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2013年11月13日水曜日

等価と翻訳可能性: Juliane House(2009) "Translation"(Oxford)を読む(2): Chapter3:

本記事はJuliane Houseの"Translation"のまとめ記事です。
他のChapterについては、以下の記事をご覧ください。



(注)引用箇所の下の日本語は私の試訳です。訳す際は最大限注意を払っておりますが、お気づきの際はご指摘頂ければ幸いです。


Translation (Oxford Introduction to Language Study)
Translation (Oxford Introduction to Language Study)Juliane House H. G. Widdowson

Oxford Univ Pr (Sd) 2009-07-15
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第3章では、等価という概念について主に扱われています。
友人の研究テーマということもあり、前回の勉強会で一緒に読んできました。

When we say two things are equivalent we do not mean that they are identical but that they have certain things in common, and function in similar ways. […] what count as similarity will vary according to where one sets one’s priorities and where one’s focus of interest lies (p.29) 
2つのものが等価であるというとき、それらが一致するということではなく、共通して持つ点や似た機能を有することを意味する。…何を共通と見なすかは、何を重要とするか、どのような興味をもつか、によって変わる。

そもそも翻訳学では、ある言語で書かれた内容を別の言語に置き換えるとき、完全に再現することは目指していない。できるだけ似ているものを目指すというスタンスが近いかもしれない。これこそが等価概念の重要な点で、ある観点において満足できるくらい共通していれば良いとする立場である。

例えば、文学作品やマンガでは、完全な字義通りに翻訳することが目標というわけではなく、あくまでも相手を楽しませたり原著者の作った世界観を伝えたりというのが本質のはず。ならば、“多少の”内容のズレはあって然るべきなのかもしれない。(この「多少」というのもくせ者で、どこまで認めるのかは個人の判断ということになるのでしょうね。)

本章では主に等価概念の区分について紹介されています。元来は言語学の影響もあり、意味や形式に関する等価が多かったのですが、徐々に言語の語用論的な等価、機能的等価なども登場します。

そして、Juliane Houseの評価枠組みも登場します。(やはり導入書よりも原著で読んだほうが分かりやすい。)その枠組みでovert translationやcovert translationの評価例も示されています。

また、cultural filterという概念も登場することで、言語上の意味というものだけで考えることが、どれだけ狭い視野かを気づかせてくれます。


本記事では、後半に登場するTranslatabilityに関して詳しく述べたいと思います。

まずは言語学のお堅い話になりますが、言語相対仮説という考え方があります。簡単に言えば、ある言語を用いて暮らしている人の思考は、その言語によって影響を受けるというものです。例えば、日本語を母語としている人とドイツ語と母語としている人では、考え方が変わってくる、というものです。

よくドイツ語は論理的で「哲学の言語」という方がいらっしゃいますが、それもこの考え方に近いのかもしれません。(私はそうは思いませんが笑)

すると、翻訳という行為はとんでもないことをしているように思えませんか。

ある言語で規定された思考を、別の言語で再現するのは不可能ではないでしょうか。だって、言語相対仮説では言語によって考え方も影響するのですから。

この点について、Juliane Houseは以下のようにまとめています。

To sum up, there is no direct correlation between language, thought, and reality. Speakers are not imprisoned by the language they speak. There is always an escape through the creative potential of language itself, and through the creativity of its users. (p.40) 
要約すると、言語、思考、そして現実には直接的な相関はない。話し手は自分の言語によって考え方が囚われることはなく、創造可能である言語を創造的に使用することで縛られなくて済む。

完全に言語相対仮説を棄却しているわけではありませんが、「直接的な関係」の存在には否定的に述べています。そもそも言語がcreative potentialを有しているわけだから、ある意味内容を別の言語で表すことも可能となるわけです。

では、翻訳とは可能な行為なのでしょうか。

どのようなテクストでも翻訳可能なのでしょうか。

残念ながら、そういうわけではありません。最後に翻訳可能性に制限がある事例をいくつかみてみましょう。( p.41 )

(1) Is life worth living? It depends on the liver! 
(2) You have written "skill" with a "c" again, instead of a "k"

これらを日本語に訳すとしたら、みなさんならどう表しますか。
(ぜひ皆さんのご意見をお寄せ頂ければありがたいです。)

(1) はliverという単語が「生活者」と「肝臓」という掛詞(ダブルミーニング)になっています。このような場合、日本語で表すのはなかなか困難になります。

(2) はメタ言語(言語に関する言語)を用いているため、日本語でも同様にはいきません。

このような場合は翻訳可能性(translatability)が低く、翻訳者も頭を悩ませます。おそらく訳注などをつけることで対応する場合が多いのではないでしょうか。

最後に、自分だったらどう訳すかを出しておきます。

(1) 人生に生きる価値があるかって?肝心なのは肝臓じゃないか。
  生きるか死ぬか?飲むか飲まないかだろ。

(2) おいおい、また「技術」を「枝術」って書いているじゃないか。

うーん、センスのなさが表れていますね。特に(1)が。
みなさんならどう訳すか、教えていただきたいです(^^)


ちなみに、roomieというサイトを最近よくチェックしているのですが、そこではこのような記事が紹介されていました。

翻訳できない11の言葉


例えば、Waldeinsamkeit というドイツ語は「森でひとりぼっちでいるような気持ち」という日本語で表すことができます。これを本記事では「翻訳できない」とまとめています。

最初にこの記事を読んだときはとても面白かったです。ただ、「あれは翻訳できているのではないか」と思うようになりました。現に「森でひとりぼっちでいるような気持ち」と日本語で表しているわけですから。

さて、これは翻訳できているのでしょうか。できていないのでしょうか。

Our thinking is to a certain degree influenced by the linguistic organization of experience because concepts encoded in a single term are simply more readily available than concepts for which no single term is available. (p.40) 
私たちの思考はある程度は言語組織によって影響を受けている。なぜなら1語で表すことができる概念は、1語で表せない概念よりも簡単に使用できるからである。

ということで、一問一答式に答えると、翻訳はできている!
しかし、やはり両者の思考は違う。なぜなら、Waldeinsamkeitという一語の方が使用しやすいからである。


やはり翻訳は奥が深いですね(^^;)このような話は中高生には通じるのでしょうか。

個人的には高校生くらいであれば、翻訳したくてもできないもどかしさの体験はさせてみたいものです。普段無意識に使用している言語への「気づき」が生まれるのではないでしょうか。


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