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2014年12月16日火曜日

「いじめ」と「イジリ」の区別:他者の視座から


学部の頃に心理学を勉強していたとき、新潟青陵大学の碓井真史先生のサイトは大変参考にしていました。



最近、碓井先生の記事にこのようなものがありました。




子どもの頃から抱いていた疑問に対する答えの1つを知れた思いで、熱中して読みました。最近の自分の関心である「他者」にも絡めて、いろいろ感じることがあったので、以下は自分なりの感想です。よろしければ、碓井先生の記事をお読みになった上で、本記事をご覧頂ければ幸いです。


イジリは笑いの中でも高等テクニック。コミュニケーション(特に、笑いに特化したコミュニケーション)に長けていなければ、簡単にいじめになってしまう。


外部観察 (eticな視点) によってはこれら2つの区別をすることは難しい。なので、当人たちはおふざけで言い合っている場合も、教員によってしかられてしまう。その時、大きな違和感を覚えるだろうが、言語ゲームを共有しない相手には分かりえないだろう。(もし教員が子どもたちの言語ゲームを丁寧に観察して、時折そのゲームの参入者として入っていれば分かるかもしれないが。)


当事者 (emicな視点) には、いじめとイジリは区別できるだろうが、その中でも「イジる側」と「イジる側」が互いに他者であることを強調すべきだと思う。すなわち、「イジる側」が相手の幸せのため、と思っていても、それが「イジる側」の幸せになると決定することは、原理的に不可能である。


だから、テレビで行われているイジリは名人芸であることがもっと分かるべきではないか。他者に対して~~をしたら必ず喜ぶ、という確定はできない (二重偶発性) わけで、もしイジられた相手が機嫌悪くなったら「これくらいのことで怒るなよな」と、急にeticな尺度を出すこともイジる側にはできてしまう。イジられる当人が望まないのに相手によって変化させられるのは、「暴力」ととらえることもできる。


厄介なことに、当人は暴力をふるっているつもりがない場合も多いはずである。なにしろ、イジリという行為・構造自体に暴力性が隠蔽されているからである。つまり、イジリをする者が「雰囲気を明るくしよう」とか「いつものように楽しもう」という善意の下にイジリを行ったとしても、イジられる当人の受け取り方次第で「イジリ」にもなれば「いじめ」にもなる。このような構造に隠された暴力性をイジられる側は認識すべきかもしれない。だからこそ、イジリという行為は危険な笑いの取り方で、それなりのリスクを背負った上で使うべきと思った。


と。なにやら感想文まがいの文章になってしまいましたが(笑)、ご意見ございましたら、コメント欄にお願いします。


(参考)二重偶発性 [Doppelte Kontingenz] および、「分かり合えない他者」について

「他者は分かり合えない」ということを言う例として、ウィトゲンシュタイン『哲学探究』の「かぶと虫の問題」があります。

293. 誰もが箱をひとつもっていて、そのなかには、私たちが「カブトムシ」と呼んでいるものが入っている、と仮定してみよう。誰もほかの人の箱のなかをのぞくことはできない。そして誰もが、「自分のカブトムシを見ただけで、カブトムシとはなにかを知っている」と言う。
この場合、どの箱にも別のモノが入っている可能性があるだろう。おまけにそれが変化しつづけていることも考えられるかもしれない。しかし、このとき、その人たちの「カブトムシ」という単語の使い方があるとしたら?それは、モノの名前の使い方ではないだろう。


他にも、ルーマンの「二重偶発性」の原理があります。

すべての自己にとって他者はもう一人の自己であり、その振る舞いは予測不可能で可変的である。自己も他者も自分の振る舞いを自分の境界内で自己言及的に決定する。だれもが、他の人にとってはブラックボックスである。なぜなら、その人の選択の基準を外部から観察することはできないからである。自己に見えるのは、他者の閉鎖した作動の結果としての選択性のみである。いずれもが他者を、環境-内-システムとして観察し、その他者に関しては、環境からの、そして環境への、インプットとアウトプットを観察することができるだけであり、自己言及的な作動自体は観察することができない。いずれのシステムも、他者に対して示すのは、自分の選択を決定できると同時に、その自己言及は不確定であるという事態である。 (ルーマン『GLU』, p.255)


「他者はわかりあえない」という前提を受け入れることで、相手に歩み寄れるのではないかと最近考えますが、教育哲学の授業では「他者論は常に具体例を念頭にして議論して欲しい」と言われます。一般論や抽象的レベルでは語りつくせず、ケースバイケースで考える必要があるからでしょう。今回は、「イジる」「イジられる」を具体例に考えて見ましたが、本例においても別様の見方ができるでしょうし、別の例の検討も今後必要になると思います。

また、「他者は分かり合えない」という前提の下で、次に何を議論すべきかについても考える必要があると常々考えます。「互いに歩み寄るべきだ」とか「承認すべきだ」といった肯定的な意見にいくのか、「一人ひとり違った意見で良いではないか」「多様性を認め合えるべきでないか」といった解釈学的な考え方になるのか、もう少し考えをつめる必要があるようにも思います。


2014年12月15日月曜日

第6回国際表現言語学会に参加して

あと少しで2014年も終わりますが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。

12/14 (日) 、文教大学で開催された「第6回国際表現言語学会」に参加してきました。(表現言語は英語で performing language と訳されるそうです。)

本学会の存在を知ったのもつい最近のことでしたが、自分のような新参者も学会に溶け込みやすく、とても充実した一日を過ごすことができました。

記憶の新しいうちに、本学会で学んだことを整理しておきます。



■ 語学教育としての演劇

パネルディスカッション「言語教育の実践とドラマの融合」では、平田オリザ先生・原口友子先生・塩沢泰子先生による議論がありました。(個人的に、平田オリザ先生の大ファンなので、お話が伺えて感無量でした・・・。) 以下、先生方の議論を歪曲することはできるだけ避けたうえで、自分なりの言葉でまとめたいと思います。

平田先生は、演劇的手法の外国語教育が大学をはじめ、小・中・高でも徐々に広まっている点を指摘しました。英語教育であれば、英語ができるかできないかという一元的なものさしが支配的ですが、演劇の魅力は、語学が苦手な子でも活躍できて自信をつけられることです。たとえば英語の発音が上手であっても演技がうまいとは限りませんし、その逆も然りです。実際に、初日の諸大学による発表ビデオを見ても、発音があまり上手でなくても人前で堂々と演技したり役に成りきっている人たちは、劇中でも際立っていました。つまり、演劇には英語が苦手な子でも輝ける場を作る力があります。「英語ができる子が上、できない子が下」というものさしを一時的にでも覆い隠すことができれば、クラスの多くの子が英語にかかわることができるかもしれません。

塩沢先生は、英語授業のドラマ活用によって、生徒の英語力と人間性の伸長の両方につながりうるという主張をされました。英語力については、授業の英語を覚えるのが苦痛であっても、演劇の台詞は「流れ」があるから覚えやすいという子が学生の中にも多いそうで、長い間続けていると英語の力が伸びていくということでした。それにとどまらず、演劇によって学生の人間性も伸びるため、「語学教育」を超えた魅力が演劇にあるとのことです。ここらへんは定量化することが難しく、「なぜ文学が英語教育で扱われるべきか」と同様に実証が難しい領域でしょう。先生としては「この子たち一回り大きくなった」ということが十分伝わるのに、その文脈を共有していない人には伝わりにくいのだろうと思います。

(私は、そういった実証しづらいが効果があるであろうを認める寛容さと、そういった主張を説得力あるものとする努力の両方が必要なのではないかと感じました。もちろん科学的には棄却せざるをえませんが、こと人間科学でそこまで厳密な定量化が本当に必要か疑問に思います。)

原口先生は、演劇を通して学生が「英語を使う楽しさ」に触れ、主体的に英語学習に参加するという報告をされました。劇では受動的な参加では進まず、主体的に創作・練習する必要があるために、よりかかわりを持った学びになります。たとえば、劇の練習で「自分は周りの子より遅れてる」と感じる子は、みんなの足を引っ張らないように家で練習してくることがあるそうです。

「英語ができない」という子の中には、主体的に英語に取り組む機会がなかったために英語を使う楽しさ・喜びを体験できなかった子もいるでしょう。演劇の練習は、周りの教員から見たら遊んでいるようにしか見えないこともあるかもしれませんが、その遊びの中で学ぶこともあるという点を忘れるべきではありません。


以下は、議論で出た主な要点です。「→」マーク以降は自分なりの感想です。

・今日グローバル人材やリーダーシップの育成を目標に掲げた教育がなされているが、今の子たちにはどのような英語力が求められるかという議論が抜けた状態で進んでいるようである。

→まさにそのとおりだと思いました。「グローバル人材」「コミュニケーション能力」といった言葉が独り歩きしている感じは否めず、これらの概念の意味することをまずは議論する必要があるはずです。そして、一部のリーダーを育てるエリート教育ではない「公」教育として、英語教育で育成すべき能力を議論する必要があるでしょう。この点は、4人組の講演会でも同様に議論されていました。

・演劇は短期的暗記力なら役に立たない。期末試験のための勉強に演劇を取り入れるのはあまり効率的でない。しかし、長期的な力としては、五感をフルに使う演劇は役に立つだろう。そのためにも、今後は追跡調査を通して演劇経験が英語力にどのように貢献するかを実証することも考えるべきである。

→平田オリザ先生の『わかりあえないことから』でも、流動性知能と結晶性知能という用語で説明されていました。ワークショップを通して、体験して学んだことはなかなか忘れないという経験は自分にも多くあります。また、演劇の効果を英語教育学会などで示すためには、エビデンスの提出も今後求められるのだろうと感じました。

・授業構成は、Context-BaseからPersonal-Baseへ。

→授業をするときは、まず文脈を伴った例から導入して、慣れてきたら個々人の特有な文脈を用いておのおのが理解を深めるという手順が良いそうです。

たとえば、英語の授業で比較級を学ぶ際に、まずは「ドラえもんとルフィのどちらが伸長が高いでしょう」「体重はドラえもんの方が重いね」のような文脈を伴った例(Context-Base) から導入することができます。生徒が少しずつ比較構文の形に慣れてきたら、「じゃあ、次は君たちが好きなキャラクターや動物、人間で同じように書いてみよう」と伝え、各々が「じゃあ巨人と妖怪の強さを比べてみる」のように自分の好きな例に置き換えて理解を深める(Personal-Base) ことができます。あまり演劇と言語教育という文脈には関係ありませんが、個人的には授業観としてとても共感しました。

・学習者が必要な英語と、教える英語が一致していないのではないか。

→たとえば、臓器移植について英語で討論する力がある生徒たちがいるとします。もちろん高度な議論をする力は将来必要になるでしょうが、必ずしも全員が臓器移植の議論をする必要はなく、中には電車で隣の人に英語で話しかけられれば良い子もいるでしょう。negotiated syllabus という議論もありますが、教師の教えたいことと学習者の学びたいことがうまく一致したときに、実りのある英語学習になるのかもしれません。



最後に、「演劇と言語教育」の議論に関する自分の感想です。

(1) 演劇の虚構性

演劇は、現実の世界(アクチュアルな世界)ではない仮想世界を演じることで、普段自分を規定している「自分」から一時的に離れることができます。たとえば「普段英語ができない」、「人前では話しにくい」自分、などがありますが、これらから一時的に抜け出して演じることができます。ある先生が「ロールプレイは嘘だ」と発言されていましたが、個人的にはこの「嘘」(虚構性)がたまには必要なのではないかという気がします。英語の授業で「将来の夢を語る」といったタスクもありますが、思春期の子たちがこれに正面から取り組むのは難しいかもしれません。こんなとき、わざわざ正直に自分の夢を語らせる必要はなく、仮の自分が仮の夢を語る場を作っても良いのではないでしょうか。英語の授業で何かを演じることで、「他者としての自分 (me as Other) 」を表出させる経験をつめば、いずれ「自分 (myself) 」を出すのにつながるかもしれません。(実際には「将来の夢」の単元はキャリア教育・道徳教育との兼ね合いで行われることが多いでしょうから、現実味はありませんが...。)

なお、以下のブログでも「英語の授業における虚構性」が議論されています。大変刺激的な議論で、授業という営みに隠れる「虚構性」をむしろ肯定的に捉えるという論旨でした。


また、演劇を遊び (play) の一種としてみれば、ガイ・クックの以下の議論も参考になるかもしれません。


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自分が翻訳を言語教育で用いたいのも、英語力のみで勝負する英語の授業だとどこかでつまづく生徒がいる気がするからだと思います。そこに創作的な翻訳活動が伴えば、英語が苦手な生徒でも名訳を生む可能性があるため、いつもの英語力による序列をいったん崩すことができます。これで英語が苦手な子も活躍できるなら、演劇でも翻訳でも英語授業に取り入れる余地があると思います。(あくまで「取り入れる余地」の議論なので、「翻訳だけやればいい」といったラディカルな主張はしません。笑)


(2) 劇化の可能性

しかし、演劇を英語授業で取り入れるにはなかなか時間がなく、プロの先生にワークショップをやってもらうことが必ずしも可能でないかもしれません。そこで、英語授業で取り入れるには、教科書の「劇化」が有効かもしれません。「劇化」は、教科書のダイアログを実際に演じてみることで、キャラクターの視線や発話時の感情、場面などを推論する必要が前景化し、表面的な理解にとどまらない解釈を必要とします。また、実際に演じてみることで、五感を使ってテキストを体験することができ、身体をともなった理解に通じるかもしれません。(ああ、ここらへんの言葉使いが浮付いている気が・・・。この点は、また(3) で述べます。)

たとえば、以下の台本だったらいかがでしょう。(たしか、Widdowson の本に載っていた例だと記憶しています。曖昧な記述で申し訳ございません。)

A : This is the telephone.
B : I'm in the bath.
A : OK.

これを音読するのは容易ですが、場面を理解するには、以下の点を考慮する必要があります。

・AとBの人間関係はどのようなものか。
・2人はどこにいるか。
・"This is the telephone." はどのような意味か。「これは電話です」ではだめか。
・なぜAは”OK"といったか。このあと、Aはどうするか。

これらの点を考慮すれば、Aが子供、Bが母親であり、家で電話がなっていることを知らせる子供に対して、入浴中の母が「今電話に出れない」ことを伝える場面と理解することができます。

さらに、これを劇化するには、以下の点にまで踏み込む必要があります。

・子供は何歳くらいだろう。
・母親はどのような性格だろう。入浴中に電話があったら、自分ならどのように対応するだろう。
・子供は家の中のどこにいるのだろう。風呂場の近くだろうか、遠くだろうか。
・母親は風呂場でどうしているだろう。入浴しているか、髪の毛を洗っているか。
・そもそも母親でなくて父親ではだめだろうか。
・電話はコードレスだろうか、それともコードつきの電話だろうか。

もちろんこれらの点はテクスト中に明示されておらず、想像する必要があります。この過程で、自分の生活とのつながりも生まれ、ただのテキストが「意味を持った文章」となるはずです。そして、生徒によってこれらの解釈が生徒間で異なっているため、複数の生徒に演じさせてみても「個性」が見えるはずで、見ている側も楽しむことができるでしょう。


(3) 理論言語・実証の必要性

「知性」と「感性」をつなげる、五感を総動員して学ぶ、英語の楽しさを実感できる、・・・など多くの演劇の魅力が本学会で語られましたが、これらをさらに理論言語で説明する必要があるように感じました。「劇はいい」というテーゼにはもちろん賛成しますが、これらは学会などでどこまで受け入れてもらえるのかという点が今回の一番の疑問でした。「劇をやったことがあればわかる」「本物がわかる人ならわかる」でもいいのですが、もし理論や実証研究、哲学などがここに入り込む余地があるなら、演劇の効果を“客観的”に伝えることができるのに、と感じます。(あるいはそのような研究があれば、今後読みたいとも思いました。)

演劇のよさを語る人たちの「言葉」があれば、さらに演劇と言語教育はつながれるだろうと強く思いました。


■ 演劇的手法を活用したワークショップ

四国学院大学の千石先生による研究発表でした。四国学院大ではdrama education (演劇教育) が盛んで、福祉系・教育系の現場に出る人たちは演劇のワークショップを必修とするようです。

発表では千石先生がされているワークショップの報告がありましたが、そこで面白いと感じた点をまとめます。

・インプロ(即興劇)をするとき、「がんばらない」「相手に良い時間を与える」「誰かが話しているときは聴く」を最初に伝える。

・90分の授業が8回あるとき、最初の5回はアイスブレイキング(アイブレ)に費やす。

→いきなし演劇的手法を用いてしまうと、ついてこれない学習者もいます。そこで、心の緊張やバリアを和らげるための活動(アイスブレイキング;アイブレ)を行うのですが、8回の授業があるとき、うち5回をアイブレに費やされていました。アイブレの中でも難しさが異なるため、5回目の授業ではかなり高度なアイブレ活動を行うそうです。(なので、あまり先生の中ではアイブレという位置づけではないのかもしれませんが...。)これにより、6回目以降の授業ではShow & Tellなどの発表活動や、演劇手法を用いた活動が可能となるようです。逆を言えば、演劇的手法を英語授業などで扱うときも、アイブレを念蜜に行う必要がありそうですね。もし演劇に慣れていないクラスで「今から即興劇をやってもらいます」としてしまうと、・・・恐ろしい結果になりそうです。(笑)インプロの手法ももう少し自分で勉強したいと思いました。

・授業は、知識注入型授業と獲得型授業に大別される。獲得型授業では全身で学ぶことが求められ、そこで得られるのは「演劇的知」である。「演劇的知」とは、身体、こえ・ことば、かかわりの3要素によって構成される。

→「演劇的知」という概念に関して、面白いと思った。英語授業で「こえ・ことば」のみが(あるいは「こえ」が骨抜き状態の「言葉」かもしれない)教えられるとしたら、「演劇的知」から英語授業が学ぶことも多いかもしれない。千石先生は「耳が聞こえない子供」を事例に、「こえ・ことば」が使えなくても演劇的知を体得できるような実践を試みており、英語教育の「ユニバーサルデザイン」と似ているように感じた。すなわち、英語の授業で「こえ」が欠かせないように思えるが、「こえ」がなくとも、身体やかかわりを体験することはできるだろう。

performative learning (高尾, 2012) : パフォーマンスすることで自分を崩し、再組織化すること。

→とにかくやってみて、他者に表現して、そこで初めて自分を相対化して新しい自分を創るという理念を表す語のようです。デューイの learning by experience などと近い概念かもしれません。哲学用語であれば、「他者との出会いによって<自分>と<相対化された自分>が弁証法的に昇華され、<新たな自分>が生まれる」と言い換えられるかもしれません。(こんな言い換えに意味はありませんが。笑)

peformative learning も「ことばより身体の重視」という信念があるようで、身体性の勉強をする際に今後参照したいと思った。


演劇ワークショップに自分が参加したことがなかったので、目から鱗の思いでした。できればワークショップに参加してみたい・・・と強く感じました。(もし広島近辺で情報をお持ちの方がいらっしゃれば、ぜひ教えて頂けると幸いです。)




■ 小噺ワークショップ

続いて、畑佐先生による「小噺ワークショップ」に参加しました。先生は日本語教育の場で小噺を導入し、学習者が日本語をもっと学びたいと感じられるよう(動機付けの手段となるよう)、実践を続けられています。

小噺は私たち日本人が行ってもある程度はできますが、「目線」「声の調子」「動作」など考える点は多々あり、とても奥深いものだと感じました。(先ほどの「劇化」に似ているかもしれません。)

たとえば、以下の小噺。

「手術」 
患者:「先生、私、手術するの、初めてなんですけど、大丈夫でしょうか。」
医者:「心配することはありません、私だって、(手術するの)初めてなんですから。」

まず、これを日本語学習者が覚えて披露する際には、「手術」という日本語が言えるかどうかという問題があります。患者の一言目の「手術」という言葉を効いたときに始めて、聞き手は「病院のできごと」というスキーマ・スクリプトを想起することができます。ここで発音指導・暗唱といった従来の言語教育の手順が必要となります。

ある程度読めるようになったら、ある程度の笑いは取れるかもしれません。しかし、これも実際に小噺する際には、

・患者は寝ているのか、座っているのか、歩いているのか。
・医者は手術中なのか、座っているのか、歩いているのか。
・では、2人は目線をどこに合わせるのか。
・医者は不安気に話すのか、自信ありげに話すのか。
・医者はなにか手に持っているか。なにも持っていないか。

など、想像力を働かせる点はいくらでもあります。

実際に、畑佐先生や平田先生、また多くの会員の方々のパフォーマンスは大変面白く、同じ小噺でも雰囲気がまったく異なることに驚きを覚えました。


もし学習者が完全にこれを覚えて、上の解釈をした上でオリジナルの小噺をし、笑いを取ることができれば・・・もっと日本語学習しようという気になりそうですね!(英語学習におけるジョークの指導にも同じことが言えるかもしれません。)

さらにこの指導が面白いのは、「外国語学習者が母語話者にできないことをする」「初級者も上級者より笑いを取る可能性がある」という点にあります。先ほどの「一元的なものさし(語学力)を覆い隠す」という点と似ていますが、言語弱者としての言語学習者へのエンパワメントという観点からもこの指導は大変面白く感じました。

もしよろしければ、以下のサイトで「手術」の小噺をご覧ください。私はこの動画に「言語学習者」という枠組みを越えた可能性を感じました。



■ Readers Theatre / 朗読劇ワークショップ

最後に、上の2つのワークショップで学んだことを列挙します。Readers Theatre の担当をされた浅野先生は、南山短期大学の先生で、自分の母校とのつながりもありワークショップ後も個人的に多くのお話を伺うことができました。(本当に貴重なお話をありがとうございました。)

Reders Theatre (RT) とは、"a rehearsed group presentation of a script that is read aloud rather than memorized" (Flynn, 2004) で、日本語では「朗読(劇)」「群読(劇)」「表現読み」「ストーリー・テリング」「読み聞かせ」などとしばしば呼ばれます。普通の音読や劇と異なるのは、RTでは台本を隠すことなく音読する点、グループで行い必要に応じてジェスチャーを用いる点、道具や衣装・効果音は用いない点などが挙げられます。

授業で使う際は、教科書本文の内容理解を済ませた上で、内容を改変しないように区切り(文中で区切っても可)、それぞれのパートに分けて読む練習をします。練習したら、最終的に全体の前で発表します。

初日の発表では、ジョン・レノンの Imagine という歌の歌詞を、3人の大学生が RT 方式で読み披露しました。3名ともとても表情豊かで大変引き込まれました。

自分たちもO. Henry の "The Gift of Magi" という作品で行いましたが、ただ読むだけでなくノンバーバルコミュニケーション(ジェスチャー、表情、イントネーションなど)にも気を払い、できれば読むときは目線を上げて (look-up) 披露する必要があり、意外に難易度が高かったです。もし学校現場で実践するなら、練習時間やアイスブレイキングの時間を長めに取る必要があります。特に、内容理解ができていないときにRTをしてもあまり意味がないはずです。まずはテキストの内容理解を行い、適当な箇所で文章を区切って読み、アイブレをしながら人前で話す抵抗を取り除いた状態で、最終的に RT を行う(そして行く行くは drama performance につなげる)というように、スモール・ステップを意識した授業設計が必要でしょう。(逆に、みんなの前で失敗するという経験をさせてしまったら、その子が英語学習から遠ざかるきっかけにもなってしまいます。指導者は、失敗経験をさせないという信念も同時に求められると感じました。)

これも、同じテキストを使ったとしても、グループの個性が強く出ており、見ていて大変楽しむことができました。正直、言語化できない、ビビッとくるようなものを発表を見ながら感じました。朗読劇のワークショップ後に、「どうして朗読をするとワクワクするんでしょうね」という質問がフロアから投げかけられていましたが、自分も同じ感想を持っていました(笑)。

朗読劇は、グループ毎に1幕ずつ練習をし、最終的に3班で3幕分の劇を完成させるというワークショップでした。グループで戸惑いながらも1つの作品を作り上げるというのが、新鮮で面白く、ほかの班との違いも感じることができてとても楽しかったです。

技能育成の重要性を否定するつもりは毛頭ありませんが、このようなワクワク感を授業において演出する必要もあると改めて感じました。


■ 全体を通じて

英語学習における演劇活動の効力を実感することができました。上でも書きましたが、英語を使う楽しさ、身体で英語を味わう感覚、成功したときのワクワク感などはやはり英語学習のモチベーションに大きく寄与すると思います。

今後、平田オリザ先生の問題提起にもあったとおり、「演劇が英語学習においてどのような位置づけがされるか」が問題だと思います。そのための研究も今後進むと良いと感じました。

演劇は敷居が高く感じていましたが、上で紹介したような手軽な活動から入ることもでき、授業にも取り入れやすいように感じました。

ただし、「演劇だけで英語の授業はバッチシ!」ということはもちろんなく、文法学習や静かな学習(座学)、訳、テスト、評価など、英語教育における他の要素とどう結びつくかを考えた上で、さらに演劇が広まると良いと思います。

とても実りのある1日でした。当日、お話いただきました先生方、準備・企画をされました事務局の皆様、本当にありがとうございました。



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(追記)2014/12/29

南山大学の浅野先生に本記事を紹介したところ、以下のような御意見を頂戴しました。
先生に許可を頂きましたので、貼り付けます。
もし先生にコメント等されたい方は、以下のコメント欄へご記入下されば、ブログ運営者が転送させて頂きたいと思います。
先生には、お忙しい中このようなコメントを下さり、改めて感謝申しあげます。

(以下、貼り付け)

1.RT導入の目的の1つは,読解力の養成です。
和訳やその後の問題演習をして理解したことに
している英文読解授業をいかにして改め,英文
の読みを深め,かつ読みを楽しませるか,が私の
課題でした。しかし,学生の中・高を通して慣れ
親しんだ経験を改めさせるのは容易ではなく,
困り果てましたが,逆に闘志も沸いたことを記憶して
います。つまり,読解のための手段が,RTという位置づけです。


2.短大の学生の英語学習動機は常に「英語が話せる
ようになりたい」です。RTはこのことに必ず貢献できる,
というのが導入の二番目の理由です。ただし,この
点に関する研究は少なく,まだ不十分です。セリフの音読
という手段による意味生成が,自分の言葉となる経過に
パフォーマンス系の英語授業がどう貢献できるかです。


3.政府による「グローバル化」などという方向付けを
待つまでもなく,これまでの言語知識教授に偏る
英語教育が,現代の要請にマッチしないのは明らか
です。しかし,グローバル化の具体論があまりに乏しく,
「リスニングを増やせばよい」,「コミュニケーション重視を」
「学校英語開始年齢の引き下げよ」いう議論に終始している
という印象です。

Drama (Theatre) in Educationなどの研究と実践が
今後の日本の外国語(英語)教育には必要ですが,
守田さんが,メモの最後にお書きの点が非常に大切です。
「演劇を導入すれば全て解決」などということはなく,それを
支える日常的な教育が必要ですね。文法も和文訳もテストも
です。このご意見には深く賛同します。
(詳しいことに関心をお持ちの方は,ご連絡ください)

(以上)

2014年10月29日水曜日

第11回質的心理学会に参加して

 2014年10月18日~20日に松山大学で開催された「第11回質的心理学会」に参加した。松山の温かな雰囲気に癒されるのと同時に、学会では普段質的分析をしていて感じるもやもやが溶ける思いがした。刺激的な発表が多く、当日に購入したB5ノート30枚をすべて使い切る程メモを取った。
以下に記すのは、学会で発表された内容や議論になった点で、特に私が重要と思った点である。ここに記される以上、私の興味・関心に応じたもののみ選択されている点をご容赦願いたい(と同時に、私という語り手の視点が中立になりえない事実こそ、学会で学んだことである)。


【1.質的研究とは】


 質的研究を行う際大事なのは、現場で起きていることを尊重する態度であろう。この点については学会中に何度も実感した。本章は、詳しい方法論や分析時のポイントを紹介する前に、現場優位の原則とアートとしての質的研究の特徴をまとめる。


■ 現場優位の原則

1. 既存の枠組みを括弧に入れて、事象そのものへ

 質的心理学の概説書には現象学というページが設けられていることが多い。現象学は「事象そのものへ」というように、既存の理論や枠組みをいったん括弧に括って現象に着目することで、既存の枠組みや理論で説明できないことを扱う。もちろん先行研究のレビューや「巨人の肩に立つ」姿勢も、研究コミュニティ中に自分の研究を位置づけるために必要な手順である。しかし、既存の枠組みは同時に先入見を与える。先入見は、現象を観察する以前に持っている枠組みのことで、時に現象と観察者の間の靄 (もや) の役割をする。オーストリアの哲学者であるフッサールは、そのような先入見をいったん括弧に括り (epoche) 、起きている現象をなるべく忠実に観察する必要性を説いた。

同様に質的研究でも、「これまでこのような理論が提唱されているから」とか「先行研究では・・・・・・といわれているから」という枠組みは(もちろん重要だが)いったん括弧に括り、現象(多くの場合はデータ)を観察して丁寧に記述することが求められる。

2. 分析手法は現象が教えてくれる

 私が昨年質的研究に関する勉強をしていたとき、「この通りに分析すればよい」という決まった手順があまり示されておらず、途方にくれた経験がある。これについて、西村ユミ先生 (首都大学東京) は、質的研究に定まった分析手順はなく、現場の特徴が分析の視点を示すと言う。もし現象の様式が会話であれば会話分析を使うだろうし、あまり理論化されていないものであれば*GTAを用いて理論生成を試みたりエスノグラフィー的な詳細記述をしたりするだろう。分析者が「今回はGTAを用いて行おう」というつもりで現場に行ってしまうと、既に先入見がついた状態で現象を見ることになってしまうかもしれない。なるべく現象を観察した後に適する分析手法を選択することが良いだろう。


■ アートとしての質的研究

 山崎浩司先生 (信州大学) は、質的研究の「技術」はどう訳すかという問題に対して、techniqueでなくartと訳すべきと主張する。technique はある程度体系化されているため、決められたとおりの手順を踏めば習得しやすい。artは芸術的なもので、一筋縄でできるようになることはない。ちょうど芸術家が決まった手順に沿って作品を作らないのと同じで、質的研究者もただ手順に沿って論文を書くのではない。何度も同じデータにぶつかりながら、徐々につかめるものであろう。

 セミナーの帰りにお話させて頂いた先生も、質的研究の勘所はすぐにつかめるものではなく、もがきながらぼんやりと見えてきたと仰っていた。分析しながら得られた感覚が、最終的に血となり肉となるまで繰り返す必要があるそうだ。


【2.実践編】

■ インタビューを「きく」こと-「きき手と語り手の協働構築物」としての語り

 インタビューを「きく」という行為は、受動的な「聞く」 (hear) であり、かつ能動的な「聴く」 (listen to) である。以下、「きき手」は「聞き手」と「聴き手」の両方を指す。
「聞く」は相手が語るのをただ黙って待つ段階である。語り手が主体であるインタビューでは、インタビュアーが話しすぎるのではなくできるだけ相手の話を引き出すことが望ましい。ここでは聞き手の姿勢が重要である。岸衛先生 (龍谷大学) は、あえて力まずに「相手の話を聞いていないように」聞く姿勢を心がけている。そのため、たまに生徒から「先生、本当に私の話聞いてる?」と言われるらしく、それくらい緩やかな空気の方が相手にとって緊張が少なくて話しやすくなることだ。

同時に、インタビュアーは能動的に「聴く」ことも求められる。相手が話すのを聴くときは能動的な意味づけを行う必要があり、例えば相手の「Aだ」という発言を「BではなくAだ」のように反対の項目をあてはめて相対化させるべきだ。たとえば、私は翻訳に関するインタビューを行った経験があるが、相手が「翻訳するときやっぱり意味が正確に伝わってるかが気になります」と言ったなら、「訳文の自然さではなく意味の正確さが気になっている」とまずは理解することができ、それによって「じゃあ訳文の自然さはどうですか」と次の質問につなげることができる。

また、インタビュアーが相手にインタビューする以上、語りに影響を与えることは無視できない。たとえばインタビュアーが使ったことばを相手が使ったり、協力者から逆に「あなたはどう思いますか」と質問されたりする。このとき、インタビュアーの言動が、協力者の考え方や答えを変えてしまうことは十分に考えられる。考え方によっては、協力者の語りに影響を与えないほうが良いといえるかもしれないが、質的心理学では語りを「きき手と語り手の協働構築物」としてとらえており、きき手は語りを共に作る担い手でもある。そのため、きき手はできるだけ影響を与えないようにするのではなく、自らの関心や知りたいことをできるだけはっきりと自覚した上でインタビューを行い、相手に与える影響も自覚しながら分析するべきである。


■ 分析のポイント

1. データは宝!ひたすら読め!

 自然科学のように条件を統一してとったデータであれば理想のデータが取れるかもしれない (憶測だが) 。しかし、人間を相手に収集したデータのとき、必ずでこぼこが見られ、完全なデータが取られることは稀であり、調査者の期待を大きく裏切るデータになることが多い。ではそのようなデータは分析する価値がないのだろうか。

 波平恵美子先生 (お茶の水女子大学) はそうではないという。どのようなデータであっても、調査者の関心(テーマ)に沿っている限り、価値があるものである。その場合は、ひたすら読むことが肝心である。前述の西村先生は、看護士から収集したインタビューデータを現象学的に分析した際は7~8回は目を通したと言うし、M-GTAセミナーの方は10回以上分析ワークシートを直してやっと完成したという方もいた。データの取り方を反省することも大事だが、協力者が時間を割いて得られたデータだからこそ、できるだけ多くを得られるように時間をかけてデータに向き合うのが重要である。

2. 語りの内容のみならず、語られ方に注目せよ。

 桜井厚先生 (立教大学) によれば、従来のライフヒストリー研究では口述のデータの信憑性は低く、主観的なものとされてきた。それに対して、ナラティヴ・ターン以降、ライフストーリー概念が浸透し、語られること (what is narrated) に着目されるようになった。それによって個人の語りにも注目されるようになってきた。

 しかし、先生によれば語られる内容のみならず、どう語られるか (how what is narrated is narrated) も着目する必要がある。たとえば言葉の使い方が特徴的なものがあれば、その人のこだわりが現れているかもしれない。あるいは語りのプロット (語る際の順番など) も、ある共同体では共有されるものがあるかもしれず、その語られ方も文脈として分析に入れることで、より豊かな分析が可能となる。他にも語る際の表情やイントネーション、沈黙の長さなども気づく限りできるだけメモすると良い。

 語り手は語ることに対して意識的になることはある。しかし、語り方にまで意識を向けることは少なく、前意識的 (無意識的) に語り方を調整していることもある。したがって、「あなたはいつも○○の話を最初にしますよね」とか「△△の話をしているとき、表情が豊かになりますね」などの分析は、本人も気づいていないこともあるらしい。(「なるほど、言われて見れば確かに!」と語り手が驚くケースも。)


■ 発表のポイント

1. 相手への説得性を最重視せよ!

 データを分析する際、どのようにデータを提示するかで迷うことが自分もある。たとえば理論化重視のM-GTAであれば生データを提示しないで概念・カテゴリーのみを提示することが多いし、エスノグラフィー的記述であれば得られたデータを提示しながら「データに語らせる」発表をするかもしれない。

 実際、私が特研の発表でGTAの発表形式に忠実に則って概念やカテゴリーのみを提示したら、聴衆から「データを出して欲しい」と言われたことがある。この時の私は、聴衆のことはあまり考えられておらず、自分のまとめたものを出すので精一杯だった。
 しかし、発表の際に重要なのは、いかに聴衆に自分の分析を提示して説得できるか、である。自分が分析した100のうち100全てを出す必要はどこにもなく、説得に最も有利な10(場合によっては5かもしれないし30かもしれない)を出せれば良い。その意味で、発表の場でどのデータを出すかについては、ある程度戦略的になっても良い。


2. 追跡可能性のある発表

 もう1つ重要なのは、追跡可能性の追求である。追跡可能性は、データ分析者が協力者からデータを収集し、分析し、発表するまでの手順を、論文の読み手が頭の中で追体験できる可能性を指す。

 質的研究の場合は、上述の通り確立した手順がないため、ある程度データを読めばカテゴリーを生成できてしまう。しかし、それが本当に納得できるカテゴリーかどうかを読者が判断するためには、分析者がそのカテゴリーを生み出すまでの流れを辿ることが保障されなければならない。たとえば、データ収集の過程 (何回に渡ってデータを収集したか、参与期間はどのくらいか) は明示すべきで、カテゴリー生成の際の手順 (分析ワークシートを作成した、コーディングの単位はどのくらいか) も読み手が知りたいであろう範囲で伝えるべきであろう。


■ メモ魔になること(おまけ)

 松山市の道後公園内の正岡子規博物館を訪れると、彼の幼少期に生んだ俳句から病床の手記まで丁寧に保存されていた。彼の友人である夏目漱石は以下のように評していたと言う。

御前の如く朝から晩まで書き続けにてはこのideaを養ふ余地なからんかと掛念仕る也。

 正岡子規はメモ魔であり、思いついたことをすぐにメモしていた。 (彼の生涯にわたる膨大なメモの一部も展示されていた。) 彼が生涯にわたってあれほど多くの作品を残すことができたのも、ひょっとしたらメモのおかげなのかもしれない。

 質的心理学会で何度も繰り返されたのは、「調査の時はメモ魔になれ」であった。M-GTAでは分析中に思いついたことは「理論的メモ欄」に全て記入をすることになっているが、分析の善し悪しは「理論的メモ欄」の分量が一つの目安になるほど重要であり、分析後半の収斂時に活かせるヒントもそこに眠っていることが多い。波平先生も「フィールドノートは常にかばんのなかに入れなさい」という発言をされており、アブダクション的思考のきっかけはメモ習慣にあるとされた。

 データ分析の糸口も分析をするために机に向かっている時だけでなく、電車に乗っている時やお風呂に入っている時など、ふとしたときにひらめくことが自分もあった。さすがに入浴中はともかく、そういった一瞬のひらめきを逃さないようにメモを取ることも重要である。

今後も質的分析を続けるにあたって、現場優位の法則やインタビューのポイントを意識したい。同時に、分析技術がすぐに体得できるものでないことを自覚して、時間をかけて練習したい。

*GTA (Grounded Theory Approach)
質的研究の方法論の1つで、個別現象をよりよく理解するための理論生成を目指す。GTAの前提として、観察可能な現象が1つひとつ具体的で限定的であることが挙げられる。ただの個別事例の記述なら意味がないように思われるが、すべての現象には構造とプロセスがあるとGTAは想定する。「普遍性」はいえなくても、「典型性」「傾向」なら示すことが可能である。GTAは、過度に誇大な理論 (grand theory) を目指すのではなく、あくまで理論に根ざした理論 (grounded theory) を目指す。 (参考:『外国語教育研究ハンドブック』)

2014年9月9日火曜日

関連性理論まとめ④:encoded meaning と pragmatic inference


どうも~。mochiです。
関連性理論勉強会も第4回になりました。ここにそのまとめを掲載します。

今回は、「記号化された意味」と「語用論的な意味」を中心にまとめています。この区別については、すでにNinsora 君が「Codes and inference」や「コードモデルと解釈モデル」といった言葉でまとめてくれています(し、断然そちらの方が分かりやすいです)。よかったら、そちらも読んでみてください。




■ 単語の意味の3形態

「単語には意味がある。」この命題に疑問をお持ちの方はあまりいらっしゃらないかと存じます。

では、単語には「どのような」意味があるのでしょうか。テクストに沿って、3形態に分類したいと思います。

(1) Some words encode concepts
まずは、概念を記号化したものがあります。たとえば「チョコレート」という言葉を聞けば、私たちが持つチョコレート ( {CHOCOLATE} )という概念が想起されるのではないでしょうか。他にも、「犬」なら一般的に持つ犬の概念、「パソコン」ならパソコンの概念が浮かび上がるでしょう。このように多くの単語は、概念を記号化しています。そして、記号化されているものは、いつどこでその単語が発話されても、同じ意味を持ちます。(codes vs inference を参照)

cf) ウィトゲンシュタインの『哲学探究』の第1節で紹介されるアウグスティヌス(および前期ウィトゲンシュタイン)の言語観もこれに近いのかもしれません。要するに、一対一対応でことばと概念が結び付けられているというものです。これを写像理論といって、前期ウィトゲンシュタインの思想の中心の一つといえます。


(2) Some words ‘point to’ concepts
他にも、単語がある概念を「指し示す」に過ぎない場合もあります。これは主に代名詞や指示語が属し、たとえば「彼」という単語は「その男の人」を指し示します。このとき「男の人」という概念を記号化しているのではなく、特定の男の人を指し示していることに注意すべきです。

ちなみに英語で書くとThe male person でしょうが、この the こそまさに指し示す役割があります。英語は便利ですね。


(3) Some words are vague
これまでは記号化したり指示したりすることができる概念でしたが、意味があいまいな単語もあります。たとえば tall という単語。tall と聞けば、「背が高い」という意味だということはみなさんご存知でしょう。では、何cmから「背が高い」と言えるのでしょうか。あるいはdelicious もどのくらいおいしかったらおいしいと言えるのでしょうか。このように、これらの形容詞はスケール的(定規的)なので、はっきりと「背が高い / 背が高くない」という区別を設けることはできません。なので、単語の中にはあいまいな意味を有するものもあります。




■ 言語的に記号化された意味と語用論的解釈

上の区分に従えば、(1)は「言語的に記号化された意味」で、(2)・(3) は「語用論的解釈が必要な意味」になります。

例えば、ジョンは明日パーティーに来る?に対して、 “He is.” と答えるとしましょう。

この発話において、ジョンがパーティーに来るという意味ということは分かりますが、これは言語学的に記号化された意味ではありません。なぜなら “He is.” という発話は別の場面では別の意味を持ってしまうからです。(例: Is he a student? に対する場合でも He cannot be the culprit. に対する場合でも、 He is . という発話は可能だが、それぞれ異なる意味を持つ。)したがって、"He is." は語用論的解釈を必要とします。(He とは誰か、is の後はどのような言葉が省略されているか、など。)

The best way to investigate this is to look at specific example utterances and identify what parts of their meanings we need to work out in context. In other words, to look at what is involved in pragmatic interpretation at the same time as considering what is linguistically encoded.

この記号化された意味と語用論的意味を区別するためにも、多くの言語使用にあたり、「どこまでが記号化された意味か」を考える癖をつけると良いのかもしれません。

cf) ウィトゲンシュタインが後期に関心を持っていたことの1つに、「以下同様」という言葉の解釈がありました。(野矢 2009 『語りえぬものを語る』参照)

この場合も、「以下同様」という言葉にどれほどの意味が記号化されていて、どれくらい文脈や背景知識から推測しなければならないかを考えると、語用論的解釈の必要性が理解しやすいかもしれません。


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■ underdeterminacy thesis(ガヴァガイ問題)

ここまでくると、私たちは決して文字通りの意味のみを取っていないことに気づきます。これを言語学に持ち込んだのが underdeteminacy thesis です。

There is always a significant gap between what is linguistically encoded and what speakers actually intend by their utterances. Recognition of this gap has been termed the ‘underdeterminacy thesis’ (e.g. by Carston 2002a: 19-30) to reflect the idea that linguistically encoded meanings always significantly underdetermine intended meanings. The gap between what is encoded and the meanings we eventually arrive at is filled by pragmatics inference.

記号化された意味と聴き手が到達する意味には必ず間隙があり、それを埋めるのが語用論的推測であるということです。

言語の非決定性原理で有名なものに、クワインの「ガヴァガイ問題」があります。

Quine uses the example of the word "gavagai" uttered by a native speaker of the unknown language Arunta upon seeing a rabbit. A speaker of English could do what seems natural and translate this as "Lo, a rabbit." But other translations would be compatible with all the evidence he has: "Lo, food"; "Let's go hunting"; "There will be a storm tonight" (these natives may be superstitious); "Lo, a momentary rabbit-stage"; "Lo, an undetached rabbit-part." Some of these might become less likely – that is, become more unwieldy hypotheses – in the light of subsequent observation. Other translations can be ruled out only by querying the natives: An affirmative answer to "Is this the same gavagai as that earlier one?" rules out some possible translations. But these questions can only be asked once the linguist has mastered much of the natives' grammar and abstract vocabulary; that in turn can only be done on the basis of hypotheses derived from simpler, observation-connected bits of language; and those sentences, on their own, admit of multiple interpretations.
http://en.wikipedia.org/wiki/Indeterminacy_of_translation

私たちがある民族のもとに訪れたとしましょう。その民族のことばをまだ理解していません。そこにウサギが飛び出してきました。すると、現地の人たちは「ガヴァガイ!」と叫びます。これを聞いて、私たちはどのように意味を理解するでしょうか。多くの方は「ガヴァガイ=ウサギ」と理解するかもしれません。しかし、他にも「エサだ!」「逃げろ!」「やった!」などと多様な解釈が可能のはずです。

クワインはこの例を通して、ある単語の意味というのが決定されている(一対一になっている)のではなく、非決定的(如何様にも解釈されうる)ことを示そうとしました。私たちが日常行うコミュニケーションとは異なる場面でのガヴァガイ問題でしたが、友達や恋人が言った台詞があいまいすぎて、意味が同定できないという経験は日常にもあふれているでしょう。

そう思うと、もし単語の全てが記号化されていれば(すなわちコードモデル的な言語観であれば)、どれほど便利なのでしょうか。ミスコミュニケーションもおきませんし、情報伝達にはもってこいです。他者とも分かり合うことができるでしょう。しかし、語用論的解釈のおかげで、私たちは文学作品を楽しむことも、わざと曖昧な発言をして人間関係を維持することもできます。また、他者と分かり合えないおかげで、自己と区別を設けることができ、「私らしさ」が生まれます。人間が社会を形成して共生するためには、「分かり合えない」「誤解をする」といった機能が言語には組み込まれているのかもしれませんね。そう思うと、人間の言葉って良いですね。[だんだん感傷的になってきたので、急いで次の章へ。]

■ コミュニケーションの不思議あれこれ

最後に、コミュニケーションの不思議あれこれと題して、以下の2つの問いに対する答えを探しましょう。

(1) 私の発話はすべて私の考えか。
私が話していることなのだから、全て私の考えていることに決まっているではないか、と反論が出るかもしれません。しかし、言語には引用の機能もあるため、以下のBの発話が曖昧性を持ちます。

 A: 「タケシ、その時何て言ってた? (What did Takeshi say?)」
 B: 「お前、鼻に泥がついてるよ (You’ve got a dirt on your nose.)」

では、このBの発話は誰の考えなのでしょうか。2通りの解釈が可能です。

解釈(i) タケシがそう言った  Takeshi said to B that B had got a dirt on my nose.
解釈(ii) Bがそう言った    B said to A that A has got a dirt on A’s nose.


解釈 (ii) は確かにB自身の考えですが、(i) はTakeshiの考えを引用してBが述べています。難しいのは、これらを区別する方法が言語自体を解析するだけでは存在しないということで、これにも語用論的解釈が必要となります。



(2) 皮肉はなぜ皮肉と認識されるか。

ハリーポッターという作品には皮肉が随所にこめられているように(一読者として)感じます。特に皮肉屋さんなのはスリザリンのドラコ・マルフォイで、たとえばハグリッドが生物学の授業用教科書として指定した「怪物的な怪物の本」を見て、マルフォイは「たしかに素晴らしい教科書だよ。人を噛み付くなんてさ」といいます。(正確な引用ではありません。ご勘弁ください。)

多くの読者はこれを読んで、「出た!マルフォイの皮肉w」気づきます。しかし、どのようにして皮肉を皮肉だと認識しているのでしょうか。

関連性理論のテクストでは、ある発話が実際の発話者以外の人の発話と認識されたときに成立するとされます。

先ほどのマルフォイの例でしたら、「すばらしい教科書」の発言は明らかにマルフォイの内から発せられたものとは考えられません。おそらくハグリッドであったり、あるいはハグリッドを慕うハリー・ロン・ハーマイオニーの誰かであったり、特定はしていなくても人を噛み付く本を素晴らしいと思う人物(マルフォイはその人のことを見下すでしょうが)を想定していたり、とにかくマルフォイは先ほどの台詞を他の人のものとして発しています。だから読み手も、「これはマルフォイが他の人の立場で言っているから、皮肉なのだろう」と解釈することになります。





以上、関連性理論まとめノート第4弾でしたっ!

次回は、mochi ・ Ninsora のお互いの研究分野(翻訳論・沈黙)に関して、関連性理論を用いた論文を読んできてレビューするという予定です。これまでは関連性理論の基礎部分を扱ってきましたが、少しずつ自分たちの専門分野と関連付けて理解できればと思います。

それにしても、夏休みがあっという間にすぎていきますね。翻訳学会、探究読書会合宿、ミニ特研発表、バイトの研修など盛り沢山で正直焦りを感じていますが、社会に出ている友人たちは既に二学期が始まっているわけであまり泣き言を言ってられないですね (--;)

ご機嫌よう~。


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2014年9月2日火曜日

関連性理論まとめ③

こんにちは。昨日Mochi君の家の大掃除をした結果、腰を痛めてしまったNinsoraです。
でも、たまにするハードな運動っていいもんですね。久しぶりに色んな汗をかきました!!

先日から関連性理論勉強会はBilly Clark (2013)Relevance Theory (Cambridge University Press) を読みはじめました。
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今回はPart1 Overview 1. A First Outline を途中まで読みました(遅々とした進行で申し訳ありません)。
1.1 は関連性理論のoutlineoverviewということですっ飛ばして、今回は1.2からまとめたいと思います。
間違い等あればご指摘願います。
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1.2 Expectations and meanings: a short summary

intentional communication gives rise to expectations which help us to decide what the communicators intends to convey.

意図的なコミュニケーションが取られた場合、受け手は「発信者が何を伝えようとしているのか」を考えます。1.2では、そのときのexpectationmeaningに焦点を当てて、関連性理論で重要となる部分を簡単に説明します。

1.2.1 Creating Expectations

相手にとって関連性のある発話とは何か。
ということを考えるときには、次の例を考えると良いかも知れません。

(1) a. この文を読んではいけない。あなたには関係ない。
   b. Pay no attention to this utterance. It has no relevance to you.
   c. لا تولي اهتماما لهذا الكلام. ليس له أهمية لك.

母語が日本語の人なら、以上の3つが並んでいた時に一番初めに目に飛び込み、意味を理解するのは恐らく1aの文です。
ほとんどの日本人にとって、一番関連性が高いのは1aの発話というわけです。
しかし、日本語を勉強したことのない英語母語話者が1aを見たとしても、(日本人のほとんどが1cに対して持つであろう印象と同様に)1aは無意味な文字の羅列としか認識されないでしょう。
このように、発話の内容以前に、受け手が理解できる言語でなんらかの発話を行ってしまえば、その時点でその発話は相手にとって関連性があると言えます。
逆に言えば、同じ発話を行っても、その関連性の程度は相手によって異なるということです。
誰かとコミュニケーションを取ろうとするとき、情報の発信者は「この情報は受け手にとって関連性が高いだろう」という前提のもと発話を行いますし、聞き手としても「相手は何らかの意図があって情報を発信しているのだろう」という期待のもとその発話を受け取ります。
私たちが通常行うコミュニケーションは、このような相互の期待の下で行われます。
私たちのコミュニケーションを、以上で述べたような直感を精緻化(elaboration of intuition) させる形で理解し、また説明しようとするのが関連性理論だということです。


1.2.2 How do we know what we mean? ― 関連性理論が明らかにしようとする問い

(2) a. 私たちはどのようにして、直接的に伝えられていない意味を理解するのか。
How do we manage to understand meanings which are not directly communicated?
b. 私たちはどのようにして、発信者が直接的に伝えようとしている命題を理解するのか。
How do we work out which propositions communicators are directly communicating?
c. 私たちはなぜ時々誤解しあってしまうのか。
Why do we sometimes misunderstand each other?

例えば、売店でチョコレートを2個買おうとしたとき、おばちゃんに次のように言われたとします。

(3) They’re three for two just now.(今なら2個で3個だよ)

この発話だけを見ると、何のことを言っているのか全く分かりません。
しかし、「このおばちゃんは値段のことを言っているんだな」「チョコレートの話をしているんだな」「このおばちゃんは親切にも僕が損をしていることを教えてくれたんだな」というようなことを私たちは瞬時に理解します。
これはなぜなのでしょうか(2a)

 また、私たちは(3)の発話だけで、「セール期間中のこの店で、といってもこのセールもそんなに長く続かないんだけど、あなたはセール商品のチョコレートを2個買おうとしているけど、実はそのセールっていうのは今あなたが持ってきたチョコレートなら3個買っても1つ分の料金はいらないっていうきゃんぺーン内容だから、今なら2の値段3のチョコレートを買えるよ。」というような、省略された長々とした暗黙の想定を補い、おばちゃんの伝えようとする命題を理解します。
これはなぜなのでしょうか(2b)

 また、おばちゃんは親切で声をかけてくれたのにも関わらず、「何を言っているんだろう」「誰に言ってるの?」「俺を馬鹿にしているのか?」というような誤解が生じることもあります。
このような誤解は日常のコミュニケーションにおいては(少なくとも僕にとっては)珍しくありませんが、これはなぜ起こるのでしょうか(2c)

今後関連性理論を勉強していけば、これらの問いについても分かるんだろうと思います。(遠い目)

1.2.3 Guiding interpretations

(4) The key idea within relevance theory is that addressees begin by assuming that the communicator has an interpretation in mind which justifies the expenditure of effort involved in arriving at it, i.e. which provides enough cognitive rewards for it to be worth expending the mental effort involving in reaching it… This could be understood as resting on assumptions about what it is rational for communicators to do and for addressees to expect.

これは上で述べたことと似ています。要は、受け手は「発信者は私に関連のあることしか言わないし、無駄に注目させたりはしないだろう」という期待をもって発信者に注目するということです。
別の言い方をするならば、聞き手は「注目させるからには何かあるんだろう」という予測をもって発信者に注目するということです。
このことは、私たちが子どもの頃にして怒られたあの悪戯を思い出せば分かりやすいと思います。

(5) A: ねぇねぇB君!
B: 何?
A: 呼んだだけ~!!!!!!!!!!
B: (イラッ)

B君がイラッとしてしまうのは、「注目させるからには何かあるんだろう」というB君の期待(想定)をA君が裏切り、処理労力に見合わない認知効果しか得ることができないからだと考えることができます。

1.3 Sentences, utterances and prepositions

 ここで、key termとなるいくつかの語の定義を明らかにします。

ambiguous
日常的な用法では、単純に一つ以上の意味を持つことですが、言語学的には「一つ以上のコード化された意味を持つこと」をambiguousといいます。
即ち、通常ambiguousとは情報の受け手がdecodeする際に「いくつか解釈ができるけどどれなんだろう」と感じるものであるのに対し、言語学的なambiguousとは、情報の発信者が頭の中で考えていることをencodeする際に「こうともとれるし、こうともとれる」というような複数の意味を込めたもののことを指します。

utterances
ここでのutterancesとは、耳や目で物理的に知覚されるメッセージのことで、特定の人が特定の時間に、特定の場所で発したものを指します。
全く同じ発話をしても、場合によっては受け取られ方が異なることもあるのが特徴です。
つまり、思っていることを声に出したり、文字に書いたりしたら、それらはその時点で全てutterancesになります。

sentences
ここでのsentencesとは、言語化される以前のことばのことを指します。
だれかが以前使用したかもしれないし、何度でも使用することができる、言語学的な抽象概念です。
sentencesの全てがutteranceになるとは限らず、utteranceになったとしても、それはsentencesとは本質的に異なったものになります。
先ほどのutterancesの説明と絡めて考えると、このブログにsentencesは一切存在せず、全てutteranceで構成されていると言えます。

preposition
ここでのprepositionとは、一言で言えば論理的性質のことです。
utteranceを手がかりに、そのutteranceを特定的・具体的に再現します。
utteranceに出てきた代名詞や代動詞などを具体的に補うイメージです。

先生に英作文の問題を添削してもらって、 “This is not a sentence.”という訂正のコメントを貰っても、“Yes, of course this is not a sentence. This is an utterance.”と返せば言語学的には正解になるんだね、と言ってMochi君は笑っていました。(笑)

1.4 Communication and cognition: a fuller overview
1.4.1Linguistic and non-linguistic communication

 言語学が答えを求める問いには、言語とは何か、どのように言語は習得されるのか、どのように言語は使用されるに至るのか、といったものがありますが、「言語」というものを考える時、どのように音声・文・動作といったutteranceを他者に理解させるかというという問いは有効です。
特に関連性理論では、ことばの意味と関連性をどのように理解し、utteranceが何を意味するのかという、いわば発話の目的を説明することが目的となります。
1.4では主に、コミュニケーションと認知についてざっと説明します。

1.4.2 Codes and inference

 以前のまとめでも少し述べましたが、ここではcodeinferenceについておさらいします。
コード(code)とは、常に特定の意味やメッセージを全く同じように伝達するものです。
信号機やルーモス信号がコードの例です。
日や気分によって、赤信号が「進め」になったり、SOSI Love Youという意味になったりはしません。
対して推論(inference)とは、コード化された言葉と発信者が伝達しようとする意図の間にあるギャップを埋める認知プロセスです。
私たちが推論するとき、その発話の前にあるいくつかの前提を下に結論を下します。
三段論法みたいな感じですかね。

 例えば、上司がAさんに「この部屋、暑いね」と言ったとします。
事実として部屋は暑いのかもしれませんが、上司が伝えようとした命題は他にありそうな気がします。
ここに発話と意図のギャップがあり、それを推論で埋めるわけです。
Aさんは、「確かにこの部屋は暑い」「この上司は暑がりである」「この上司はいつも遠まわしに依頼をする」「この上司は冷房の風が苦手だ」といったような様々な前提から、「窓を開けましょうか?」と提案するに至ります。
関連性理論は、まさにこのプロセスのところを説明しようとするわけです。

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今回は前回までのおさらいのような感じでした。
今後詳細に読み進めて、またUPしていこうと思うので、今後ともよろしくお願いいたします。

2014年8月30日土曜日

熊倉伸宏 (2002) 『面接法』 新興医学出版社

こんにちは、mochiです。

最近、久しぶりに高校の頃の友人と会うことができました。お互いの道を進んでいると実感し、自分も負けられないと思いました。

さて、今日は熊倉伸宏さんの『面接法』という本をご紹介いたします。熊倉さんの本は、以前ゼミの先生の紹介で『肯定の心理学』を読んだのがきっかけで、前から興味がありました。本書は採用試験の関係で帰省する新幹線で読んだのですが、方法論の羅列ではなく、面接にとって大事な心構えも多く述べられており、とても面白く読めました。本書が分かりやすいので、かなり上手くまとめられた部分も多かったのですが、ここでは敢えて私の関心に応じて「他者」意識を軸にまとめております。

面接法
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こころの問題に興味をお持ちの方は、どうぞ手にとって頂ければと思います。


1.面接(者) とは


■ 面接家は専門家だが、完全な存在ではないことを自覚する必要があり、理論のみならず来訪者という人間を目の前にしていることを忘れてはいけない。

私たちからすれば、「心の専門家」なら悩みや不安を何でも解決してくれるイメージがあるかもしれません。しかし、このような考えを熊倉さんは強く戒めます。

そもそも優れた面接者とは何であろうか。…もともと、自分に人を癒す能力などあるはずはないし、いつ誤りを犯すか分からないと思っている人、要するに、「私のような凡人に出来ることは、相手の話をよく聞くことと、十分に学ぶこと以外にない」、そう思っている人ではないだろうか。 (p.8)
私にとって優れた面接者とは、著名な人の言葉と、目の前にいる来訪者の言葉が同じ重さを持っていることに気がついている人たちであった。(p.9)

専門家であれば多くの理論や専門知識を自分のものにしているはずですが、その前提で目の前にいる来訪者を丁寧に見られることが必要です。なので、日常語と専門語の両方で考えることが求められます。

日常語は、ウィトゲンシュタインやクワインが指摘する通り、常に意味が単一に固定されるのではなく、使われながら意味が変わっていきます。「死ね」という言葉ももともと相手に命を絶つよう命令する文のはずですが、子供たちやテレビの出演者が使ううちに意味が弱くなっていき、もともとの強烈な意味は (少なくとも「死ね」という当の本人たちの中では) もうありません。

それに対して、専門語は定義が求められるため、単一の意味しか持ちえません。私の研究論文で「翻訳」ということはがでたら、少なくとも論文中で定義した意味以外では用いてはいけません (そうでないとしたら批判がくるでしょう) 。そのため論理的な思考には専門語は向いています。しかし、先ほどの日常世界とは少し離れているようにも感じられます。

このような日常語と一般後の兼ね合いについて、熊倉さんは以下のように補足しています。

来談者は、日常語で生活の問題を語る。その訴えには色々な意味が含まれているので、面接者は、専門語を道具として、来談者の訴えの多義性に切り込んでいく。そして、訴えの背後にある日常的な問題を、専門語で捉えようとする。(p.73)


■ 来訪者を対象化するのではなく、関係性の中で相手をする。

大学院の授業で「切断の論理」と「関係性の論理」という言葉を知りました。「切断の論理」とは物事を対象化して、わたし(主観) がその対象 (客観) を観察するという構図で把握されますが、「関係性の論理」はわたしと対象のつながりを重視するという立場になります。たとえば、学校教育でも、生徒の偏差値や出席日数、宿題の提出率を以って生徒を客観的に把握する (切断の論理) ことも可能かもしれませんが、わたしという一教員がその生徒とどのような関係性の中で何を評価するか (関係性の論理) も考慮することはできるでしょう。

もちろん、面接者は「関係性の論理」によって面接を行わなくてはなりません。

英語で面接をインタビュー inter-view という。人と人が互いに顔を付き合わせるという意味である。対等に出会い、話し合い、問題解決を目指す。…彼らは、決して、単なる観察対象、モノではないのは、当然である。来談者を技法の対象、観察対象にすることで、失われるものがある。対象化した時に見えなくなるものがある。それは、来談者の生きた声である。 (p.15)


2.面接における他者


■ 面接家は、「ほどよい他者」くらいの距離が良い。

面接者は来談者の心に寄り添うことがもちろん必要ですが、かといって完全に来談者と同調し、同一化してしまっては相談の意味がありません。やはり面接をするからには、面接者は相手にとっての「他者」である必要があります。かといって、あまりに異質な「他者」であり続ければ、来訪者は(特に初回面接で)不安に感じてしまいます。そこで、丁度良い「他者」である必要があります。熊倉さんは、自己と他者が一体と感じつつ(共感しつつ)も「他者が居る」という感じを与えることが必要と言います。

共感ばかりであっては、いつまでも、「私たち」から抜け出せない。自分が感じられないし、そこに他者がいるという手応えもない。「一人ぼっち」ではなくて、「二人ぼっち」の孤独感が生ずる。逆に、あまりに距離感が遠く感じられると、本当に、「一人ぼっち」になる。付かず離れずの、適当な距離が必要なのである。自己と他者としての節度が、必要なのである。 (p.56)

では、どのようにすれば「ほどよい他者」になれるのでしょうか。中庸を目指すというのは常に難しいことですが、本書では「適切な問いを発すること」が具体例として挙げられています。面接の場では、来談者が語る上で自分に関するストーリーを持っており、彼(女)の語りを通して面談者もストーリーを思い描きます。両者のストーリーは完全に一致することはほぼないと言えるでしょう。面談者は語りという限られたメディアを通してストーリーを形成するわけなので、常に「わからない部分」が生まれます。したがって、そのわからない部分を明確にして相手に問うことで、面談者は少なからず意外性を感じます。それは自分にとってあまりに些細なために意外なのかもしれませんし、自分が思いも付かなかった点を聴かれたためにそう感じたのかもしれません。しかしこの意外性が、眼前に「他者」がいるという実感を与えます。

「よく聞いてくれる」という実感を来談者が持つときには、些細な問いが縦横にめぐらされた会話が成立している。来談者の話の邪魔にならないように、要所で、新しい問いを立てる。その問いの意外性こそが、他者が共に居るという手応えである。こうして、すべての問いが、一つの仮説的ストーリーをめぐって構造化され、一つの大きなストーリーへと結晶して行く。 (p.60)

これはカウンセリングという特殊なインタビュー形式のみならず、友人と会話をしている時もそうなのかもしれません。映画を見に行ったときに自分と全く同じ感想を相手が仮に持ったとしたら、おそらくあまり楽しくはないでしょう。同じ映画を見ても感想や解釈が異なるからこそ、自分とは異質な他者であることを私たちは実感しているのではないでしょうか。



■ 他者は無際限性を有している。

無際限性とは、「人とは基本的に捉え尽くせないもの、無限なもの、『分からない』もの、謎である」 (p.76) ということで、さらに換言すれば「他者は分かり合えない」というこのブログのおなじみのテーゼに向かいます(笑)。他者はもともと完全に分かることはできないという前提を持っておくことが重要で、この前提があるかないかで、信頼感が大きく異なります。

この点は、本書の話題からずれますが、もう少し述べたいと思います。

たとえば、ニクラス・ルーマンが援用したスペンサー・ブラウンの記号を用いれば、「他者のストーリーを分かる」というのは、他者の語りを理解する結果(観察した結果)になります。観察では、「他様でもありえたストーリー」は盲点となるので、まだ分かりきっていないことになります。



この観察を2回続けたとしても、まだ分かっていない部分があります。この観察を何回続けても、やはり「他様でありえたストーリー」や「分からない部分」は残り続けます。つまり、どれだけ面接者が来訪者の語りを聞いて観察し続けたとしても、相手について完全に理解しきるということは、原理上ありえず、むしろ「分かりきれない」からこそコミュニケーションをしているのではないかという気さえします。(なので、この「無際限性」こそが、社会システムの構造上の欠如 (Defizit) ではないかという気がしていますが、あくまで自分の主観です。)

ただ、「分かりきれない」からといって他者理解が不可能とは言うつもりはなく、この観察を何回も続ければ、少しずつ他者に関するストーリーを更新することができるようになり、他者理解へとつながるはずです。しかし、来談者のことを何でも知ってやろうと考えてしまうと、相手は窮屈に感じてしまうかもしれません。だからこそ、他者を完全に理解することはそもそも不可能という前提を有していることは重要でしょう。

では、どのようにして無際限性を克服するのでしょうか。面談者はそのためにも、構造化された観察を行います。構造化された観察とは、面接前に定めた観点に基づいて観察を行うことで、これによって本来は複雑性の高い他者(メディア)を、1つのストーリー(フォルム)へと複雑性の縮減を行うことで、理解しようとするわけです。



■ 不在の他者にも目を向ける

さて、他者を「眼前」「不在」「非存在」の3区分でとらえることにします。「眼前の他者」とは目の前にいる他者で、来談者にとっては同じ空間を共有する面談者になります。それに対して、「不在の他者」は存在はしているけれど目の前にはいない他者、非存在の他者とはそもそもいない他者です。前節までは他者としての面接者(眼前の他者)に関して述べてきましたが、それ以外にも、「不在の他者」にも注意すべきです。面接者にとっての不在の他者とは、家族や友人はもちろん、カウンセリングに関する師匠や先生、さらにユングやフロイト、河合隼雄といった著名人も含みます。彼らの影響があって今の面接者ができているのであって、彼らの影響を排除することはできません。それと同様に、来訪者にとっても、面接室という場には存在していないとしても、彼らに影響を与える人間はたくさんいるわけで、面接ではそんな不在の他者についても話します。すると、不在の他者に関する話をすることで、来訪者自身の内面が投影されます。面接者はその語りに耳を傾けることで、来訪者の内面を一種のメタファーとして推測します(ストーリーの形成)。

面接の場には、時に応じて多彩な「不在の他者」が登場する。そのお陰で、面接室は、あたかも多くの人たちの心が充満した世界のように、時々刻々と多彩に変化する。(p.68)


3.他者を「分かる」ことと「受け止める」こと


熊倉さんは、面接を大きく2区分するとしたら、「分かる」段階と「受け止める」段階と言います。

■ 「分かる」段階:相手についてのストーリーを読むことで、そのストーリーは常に更新される。面接者はできれば希望のストーリーへと導く。

「分かる」とは、来訪者のストーリーを読むことで、無際限な他者を少しでも理解するために面接者は来訪者についてのストーリーを紡ぎだします。ここで重要なのは、ストーリーが面接中にどんどん変容するということです。たとえば、来訪者Aさんは友達とケンカして面談者を訪れ、「あいつなんか死ねばいい」と何度も言うとします。しかし、Aさんが言葉で発する「訴え」と彼が本当に心の中に持っている「来訪理由」は区別しなければなりません。これらの区別をすることが面談者の「理解」であって、これをルーマンのコミュニケーションの三極図で表すと以下のようになるでしょうか。



面接者は、「あいつなんか死ねばいい」という言葉もそのまま受け取るのではなく、彼がこの言葉で私に伝えようとしている本当の気持ちは何かを推し量ろうとする必要があり、そこにストーリーが生まれます。そのストーリーとは「Aさんは本当に死んで欲しいと思っているわけではないかもしれない」と最初に思いついたとしましょう。すると面接を続ける中で、「仲直りできない自分が悔しい」という言葉がAさんの口から出てきます。すると先ほどのストーリーは「Aさんは仲直りできない自分が悔しくて、その思いを友人に投影しているかもしれない」というストーリーに更新されます。また、「早く仲直りしたい」とAさんが言えば、「仲直りもしたいと思っている」とストーリーが追加されます。このように刻一刻とストーリーは更新され続けます。先ほどの「適切な問い」の話でも出ましたが、面接者自身がそのストーリーを自覚しておけば、そのストーリーでまだ分かっていないことを相手に確認できます。


来訪者も自分についてのストーリーをおそらく立てていますが、その多くは悲観的なものかもしれません。そこで面接者はそのストーリーを少しでも希望あるものに導くべきです。

面接が進行するに従って、ストーリーが展開していく。面接では、人は大抵、絶望か不信のストーリーを持って来談する。面接者が、そこに希望のストーリーを読み取ることが仕事である。 (p.80)

そして相手のストーリーを更新するには、面接者と来談者の信頼関係が必要となります。

可能なストーリーは無限にあっても、固定したストーリーを持ち続ける。例え不幸なストーリーでも、自分が信じ込んでいるストーリーを捨てることは、大変な痛みや不安を伴う。自己の大きな変革を求められるからだ。
だから、新しいストーリーが読み取られるには、面接者と来談者の信頼関係が必要なのである。面接者が「一緒に見ること」、「見守ること」が重要なのである。 (p.81)

他にも熊倉さんはストーリーには「生きたダイナミズム」 (p.83) があるといいます。ストーリーが静的 (static) ではなく、常に移り変わるものである点を言い表しているのだと思います。

さて、先ほどのAさんのストーリーも更新され続け、ついに「なぜ人は分かり合えないのだろう」という問いを彼が抱えていることがわかったとします。これはある意味で人生の究極の問い (Question of Life) といえそうで、とてもすぐに答えが出せそうにありません。この段階まで言ったら、「分かる」段階から「受け止める」段階へと移行すべきでしょう。(もちろんはっきりとした線引きはできませんが。)




■ 「受け止める」段階:来談者が究極の問いを立てたとき、面談者にできるのは「受け止める」ことである。

先ほどの「分かる」段階では、相手のストーリーを読み取るために対等な信頼関係を持つ必要がありました。ここでストーリーを更新し続けると、来談者が究極の問いを発していることに気づくかもしれません。

面接が対等な話し合いであるという意味は、来談者の主張・問い掛けの方が、面接者より深い場合があるということである。面接者が来談者に問い掛けるだけではない。来談者の問い掛けの重みに気付くことが大切なのである。 (p.86) 
実は、面接が、面接者さえ答えられないテーマへと展開すること自体は、驚くべきことではない。それは、むしろ喜ぶべきことである。...
その時、来談者は、初めて、自分が抱える困難を、自分の問題として語りえたからである。来談者の訴えが本当に解決困難であると面接者が感じたとき、面接者は、もっとも大事な点を理解したのである。この時、人生上の対等な者同士として話し合い、その重さを分かち合う所まで、ようやく二人で来たのである。 (p.86)

もしかしたら傲慢な自分であれば、「ああ、人は分かり合えないというのは、○○理論で説明できます。それは~~」と偉そうに語ってしまったり、「そんなのどうせ私たちにはわかんないですから、考えないほうが楽になれますよ。」と会話を停止させてしまったりするかもしれません。これらは来訪者のストーリー更新を止める行為であり、本記事の冒頭で述べたとおりもっと謙虚になる必要があるでしょう。

では、このような究極な問いが出たとき、面接者に出来ることは何でしょうか。それは、「一緒に見る」ということです。たとえば、Aさんに対して、「なぜ人が分かり合えないか、ですか。それは私にも正直言って分かりません。一緒に考えてみませんか。」と伝えることが考えられます。これはAさんの問いに対する一問一答にはなっていませんが、Aさんは「見守ってくれている」と感じるかもしれません。私たちはそのような究極な問いを前にすれば、誰しも1人の人間で、各々にとっての正解を持っているが究極な答えなど見つかるはずもありません。ならば、お互いの思う正解を出し合ったり。一緒に問いに向き合うことが必要でしょう。このときは、面談者と来訪者の間に人為的関係や上下関係は一切なく、究極な問いを前にした対等の2人の存在です。

すると、それまで自分の自身のなかった来談者も、少しずつ「自分」の意識が形成されるようになります。

「私にもわからないことだから、一緒に見ていこうね」と告げたとき、来談者は、「本当に、先生でも分からないのですか」と驚く。そして自責から解放され、自分で考え行動し始める。面接者は、一緒にいて、ただ見守る立場でいればよい。来談者が「見守ってくれた」と感じればよい。比喩であるが、一人歩きし始めた幼児は、親の不安を面白がって冒険する。それでも何時も親の視線を感じている。「一緒に見る」時期に、この「一人歩き」が始まる。謎の存在への洞察において、はじめて、心の深い部分において、「自分」の意識が形成される。 (p.92)

「一人歩き」の段階までいけば、もしかしたら自立への道はだいぶ進んでいるのかもしれません。ここでカウンセリングは終わるかもしれませんし、まだまだ続くかもしれません。一ついえるのは、最初のAさんよりも明らかに成長しているということではないでしょうか。


4.感想


上のまとめは、本当に自分の恣意的な解釈に基づいているので、少しでも気になった方はぜひ実物をご覧頂きたく存じます。

さて、本書を読んでいてまず思ったのは、熊倉さんの面接に対する謙虚さです。本書は方法論を紹介しつつも理念部分や考え方などを中心にまとめられていましたが、「絶対的な方法などそもそもない」「面接者は目の前の一人の来訪者に対してできることをすべき」という考え方が通底していたように感じます。改めて、臨床心理やカウンセリングという世界が複雑なものであることが少しでも知れてよかったです。

また、上で述べられることはある程度、教育にも当てはまるのではないでしょうか。もちろん教師には母性的原理のみならず父性的原理も兼ね備えておく必要があるでしょうから、常に相手を待つということはできません。しかし、非行少年の更生などを学部時代に学んだときにも思いましたが、人の成長はそんなに早く起きるわけはなく、植物が生長するのと同じでとても時間がかかるものではないでしょうか。だからこそ、教師には待つことがどうしても求められる気がします。(とすると、いついつまでにこれだけ達成する、というビジネス的な数値目標の立て方がどこまで教育学で通用するのか、疑問に思います。)

私もカウンセリングに行ったことがありますが、そこでは自分の話を丁寧に聴いてくださったという印象が強かったです。また、「不安があるときどうすべきか」という悩みに対しては、「点数をつけてみるといい」とか「ノートでグラフをつけると、自分が不安になるときの傾向が分かってくる」などと今でも実践しているアドバイスも頂きました。本書を読んで、改めてカウンセラーの方々があの時にどのようなことを考えたらっしゃったのかが少し分かった気がしますが、やはりすごいな~と素人目線で思う限りです(笑)

本書はとても印象深い言葉が多くありましたが、もっとも印象に残った一節を最後に紹介します。傷ついた相手にどう接するか、という話です。

第二段階で面接者に求められるのは共感である。しかし、面接者は共感という言葉を不用意に用いすぎたようである。共感とは、「辛いだろうね」とか、「分かる」という言葉を口にすることではない。大体、本当に辛いと共感できるならば、傷口に触れるような安易な言葉は避けるがよい。安易な共感は相手には哀れみと受け取られ、哀れみを掛けられた者は、そこには隠された軽蔑があることを鋭敏に感じ取る。そして、自分を惨めに感じる。慰めの言葉は相手を十分に理解した上で用いなくてはならない。...
共感という言葉に値するのは、来談者の抱えた解決不可能な課題から、面接者が眼をそらさなかった時である。解決不可能な問題にであったという驚きは、「深い」心の相談でもっとも重要な所見である。その時でも、その困難から身を引かずに、「一緒に見ていきましょう」と言い切れば、本当に共感したといえよう。 (p.91)

本当に傷ついた相手の力になるには、相談に乗る側もある程度コストを払わなければならないわけで、甘い言葉を2,3かけるだけで済むわけではないということでしょう。この点については、熊倉さんの『肯定の心理学』でより深く考察されています。私が「ことば」というものに関心をもったきっかけの1冊で、「こころ」や「コミュニケーション」などの問題を考えるのにも良いと思います。こちらもぜひ読んでみてください。


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2014年8月17日日曜日

ビルドゥングスロマンとしての『思い出のマーニー』

こんばんは、mochiです。この1~2週間、色々なことがありました。文芸翻訳のワークショップ、教育哲学の集中講義、オープンキャンパス、全国英語教育学会、帰省、学部の友人との飲み、小学校コースや社会科教育コースの友人との飲み...。たくさん書きたいことがあるのですが、とりあえず最近観た映画の感想を書くことにします。笑

『思い出のマーニー』という映画を観てきました。本作品は、新訳で先月読んだのですが、良い意味で原典を活かしている印象を受けました。ある意味原作本がある作品を映画化するというのも、本から映画への「翻訳」と呼べるかもしれません。この作品は、原典への忠実性や敬意を据え置きつつ、必要な翻案を行っていたためで、自分にとっては丁度良い翻訳に感じました。

以下に、できるだけストーリーの核心部分に触れないように感想を書きました。ただし、ストーリーの内容自体には触れているので、まだ映画を観ていなくて知りたくない方は読まないでください。


■ 無気力な少女アンナの「ビルドゥング」:他様でもありえた姿

私はこの作品を、アンナという少女の内的成長の物語と取りました。物語冒頭ではやる気を見せない少女で、学校の先生からは「内気」「物静か」という印象を受けるかもしれません。もしかしたら、私たちが抱く「映画のヒロイン像」とは離れているかもしれませんし、彼女がこれから1時間40分のストーリーでメインに立つとはあまり思いにくいかもしれません。しかし、実際には彼女のような子(あるいは大人)はたくさんいるのではないでしょうか。彼女は常に普通の顔をしようとしますが、今の子達も「冷めてる」といった言葉で形容されることが多いですよね。クラスにいると、元気な子や勉強が得意な子、逆にとてもおとなしい子や勉強が苦手な子、などには先生は目を多く配ると思います。しかし、「普通の子」は比較的、先生の目からこぼれ落ちてしまうのではないでしょうか(自分の中高時代を回想しながらw)。

そんな彼女が田舎の親戚の家で療養生活を開始し、マーニーという少女との出会いを通して、少しずつ変容していきます。それは、彼女の声の調子や表情といった細かい描写からも十分読み取ることができますし、交友関係や言動にも徐々に表れていきます。これを彼女の人間形成(ビルドゥング)と理解すると、本作品はビルドゥングスロマンというジャンルに属すると言っても良いかもしれません。

ビルドゥング (Bildung) はドイツ語で、日本語や英語に対応する概念がなく、他にも「教養」「陶冶」などと訳されるそうです (山名, 2014) 。ビルドゥングという言葉については、教育哲学の教科書から一部引用しておきます。

「修業」「遍歴」などとも語られるこの「ビルドゥング」は、少年から青年にかけての人格形成の軌跡である。平凡で素朴な青年が、自己を完成させようとする内側から沸き起こる衝動(ゲーテのいう「形成衝動Bildungtrieb」) をもって、人生のあらゆる経験を、自らを磨く機会として活かそうとする。...
そうであれば「ビルドゥングロマン」は、現実社会との折り合いを主題とせざるを得ない。若い主人公は可能性のすべてを開花させたい。しかしそれはいつまでも許されることではない。いずれ断念するときがくる。...ということは、ビルドゥングは限定としてのみ「完成」する。現実社会のなかでは、自己限定によって初めて、自己を実現することができる、その展開が「ビルドゥング」なのである。 (西平, 2014, pp.74-75)


この作品がアンナの人間形成の物語だとすれば、彼女が物語結末部でスクリーンに見せた姿は、彼女が本来なりえた姿の総体のほんの1つにすぎません。言い換えると、彼女は物語を通じて他様に変容することも(あるいはしないことも)ありえたのに、そうではなく「あのアンナ」になったといえます。このような言い回しにあまり意味がないと思われるかもしれませんが、冒頭の無気力な少女が療養生活をしても何も変わらなかったりむしろ傷ついて帰ったり、という可能性も本来残されていたはずです。この可能性を踏まえて本作品を見ると、彼女が変容するきっかけとなったいくつかのポイントが見えてくると思います。(そういえば本作品が百合だと論じられている方もいらっしゃいます。前半部では私もその気を感じましたが、後半部を見れば百合的要素が物語りの表面部分であり、その深層には別のテーマが流れていると思いました。)



■ 河合隼雄氏の解釈:怒りの効果

本作品を私が知ることになったキッカケは、臨床心理家の河合隼雄先生が書かれた『子どもと悪』という作品を読んだことでした。河合先生はどうやら本作品がお好きだったようで、他の著書にも多く紹介されています。

河合氏が本作品で特に注目されているのは、アンナの人間形成の過程の一部である、彼女の「怒り」です。アンナは療養中にペグおばさんの家に住むことになりますが、ある日別のおばさんがアンナのことを悪く言うのをたまたまアンナが聞いてしまいます。ペグおばさんはそれを黙って聞いてくれて、その日に友達の家に行こうとしていた予定をキャンセルして家にいてくれます。そんな献身的なおばさんを見て、アンナは心の中でおばさんに怒りをぶつけます。どうして自分なんかのために予定をキャンセルしたのか。映画版ではこの部分の描写が見当たりませんでした(もしかしたらあったかもしれません)が、河合氏はこの怒りに大きな意味を見いだします。

アンナは何もペグ夫妻にまで怒ることないじゃないか、などという人はアンナの怒りの深さ、その意味を理解できない人の言うことだ。アンナは、運命に対して、ほとんどの人々に対して、世界に対して怒りをぶっつけたいほどなのに、辛抱して辛抱して「ふつうの顔」をして暮らしてきたのだ。しかし、彼女はどうやら自分の怒りを受けとめてくれそうな人たち、ペグ夫妻を見いだした。...「そんなに八つ当たりをしてはいけない」...などと言って、ここで「悪」の烙印を押してしまうと、アンナはもう「ふつうの顔」さえできない子どもになってしまったかも知れない。しかし、実際は、この怒りを契機として、アンナの感情が動きはじめる。 (河合, 1997, pp.126-127)

怒りは周りの人にとっては迷惑に感じられてしまうかもしれませんが、本人にとってはこころで感じた思いがほぼそのまま外面に表出化されたものなので、怒りによって次の行動に結びつくことも大いにあります。ドラマ「リーガルハイ」では古美門先生が村の老人たちを罵倒することで怒りを奮い立たせ、訴訟を起こす気持ちにさせたというエピソードもあります。あるいは「ドラゴン桜」でも、桜木先生が始業式で「バカとブスこそ東大に行け」と言って生徒達を怒らせ、東大進学を目指させようとします。このように怒りには、気持ちをそのまま出す作用があって、本人にはプラスの効果があるのかもしれませんね。



■ 『マーニー』にみられる承認問題

最後に、アンナの人間形成を左右した「承認」について感じたことを述べます。苫野 (2014) では「人間の欲望は自由を承認してもらうこと」とされており、山竹 (2011) も現代人が「認められたい」という気持ちを多く持っていることを考察しています。

アンナも物語前半では他者からの承認をあまり受けていませんでした。学校の先生からもコミュニケーションを途中で打ち切られてしまったり、母親との会話のシーンが映画では描かれなかったり。しかし、物語中盤のマーニーとの出会いによって、彼女は親密な承認を多く受けることになります。それによって彼女は少しずつ元気になっていきます。

すると今度は、アンナが他者を承認するシーンも見られるようになります。この頃にはアンナ自身を承認することもできていたのだと思います。(ストーリーの中核部分であまり詳しく述べられないのが残念ですが...。)


以下のトレイラー冒頭で「この世には目に見えない魔法の輪がある。輪には内側と外側があって、私は外側の人間。でもそんなのはどうでもいい。私は、私が嫌い。」ということばが出てきます。この言葉が個人的に一番好きだったのですが、これも承認の欠如(疎外)を表しているものとも取れます。アンナの「輪」の変化についても、(直接的に描かれていませんが)、1つの注目ポイントだと思います。


人間形成に承認が大きく関わるというのも(強引ですが)納得できるような気がします。




久しぶりの映画でしたが、とても面白かったです!


参考文献
河合隼雄 (1997) 『子どもと悪』東京:岩波書店
苫野一徳 (2014) 『自由はいかに可能か-社会構想のための哲学-』NHKブックス
西平直 (2014) 「ビルドゥングとビオグラフィ-あるいは、Bildungstheoretische Biographieforschung-」.L・ヴィガー ・山名淳・藤井佳代編著『人間形成と承認-教育哲学の新たな展開-』
山竹真二 (2011) 『「認められたい」の正体-承認不安の時代』講談社現代新書
山名淳・藤井佳世 (2014) 「原第において人間形成(ビルドゥング)に向き合うことは何を意味するか」.L・ヴィガー ・山名淳・藤井佳代編著『人間形成と承認-教育哲学の新たな展開-』


2014年8月2日土曜日

関連性理論まとめ②:表意と推意、意味、用法、応用


こんにちは、mochiです。いよいよ夏休みが始まりました。それにしても最近ブログの更新率が高いですね~!特にsava 君がついに書きましたね~。これで「1年除籍処分」を間逃れたと本人は言っていましたが、これから記事を更新しないメンバーについては、タイトルのフォントサイズを少しずつ小さくしていくことにしました(笑)







記事をアップしないで半年すると、タイトルの「もちサバニン日和」の自分の名前が少しずつ小さくなり始めますので、メンバーの皆さん気をつけてください。3年後はフォントサイズを「1」とさせていただきます。(といって3年後には全員消えてたりしてww)以上、業務連絡でした(笑)


さて、関連性理論勉強会のまとめ第二回をアップします。


今回は特に、表意と推意、概念的意味と手続き的意味、記述的用法と解釈的用法、関連性理論の応用、について扱いましたので、これらのまとめを載せます。

前回・今回は『現代言語学の潮流』を基に行いましたので、本書の3-B の「関連性理論」の範囲をもとに行っております。関連性理論の概要については前回のNinsora君のまとめノートに詳しいのでそちらを参照してください。以下では関連性理論の原則そのものというより、関連性理論で用いられる区分や用語の説明が中心になります。


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■ 表意 (explicature) と推意 (implicature) 

表意とは「発話された言語表現から聞き手がキャッチできる明示的な (explicit) 命題 (あるいは想定)」 (東森, 2003, p.158) である。たとえば、「あれが欲しい」という発話を私がしたとき、次のような表意を作ることができる。

(1) 「私はあれが欲しい」
(2) 「私はソファが欲しい」
(3) 「私はソファが欲しいと私があなたに言う」

(1) は主語、(2) は指示語、(3) は発話行為がそれぞれ補完されており、より完全な命題形式にとなっている。表意を形成するには他にも複数の解釈が可能な意味・構造を限定したり、文から必然的に補充できる語を付け加えたりできる。


表意は他にもアドホック概念形成も含まれる。アドホックとは「その場限りの」を意味し、本来その語が持たない意味がその場限りで創発される用法を指す。たとえばfish という語は本来「魚一般」を指すが、 The fish savagely attacked the young swimmer.という文においてfish は「サメのような大きく凶暴な魚」を指し、イワシやアジのような小魚は排除される。あるいはflatmate が「部屋を共にする人」という意味であるが、Here's my new flatmate (referring to a newly acquired cat). では、「人」のみならず「猫」も含んだ意味でのflatmateである。このように、従来その語が持つ意味が狭まったり広がったりすることでアドホックな概念が形成される。

それに対して推意はその文が直接言っていなくても暗示しているものを指す。冒頭に出した「あれが欲しい」という文も、「mochiがあなたにこのようなことを言うということは?」と前提を考えれば、「あなたにソファを買って欲しがっている」という結論が導き出されるかもしれないし、「mochiは最近バイトをがんばっている」という前提があれば、「mochiはソファを自分で買おうとしている」という異なった結論が得られるだろう。



■ 概念的意味と手続き的意味

概念的意味は「世界の状況を記述したもの」 (東森, 2003, p.160) であるのに対して、手続き的意味は「計算のための情報を記号化したもの」(ibid, p.160) である。概念的意味は名詞(りんご、ゴリラ、ベル、パソコン、など)や副詞(うれしく、悲しく)、形容詞(赤い、黄色い、)などがあり、これらは世界にあるものや様子を記述するために使われます。それに対して、手続き的意味はディスコースマーカー(しかし、えっと)などがあり、これらは世界に対応するものが存在しません。また、概念的意味は私たちは言葉で説明することが可能ですが、手続き的意味はあらためて言葉で説明することはむずかしいです。



■ 記述的用法と解釈的用法

記述的用法 (desriptive use) の発話は現実の状況を表示するのに対し、解釈的用法 (interpritive use) の発話は他人の発話や思考を解釈して表示する。たとえば、「この部屋は広い」とか「私が使っているパソコンは黒色だ」は現実の状況を表示するため記述的用法であるのに対し、「彼の今の発言はつまりこういうことだ」とか「この文学作品はそういうことだろう」は現実の状況でなく他人の思考や発話を発話者が解釈して述べたもので解釈的用法にあたる。

たとえばカウンセラーは来訪者が話したことを「つまり、~~ということだね」と繰り返したり、「君は・・・という気持ちだったのだね」と感情の反映を行ったりしますが、これらは解釈的用法になります。あるいは翻訳者は原作者が表示した発話(原典)を解釈して、その結果を他言語で訳すため、翻訳は解釈的用法と言えるでしょう。この点についてはGutt (1991) が詳しいです。


■ 関連性理論の応用

最後に、関連性理論の応用について紹介します。(勉強会でももっとも盛り上がった部分です。) 本書では広告の例を用いて説明してあってとても分かりやすかったのですが、ここではアドバイス(メタファー)を例にとって説明してみたいと思います。(ここからは勉強会中に出た話しなので誤りがあるかもしれません。お気づきの点ございましたらご指摘頂ければ幸いです。)

高校3年生の進路面談で、担任の先生が次の2つの台詞を言う時、印象はどのように違うでしょうか。


(a) 生きていると私たちは悩んだり迷ったりすることもある。しかしそれでも前に進み続けているわけだから、この時期に1つの志望校や進路先に決めてしまわなくても良くて、もう少し進路を複数考えても良いのではないでしょうか。

(b) 人生は旅なのだ。

(a) では先生が言いたいことがそのまま表されています。これなら勘違いをすることは減るでしょうし、先生が言いたいことを推測するのもそこまで大変ではありません。それに対して、(b) は先生が言いたいことがあまりよく分かりません。そのため、勘違いをする可能性もあります。しかし、先生が言いたいことを推測するために、生徒は処理労力を多くかける必要があります。また、「先生が面接でこんな短いアドバイスをするなんて」と生徒の注意をひきつける可能性もあります。そのため、(b) の方が生徒の頭の中により長く残る可能性もあります。

もちろん中には「えっ、先生、何いってるんスか。人生は旅じゃないッスよ。え、人生って旅なんスか、違うんスか?」というふうに推意を取ろうとしない生徒さんもいらっしゃるかもしれません(笑)その意味ではリスキーですが、(b) だと生徒が処理労力を多くかけ、それに見合うだけの認知効果が得られたとすれば、生徒にとって関連性が高い発話と言えるのではないでしょうか。




以上、関連性理論まとめノート第二弾でした~。

みなさん、よい夏休みを (^^)

2014年8月1日金曜日

陽気に生きようこの人生をさ

【作詞】宮沢 勝之
【作曲】宮沢 勝之

  やけに寂しそうな 顔をしてるじゃないか
  僕達の人生って そんなはずじゃないぜ
  たとえ今日が 寂しすぎても
  涙をふこうよ 明日の為にさ
   ※夢が 夢が あるから 歌おうじゃないか
    もっともっと陽気にさ 僕達の人生をさ
    夢が 夢が あるから 歌おうじゃないか
    もっともっと陽気にさ 僕達の人生をさ





  やけにしょぼくれた 顔をしてるじゃないか
  僕達の人生って そんなはずじゃないぜ
  たとえ一人でしょぼくれたって
  僕らの人生変わりはしないさ
  ※繰り返し






  やけにむなしそうな 顔をしてるじゃないか
  僕たちの人生って そんなはずじゃないぜ
  たとえ今が 闇の中でも
  陽気に生きよう この人生をさ
  ※繰り返し



                                                              


 お久しぶりです! Savaです。約一年ぶりの更新です笑。他の二人は一生懸命勉強していますねぇ! 難しいことをわかりやすい言葉や例を交えて紹介してくれていて、とても勉強になっています。



 さて、今回は最近知った曲の紹介をしたいと思います。その名も”陽気に生きようこの人生をさ”
です。歌詞はこのページの上に載せているものです。曲はyoutubeなどで検索して聞いてみてください。

 聞いていると元気になります!別に病んでいるわけではないですが笑。



なんという雑な記事!!

まあこれで除籍は一年は伸ばせたでしょう笑
暑い日が続きますが、陽気に生きていきましょう!

Sava







2014年7月31日木曜日

ランドル・コリンズ 著. 井上俊・磯部卓三 訳(2013)『脱常識の社会学 第二版』岩波現代文庫

こんにちは。ご無沙汰しております。Ninsoraです。落ち着いてきたので、久しぶりにブログを更新しようと思います!

今回ご紹介する本は、社会学系の本の入門書です。読みやすさ、内容の面白さ、洞察の深さは、最近読んだ本の中では間違いなく一番です。この本を読んでから、ここに書かれている視点で物事を考えるようになってしまうぐらい、見え方考え方が変わってしまいました。そのぐらい影響されました。
今回、適宜私のことばに言い換えながら、一部抜粋しておいしいところを紹介させていただきます。

脱常識の社会学 第二版――社会の読み方入門 (岩波現代文庫)
脱常識の社会学 第二版――社会の読み方入門 (岩波現代文庫)ランドル・コリンズ 井上 俊

岩波書店 2013-03-16
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■ 合理性の追求は何をもたらすか

私たちは社会を生きていくうえで、どうしても「合理的」であろうとします。そして、合理的であることを誇りにしています。

「だってその方が効率いいし。最短距離、最小の労力、最小のコストで目標を達成できたら嬉しいじゃん!だから無駄なことはしない、考えない!最高!」

レベルは違うにせよ、誰もがこのような思考は持っているはずです。そして、社会の流れも大体こんな感じかなと思います。

合理性を求めることを全て否定はしませんが、これを追求しすぎると実は矛盾が生じてきます。
例えば、究極に効率を追求した合理的システムの一つの例として官僚制が挙げられます。莫大な量の仕事を、各専門部署に振り分け、各専門部署では各個人に仕事を割り当てます。誰もが自分が専門とする仕事を短時間で終わらせることができれば、全体としての仕事量は多くても、すぐに片付いてしまいます。非常に合理的かつ効率的です。文句なし!

しかし、究極的に合理性を追求した官僚制の問題はそこにあります。
専門家集団である彼らは、特定の目的を達成するため、一定の結果をいかにすれば最も効率よく得られるかを冷静に計算します。
そのため、ある個人の守備範囲外の書類が舞い込んできたとしても、それは自分とは無関係、他人事とみなします。つまり、自分の仕事と関係がないと思われる仕事は「たらい回し」にされます。

これは極端な例ですが、即ち、誰の守備範囲でもない小さなバグが生じただけで、誰かがその合理性を超えて動かなければ、官僚制自体が機能しなくなります。言い換えれば、合理性の追求は、結果的に不合理な結果をもたらしてしまいます。

■社会を支える「非合理的基礎」

コリンズは、デュルケムらの論と、合理性を追求する社会を支えるのは「合理性」ではなく、それらを超えた所にある「非合理性」であると指摘します。

「私たち一つの契約を結ぶとき、意識的な契約以外にも『お互いがこの契約を守る』という信頼関係に基づく契約を行う」という【契約の前契約的基礎】の話も面白いのですが、今回は本書中の「ただ乗り問題」を取り上げて「社会を支える非合理性」を紹介します。

人々の生活を支える無料の乗り合いバスがあるとします。バスに乗ること自体は無料ですが、乗客は任意でガソリン代や運転手の給料などのバスの諸経費を「募金」という形で求められます。もちろん、募金しなくても、乗客は咎められませんし、責任も問われない。ずっと利用可能です。

このとき一番合理的な判断は、他の人の募金に頼って、自分はただで利用し続けることです。しかし、乗客全員が同じ判断をした場合、どうなるでしょうか。
たちまちバスは運行できなくなり、自分を含めてバスを利用していた人は交通手段がなくなってしまいます。
これも、個人の合理性を追求した結果、個人にとって非常に大きな損失・非合理的な結末を迎えるという好例でしょう。
即ち、無料バスの運行は、諸個人が持っている集団への愛着や集団への帰属意識といった、非合理的な感情に支えられているのです。

■「集団」の形成と維持のための儀礼行為

上で、私たちの集団への愛着や帰属意識などの非合理的感情が社会を支えていると述べました。では、そもそもなぜ私たちは集団を形成し、維持しようとするのでしょうか。

一番大きな理由としては、それが「合理的であるから」と言えるでしょう。また、集団の持つ感情エネルギー増幅機能も理由として挙げられます。(詳しくは本書をご参照ください)

集団を構成するとき、必要不可欠な要素が3つあります。それが以下の3つです。

①集団は集まらなければならない
②集団がみな同じ感情を抱き、その感情を共有していることを意識せねばならない
③集団がそれ自身について抱いている観念を鮮明に示す象徴的事物がある。(道徳的な影響力・見えない力を具象化する)

今回は、特に②の要素について紹介します。
社会(集団)は、非合理的感情に支えられているということは何度も述べている通りですが、このことから、社会(集団)を維持するためには非合理的感情を形成しなければならないといえます。
そのために私たちが行うのが、「行為の儀礼化」です。

例えば、カトリックでは毎週日曜日に「教会に行く」、「聖書を読む」などが儀礼行為に当たります。儀礼行為は、目的を達成することよりも、厳密に規定された形式を最も重要視します。儀礼を正確に遂行することそれ自体が目的であり、それが聖なるものへの忠誠・信念とみなされるからです。
このような儀礼行為は、自身がその集団の構成員であると自覚するのと同時に、集団が同じ儀礼共同体に属していることを気づかせます。つまり、連帯意識が高揚します。

このことを踏まえつつ、「安全な社会を維持するためには、警察や司法、立法機関はどのようなことをするだろうか」ということを考えてみます。

通常なら、取締りを強化するだとか、罰を厳しくするとか、危険人物を逮捕できる法律を新たに作るといった対策を考えるでしょう。
しかしながら、私たちの社会では、「犯罪者を捕まえ、起訴し、裁判にかけ、罰を与えること」自体が、社会集団を結束させ、維持するための儀礼行為となります。
ですので、警察も司法も、私たちが属する社会集団の結束を高めさせる目的で、あえて一部の人が新たな犯罪を生み出すように仕向けているのです(ラベリングなど)。

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長くて読みにくい文章ですが、今回は「社会を支える非合理性」に絞って本書をご紹介させていただきました。

私たちの周りにはどのような非合理的感情があり、どのような儀礼行為が行われているのか、という観点から周りを見つめると、新たな発見がありそうです。
この本を読んで、私は教育の視点から、そこに存在する非合理性や儀礼行為に対して問題意識を持つようになりました。

コリンズは、他にも「なぜ自動車修理のおじさんは具合の悪い部分を直すということに関しては医者よりはるかに頼りになるのに、医者より高く評価されないのか」とか、「なぜ我々は結婚するのか」などを独自の視点で語っています。コリンズの答えを知りたい方は、是非ご一読ください。おすすめです。

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そういえば最近、僕の机の引き出しからお煎餅を盗んで食べていた研究室の友人がイギリスに発ちました。
安心したのもつかの間、今度は先輩に買い溜めしていたじゃがりこを奪われました。

その後ちゃんと新しいのを(こっそり)買ってきてくれるんですけど(優しいですよね)、彼らがお煎餅やじゃがりこを買うためにレジに並んでいる姿を想像すると、何だかほっこりした気分になってしまいます。
なので、また買って入れとこうかなって思うんですけど、僕 っ て 病 気 な ん で し ょ う か 。

2014年7月26日土曜日

村上春樹 (2012) 『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』文春文庫


教員採用試験の一次が終わり、少し身の回りが落ち着いたように思えます。集団討論の試験が終わって自宅に帰る途中、たまたま寄った本屋で本書を見つけました。前から読みたいと思っていたので早速購入。 (一緒に、『思い出のマーニー』の新訳も発売されていたので購入しましたが、こちらもかなり面白かった!友人に勧められたものだったので、早く感想を交流したいです。)

夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集1997-2011 (文春文庫)
夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集1997-2011 (文春文庫)村上 春樹

文藝春秋 2012-09-04
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本書は村上春樹のインタビューを19本採録したもので、彼の小説観や作品に関するコメントはもちろん、「ランニング」「集団と個」「無意識」といった多くのテーマについても語られており、大変読み応えがありました。最近『海辺のカフカ』の舞台版を観にいったり『スプートニクの恋人』を後輩に勧められて読んだりと、少しマイブーム状態だったので(笑)個人的にはとても面白かったです。

以下、印象に残ったテーマについて紹介します。ただし、予め断っておきますが、私自身村上春樹の作品それほど網羅しておらず、『ねじまき鳥』『アフターダーク』を始めとする多くの作品をまだ読んでいません。分かった風な口調で自分が本書を暴力的に翻訳してしまわないよう、できるだけ直接引用 (良識の範囲内で) と、それに対する自分の感想や個人的経験、という形で書きます。また選んだテーマも自分の関心に合うもののみで、以下が本書を要約できているとは到底思えません。どうぞご興味のお有りの方は、本書を直接手にとってお読みいただくことをお勧めします。

では、「身体」「無意識」「語り」「他者への説明」「翻訳」を観点に、以下にまとめます。



■ 身体は重要である

まずは、私が大学院に入った初日に教授から言われた話をします。これから研究を頑張ろう、たくさん本を読んでやろう、と意気込んで初日に教室に行くと、「研究をするのも大事だが、感性を忘れないで欲しい」「研究者は身体が第一ですよ。私はテニスをしていまして (ry) 」と仰ったために拍子抜けした記憶があります(笑)ただ本書を読みながら、やはり感性や身体といった部分の重要性を思い知りました。感性については後ほど「地下室」の項で紹介するので、ここでは身体について紹介します。


小説を書き出して、毎日毎日休みなくこつこつとそれを書き続けます。するとそのうちに、暗黒のようなものが訪れてきます。そして僕にはその中に入っていく準備ができている。でもそういう段階に達するためには、時間が必要です。今日書き出して、明日にはもうその中にすっと入れるというものではありません。日々の厳しい労働に耐えて、集中力を高めなくてはならない。それは作家にとってもっとも大切な要素だと思います。だから僕は日々走って、身体性を強化しています。身体トレーニングというのは大事なんです。多くの作家はそうは考えていないみたいだけど(笑) (p.27)

小説家、漫画家、あるいは研究者、....といった机に向かいっきりの時間が長い職業は、不健康なイメージがどうしてもついて回ります。なので村上氏の上の引用箇所はとても不思議に感じました。以下はさらに、身体トレーニングによって、「あたま」や「こころ」もよい影響を受けることを示しています。

フィジカルなことをやっていると、すごくラクになるんです。体育が嫌いな子どもだったから、昔は身体を動かすようなことはあまりしなかったけど、大人になってやると、フィジカルな作用とメンタルな作用がいかに結びついているかがよくわかる。それに、自分の身体に積極的な関心を持つのって、大事なことだと思うんです。ハンサムになることはなかなかできないけれど、身体を引き締めることなら意図的にできるじゃない(笑)。 (p.65)

最近はインタビューで得たデータの質的分析をしているのですが、どうも机に向かっていても良いカテゴリー分けが出てこなくて、むしろ家に帰る途中とか塾の授業中とかに、「おっ!」と閃くときの方が良いアイデアだったりします。質的分析をされている先輩にこのことを話したところ、先輩もお風呂に入ってるときの方がよく思い浮かぶと仰っていました。なので、身体トレーニングを研究の合間にしていればよい発想が閃くこともあるかもしれませんね。


ここまで読むと、研究者も身体が大事なのかという気がしてきますね。教授方がおっしゃる通り、自分も身体をなまらせないようにランニングを続けるよう頑張ろう!(三日坊主になりませんように...。)





■ 人間の存在は二階建ての家で、地下室に行って戻ってこれるのが小説家。

以下の引用箇所は、特に本書でも重要だと思いました。


仮に、人間が家だとします。一階はあなたが生活し、料理し、食事をし、家族といっしょにテレビを見る場所です。二階にはあなたの寝室が在る。そこで読書したり、眠ったりします。そして、地下階があります。それはもっと奥まった空間で、ものをストックしたり、道具を置いたりしてある場所です。ところがこの地下階のなかには隠れた別の空間もある。それは入るのが難しい場所です。というのも、簡単には見つからない秘密の扉から入っていくことになるからです。...そこでは、奇妙なものをたくさん目撃できます。目の前に、形而上学的な記号やイメージや象徴がつぎつぎに表れるんですから。それはちょうど、夢のようなものです。無意識の世界の形態のようなね。けれどもいつか、あなたは現実世界に帰らなければならない。そのときは部屋から出て、扉を閉じ、階段を昇るんです。 (p.165)


私は普段、意図的に「地下」へ向かったりそこから出たりという経験はしません。ただ、稀に〈良いもの〉と触れ合った時に、自分が普段日常生活ではしないような感じ方をすることはあります。あるいは、とても落ち込んだ時に心のどす黒い部分と直面させられることはあります。そのときの地下室との往来は self-uncontrollable なため、地下に行こうと思って行けるものではないし、抜け出そうと思っても抜け出せないかもしれません。

ミヒャエル・エンデの『モモ』でも、マイスターホラによってモモが自分の心の中の花畑に連れて行かれる描写がありました。上の引用箇所を読んだとき、自分は『モモ』のそのシーンのことを思い浮かべていました。もしかしたらモモのように花畑だけではなく、闇のような部分も地下室には隠れているでしょうし、意識が考え付かないようなものが潜んでいることもあるかもしれません。しかしモモのその場面で、誰しもそのような世界を持っているという希望があるように思えます。

また、『海辺のカフカ』で佐伯さんが最後カフカに言うのは「あなたは元の世界に戻って」で、カフカ君が地下に居続けることは許されませんでした。彼は再び現実世界へと戻ります。彼もまた地下との往来を体験したのかもしれません。映画『風たちぬ』のラストも菜緒子さんが「あなたは生きて」といって夢の世界で消えていく場面でしたが、これも主人公に地下から地上へ帰って欲しいという思いがあったのではないでしょうか。

少し話は変わりますが、小説家のみならず人は、ときに地下室へ行くことを無性に求めるのかもしれません。そんなとき、人はファンタジー・虚構世界を求めて小説に手を伸ばし、作品の世界に浸りながらそこに自分の地下室を映すのではないでしょうか。 (少なくとも『思い出のマーニー』を読んでいる時も自分はそのような気持ちになりました。「輪」の内側と外側という感覚は多くの人が共感するのではないかと推察します。)

あるいは自分の地下室に少しでも入ってみようと臨むとき、老松先生の「モバイル・イマジネーション」が地下室を少し覗いてみるための方法論と言えるのではないかと思います。以前自分がモバイルイマジネーションを実践したときは、暗い部屋から白い影がどんどん出て行き、明かりが次第に消えていくというイメージを見ました。そのときは意識では「まだ大丈夫」と思っていた時期だったので、地下室に潜むどす黒い部分を垣間見たときに恐ろしく感じたのを覚えています。

作家の場合はこのような自らの毒と向き合うことも必要と、村上氏は言います。


小説を書いているとき、僕は暗い場所に、深い場所に下降します。井戸の底か、地下室のような場所です。そこには光がなく、湿っていて、しばしば危険が潜んでいます。その暗闇の中に何がいるのか、それもわかりません。それでも僕はその暗闇の中に入っていかなくてはならない。なぜならそれこそが、小説を書いているときに僕がいる場所だからです。僕はそこで善きものに巡り会い、悪しきものに巡り会い、ときには危険に遭遇します。そしてそれらを文章で描写します。 (p.359)

作家が物語りを立ち上げるときには、自分の内部にある毒と向き合わなくてはなりません。そうした毒を持っていなければ、できあがる物語は退屈で凡庸なものになるでしょう。ちょうど河豚のようなものです。河豚の身はとてもおいしいのですが、卵巣、肝臓などの部位には致死量の毒を含んでいることもあります。僕の物語は、僕の意識の暗くて危険な場所にあり、心の奥に毒があるのも感じますが、僕はかなりの量の毒を処理することができます。それは僕に強い肉体があるからです。 (p.442)

ここまでで、地下室には希望(e.g.花畑)と毒(e.g.部屋から抜ける影)があることが分かってきました。もちろんこれは自分が読んで思った感想ですが、意識が推し量れない「無意識」のメッセージにより寛大になるためにも、物語を私たちは必要としているのだと思いました。ときには読むことも、たまには書く(語る)ことも。そして語るためには、自分の話を聴いてくれる存在も。




■ 一貫した自己を持つことが強要される現代、物語(語り)が果たす役割


「ありのままの姿見せるのよ」という歌があるのですが、それを聴くたびに私は、ありのままの姿などあるのだろうかと疑問に思ってしまいます。私が私たりうる所以や本質といったものなどあるのでしょうか。ルーマンが認識論の議論を「観察という作動の結果」としましたが、私も「自分自身」というのは後になって「こうだったのか」と分かるものと (特に最近) 強く感じます。

しかし、日常生活に「ありのままの自分」という言葉がよく登場するからこそ、私たちは観念的に「ありのままの自分」を想定しているのでしょう。村上氏は、そのような自分らしさは「語る」(あるいは「書く」)という行為に表れると言います。


今、世界の人がどうしてこんなに苦しむかというと、自己表現をしなくてはいけないという強迫観念があるからですよ。だからみんな苦しむんです。僕はこういうふうに文章で表現して生きている人間だけど、自己表現なんて簡単にできやしないですよ。それは砂漠で塩水飲むようなもんなんです。飲めば飲むほど喉が渇きます。にもかかわらず、日本というか、世界の近代文明というのは自己表現が人間存在にとって不可欠であるということを押し付けているわけです。教育だって、そういうものを前提条件として成り立っていますよね。まず自らを知りなさい。自分のアイデンティティーを確立しなさい。他者との差異を認識しなさい。そして自分の考えていることを、少しでも正確に、体系的に、客観的に表現しなさいと。これは本当に呪いだと思う。だって自分がここにいる存在意味なんて、ほとんどどこにもないわけだから。タマネギの皮むきと同じことです。一貫した自己なんてどこにもないんです。でも、物語という文脈を取れば、自己表現しなくていいんですよ。物語がかわって表現するから。 (pp.115-116)


あるいは大学院の授業で紹介された "Who you are depends on how you act." という言葉も、これに近いことを言っているように思います。学校現場でも「自己紹介しましょう」とか「自分のアピールポイントを書いてみましょう」といった実践が多くなされるように思えますが、これらの活動を苦痛に思う子も上に述べた理由でいるのかもしれません。

私が大学院で所属しているゼミでは年に1回合宿が開かれます(と言ってもまだ1回しか開催されていませんが笑)。そこでは先生とゼミ生がこだわっていることについて語る20分間のプレゼンテーション発表会がメインにされます。たとえばバドミントン部に所属される先輩は、バドミントンのプレーについてや英語教育とバドミントン指導の共通点について熱弁をふるっていましたし、ギターが大好きな先輩は、自分のギターの弾き方とプロの引き方をビデオで見せながらその違いについて解説していました。他にも、写真や漫画、映画、麻雀(!?)、オーケストラ、など、とにかく自分がこだわるトピックについて語ります。合宿で感じたのは、自分が好きなことについて語るときにその人らしさが表れるかもしれないということでした。現にどの発表者も自分のこだわりについて語るときは楽しそうにしていました。

国語教育の実践に「偏愛マップを用いた話す活動」というのがあるらしいです。上と同様に自分がとことん好きなものを書いていって、それについてペアやグループで話し合うというものです。偏愛マップ実践も体験しましたが、自分がとことん好きなもの(好きな居酒屋のビール、ハリーポッターのルーピン先生、中川家の漫才、etc...) について話していると、自分について語っているわけでないのに自分が語られている感じがしました。

もしかしたら、英語教育でも偏愛マップの実践は可能かもしれませんね。(ある程度の英語技能は必要ですが。)好きなことを語るときに自分らしさが出る、だからこそ「語る」ことが自己治癒効果があったり、自己(他者)理解につながったりするのではないでしょうか。





■ 「何かを人に呑み込ませようとするとき、あなたはとびっきり親切にならなくてはならない」

上の題は、教師を目指す自分にとってとても印象に残りました。人に何かを説明するときや文章を書くとき、それを聞いたり読んだりする人に親切にならなければなりません。村上氏は特に地下室からイメージが出てくるのを待ち、出てきたものを言葉にして表すため、私が塾で3単現のSを教えるよりずっと伝えるのが難しいはずです。氏はどのように読者に伝えるのでしょうか。

最初にひとつのイメージがあり、僕はそこにあるひとつの断片を別の断片に繋げていきます。それがストーリーラインです。それから僕はそのストーリーラインを読者に向かって提示し、説明する。うまく呑み込ませる。何かを人に呑み込ませようとするとき、あなたはとびっきり新設にならなくてはならない。「いや、自分さえわかっていればそれでいいんだ」という態度では、ほとんど誰もついてきてくれない。簡易な言葉と、良きメタファー、効果的なアレゴリー。それが僕の使っているヴォイスというか、ツールです。僕はそのようなツールを使って、ものごとを注意深く、そしてクリアに説明します。 (p.210)

ここでは大前提として読者に親切であることが挙げられます。氏は「簡易な言葉」「メタファー」「アレゴリー」をツールとして用いていると言います。確かに『スプートニクの恋人』では「僕」の台詞中に登場するメタファーの数が尋常ではありません。他にも『海辺のカフカ』の大島さんが「万物はメタファー」というゲーテの言葉を引用しており、作中の象徴的なもの(入り口の石など)が何を象徴しているか考えることも読者はできます。これくらい親切にしてようやく人に何かを呑み込ませようとできるのです。

ただし、氏の作品の多くは解釈が定まらず、なにか1つの答えを呑み込ませようとしているわけではないことが分かります。現に『海辺のカフカ』の解釈について読者から質問が来ても、氏は「わかりません」と返すそうで(舞台版『海辺のカフカ』パンフレットより)、呑み込ませる何かは厳密な答えではなくてルースな意味での答えなのだと思います。

ここからはまた個人的な話になってしまいますが、先日院の研究発表でデータの質的分析結果を提示したときに、自分の分析結果のみを本文に載せて、インタビューのデータをAppendix に載せて各自参照という形にしました。この提示方法が聴き手に不親切だったという指摘を後に頂き、本当にその通りだと感じました。その後ゼミの先生に、「ではどのように提示すれば最も親切なのでしょう」と相談に言ったところ、「いやいや、それは一般論で語ることではない」といわれました。自分の発表の聴き手が誰かによって、その人の関心や背景知識の量などは当然異なります。あるいは自分が扱うデータの質によってもふさわしい提示方法は異なるでしょう。

Ninsora 君と行っている関連性理論勉強会でも、相手が処理労力をかけないでより多くの認知効果を得られるような伝え方には、一般法則などなくて、読み手・聴き手次第ではないか、と結論が出ました。一文の長さを例にとっても、「どれくらい長い文だったら2文に区切った方がいいんすか?」という質問は意味をなしません。その文章を読む人、その文が含む情報量、段落内での文の位置づけなど多くの要因を踏まえたうえで、読者にとびっきり親切になってようやく決定できることです。

タイトルには「とびっきり親切に」と軽く書いてしまいましたが、実践するのは本当に難しいことだと思います。心がけだけでなく、とびっきり親切な伝え方を考えて伝え、その結果を自己反省することで伝え方がうまくなるのかもしれません。




■ 翻訳は、その作品を好きな人が訳すべき。

最後に、翻訳について本書が言及する箇所を紹介します。といっても、村上氏の翻訳論は『翻訳夜話』シリーズを読まれることをお勧めしますので、ここでは簡単にご紹介します。



私 (mochi) は翻訳経験が浅く、まるで自分自身が苦手だから研究テーマに選んだのではないかと思うほどです。また読書経験もあまりないため、翻訳をしていて苦痛に感じることが本当に多いです。でも、その中に楽しみが見出されることがあります。たとえばBBSのスローガンの翻訳は本当にわくわくしましたし、好きな漱石の作品の特定部分がどう翻訳されているだろうとあれこれ考える分にはとても楽しいです。

翻訳は多大な労力をかける作業で、それを続けるにはやはり訳す本人が楽しむことができなければならないでしょう。村上氏も多くの翻訳経験を積んでいるのでこの点を強く言います。

―あなたの本の翻訳についてうかがいたいのです。あなた自身が翻訳者であるから、翻訳の持つ危険性についてよくご承知だと思うのです。どのようにして翻訳者を選んでいるのですか? 
(村上)僕には英語に限っていえば、今のところ三人の翻訳者がいます。...彼らが僕の小説を読み、誰かが「これは素晴らしい!」と思う。それがいちばんいいやり方だと思うのです。気に入った人が訳してくれればいい。僕自身の翻訳者としての経験からいえば、熱意というのは翻訳にとってとても大事な要素です。たとえ優れた翻訳者であっても、彼がテキストをそんなに好きでなければ、まったく話になりません。長い小説の翻訳はひどく骨が折れるし、時間もかかります。深い愛情と共感がものを言う作業なのです。 (p.236)


翻訳する際の情意面やモチベーションの研究も翻訳プロセス研究では行われており、やはり作品への思い入れがないとやっていけないのだろうと思います。

逆に言えば、こだわりのある作品だったら翻訳してやろう!という気も起きるのでは??とも感じます。中高生(あるいは大学生)が本当に好きな日本文学や英文学作品を1つ選び、その1節でも訳してみるという経験は、どこかであっても良いのかもしれません。最近塾の子が課題ノートに「アナと雪の女王」の原作本の一節を書き抜いて翻訳してきてくれましたが、それも好きだからやるわけで、やらされる翻訳はしんどいだろうと思います。





教採や特研が終わって、このような良書をゆっくり読むことができて本当に良かったです。村上春樹の本は、今日『スプートニクの恋人』を読み終えましたが、これもかなり面白かったです!(特に今の自分には相当ひびきましたw)先ほど『女のいない男たち』を買ってきたので土日に読み、夏休み中に『羊を巡る冒険』『ダンス・ダンス・ダンス』『ねじまき鳥クロニクル』などを読んでいきたいと思います (^^)

(追記)2014/08/25
村上春樹氏の英語でのインタビューが紹介された記事を見つけました。上で述べている内容を、英語ですが、村上氏のことばで語られています。もちろんここで紹介しなかったことについても多く述べられていますので、どうぞご覧ください。

Haruki Murakami: 'My lifetime dream is to be sitting at the bottom of a well'

2014年7月25日金曜日

関連性理論まとめ①

せっかくブログに参加させてもらったのにも関わらず、更新をほとんどmochi君に任せてしまっていて申し訳なく思っているNinsoraです。ご無沙汰しております。

最近mochi君と関連性理論についての勉強会を始めました。
そして、その復習も兼ねて、お勉強ノートを当ブログにUPすることになりました。
よろしければご覧ください。

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■関連性理論とは

 以前は、話し手の思考が話し手によってコード化 (encode) され、聞き手はそのコードを解読 (decode) するという「コードモデル」によってコミュニケーションを解釈しようとするのが主流であった。しかし、コードモデルでは話し手の意図がそっくりそのまま受け手に伝わらなければならないことやencodeされていない部分に関しては言及できないなど、その限界が指摘されるようになった。これらの限界を指摘したSperber and Wilson (1986/1995) は、Grice (1989) Cooperative Principle(協調の原理)の maxim of relation(関係性の公理)をより詳細に説明するような形で、「関連性理論 (Relevance Theory)」を提案した。関連性理論は、伝達者の意図と受け手の推論を分けて考える「意図明示推論的コミュニケーション」を前提としており、最終的には人間の脳内モジュールのシステムの解明を目指している。

■ 関連性の原理
 関連性 (relevance) は、認知効果 (cognitive effects) と処理労力 (processing effects) によって決定される。認知効果とは、私たちの頭の中の知識の総体に何らかの影響を与えることであり、新情報と既知情報の相互作用により新たな想定を作り出す「文脈含意」と、「既存想定の強化」、「既存想定の削除」の3つがあるとされる。
例えば、お金持ちのAさんの家にBさんが遊びに行ったとする。そこでAさんが「おやつを持ってくるからちょっと待ってて」と言ったとする。「Aさんがお金持ちである」という既知情報に「Aさんがおやつを持ってくる」という情報が加わったことにより、Bさんは「Aさんがケーキを持ってくるのではないか」という想定を立てる。これが「文脈含意」である。数分後、Aさんがお洒落なティーセットとフォークを持ってきたとする。するとBさんは、「やっぱりAさんはケーキを持ってくるに違いない」との確信を強めるだろう。これが、「既存想定の強化」である。しかし、もしティーポットの中身が梅昆布茶だったらどうであろうか。恐らく、「Aさんはケーキを持ってくるのではないか」という想定は棄却されるであろう(もしかすると新たな想定が生まれるかもしれない。)これが、「既存想定の削除」である。
一般的に、以上で述べたような「認知効果が大きいほど」関連性は高く、それを処理する「労力が小さいほど」関連性は高いとされる。認知効果と処理労力という2つの要素を踏まえて、Sperber and Wilsonは「認知原理と伝達原理」の2つの「関連性の原理」を唱えた。

認知原理…人間の認知は、関連性が最大になるようにできている。
伝達原理…全ての意図明示伝達行為は、それ自体最適な関連性の見込みを伝達する。

伝達原理の中の「最適な関連性の見込み」を簡単に述べると、以下のようになる。
 a. 伝達者が伝える内容は、受け手がそれを処理する労力に見合う価値があり、
 b. それが受け手に必要以上の労力をかけさせることなく伝わること


即ち、認知原理とは「発話は、できるだけ小さな処理労力で相手ができるだけ多くの認知効果を達成できるようになっている」という原則であり、伝達原理とは「コミュニケーションの相手は、自分に対して最大の関連性を持つように伝達しているという前提をもつ」という原則である。関連性理論のこれらの原則は、程度に差はあれ、全ての人間が例外なく持っているものであるという点で、他の語用論などの原則や公理と異なっている。


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途中で雑談が入ったりお互いの研究と関連させた話になったりしたため、一度に進んだ量としては少ないですが、これからペースを上げていこうと考えております。

できるだけ読者のみなさんの処理労力が少なくなるように注意したつもりですが、読みにくい文章になってしまって申し訳ないです。

また、間違い等を発見してくださった方は、是非ともご指摘いただけたら幸いです。

今後とも、当ブログを何卒よろしくお願いいたします。
(自分も少しずつ更新しないとな…)