2014年3月31日月曜日

小川仁志 (2013) 『「道徳」を疑え! 自分の頭で考えるための哲学講義』

おかげさまで、私も大学を卒業することができました。4月からは新しい環境で頑張っていこうと思います。

また、私と同じくこの3月で大学を卒業した友人の多くは、4月から日本各地で小学校、中学校、高等学校の教師として働き始めます。
来週には、つい先日まで近くにいた友人が社会人として日々奮闘しているというのは、何とも不思議な感覚です。彼らとまた語り合えるのを楽しみにしています。

さて、春からは大学院に進学する自分ですが、実はちょうど1年前には、現場に出る彼らと一緒に教員採用試験の勉強をしておりました。(あっ、察し)

今回紹介させていただく本は、自分の教員採用試験の体験と照らし合わせながら読みました。
読んでいる過程で、日本の道徳教育の現状とその「問題点」は、ずっしりと自分(もしかすると他の大学生も?)の中に根を下ろしていて、下手をすれば今後も脈々と受け継がれていくのではないか、というある種の危機感を感じました。

モラルが高いとしばしば言われる日本人ですが、そのモラルは極めて表面的な、与えられたモラルなのかもしれません。
もちろん、モラルが無いよりは絶対的に良いと確信を持って言えます。かの有名な錬金術師 エドワード・エルリックも、「やらない善よりやる偽善」を掲げていました。(真面目)

「道徳」を疑え! ―自分の頭で考えるための哲学講義 (NHK出版新書 421)
「道徳」を疑え! ―自分の頭で考えるための哲学講義 (NHK出版新書 421)小川 仁志

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■ 「道徳」とテンプレート

上手く言うことができないのですが、今になって思い返してみると、私の教員採用試験の対策は、ふわふわした自分の理想論を、抽象的な日本語に変容させて置き換えていく作業、という印象でした。(フワッ)

言い換えると、「実感の伴わない決まり文句的知識の詰め込み」、とでも言えるでしょうか。
ですから、非常に辛かったのを思い出します。

もちろん現場経験が無いのは当然なので、こんなことを言うと一緒に勉強していた友人達や、現在進行形で教員採用試験の勉強を頑張っている素晴らしい後輩たちに怒られそうで怖いのですが、これが去年の試験対策中に自分が抱いていた正直な感想です。

要は、私の教員採用試験の対策自体が「正解」(或いは「綺麗事」)をひたすら詰め込む勉強であった、ということです。

一応断っておきますが、もちろんこの勉強法が悪いと批判するつもりはありません。あくまで私自身がそう感じていたというだけの話です。また、私と同じような勉強をしても、結果として教員として必要な資質や考え方を身につけることができたという人もたくさんいることでしょう。

本書で小川氏は、学校で行われる道徳教育を鉤括弧付きの「道徳」と 記し、通常の意味の道徳と区別しました。(通常の意味、というのがまた難しいですが笑)
本書の冒頭で、小川氏は「道徳」を以下のように批判します。

いま行われている道徳教育の実態は、ある意味で価値観の押しつけにすぎない・・・別の言い方をすれば、あらかじめ「正しい」とされる答えを身につけさせることに終始している・・・(p.3)

「赤信号では渡ってはいけない」「駆け込み乗車はいけない」「お年寄りには席を譲らなければいけない」
とは言えても、「それが決まりだから」「常識だから」という言葉で思考を停止させて、「なぜそうすべきなのか」と徹底的に考えていなければ、本当の意味での道徳性は身についたとは言えない、というのが小川氏の主張です。

つまり、現状を鑑みると、「道徳」の授業はあらかじめ用意された「一つの模範解答」に子どもを導くだけの形式のものになっていて、それ故に子どもはある種の思考停止状態になってしまっている、とまとめることができるでしょうか。

加えて小川氏は、思考停止状態が意見の多様性の喪失に繋がることも問題視しています。
アメリカの市民教育を見れば分かるように、多様な意見というのは、「主体的な政治参加」の基本となります。現在の「道徳」教育では、一市民としての「公共性」や「主体性」の涵養は期待できません。

私は、ここで小川氏が挙げた「道徳」についての問題点が、私自身の教員採用試験対策のモヤモヤと類似しているように思います。理想のテンプレート化とでも言えるでしょうか。

これは教員採用試験に限らず就活でも言えることかもしれないのですが、正直なところ、採用されるためにはある程度理想をテンプレート化して話さなければならないことがありますよね。

例えば、「生徒一人ひとりの発達段階に合わせて授業を考えるべきだ」とか、「生徒(或いは会社)のためなら身を粉にして働きます」とか。
もし、「個人の発達段階は考慮せず授業します」とか、「疲れたら休みたいです」なんて言ってしまうと、「これだからゆとりは・・・」なんて言われて批判の対象になるのでしょう。
許容範囲はあっても、これ以外の正解はほとんど無いように思えてきます。

もちろん、公立の教師は学習指導要領や教育関係法規の大きな枠組み(縛り)の中で動かないといけないわけですから、ある程度のテンプレートを言えるかどうかも重要なことなのかもしれません。ただ、たとえそれがほとんど与えられたに等しい回答だとしても、そのテンプレート的回答に対して「なぜ」と問い続け、自分の物語と結びつけて語ることをしなければ、「私」意識の存在しない、薄っぺらい教育ロボットになってしまうのではないか、と私は思います。

考えすぎかもしれませんが、全員が同じことを言ってのける世界は、究極的には全体主義みたいなもんですから、皆が安易に思考停止してしまったら怖いですよね。


※参考までに、中学校学習指導要領総則の「道徳」の項目を載せておきます。

学校における道徳教育は,道徳の時間を 要 として学校の教育活動全体を通じて行うものであり,道徳の時間はもとより,各教科,総合的な学習の時間及び特別活動のそれぞれの特質に応じて,生徒の発達の段階を考慮して,適切な指導を行わなければならない。 
道徳教育は、(中略)人間尊重の精神と生命に対する畏敬の念を家庭,学校,その他社会における具体的な生活の中に生かし,豊かな心をもち,伝統と文化を尊重し,それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛し,個性豊かな文化の創造を図るとともに,公共の精神を尊び,民主的な社会及び国家の発展に努め,他国を尊重し,国際社会の平和と発展や環境の保全に貢献し未来を拓く主体性のある日本人を育成するため,その基盤としての道徳性を養うことを目標とする。
■ 立場が変われば、「正しさ」は変わりうる

本書では、○○ニズムや△△主義の考え方の相違点を基にして、「立場が変われば「正しさ」が変わる」ということが説明されています。本書の中核を成すテーマといっても良いかもしれません。

自分は「哲学」や○○ニズム、△△主義といった言葉に非常に弱いのですが、本書はそれらが分かりやすくまとめられていて、自分でも理解しながら読み進めることができました。

「正しさ」が変わることを示す、分かりやすい例を本文中から一つ引用すると、自然を「保全(conservation)」する立場と「保存(preservation)」する立場における対立が挙げられます。
前者は、現代を生きる私達が利用するために自然を保護する立場(人間中心主義)、後者は自然の美と尊厳そのものを守ろうとする立場(自然中心主義)です。

両者とも、「自然を保護するべきだ」という主張は似ていますが、その根幹には実用的功利主義超越的精神主義の両者の「正しさ」の対立構造があります(p.125)。
簡単に言えば、前者の場合、自然は保護しますが、人間が生きるために必要な分は利用します。利用可能な自然がなくならないように保護するのが、前者です。
対して、自然に手を加えたり、自然から搾取することを一切嫌うのが後者です。

無論、ここでは「どちらが正しいか」という議論は無駄です。たとえ議論したとしても、そもそもの「正しさ」が異なるため、議論は終着しません。立場が変われば、「正しさ」も変化するからです。

少し話は変わりますが、教員採用試験の面接などでは、「こういう場合、あなたならどうするか」という質問をされることが多くあるようです。

しかし、ここで試験官が言う「あなた」が指すのは単なる「私」ではなく、「教員としての私」です。そのため、単に「私」個人の価値観で話してしまい、ある程度テンプレート化された回答をしないと、「この人は教員に向かないな」と安直に判断されてしまうわけです。(滅茶苦茶普通のことですね・・・)

先ほどは回答のテンプレート化には否定的な意見を述べましたが、採用する立場は採用される立場に対して、必然的に優位ですから、やっぱり時と場合によってはそれを言うことも必要なようですね。
上でも述べましたが、このときにどれだけ(テンプレートから外れすぎず)「私」を出していけるかが大事なのかもしれません。

教員という立場上、迅速な判断と行動が求められる場合も多いはずです。しかし、教員として当然の判断・行動は、いくら迅速で正しくても非難の対象になってしまうということは大いにあり得ます。

実際、体罰の問題やいじめの問題に関しての近頃の教員に対する批判は、そういった「正しさ」の違いから生じるものなのかもしれません。このような批判は、立場が異なるため、真っ向から対立したら絶対に帰着しないんでしょうね。


■「公共性」に可能性を見出す

上では「立場が変われば正しさも変わる」ため、「正しさ」についての議論は無駄だと書きました。しかし、それでは正しさが乱立し、そのどれも「正しい」、何でもありのカオスな社会になってしまいます。

それでは、どのようにすれば多様な「正しさ」をまとめることができるのでしょうか。

小川氏は、「私」と「公」をつなぐ「公共性」にその可能性を見出しています。先ほどの自然保護の議論も、縦の公共性(世代間倫理)の観点から考えることで、議論をより良い「正しさ」に繋げていく可能性を見出すことができるようです。

少し考えてみると、先ほど述べた「あなたならどうするか」という教員採用試験の面接での質問で求められているのは、「私」と「公」の両者をどのように尊重していくかという「公共性」の問題なのかもしれないですね。(思いつき)


■おわりに

最後になりますが、本書は学校教育に限定した話はほとんどありません。むしろ、社会教育的な語り口だと感じました。なので、社会を生きる全ての人におすすめできる本だと感じています。

良書です。

教育現場は、ある意味他の社会から隔離された空間です。教員も、一度自分の価値観の「正しさ」に固執してしまうと、それを変容できるような刺激に出会うことも必然的に少なくなります。

教員、或いは教員を目指す身であれば特に、「正しさ」の是非ではなく、その「正しさ」の根源を探る過程こそ、重要視すべきなのかもしれません。

4月から新しい環境でがんばるみなさん、是非あたまを柔らかくして、多くの「正しさ」を吸収していってくださいね!

遊びに戻ってきたら、いっぱい話しましょう!

あ、ついでに、面接官に好まれるテンプレート教えてください(切実)

2014年3月27日木曜日

河合隼雄 (1997) 『子どもと悪』 岩波書店を読んで感じたことと、BBS 少年院見学の感想



3月23日、無事に大学を卒業することができました。これまで支えてくださった家族、先生方をはじめ、一緒に4年間過ごしてきた友人に感謝の意を述べたいと思います。

この4年間、学部の行事 (英語合宿や勉強会) 、サークル (児童文化研究会) 、ボランティア (大学受験対策学習支援) 、バイト (学習塾、英会話教室、大学食堂) など、大変充実していたと思います。その中でも自分にとって大きな存在の1つだったのが BBS というサークルでした。

思えばこの4年間、BBSというサークルには本当にお世話になってきました。BBSとはBig Brothers and Sisters Movements の略称で、非行少年と比較的近い存在として交流することで彼ら (彼女ら) の成長に良い影響を与えようという趣旨で行っています。わたしは東広島地区に所属してきましたが、近くの施設などで学習支援を行ったり、年に2回レクリエーションを行って自習時以外の子どもたちの顔を見たりしてきました。

あまり自分が丁寧に活動できたとは到底思えませんが、最も印象的だったのは保護観察処分の子どもたちと1対1で向き合う「ともだち活動」でした。自分の課題と少しずつ向き合っていく姿は見ていて嬉しくなりました。



( BBS の活動については、こちらをご覧ください。日本BBS連盟公式ホームページへリンクしております。)



先日のゼミ合宿で河合隼雄先生に関する講義があったため、この春休みに先生のご著書を数冊読んできましたが、その中でも特に自分との関係性が強かったのが『子どもと悪』です。河合先生の本は文体が読みやすく、本当に河合先生が自分に語りかけているようでとても好きです。 (といっても数冊読んだ程度ですがw)


子どもと悪 (今ここに生きる子ども)
子どもと悪 (今ここに生きる子ども)河合 隼雄

岩波書店 1997-05-20
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いつも通り、気になった点をまとめております。
更生保護・教育にご興味のお有りの方は、どうぞご覧下さい。


■ 悪は必ずしも否定的なものか~個性と悪~

『子どもと悪』では、必ずしも「悪」を否定的なものとして固定的にとらえていません。悪を排除しようというのではなく、悪を含む世界の中で子どもたちがどう成長するかというスタンスで書かれています。以下の序文がそれをよく表しています。

現代日本の親が子どもの教育に熱心なのはいいが、何とかして「よい子」をつくろうとし、そのためには「悪の排除」をすればよいと単純に考える誤りを犯している人が多すぎる。そのような子育ての犠牲者とでも呼びたい子どもたちに、われわれ臨床心理士はよく会っている。 (p.3)

よく日本では「臭いものには蓋をしろ」といいますが、仮に無菌状態の温室のような空間で子どもを育てるとすれば、温室に出たあとの社会に耐えられる子になれるのでしょうか。また、「悪」とは必ずしも避けられるべきものなのでしょうか。

第1章では、多くの小説家や芸術家が昔は「悪」とされがちなこと (夜間外出、反抗、ひきこもり) をしていたと証言しています。彼らの個性や創造性はこのような「悪い」ことから伸びることも考えられるのではないでしょうか。

たとえば、京大教授をなさっていた日高敏隆さんのインタビューでは、彼が学校に「三分の一ぐらいしか行ってない」 (p.8) とか、高校は通学に時間がかかるのでサボっていたとおっしゃっています。他にも鶴見俊輔さんは中学生のときに「カフェ」に入りびたっていた事実を明かしています (p.6) 。このような方々が個性を伸ばしていけたのは、学校教育の力というよりも「悪」の役割が大きかったのかもしれません。

個性を伸ばす、ということが日本の教育において、最近特に強調されるようになった。国際社会になって、日本人が画一的でなく、それぞれの個性を持った人間として他国の人とつき合う必要性を強く感じるようになったからである。従って、小学校教育の時点においてもそのことを大切にしなくてはならない、と考えられるようになった。しかし、端的に言ってしまうと、個性の顕現は、どこかで「悪」の臭いがするのではなかろうか。 (p.11)

仮に学校の教員が「悪」を排除しようとするのであれば、個性の顕現は妨げられるでしょう。本を読むのが好きな子が放課時間中教室で本を読んでいるのを見て、教育熱心な教師であれば「本もいいけど、外で遊んだらどう?」「友だちをたくさん作るのがいいよ」と声かけするのかもしれません。この場面では、「善い」=「友達をつくる」、「悪い」=「1人で過ごす」という図式が教師の中にあります。その上で河合先生は、「個性の発揮のはじまりは、その人の「好きなこと」に熱中することからだと思われる (p.12) 」と言います。たとえ1人で過ごしていたとしても、その子が好きなことをしているのであれば個性を発揮している場面ととらえるのです。

このように、教師の想定する悪には人の個性を伸ばしたり創造性をもたらしたりするという、肯定的な側面があると分かります。他にも「悪」には様々な良い側面があります。次の項では「怒り」の良い面について考えましょう。



■ 怒り

たとえば、「怒り」には周りの人を傷つけるという悪い面もありますが、同時に次の行動へのエネルギーを起こすという側面があります。

子どもが泣いたり起こったりするのは、大人から嫌われることが多い。すでに述べたように、子どもはいつも「上天気」であることが期待されている。しかし、怒りは前節に述べた笑いのように、思いがけない新しい地平を拓く力をもっている。あるいは、子どもが自分の世界を急激に広げようとするとき、怒りの感情が生まれる、と言っていいかも知れない。 (p.124)


本書では『思い出のマーニー』という作品のエピソードが紹介されています。少女が自分の感情を抑え付けて生きていたのですが、あるとき自分にやさしい態度をとってくれる人を前にして、自分の思いを吐露します。その最初の一言は怒りによるものでした。怒って自分をやさしくしてくれる相手にわめき散らします。この怒りの爆発が彼女の回復に貢献したのは言うまでもありません。



少し話はそれますが、漫画「ドラゴン桜」の第一話でも、無気力で勉強嫌いな高校生を目の前に桜木弁護士は彼らを徹底的に非難します。もちろん高校生たちは自分たちの生き方を非難されて怒ります。すると桜木弁護士は相手を諭すように、「このままだと人生だまされ続ける」「だから東大へ行け」と畳み掛けます。一度怒りを出した高校生たちは、自分達が今まで生きてきた世界から新しい世界へ踏み入れるチャンスを手に入れるわけで、桜木先生はそれを見越した上で怒りを喚起したのでしょう。

(このシーンは本ドラマのベストシーンの1つだと思うので、よろしければご覧ください。第1話のラストシーンです。)

とにかく、怒りには相手を傷つけるという面はたしかに「悪い」のですが、同時に当人にとって「良い」面もあることが分かります。すると、「怒り」を必ずしも排除する必要があるのか疑問に思えます。



■ 悪は「からだ」からのメッセージかもしれない

少し話はそれますが、河合隼雄先生の著書では、よく「身体(からだ)」が話題になります。以下の箇所では、デカルト以来の精神と身体の二元論的区分を基に、精神を上位(良い)と見なしたときの身体の位置づけについて議論されています。


人間にとって、「身体」というのは非常に不思議なものである。それは自分のものであるが、自分のままにならない部分がたくさんある。...
ここで、精神と身体という区分を明確にし、精神を善と考えると、身体は悪ということになる。特に、身体は食欲、性欲など精神によってコントロールするのが難しいことに関係するので、余計に悪者扱いされる。それに子どもの体験としては、大小便、唾、鼻汁、など自分の体から出てきたものが「汚い」として忌避されるのは、印象的なことであるに違いない。それを少し推し進めると、それらを排出してくるからだそのものも「汚い」、あるいは「悪」に結びつくことになる。 (p.105)


たとえば遊びにおいて子どもが破壊行動を見せることもしばしばあります。そのような大人からしたら「悪」と見えることも、子どもたちはこの上なく楽しみながら行っています。子どもの無意識にある部分が「遊び」というかたちで外化したのかもしれません。

これは、「意識」と「無意識」に置き換えて読んでもよいのかもしれません。

つまり、意識を善と考えると無意識は悪ということに、さらに無意識はコントロールすることができないため、意識にとっては厄介者と認識されます。

私がBBSで非行少年と関わっているとき、「なんとなく万引きした」とか「気がついたら殴ってた」というように、無意識下が原因で非行を犯す少年がいたことが驚きでした。自分が私学出身だったこともあり、あまり周りには非行と関わり深い友人はいなかったためでしょうが、自分の中の非行少年像は、「わざと相手を痛めつけたい」とか「自分の意志で万引きする」といったワルを想像していたため、はっきりした理由なく非行をするというのが理解できませんでした。ところが、この点も上の議論を踏まえれば納得できます。すなわち彼らの無意識の段階でなにか足りない部分があり、それを補うために「盗み」を働いたのだとすれば、あるいは周りから大切にされすぎて破壊的な性格が影にあり相手を殴ってしまったのだとすれば、理解できます。

そのため、「なんでこんなことをやったのだ」「悪いことだと知ってるか」と問い詰めてもあまり意味がないのかもしれません。むしろ、彼らの無意識下に潜む問題に直面することの方が大切なのでしょうし、無意識を大切にした対応が必要なのだと思います(が、具体的にどうすればよいかはわかりません。現場に出る友人たちに尋ねてみたいです。)



■ 両義的な悪のポジティブな側面を活かすために、周りの人ができる3つのこと


ここまで見てきたように、悪は良いところと悪いところを併せ持った両義的なものです。しかし私達が悪について考えるときは必然的に「悪い」部分のみに目が向きます。どのようにすれば私たちは悪の「良い」面を活かすことができるのでしょうか。以下に、(1)  一神教的態度と多神教的態度の区別の導入、(2) 並ぶ関係を築く、(3) 子どもの存在の受容の3点を述べたいと思います。((2) と (3) は少し似ているかもしれません...。)


(1) 一神教的態度と多神教的態度

河合先生が子どもの「悪」について、実に興味深い一節を残しております。

悪の問題を考えるときに、厳しい一神教的態度によって、善悪を裁断してしまうのは、問題であると私は考えている。それでは多神教的に考えるとどうなるのか、ということがある。ここで、わざわざ一神教的、多神教的という表現をして「的」をつけているのは、信仰としては一神教を信じていても、人生の考え方としては多神教的なものを取り入れることは可能と考える考え方があるからである。 (pp.29-30)

ここで言う一神教的態度と多神教的態度とはどのような態度を指すのでしょうか。先に分かりやすい一神教的態度から考えましょう。善悪の判断を「裁断」するという表現から分かるように、大人が「これは善い」「これは悪い」と一義的に判断することを指すのでしょう。仮に万引きという行為を判断するならば、「校則(法律)を犯しているのだから、悪いだろう」と一刀両断でしょう。

それに対して多神教的態度では、より多くの判断基準を持つはずです。「確かに法律では悪いとされているが、万引きをするほど追い詰められていたのではないか」「万引きをするというのは創造性の表れともとらえることができるのかもしれない」といったように、先ほどの一義的な考え方以外の基準を当然含みます。

河合先生は後者の多神教的態度を尊重してはいますが、ここで気をつけたいのは「万引きを肯定するのか?」「じゃあ万引きを全員すればよいか」という短絡的な判断をしてはいけません(これも一神教的判断の現われとも取れるのでしょうが...)。

このようにいろいろな例を見てくると、「悪」というのが実に一筋縄では捉えられない難しいものであることがわかる。それは無い方がいいと簡単に言い切れないし、さりとて、あるほどよいなどとも言っておられない。それは思いの他に二面性や逆説性をもっている。 (p.32)

多神教的態度では、つねに「割り切れない」「矛盾したような」という曖昧な表現を残します。現に本書中にもこのような議論が多くなされています。科学的な判断を好む方にはこれは不完全な議論、不十分な論証と映るかもしれません。しかし、そもそも人のこころを扱うために、割り切れる議論のみを期待することはできないのではないでしょうか。

本章を読んだ私の感想としては、子どもと接するときの私たちは悪の両義性を認め、一義的な判断を避けたうえで多くのことを考える姿勢を持つ多神教的態度をもつことがよいのだと思います。

(2) 並ぶ関係をつくる大人

子どもが何か悪さをしたときに、大人はそれを注意する存在なのでしょうか。それとも他の接し方があるのでしょうか。

目下の読書会で使用しているテクストである、やまだようこ著『喪失の語り』から「対面関係」と「並ぶ関係」の区別を導入したいと思います。

「対面関係」は人と人が向き合うため、「対話や論争がなされ」 (やまだようこ, 2007, p.140) ます。例えば、向かい合ってオセロや将棋をするときは、相手は敵に映ります。また教師が教壇に立っている限りは対面関係にいるため、<教える-教えられる>という関係になるでしょう。子どもが悪さをしたときの「対面関係」は、善悪を伝える存在・叱責する存在としての大人になるのだと思います。

それに対して、「並ぶ関係」は「自己と他者が同じ場所で同じものを共に見る共同注意」 (やまだようこ, 2007, p.140) をする関係で、たとえば親と子どもが手をつないで歩いているときに、親が「あれを見てごらん」といって一緒に花や鳥を眺めるような場合があります。彼らは先ほどの対面関係と異なり、<同じ立場で共に見る>関係にあります。やまだようこさんの議論では、「並ぶ関係」のときにことばが生まれる根源となると紹介されています。 (やまだようこ, 2007, p.140)

では、「並ぶ関係」で子どもの悪に対応するとはどのようなことでしょうか。河合先生は、以下のように述べております。

大人は子どもに根源悪の恐ろしさを知らせ、それと戦うことを教えねばならない。時によっては厳しい叱責も必要であろう。しかし、そのことと子どもとの関係を断つこと、つまり、悪人としての子どもを排除してしまうこととは、別のことなのである。自分自身も人間としての限界をもった存在であるという自覚が、子どもたちとの関係をつなぐものとして役立つのである。そして、そのような深い関係を背後にもって、悪も両義的な姿を見せてくると思われる。 (pp.59-60)

大人も根源悪を完全に克服した存在かといえば、当然そんなことはありません。ニュースを見ていて大人による事件が絶えないのと同じように、大人も自分に潜む悪と日頃戦っているのです。つまり、子どもたちが悪いことをしてしまうという悩みをかかえているのと同じように、大人も日々悪と向かい合っているのです。ここでは、子どもも大人も「並び合って」悪を見ることができます。このとき大人は<教える>存在ではなく、むしろ悪を経験してきた<先輩>として、<後輩>である子どもたちを迎え入れるのでしょう。「君もこのように悪と向かい合っているのだね。私もこのようなことがあったよ。」と語ることで、根源悪を子どもが知ることができ、大人もその子どもを受け入れることが易くなるのだと思います。

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(3) 子どもの存在 (who you are) の受容

日高さんの場合は素晴らしい担任教師がいた。鶴見さんの場合については詳しく語れなかったが、結局は母親から (そして、実は日本という母性社会から) 離すのがよいとして、アメリカに留学させることを決定した父親がいた。このように、悪がポジティブに変容するとき、そこに重要な他者がからんでくることも、ひとつの要因である。 (p.32)


以前BBSの活動の一環として、少年院を見学させていただく機会があり職員の方のお話を伺わせていただきました。学校の教師を目指すものとして、少年院の職員の方はどのような姿勢・態度で子どもと向き合っているのかを知るのを楽しみにしていました。少年院に厳しいイメージを抱いていた自分にとって、職員の方がお話になったことは少なからず自分の予想と反しました。


たとえば少年が万引きのように法律で「悪い」とされている行為をしたとします。すると職員の方はそれについて叱るのではなく、まずわけを尋ねるそうです。「なぜ万引きをしたんだい」「なにか万引きをせざるをえないことがあったのかい」。このような聞き方をすると、それまでうつむいていた少年も職員さんの顔を見上げるそうです。「大人は子どもの話をきいてくれないものだと思っていました」とか「暴力しないで教育してくれる大人にはじめて出会いました」というような感想を残す子もいると聞きます。彼らにとっては、まず自分のしたこと、あるいは自分という存在を受け止めてくれる大人が必要なのだと実感しました。
ただし受け止めるだけではなく、職員さんはそのあと「君の万引きした理由は分かるけど、~~という点でよくない」とおっしゃるそうです。そこで子どもは自分のしたことと向き合い、今後の課題を知るのでしょう。


矯正教育では過去の反省と将来の生活への準備をさせることが目標ですが、そのための職員さんの手立ては「きみは大事に、必要にされている。きみは愛されている。」というメッセージを送ることだと分かりました。


子どものしたこと (what you did) に目が行ってしまうこともあるかもしれませんし、子どもの行っている学校の種類や家庭の状況、肩書き (what you are) に目がいってしまうかもしれませんが、むしろ相手の存在自体 (who you are) を受け止める覚悟こそ求められるのでしょう。


■ 感想

ここまで読むと、そもそも「悪」とはなにかという問いに直面します。私たちが「悪」と呼んでいるものには、本来良い面があるのにもかかわらず見えていないだけなのでしょう。京都で開催された久保野先生の英語教育講演会でも、「すべての指導法には良いところと悪いところがある」と何度も繰り返されていました。正にその通りだと思いますし、それは英語教育の指導法に限定されないのかもしれません。すべての行為には背後に肯定的意図 (NLPでは positive intention といわれています) が隠れているので、子どもと関わる私たちに求められるのは、その背後にあるよい部分を見つけることなのだと思います。

NLPについては、関連記事を書いております。よろしければご覧ください。


河合隼雄先生の著書は今後も引き続き読んでいきたいと思います。


なお、更生保護については、以下の本がとても面白かったです。2年前の学部のプレゼンテーション大会でも本書を背景にした発表をさせていただきました。更生保護にご興味をお持ちの方がいらっしゃれば、ぜひご覧ください。



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2014年3月26日水曜日

パワーアップ!!

久々の更新となります。mochiです。


ここに嬉しい報告をさせて頂きます。


当ブログに新しいメンバーが加わりました。同学部のNinsora君です。彼はSava 君同様、僕が学部で出会った友人の中で本当に思考が深いと思っていた人の中の1人でした。彼の方からメンバーとして参加したいと言ってくれたので、喜んでお迎えする運びとなりました。


また4月を迎えるにあたって、私たちの進路が決定しました。当ブログ著者は以下の通りとなります。


sava : 中学校英語科教員(現場の視点で、ある意味本音の「英語教育」について語る)
mochi : 大学院生(研究・理論の視点で英語教育および研究テーマの翻訳論について語る)
Ninsora : 大学院生(研究・理論の視点で英語教育および豊かな感性を頼りに幅広い事象について語る)


括弧内は担当となります。
これからは理論・実践の両観点で英語教育について語ることができるので、より深い議論をできるよう邁進したく存じております。

さらに言えば、


save : 現場の視点から有益な記事・実践報告担当
mochi : 読みにくい記事の大量生産担当(汗)
Ninsora : 質の高い文章の発表担当


となるのでしょうか(笑)そこのところも楽しみにして頂ければ幸いです。


いずれにせよ4月からもパワーアップして3人で続けて行く所存ですので、皆様これまで通りご愛好の程よろしくお願い申し上げます。



大事なことなので、もう一度繰り返します。


「3人で」続けて行きます。よろしくお願いしまth。(笑)


(以下、私用で恐縮です。)

またsava君を含め、4月から社会人として新たな環境に出られる(教英の)皆様、mochi も Ninsora も相変わらずこの田舎よりささやかながら応援してますので、ぜひお疲れの出ませんようにご活躍を期待しております。

自分も充実した2年にできるよう、できることからこつこつと行っていきます。お互い頑張りましょう(^^) またこちらへ帰ってくることがあれば、ぜひ連絡ください。いつでも待ってます♪♪


今後ともよろしくお願いします!!


2014年3月19日水曜日

藤田令伊『フェルメール 静けさの謎を解く』 集英社新書

こんにちは。新しく当ブログに参加させていただくことになりました。Ninsoraです。
今まではこちらのブログで記事を書いておりましたが、今回吸収してもらえることになりましたので、どうぞよろしくお願いいたします。
早速ですが、少し前に読んだ本について紹介いたします。

フェルメール 静けさの謎を解く (集英社新書)
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フェルメールは、17世紀に活動したオランダの画家です。「牛乳を注ぐ女」や「真珠の耳飾 の少女」などの彼の代表作を一見すれば分かるように、彼は静寂に満ちた日常風景を、やわらかい光の描写とともに表現しました。そのため、彼は「静謐の画 家」や「光の画家」と揶揄されることも。

なぜ彼の絵画はこれほどまでに静寂に包まれているのであろうか。

本書は、そのような問題提起から出発し、その謎を読み解いていこうとするものです。
絵の具や構図、色彩心理学など、様々な観点から分析がなされており、とても面白かったので、今回は、その中で特に面白いと思った項目をいくつか紹介しようと思います。

1. フェルメールブルー

フェルメールは青の発色が特徴的で、その青は「フェルメールブルー」とも呼ばれます。第1章は、「青」という色彩の持つ静けさや、それに繋がる超越性という観点から、フェルメールブルーをについて解き明かそうとする内容でした。

フェルメールは、その色の性質を直感的に理解し、次第にそれを際立たせる方法を研究していったようで、究極的には使用する色を少なくすることで「青」を引き立たせてていたそうです。

フェルメールの代表作の一つとして知られる「青衣の女」という作品ですが、先に挙げた二つの代表作同様、そこには静けさが漂い、ずっと見ていられるほどに落ち着いた作品となっています。
実はこの作品、青を引き立てるために、茶、白、青の三色の絵の具のみを使用して描かれているらしいのです!
確かに、言われてみれば他の色は見当たらない。
すごい・・・の一言。そもそも、たった三色でこんなすごい絵が描けるものなのか、という驚きがありました。
これを計算して上で、きちんと作品を完成させてしまうところに、フェルメールのすごさを改めて感じますね。(ある程度上手くなれば簡単なのかもしれないけど・・・)

青衣の女 (1663-1664)

2. 描かない

フェルメールは、「描かない」ということでも静けさを演出したそうです。作品を見ても、わざとカーテンを大きく描き、見える面積を狭くしたり、モデルをアップで描くことで描かれる背景を少なくしたりと、様々な工夫を凝らしていることがよく分かります。
最も有名な作品である「真珠の耳飾の少女」を見ても、少女が大きく描かれているため、そもそも背景をほとんど描く必要がないことが分かります。それに加えて、背景は黒く塗りつぶされており、余計なモチーフは一切描かれていません。
この作品に、もし背景があったらどう感じたのでしょうか。これほどまでに、この作品の持つ静けさは表現されていたでしょうか。「あえて描かない」ということがフェルメール作品の静寂に大きく貢献していることは間違いないでしょう。

真珠の耳飾の少女 (1665)

ま た、「描かない」ということには、もう一つ大きな意味があるそうです。通常、画中に登場する「物体」には、本来何らかの意味が含有されます。例えば、絵画 の中に十字架でも描こうものなら、宗教色が一気に強くなりますし、コウモリを描けば、何かしらの不吉さが暗示されているような気になるでしょう。

本 書では、「窓辺で手紙を読む女」が例として紹介されています。当初は、背景に「キューピッドの画中画」が描かれる予定だったそうですが、フェルメールは製 作途中でこれを塗りつぶし、白色の壁にしてしまいました。もし画中画を残していたら、「この手紙は恋文である」という意味が含意されてしまうからです。

そうなれば、この女性と相手の男性の間の様々なストーリーが、この絵画の背景にあることになってしまいます。そのような雑多な意味や推測が、結果として作品の静謐さを消し去ってしまうことになります。
窓辺で手紙を読む女 (1657-1659)

フェルメールは、「描かない」ことで、視覚的な静けさを表現すると同時に、雑多なストーリーを排除し、意味的な静けさも追求したことが伺えます。

3. 光の描き方

フェルメール以外にも、「光の画家」と呼ばれる人物は存在しています。「夜警」で有名なレンブラントがその一人です。しかしながら、「静謐の画家」と呼ばれるのはフェルメールただ一人。彼らの光の描き方の違いが、その印象の違いを生み出しているのでしょう。では、なぜフェルメールの光の描き方は「静か」な印象を受けるのでしょうか。

一番分かりやすい違いは、レンブラントの光が、闇とのコントラストで強く描かれるのに対して、フェルメールの光は全体的にボワッ~っと明るく描かれていることだろうと思われます。フェルメールの絵には、光によるコントラストが少ないのです。

筆者は、フェルメールのアトリエが面している方角から差し込む光や、オランダ特有の「水に濾過された柔らかい光」、マウンダー極小期による当時の太陽光の弱まりが、その「淡く霞んだ光」を生み出したのではないかと推測しています。

一見突拍子も無い推測のように思えますが、描かれた当時の気候条件と絵画の作風の関係は実際に研究されている内容らしく、フェルメールの「静けさ」との関連も実際は大きいのかもしれません。ほかの画家の作品も、気候条件によって何かしらの変化があるのでしょうか。

気になります!!

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一つ意外だったのは、フェルメールの作品の「静寂」は、ピーク以降、失われていってしまったらしいということです。何があって静けさを手放したのか、ということはもちろんですが、なぜフェルメールが一時期だけ静けさを追求したのかということも、調べたらすごく面白いのかもしれないです。

・・・絵画って知れば知るほど面白い!!


※おまけ

確かに、キューピッドがいるとウザい。


2014年3月3日月曜日

諏訪哲二(2005) 『オレ様化する子どもたち』中公新書ラクレ

本書は、「意味論入門」という学部の授業で先生から紹介して頂きました。



オレ様化する子どもたち (中公新書ラクレ)
オレ様化する子どもたち (中公新書ラクレ)諏訪 哲二

中央公論新社 2005-03
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高校の先生が書かれただけあって、とても説得力があるように感じました。特に、「贈与」と「等価交換」の教育原理や、主体に働きかける教育、生徒の「他者」的認識、という点は、最近の自分の関心とも合致していたので、面白く読みました。

教育現場での問題は世間からは「教師の問題」と見なされてしまいますが、本書はそれのみならず「生徒の問題」にも焦点をあてる、という立場で書かれています。学習者要因の軽視への反省という近年の教育学の傾向にもあっていると思うので、もっと早くに読んでおくべきだったと反省です。


1. オレ様化する子ども達

オレ様化という現象は、以下のように定義されています。

今や「客観的」と「主観的」の境界はなくなった。主観と客観の近代の二分法はもはや成立しない。「自分がこう思う」ことはみんなも思っているに違いない (あるいは、思うべきである) と子どもたちは確信している。これが「オレ様化」した子どもたちの真実のひとつである。 (p.52)


例えば、授業中にこの程度のおしゃべりをしても周りには迷惑がかからないだろう、という「主観」がある。諏訪氏の主張では、昔 (のちにより分析的な区分になるのですがあえて曖昧な言葉遣い) は注意をされたら、自分の主観と他人の感じ方(客観)が異なることを知ることができた。しかし、今日の「オレ様化」した子は、仮に注意されたとしても「うるせー」「別に周りに迷惑かかってないから良くない」と、「主観」と「客観」が同体となってしまっているといいます。つまり、自分の価値観こそが絶対的だと信じ込んでいるわけです。



昔自分がスイミングスクールに通っているときの話をしたいと思います。ある男の子が友達にちょっかいを出して、不機嫌な顔になっても続けているのを見て、先生がこのような叱り方をしたのを覚えています。「君はこのようなちょっかいを出されても平気かもしれないけど、他の人も同じように思うかどうかは分からない。」そのときは男の子も反省して(ふてくされて)素直に先生の言うことを聞いていたと思います。このような場合でも「オレ様化」している子であれば、先生の注意を受けても「別に平気でしょ」と続けるのでしょうか。



これと同様に、自分について他者から評価されることを嫌がる子も増えているようです。

子ども (生徒) たちはすべからく自分について「外」から批評されることを拒むようになった。「外」や「まわり」の助けや支えなしに自立していると勘違いしているのであろうか。 (p.56)
子ども (生徒) たちは知識や学力についてはともかく、人間的な価値というか、生き方や考え方についての「外」からのコメントを受け付けなくなった。自己の「個」としてのありようを拒んでいるように見える。「この私」について語られたくない。「この私」は絶対に特別なのである。 (p.60)


これも、主観(自己評価)と客観(他者による自己の評価)との違いを受け入れられないために、他の人からとやかく言われるのが嫌なのかもしれません。上の引用文の「この私」というのは自分は who I am と読みかえ、自分の価値観や信条を指すものとして理解しました。

つまり、「大学生だから読書はしなよ」とか「高校生のうちは英語やっときんさい」といったアドバイスは、自分の身分 (what I am) に関する批評だから受け入れたとしても、「君のさっきの発言は良くなかった」とか「君のこのような部分は直したほうが良い」は、自分自身 (who I am) に向けられたもので、本人にとっては受け入れづらいのでしょう。 (実際に受け入れづらい助言ではありますが、時代の変遷とともにますますこの傾向は顕著になっていくようです。詳しくは次章で。)



このように、子どもたちは自分を客観的に見ることがしにくくなっている、というのが氏の本書を通じたテーマの1つです。





2. 共同体社会と市民社会

諏訪氏はここで、「共同体社会」と「市民社会」という二区分を提示します。この二区分の提示によって、「なぜ」「どのようにして」昔と今では子どもたちにこのような変化が起きたのかを解明します。

2.1. 個-集団観

「共同体社会」は「子どもはこうあるべきといった世の中的な基準から子どもを論じる」 (p.78) 立場で、より保守的と言えるでしょう。それに対し、「市民社会」はむしろ「子どもの「個」というものに基準をおいて子どもを語る」 (p.78) ため、リベラル (進歩的) な立場になります。本書の第一章ではこの大きな二区分から、以下のような違いが出ていることを示します。





諏訪氏が、

子どもが「共同体的な子ども」から「市民社会的な子ども」に変わった (p.82)

と述べているように、上の子どもたちの変化は共同体的な見方から市民社会的な見方へと変化したことが原因として挙げられています。

以下では表のそれぞれの観点について、コミュニケーション原理、学校教育内容、他社性の3点について説明します。



2.2. コミュニケーション原理

「贈与」は「基本的に与えられる側からの一方向的なものであり、与えられる側に「負債」の意識を与える」 (p.80) コミュニケーションで、例えば愛は贈与的なコミュニケーションと言えます。例えば恋人にプレゼントを贈るのも見返りを求めてではなく、一方的に与えるものでしょう。あるいはキリスト教的な「アガペー (無償の愛) 」というのも、何かしてもらうためにするのではなく、相手への愛という行為自体に価値を見出すために行うため、贈与的と言えると思います。「贈与」では「お返し」は本来想定されていません。なので、友達から誕生日プレゼントをもらった後に、「大体値段は~~円だから、それ程度の金額で相手が喜ぶものを、相手の誕生日に贈らないと...」という発想は贈与的ではありません。


それに対して「商品交換」は、「双方向的な相互行為 (コミュニケーション) であり、売り手の手にするものと買い手の手にするものの価値は同じ」 (p.80) になります。よくある費用対効果という考え方は「これだけの努力をしたのだから、これだけの結果は返ってくるだろう」という想定で、見返りを求めている時点で商品交換的な発想と言えるのかもしれません。

「等価交換」はまさに近代そのものであるが、そこに「愛」は不在である。 (p.97)

という一文も、重く受け止める必要があるのかもしれません。

共同的なコミュニケーションでは、子どもは本来共同体に属していない未熟な存在で、そのような彼ら・彼女らを一人前にするために、大人たちは見返りを求めずに子どもへ教育をします。これは贈与であり、教師はそれに見合う成果は期待していません。それに対して、近年の市民社会的価値観では、子どもの「個」を尊重しているため、子どもの望むもの (学びたいもの) を教える、という等価交換を成立させようとします。あるいは、(極端な例かもしれませんが)速読指導を10回続けたのだから、文章を読む速度が進むだろう、という見返りを求めるかもしれません。

以下の数文は、一見当たり前のように見えつつ、教師として重く受け止めなければならないのかもしれません。 (組田先生の講演会に以前参加したときも、これと似ていることをおっしゃっていました。やはり現場の先生のご講演には来年度も足を運びたい...。)

もともと教育の原点は子育てと同じように「贈与」にある。いつの時代でも子どもは生まれた時点から広い意味での教育をされていくが、そのとき「受け手」 (子ども) は自分で望んでいるわけではない。ただただ「贈与」として受け入れるしかない。子どもは私たちの生育の過程からもわかるように、「贈与」としての教育を一方的に受けていくなかで「商品交換」的なコミュにケーションを身につけていく。 (p.99)


2.3. 学校教育内容

学校で教える内容も、両パラダイムでは異なった解釈がなされる。

共同体的な教育とは、社会が必要であると判断したものを子どもたちに学ばせようとするものである。市民社会的な教育とは、子どもの「個」が必要とし、望むものを子どもが学べるように支援しようというものである。 (p.86)

共同体的パラダイムでは、未熟な子どもが社会の成員となるために必要なものを与えるという価値観であるため、学ぶ内容も社会によって規定される。それに対して市民社会パラダイムでは、子どもが個として尊重されるため、学ぶ内容は子どもの興味・関心によって選ばれるし、それを支えるのが教師の役目となる。



2.4. 教師の感じる生徒の他者性

もともと教師にとって生徒は「他者」である。

哲学的に、自分達には見えない、あるいは理解できない存在を「他者」と呼ぶ。教師たちは生徒たちが「他者」であることは、最近は実感していると思う。もともと、教育における生徒は「他者」であったのだが、かつては教育や学校が国家や地域(コミュニティ)や家庭などの共同体によって強く守られていたので、子ども (生徒) たちの「他者」性がそれほど浮き立たなかった。 (p.35)

共同体的な価値観では、子どもは「個」としてはあまり見られない。学校にいる生徒は、「この私」 (who I am) が浮き出ず、生徒としての「私」 (what I am) をもてればよいため、その「異」質性は低く済むために他他者性がそこまで強く感じられないのだろう。それに対して、近代の市民社会では、「個」を重視するため、一人ひとりの「異」質性がいっそう感じられる。

もちろん「個」を重視する姿勢を貫く教育論では、「他者」性はそこまで問題視されることはないでしょう。しかし、現場で毎日子ども達の相手をする教師にとって、彼らの「他者」性 (理解しがたさ) はコミュニケーションをいっそう困難なものにするため、教育を難しいものとするかもしれません。

※教育における「他者」性については、以前の記事「受験英作文の問題文一行から<他者>について考えてみる」をご参照ください。



3. 無意識 (主体) に働きかける

最近、ゼミ合宿で「もののけ姫のユング的解釈」に関する講演を聞く機会があったり、河合隼雄先生の『ユング心理学入門』を読んだり、無意識というのが自分にとってひとつのキーワードになっているような気がします。

3月から開く学部の後輩と院の友人の読書会でも、「無意識」「語り」をキーワードに、やまだようこ先生の「喪失の語り」を輪読します。 (第一回ではお互いの関心をひたすら話し合ったのですが、早速刺激的でした。開催がとても楽しみです。)

そんななか、本書にも無意識に関する記述があったので、ここも引用しつつ自分なりの意見を付け加えたいと思います。

教育 (論) は考え方として「無意識」と言う「主体」を排除してしまっているが、現実の教育の営みは「無意識」を排除しては成り立たない。間抜けな教師は子ども (生徒) が「自我」で動いていると考えるが、真目な教師は子ども (生徒) が「自我」のみで動いているわけではないことを知っている。 (p.199)

「言えば分かる」とか「説明すればわかる」というのは、自我しか考慮に入れておらず、それを支える「意識」や「無意識」というものを軽視しています。しかし「無意識」を軽視した教育では、生徒のこころには響かない、無味乾燥な働きかけになってしまうかもしれません。


河合先生の『ユング心理学入門』にも、自分の意識を補償する作用を無意識が担うという説明がありました。(これについては、春休み中にきちんと記事にまとめようと思います。)例えば、表向きでいい子を演じている場合、その個の無意識(影)では攻撃的な性質を持つかもしれません。森田芳光氏の映画「家族ゲーム」でも、沼田家の子どもたちは親の機嫌を取りながら「よい子」を演じていたため、抑圧された無意識の悲鳴が時に見られました (例、最後の食事シーンでの兄弟げんか) 。例えば、生徒による自己紹介という意識化された自己把握の語りを聴くだけでは、教師はその個を理解することはできないのかもしれません。その子の無意識からのメッセージを受け取るのも教師の役割なのだと思います。


ただ、もちろんこのような点も考慮して働きかけをする必要があるのでしょうが、実際にどのようにすれば生徒の無意識にも配慮できるのかは皆目見当がつきません...。改めて教職の難しさを実感しました。

まとめると、

・教師は生徒の意識に働きかけるだけでは不十分。
・ただ、無意識に働きかけるとは、具体的にどのようなことだろう。(あまり想像できない...。)




4. 感想・意見

鋭い切り口からの意見で、とても刺激的な読書体験になりました。

本書は第一章・第二章に分かれており、上で紹介したのはほとんど第一章の内容になります。第二章は、現在主流といわれている教育論者の考え方に対する批判的考察が中心となっています。

第二章については私自身がその方々の著書を読んでおらず、片側からの意見のみではアンフェアだと感じたので必要最低限の言及にとどめました。

それを除いては、本書の意見には同意できる点が多くありました。現に自分も市民社会的価値観の下に育ってきたわけで、コミュニケーションの商品交換的発想も心当たりがありました。誕生日プレゼントは、現に大学で何度も何度も感じました。必要な礼儀であることはもちろんですが、やはり「等価交換」的な発想は深く根ざしているのかもしれませんし、「頑張っても (結果がなければ) 無駄」「この問題集1冊やったら点数何点上がる?」という発想はよくしていたように記憶します。

最後に、教師側の視点で。

ここまでの意見を踏まえて、教師は「共同体的」教育と「市民社会的」教育の両方を行ったり来たりしながら、バランスのとれた教育を目指さなければならないといえると思います。(言うは易く行うは難し。) 現に「個」を無視した教育では息の詰まった教室になると思いますが、あまりにも迎合してしまうと授業そのものが成り立たなくなるのではないかと危惧します。


この「丁度よさ」が、現場で養われる力なのだろうと感じます。
現場に出る友人とは、今後も連絡を取り続けたいですね。

ということで、広島県を離れる教英の皆さん。忙しい期間が続くというのは重々承知ですが、時間ができたらぜひぜひ大学に顔出してください(^^)。いろいろ話を聞かせてもらえるのを楽しみにしています!!



本書は自分の教育観を揺さぶるのにも良いと思います。教育学部の方は、ご興味の方はぜひお読みください。(あるいは、とっくの昔に読まれている方はご感想等交流できれば幸いです。)




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2014年3月1日土曜日

実在・現象・欲望を軸とした、映画『羅生門』の一解釈



いよいよ3月になります。塾でもこれまでみてきた中2・高3クラスの担当が終わり、来週から中1の新しいクラスを担当することになりました。昨日は1年間続けてきたフリースクールでのボランティアの最後のクラスを行ってきました。大学では追いコンが終わり、ゼミ同期メンバーで過ごす最後の時間であったゼミ合宿も終わり、大学の友人たちが社会に出るときが少しずつ近づいてきます。

自分ものんびりしていられないな、と頭では分かりつつも、映画を観る毎日(笑)

今回は映画『羅生門』に絡めて、TVドラマ「リーガルハイ」とか苫野先生の議論とかを交えながら、自分の感想をとりとめもなくつづりたいと思います。


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映画『羅生門』は黒澤明が監督を務めた作品で、芥川の小説『藪の中』と『羅生門』を原典としています。最近になって黒澤映画を少しずつ観ていますがとても面白く、白黒映画だからといってこれまで敬遠していたのがもったいなく感じました。


※注:本映画のエンディングシーンに関する感想も含んでおります。結末部分を知りたくない方はお読みにならないことをお勧めします。



>>あらすじはこちらを参照(Wikipedia)。


この映画の主題は、人が自分に都合の良いように物語を書き換えるという点にあると思いました。現にこの登場人物の中で、完全に客観的な視点を持っている人はいません。各々が自分の見たように(あるいは見たいように)話して、互いの描写に潜む矛盾点に悩みます。


TVドラマ「リーガルハイ」シーズン2第9話でも、古美門さんが「人は見たいように見て、信じたいように信じる」と言っていました。ある人を犯人だと思えば、その人の証言もどこか嘘があるという前提で聴くでしょうし、事件の証人もその人が犯人であるという先入観があれば見ていないことまで話し出すかもしれません。そういった意味では上の主題は人間の性質をよく描いているように思えます。

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また西洋認識論の伝統的分類で、実在と現象があります。実在とは対象が「どうであるか」で、例えば今目の前にある他者は本当に存在しているのかどうか、自分が頭の中で作り出したものにすぎないのではないか、といった議論になります。それに対して、現象は対象が「どうみえるか」で、自分がどう見ているか、どう感じているかという点を重視した議論になります。哲学科の先生が、「実在を追求するのが哲学者の仕事。現象を追究するのが芸術家の仕事」という説明をされていましたが、この説明は見事に上の違いを示しているように感じました。


以前紹介した苫野氏の議論でも、「よい教育とはどうであるか」という問いではなく、「どのような時によい教育と感じたか」という問い方を用いていました。これも前者は実在を問うたもので、後者は現象を問うたものと言えましょう。さらに苫野氏は「欲望論的アプローチ」と名づけ、自分の欲望によって現象は異なるという点も説明しています。1本の水も、「のどが渇いたから飲みたい」という欲望があれば「飲み水」に見える(現象)でしょうし、「花が枯れそうだから水をやりたい」という欲望があれば「園芸用の水」に見える(欲望)でしょう。(なんとなく、ウィトゲンシュタインのアスペクト的と似ている気もします。)


映画『羅生門』でも、事件の全貌は「どうであったか」(実在)は明らかにすることができません。ただ、事件の当事者や証人たちが事件が「どうみえたか」(現象)を語り合うことによってようやく真相なるものをつかもうとします。ただし事件の当事者たちは、各々のプライドや特別な事情により、「こうであってほしかった」(欲望)があります。欲望によって彼らの証言もどこかずれたものになっています。



本映画は実在とか真理といったものは結局雲に隠れてしまい、我々の現象を語り合うことによってのみ合意が得られるにすぎない、というメッセージなのかもしれません。



最後に、本映画のエンディングシーンについて述べます。

羅生門の下で杣売りと坊さんは赤ん坊を発見します。それを見た杣売りは「自分が引き取ろう」と言います。しかし、坊さんはそれを信じません。もしかしたらつれて帰ってどこかへ売ってしまうかもしれませんしひどい目に合わせるのかもしれません。しかし杣売りは自分のうちには子どもが数人いて1人増えても変わらないという点、自分の罪を償いたいという点を述べます。それを聞いた僧は安心して赤ん坊を杣売りに渡し、杣売りは笑顔で帰っていく。それまで強く地面を叩きつけていた雨は止み、羅生門が映って終わる...。


最初に観たときは、杣売りの改心、希望(赤ん坊)、ハッピーエンドといった印象を受けました。この映画で「雨」が担っているのは、おそらく杣売りの心のもやもやであり、それが晴れるというのは良いイメージに違いないと感じました。

しかし、二度目にこの映画を観たときは、最後に不気味にうつる羅生門が気になりました。もしかしたら杣売りは改心しておらず、帰ってから赤ん坊をひどい目に合わせるのかもしれません。

結局のところ分からないのです。
(もしかしたら黒澤氏がどこかで述べているのかもしれませんが...)

自分で調べた限りネット上の書き込みはどちらの観方もありますが、絶対的な説得力があるとは言えないと思います。


自分には、まさにこれこそがこの映画の主題を最も適切に反映している気がしました。すなわち、ラストシーンは観客が見たいように見て、信じたいように信じることが正解になるのです。結末が「どうであるか」(実在)は作り手以外には分からないのだから、私達は「どのように見たいか」(欲望)、そして「どのように見えたか」(現象)こそが唯一つかめる真実なのではないでしょうか。古美門さんの言葉を借りるなら「人は見たいように見て、信じたいように信じる」わけですから、映画の登場人物たちと同じように観客である私達も追体験できるように映画が作られているのかもしれません。


...と述べている自分も、ただ信じたいように信じて書いているだけなのかもしれませんがww


※上で述べているのはあくまでも自分の恣意的な解釈にすぎません。誤り等お気づきの方はご指摘頂ければ幸いです。