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2014年1月6日月曜日

映画「ハンナ・アーレント」を観て

明けましておめでとうございます!! (^^)

昨年は拙文ばかりのブログで大変恐縮でした。相変わらず2014年も読みにくく面白くない記事ばかりになる予感ですが(汗)、また気の向いた際にお読み頂ければとても嬉しいです。


今年のお正月に「ハンナ・アーレント」という映画を観てきました。本映画はタイトルにもあるアーレントという哲学者の生涯の一部を描いています。もちろんアーレントの思想も大きく触れていますが、彼女の人間面も描いているため、彼女の思想を知らない方でも楽しめると思います。

とは言いつつも、この映画は背景知識を多少持っておくとより楽しめると思います。自分はこの映画に向けて「今こそアーレントを読み直す」を読んでおり、細かい部分も分かった気がします。

今こそアーレントを読み直す (講談社現代新書)
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なので本書からアーレントの思想のうち、映画に関係しそうな部分を、簡潔に紹介しておきたいと思います。「ちょっと観てみようか」とお考えの皆様も、よろしければぜひお読みください。最後に少しだけ、自分の感想も書いてあります。

※注※
本記事では、映画の内容に関わる記述があります。公式サイトや宣伝などで触れられている以上のことは述べていませんが、映画の内容を知りたくない方はお読みにならないで下さい。

全体主義 (totalitarianism) はもともとイタリアのファシズム運動で「脱個人主義」を指すポジティブな意味で用いられた言葉(p.31) でした。しかし第二次世界大戦をきっかけに、非西欧近代主義の集団主義的体制を形容するネガティブな言葉として使われるようになりました。アーレント自身は以下のような立場でこの言葉を用いています。

「全体主義」は、前近代的な野蛮の現れではなくて、むしろ西欧社会が近代化し、大衆が政治に参加する大衆民主主義社会になったことに起因する問題だと見た (p.33)

この引用箇所が、『全体主義の起源』というアーレント (1951) の著書をよく表しているように思えるのですが、もう少し詳しく説明します。

第一章で反ユダヤ主義について述べられています。全体主義は昔、ユダヤ人を差別する際に、ユダヤ人以外とユダヤ人という区別をしだしたところから始まります。ユダヤ人以外にとっては当時、ユダヤ人は<他>の存在であって、<自>とは異なるグループを見なすようになります。それによって、<自>である自分達と、<他>であるユダヤ人とカテゴリー分けを行って、彼らを蔑視したり迫害したりという歴史的事件につながります。
これについて、アーレントは以下のようにみています。

彼女はそこに、「同一性」を求める国民という集団が、自分達の身近に「異質なるもの」を見出し、「仲間」から排除することによって、求心力を高めていこうとする「自/他」の弁証法のメカニズムを見る。 (p.43)

次に第二章では、19世紀末の帝国主義でも同じように同一性の原理に基づいて国民国家を形成し、国民国家をベースにして資本主義が発達し、帝国主義政策が完成した歴史背景を概観します。

第三章では、大衆社会において受動的にただひたすらついていこうとする「大衆」について考察をします。

政治における「大衆」とは、自ら政治に積極的に参加し、自らの理想を追求するのではなく、政治家あるいは政治が約束する利益と引き換えに、それらの政党や政治家を選挙などで支持し、ただひたすらついていこうとする受け身的な存在である。(p.49)

大衆は無構造性を特徴としているため、その時々の気分に流されやすい。誰かが“もっともらしい”ことを言っていれば、「そうかもしれない」と言って無批判的に受け入れてしまうのも大衆です。そうならないためにも私達は思考することを常に続けなければなりません。

※雑談※
そういえば、私も sava 君も大好きだったドラマ、「リーガルハイ」が終わってしまいました。

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先月放映された第9話でも、「民意」が1つのキーワードになっていました。古美門先生の「民意」演説で他の人と同調する民衆の愚かさが焦点となりますが、彼の演説もアーレントの「大衆」観に近いのではないでしょうか。彼が「本当の悪魔とは巨大に膨れ上がった時の民意だよ」と言っている通り、アーレントも民衆の思考停止状態を危惧し、思考 (denken) の意義を主張していました。そう思うと、リーガル・ハイスペシャルで、中学生の1クラスが「羊の群れ」と喩えられていました。これも誰かが先導するわけでもなし、皆についていけば大丈夫だろうという中学生たち(ないし大人たち)の心理を見事についていたように思えますし、アーレントの「大衆」と近いのかもしれません。 (中学生の場合はまた別の要因もあるかもしれませんが...。)

...悪い癖で、またまた脱線してしまいましたw本書に戻ります。

他の物語の可能性を完全に拒絶すると、思考停止になり、同じタイプの物語にだけ耳を傾け、同じパターンの反応を繰り返す動物的な存在になっていく。 (p.58)

この「大衆」「無批判性」「思考停止」などに関わっているのが、『イェルサレムのアインヒマン』(1963) という作品で、本映画の中心となる話です。

アインヒマンは戦時中にユダヤ人を収容所へ移送する責任者で、戦後裁判にかけられます。当時は“悪の根源”とも世間では見なされていましたが、アーレントが彼の裁判を傍聴すると、どうもアインヒマンが大悪人であったという世間のイメージは誤っていることに気づきます。

アインヒマンは、ユダヤ人を抹殺することに使命感を感じていたわけではなく、たまたま与えられた仕事を順調にこなしていただけである。 (p.63) 
法廷に立たされたアインヒマンの内にアーレントが見たのは、決められたことに従うだけのあまりにも平凡な市民だった。...アーレントは、平凡な生活を送る市民が平凡であるがゆえに、無思想的に巨大な悪を実行することができる、という困惑させられる事態を淡々と記述した。 (p.65)

アインヒマン裁判に関するこのような記事(当時はまだ本になる前でした)を出版し、世間からのバッシングに対してどうアーレントが反応するか、というのが映画の大きな軸になります。

映画の終盤では、アーレントが学生(世間)に向かって 8 分間にも及ぶ講義を行います。そこでのスピーチは分かりやすいながら力強い言葉で語られ、大変圧巻でした。その一方で映画中の彼女は友人や夫との会話で冗談を言ったり、昔の恋人であるハイデッガーとの恋であったり、とても人間味あふれるキャラクターにもなっています。

最後に、個人的な映画の感想になりますが、とても良かったです!
会話中にさりげなく混ぜた機知に富んだ言い回しであったり、相手によって英語とドイツ語を使い分けることであったりというシーンでアーレントの知性を伝えるといった細かい描写が良かったように思えます。また、アーレントの他の著作である『人間の条件』の公的領域・私的領域が映画中でもはっきりと分けられていたり、アーレントが色々な立場の人と議論するシーンも多く、彼女の思想がとてもよく出ているのでは?とぼんやりと感じました(それ以上のことは、勉強不足でよく分かりませんが...泣)。

この映画は公開劇場が限定されているようで、ご興味のある方は、公式サイトでお近くの場所を探してみてください。


さて、映画と本のレビューが混ざってしまい大変読みにくいかと存じますが、最後に本書で最も印象的だった、とても短い1文を引用しておきます。

「私」自身も「アインヒマン」になり得る。 (p.66)

事実はともかく、アインヒマンは悪人だったからあのようなことをしたのだ、と考えることで私達は安心することができます。しかし、上の一文にもある通り、アーレントの主張では、大衆である私達も思考停止を止めれば「アインヒマン」になり得るわけです。

教師になってからも、思考停止をしてしまうと、自らが「アインヒマン」となるかもしれないと思うと、恐ろしいと感じます。とは言っても、世間知らずの甘ちゃん大学生のたわ言ですが(^^;)

というわけで、脈絡のない記事でしたが、どうぞ興味のおありの方はご覧になってください。

本年もよろしくお願いします(^^)

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