大学院で研究をし、実際に現場で教える中で、どんどん考えは更新されていくと思うので、その都度この質問に立ち返りたいですね。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。