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2014年5月22日木曜日

老松克博 (2011) 『ユング的悩み解消術-実践!モバイル・イマジネーション-』平凡社新書

こんにちは、mochi です。


最近英語教育に関する記事をまったく書いてないと思っていたら、なんと半年書いていないことが分かりました(笑)。そろそろ英語教育関連の記事を書かねば...と思いながらも、今日もまったく関係のない話題で書くこととなりますw


今日は、ゼミ面談で先生からお勧めいただいた『ユング的悩み解決術』という本をご紹介します。


本書は、新書に分類されるでしょうが、かといって理論的背景もきちんと述べられており、またモバイル・イマジネーション(後述)の具体例も載せてあったので、1冊でかなりお得な感じがしました。ユング関連の書籍は、これまで河合隼雄さんの『ユング心理学入門』やユングの『自我と無意識』などを読んできましたが、老松先生の本書を最初の導入として読んでいれば、もっと理解できたかもしれない、という印象を受けました。(あくまで主観ですが。)


ユング的悩み解消術-実践!モバイル・イマジネーション (平凡社新書601)
ユング的悩み解消術-実践!モバイル・イマジネーション (平凡社新書601)老松 克博

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本書は、すでに社会に出て働いている友人たちにはまずお勧めです。特に学校現場で働いている友人たちにとっては、彼ら自身のみならず子どもたちの悩み解消( "解決" ではない)にも役立つかと存じます。あるいは高校生くらいであれば本書も読むことができると思うので、自分との対話をするのにも良いかもしれません(理論背景は難しいかもしれませんが...)。ただ、高校生の場合は、本書の巻末に掲載されている短編小説「ちのわくぐり」だけでも読むのをお勧めしたいと思います。(塾の生徒にもまた機会があれば紹介しようと思います。)


では、いつもながら、分かりづらいまとめノートですが、よろしければご覧ください。



■ 目的と原因

私たちは日常生活で多くの問題を抱えます。教員であれば日々学校内外で湧き起こる問題に対処するでしょうし、大学院生であれば山のような課題を片付けながら自分の研究を進めなければなりません。そんなときに悩みを持つこともしばしばあるかと思います。


悩みを解決しようとするときに、一般的には「原因」を探ろうとします。たとえば、院生研究室で「なんかもやもやする。悩みがある。」という場合、「どうしてこんな感情を抱いているのだろうか」という、悩みの原因に目が行きがちではないでしょうか。もちろん悩みの原因を突きとめれば悩みが解消するかもしれません。(たとえば研究室の机の上に積み重なっている資料や本を読まなければならないと焦っていたから悩んでいた、と分かれば、早速課題をやれば解決するでしょう...泣。)しかし、現実問題の悩みはより複雑で、悩みの原因を突き止めたからといって解消するとは限りません。


原因を探って結果をコントロールするのは意味のあることだが、それだけでは足りないらしい。では、何が足りないのか。端的に言えば、目的を考慮することが抜け落ちているのである。どの悩みや葛藤にも、原因があるだけでなく、目的というものがあるのだ (Jung, 1916a) 。...悩みや葛藤は、その状態の実現を目的として生じてきており、基本的にはこの目的が成就されるまで消失することはない。目的を明らかにして、実現を図ること。これが欠かせない。因果論のみならず目的論も念頭に置いておかないと、いかなる努力も小手先の目くらましに終わってしまう。 (p.16)


(あまり良い例ではないかもしれませんが、)不登校を例に考えましょう。ある子が不登校であるとき、その原因はおそらくあると思います。しかし、老松さんの上の論では、その「目的」を考えることが必要です。すなわち、今不登校である子は今後どのようになりたいか(なんのために今不登校の状態にいるのか)を問い続けて解決することで、彼(女)の本当の「悩みの解消」になると言えるでしょう。私の友人が言っていたのですが、不登校もいじめなどを原因とした<低迷期>としてのみならず、これからの成長のための<さなぎ>として受け止めることができるかもしれません。


仮に不登校の生徒に、「君が不登校になった原因には、AとB,Cの3つがある」と、いかに体系立てて説明したところで、その子が納得するかどうかは疑わしいです。むしろ、その子がこれからどうしたいのか、という点に焦点を当てることが必要なのでしょう。


このような「目的」という点は、本人ですら意識できていないかもしれません。しかし、無意識の段階ではそのようなことは感じ取れているのかもしれません。次に、意識と無意識についてみてみましょう。



■ 無意識との対話の重要性


私たちは大人になるにつれて、意識を使うことが求められます。たとえば英語授業を行うときも、はっきりとした目的をもってアクティビティを設計するでしょうし、英文法の説明もおそらく意図をもって例文を選ぶでしょう。ところが、意識にあまり過信してしまうのも考え物かもしれません。意識は完全なものではなく、意識できないこと(盲点)が存在することを、老松氏は以下のように説明します。

なぜ意識に盲点が生じてしまうのか。それは、意識がいっさいを二項対立に基づいて意識しようとするためである。つまり、意識はあらゆるものごとを、白か黒か、善か悪か、美か醜か、高か低か、熱か冷か、といった対立しあう属性の一方を持つものとして分類し把握しようとしている。そうやって割り切ってしまえば、世界はずっと理解しやすくなる。(p.65)


割り切りが得意な意識を補償する役割を担うのが無意識です。つまり、意識と無意識を足してはじめて心の完全形となります。


ということなので、意識は意識にしかできないことが、無意識には無意識にしかできないことがあるわけで、無意識からのメッセージにも耳を傾ける必要があります。そのメッセージというのが「夢」であり「モバイル・イマジネーション(次項参照)」にあたります。


ここまでをまとめると、「意識は無意識から学べ!」ということになるかと思います。(ざっくりしたまとめで申し訳ございません。)


※ここから少しマニアックになるので、興味のない方は次の項へお進みください※

さらに無意識は、個人的無意識と集合的無意識に分けられます。

ユングは無意識を層に分けて考え、個人的無意識 (personal unconscious) と普遍的無意識 (collective unconscious) とに区別する。 (河合, p.89)

個人的無意識は、

意識内容が強度を失って忘れられたか、あるいは意識がそれを回避した(抑圧した)内容、および、第二に意識に達するほどの強さをもっていないが、何らかの方法で心のうちに残された感覚的な痕跡の内容から成り立っている (河合, p.94)

のに対し、普遍的無意識は、

表象可能性の遺産として、個人的ではなく、人類に、むしろ動物にさえ普遍的なもので、個人の心の真の基礎 (河合, p.94)

です。普遍的無意識は神話に現れるといいます。たとえば、ギリシア語が読めない人の妄想の内容にギリシア神話と共通する要素がみられることにユングは注目しました。ギリシア語が読めなければ神話も読めないはずなのに、なぜギリシア神話の内容と共通する妄想が出たのか。この問いに対して、ユングは普遍的な無意識の層の仮定という形で答えを出しました。

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ここまでの意識・個人的無意識・普遍的無意識を図に表すと以下のように描けると思います。(探求読書会で知ったものを少し改変しました。情報提供のK君、ありがとう!)



この図の「セルフ」という部分は、「心の最深部にあって、あらゆる対立と無縁なあり方をしている。あるいは逆に、あらゆる対立を包摂していると言ってもよい。」 (p.70)



■ モバイル・イマジネーション

さて、ようやく本書のメインテーマであるモバイル・イマジネーションに入ります。(いつもながら導入が長いw)


モバイル・イマジネーションは、無意識からのメッセージを受け取るための手段の一つで、気軽に試すことができるのが魅力である。


イマジネーションは、意識と無意識が交信するための有効な手段である。意識にも無意識にも自律性があり、いずれも独自の意思を持っているが、ふだんは連絡があまり円滑でない。...イマジネーションは、まさに内的なコミュニケーションのツールと呼ぶにふさわしい。 (p.32)

つまり、先ほどの図の赤い矢印の部分に相当するわけですが、このメッセージを受け取るのも意識の裁量にゆだねられます。意識内では私たちは言語による思考を行うことが可能ですが、無意識は言語を用いずに「イメージ」でメッセージを伝えるので、意識側がそれを受け止める準備がないと、無意識からのメッセージを読むことができなくなってしまいます。


簡単な手順を示すと、リラックスした状況で物語を作り、その登場人物に自分を重ねた上でストーリーが進むのを見守る、といった形になります。このときストーリーはできるだけ無意識が進めます(ので、意識的にストーリーを操作しないように注意する必要があります)。その無意識が作り出すストーリーを、後に意識的に省察(あるいは記述、スケッチ)をし、今無意識はどのようなメッセージを自分に送ろうとしているのかを解釈します。それによって、意識では感じ取れなかった部分を無意識が教えてくれる可能性が十分にあります。



(自分の書き方では、あたかもスピリチュアルなものにみえてしまうかもしれません。しかし本書ではわかりやすく、なおかつユング心理学の理論背景と共に理解できるので、実践をしてみたい方は必ず本書を参照していただきたいと思います。)


モバイル・イマジネーション自体は非常に分かりやすい手法ではありますが、老松氏が再三に渡って強調するのは、手っ取り早い手法にはそれだけの限界があるということです (p.28) 。仮にモバイル・イマジネーションを行うとしても、長期的に(数週間)続ければ無意識の変化にまで目を向けることが可能となり、より多くのメッセージを得ることができるかもしれません。


モバイル・イマジネーションは癒しや救いをもたらしうる。ただし、その効果は一時的なものでしかない。短期間で得たものは短期間で失われるのが世の常である。外的なそれであれ内的なそれであれ、せっかく生じた変容も、あとのフォローがなければたいていは無に帰してしまう。 (p.110)

■ 動きの階梯

心というものはなかなかつかみどころのない存在ですが、それは無意識が意識でコントロールできる部分ではないからです。老松氏は無意識同様に、意識によってコントロールできない器官をあげます。それが身体です。身体も無意識同様に意識の統制を受けないため、身体が心を理解する助けになります。現に日本では座禅や瞑想といった形で心を和らげようとする営みはされてきましたし、ヨガを行うことで気持ちを静めたという型の話も聞いたことがありますw。そういった意味で、心と身体は「両輪」 (p.86) の関係にあるといえます。ユング派心理学では、これらの関係を「共時性」 (p.87) と説明しています。

共時性とは、二つの事象間の非因果的な連関の原理を意味する用語である。...あえてやや因果論的な理解の仕方をするとすれば、心と身体を、共通の幹から伸び出た二本の大枝というふうに考えてみるのがよいかもしれない。幹で何かが起きれば、それがどちらの大枝にも反映されるのだ、と。...心における事象と身体における事象に共時的なつながりがあるなら、身体の動きや感覚を手がかりにして心の様相を知ることができるはずである。あるいはその逆も言える。 (p.89)

ということで、「意識は身体から学べ!」と言える(笑)。

本書ではここで7つのチャクラ(Wikipedia 参照)について述べています。日常生活における身体は、外的な要因を多く受けているため、このチャクラの解釈はできませんが、モバイル・イマジネーション中の身体感覚の解釈へは応用可能です。



■ 最後に

いつもながら散漫したまとめ記事になってしまいましたが、改めて本書の魅力をまとめます。


・意識のみではなく、無意識や身体の声を聴く重要性を教えてくれる。
・ユング深層心理学が提唱するアクティブ・イマジネーションのような難しいものではなく、あくまで初心者が体験できるモバイル・イマジネーションを分かりやすく理解することができる。
・ユング心理学の超入門書として、理論背景をざっくり理解することができる。(ただし必要であれば、河合隼雄先生やユング先生自身の本も参照するべきでしょうが。)
・「ちのわくぐり」というモバイル・イマジネーションの実例を用いながら、解釈例を知ることができる(し、しかも作品自体面白い)。


大学院や学校現場などで疲弊しているとき、もしも時間が取れたらぜひ読んでみることをお勧めします。これから自分も、教採対策や合同研究などで忙しくなると思いますが、できるだけ身体や無意識の声を聞きのがさない様に、あるいは『モモ』でいうところの「灰色の男」たちによって自分が侵されないように気をつけたいと思います(笑) 。



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2014年5月17日土曜日

竹田 青嗣 (1989) 「現象学入門」まとめと、「主観―客観」に関する思考の整理

最近院生(と学部生1名)で、「現象学」の読書会を開催している。その第一回を今週開催したが、非常に面白い議論ができたと感じた。

また、昨日院生の友人と居酒屋に行ったのだが、途中から「教育学がいかに主観から抜け出せるか」という議論になった(次は「好きなジブリ」とかの類の、明るい話題をしたいと思うww)。そこでは人文出身の友人も多くいたので、そもそも教育学のような社会科学と人文の発想の違いのようなものを感じた (が、まだうまく言語化できないのでもどかしく感じている)。

せっかくなので、読書会で使用しているテクスト『現象学入門』 (竹田, 1989) の第1章まとめノートと共に、勉強会で議論されたことを簡単にまとめておきたい。


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現象学入門序説


ここでは、現象学がよく受ける誤解の2つをまとめる。

■現象学ヨーロッパの形而上学的「真理」を追究する学ではない。 (p.12)

・ヨーロッパでは従来<主観>と<客観>の一致こそが、形而上学的な「真理」であると考えられてきた。

・現象学の功績は、この「真理」がなぜ不可能なものであるかをはっきりさせた点にある。したがって、形而上学的「真理」を追究することはもともと目指していない。

cf) Russel, B. Problems of Philosophy (http://www.ditext.com/russell/russell.htmlより)
IS there any knowledge in the world which is so certain that no reasonable man could doubt it? (Chap. 1)
理性的な人ならば疑うことのない知識などこの世界に存在するか。

⇒この問いは実は答えるのは難しい。私たちが目の前にしている「机」も、見る角度から色や模様は異なるだろう。たとえば私が「これは茶色い机だ」と言っても、「いや、私には黄色だ」「あなたの茶色は私の茶色とは違う」と疑うことは実に容易い。
ラッセルはこの問いが西洋哲学認識論の重要な問いであったことを示しているが、まさにこれは<主観>と<客観>の一致を探究する型であると思える。


■ 現象学は独我論ではない。 (p.13)

・独我論 (solipsism) とは、「自身の精神のみが確かに存在しているという哲学的考え」「自身の外にある知識はすべて不確かとする認識論的考え」 である。

・現象学も<私>の場面から考えており、「独我論の立場を“出発点” (p.13) 」としているため、独我論と誤解されることもある。

・しかし、フッサールはこれを強く否定する。フッサールによれば、<主観/客観>図式の謎を解くには戦略的に独我論から始めるしかないと述べている。つまり、出発点が独我論であっても、現象学は最終的には独我論的な枠組みを飛び出している。



第1章 現象学の基本問題


■ 「志向性」

まずは以下の自己言及的な定義から導入されている。
「意識は必ずなにものかについての意識である」 (p.17)

cf) ブレンターノ: 記述心理学
われわれは音を、聞くという作用の第一の客体、聞くという作用自体を、聞くという作用の第二の客体と呼ぶことができる。というのは、時間的には両者は同時に登場するが、事象の本性からすれば音が第一のものだからである。聞くという作用の表象なしの音の表象は少なくとも最初から考えられないということはない。それに対して、音の表象なしの聞くという作用の表象は明らかな矛盾である。 (Psychologie aus dem empirischen Standpunkt, Bd.1, Hamburg, 1973, S. 180)

⇒ここで、「音」は意識対象 (ノエマ) であり、「聞く」は意識自体 (ノエシス) である。




■ 「実験心理学」と「記述心理学」(p.16)

実験心理学は、 仮説と実験を重ねて、経験則から一定のモデルを引き出すという近代科学のセオリーにほぼのっとったものであるのに対し、記述心理学:、意識の内部近くをよく反省、観察し、これをそのまま記述していく立場である。

⇒英語教育にも、実験心理学的な研究と記述心理学的な研究があるだろう。これらは両輪のようなもので、英語教育学に限定すればどちらも必要なのかもしれない。


⇒昨日の飲み会で「いかにして主観を乗り越えられるか」という話になった。(こだわりの強い院生同士で飲むとこのような話になるのか、と思った。)たとえば翻訳における言語意識に関して論文を書いたとしても、結局は主観の域から完全に抜け出すことはできない(テクスト選定や文献選択、実験方法など全て主観で選んでいるため、「これらは恣意的では?」というツッコミは入れ放題であろう)。最近大学院の授業で考えたが、そもそも「厳密な意味での客観」というのは到達不可能な目標 (toward the goal) なのかもしれない。むしろ日常慣用の意味での "ルースな意味での客観" を目指し、すなわち10人相手で6~7人に納得させる、くらい到達可能な目標としての「客観」 (to the goal) を目指し続けることが妥当なのかもしれない。これは、多様性を大前提とする教室空間での営みである教育を説明するためには、ある程度必要で妥当な考えではなかろうか。




(注)居酒屋でこのような話をしていて店員から白い目で見られなかったか、という点は触れないで次の「主観と客観の一致」へいきたい(店員さん、入院中なので許してください)。




■ 主観と客観の一致

・わたしたちは目の前の石ころを正しく見ることができない。

<認識としての石ころ>と<対象としての石ころ>が同じものだという保証は、いったいどこにあるのか。 (p.18)

・私たちは自分の意識を内省的に疑うことも可能だが、その疑い自体を疑い、…と繰り返すと、いつまでも真理にたどりつけない。

・近代の科学の発展は、仮説 (主観) をいかに実験による確証 (客観) によって示せるかという方法論であった。これは、中世以前の神学的な教義と異なる。


■ カントの貢献

・石ころを<正しく>認識できるかどうかわからないのに、ましてや世界とか神といった問題を解決するのはより難しい。にもかかわらず、当時はこれらの問題に客観的な答えを与えることが実証主義にかかわる大問題 (形而上学) だった。

・つまり、当時は自然科学の手法を用いて、形而上学に取り組もうとしていた。

・しかしカントは、形而上学が理性の能力を超えたものであるため、実証主義が形而上学を扱うべきではなく、形而上学は認識論の問題であると述べた。 (コペルニクス的転回)

・カントはそれまで混沌としていた議論を整理したが、十分な答えを与えたわけではない。次項以降参照。



■ デカルト

・デカルトは神の存在を証明しながら、人間の理性は現実を「ありのまま」に受け取っているとひとびとが保証できるように示した。 (p.26)

⇒近代哲学で、説明できない部分は「神」として片付けられている印象を受けた。これは、フロイトが無意識をどうしても表したくて "Es" (それ) としか名づけようがなかった、というのと似ているかもしれない。当時の哲学でも、「なんとか説明したいがどうにも説明できない部分」を神としていたのかもしれない。

つまり、デカルトにおいては、<主観>と<客観>のあいだを架橋するのは<神>にほかならない。これは逆に言えば、<神>の存在をもち出さなければ、<主観>と<客観>の「一致」を確証することは原理的に不可能だということを、彼も認めていたことを示している。 (p.27)

・神から与えられる観念には誤りがないため、主客と客観は一致している。だから正しい認識のための規則を求め、それに基づいて考えることで<真理>にたどりつけるとした。


■ カント

・カントは人間の理性が客観それ自体を完全に認識できないと論じた。

「物自体 (Ding an sich) 」: 物の本質、物の全体 (人の認識は制限されている。人に認識できない部分は可想界と呼ばれている。)

・たしかにわれわれ人間は可想界 (本質、道徳、美、善など) を認識することができなくても、それらを意志することはできる。

⇒たとえば、美とは何かという問いの答えをサッと言うことはできない。しかし、「私は美はこうあるべきと思う」と個人の意見を言ったり、「こういう美を目指したい」という志向をしたりはできる。

■ ヘーゲル

・カントの「認識」は、まるで道具であり、生長 (高度化) しないものととらえている。

・しかし、人の「認識」は生長するものではないか。

⇒たとえば、ある曲を聴くとき、音楽素人でロックとかジャズが何かわからない自分が聞いてもわけがわからないだろう。しかし、音大生にレクチャーしてもらった後で聞けば、少しは聴き方が変わっているだろう。この「変化」をカントの認識論では説明できないとした。

⇒あるいはこうもいえるかもしれない。たとえば、私は美術館が好きではない。美術館に行ってもあまりじっくり観ることなく、館内のカフェでコーヒーを飲みながら友人を待つということがほとんどである。そこではあまり「感性」から認識をしていないのかもしれない。ところが、あるときフェルメールの「静けさ」に関する理論を知ったり、芸術論で多くの説明をできると知れば、おそらく絵の見方も大きく変わり、認識可能な部分が増大するといえないか。これも「感性」が「理性」によって生長したといえるだろうか。


ヘーゲルも上と同様、認識が「変化」「生長」するものとして見なしていた。

人間の認識は、決まり切った「道具」ではなく、それ自体が生き物のように生長 (高度化) していく性質をもっている。認識の能力は徐々に“高まって”いくのだ。その極限に<神>の持つような「完璧」な認識があると想定すればいい。すると、<主観/客観>の難問は解ける。そうヘーゲルは言うのだ。 (p.30)

⇒つまり、私たちが今、<主観>と<客観>が一致しないのは、私たちの認識が発展途上であるからということ。もっと発展・成長をすれば(仙人みたいに極めたら?)、完全に物自体全てを認識できるようになる。

・ヘーゲルの考え方は肯定的評価を受けた。人が考えたり認識したりすることの意味があることがわかったからだ。

・その一方で大きな反発を招いた。「完全な知」にいきついてしまえば、「決定論」にいきついてしまうかもしれないからだ。

・ここまでくると、<主観/客観>図式自体が怪しいものであることに気づく。

すなわち、<主観/客観>という前提から出発するかぎり、わたしたちは、論理的には必ず極端な「決定論」か、それとも極端な「相対論」、「懐疑主義」、「不可知論」かのどちらかにいきつくことになるのである。 (p.31)

■ ニーチェ

・主観/客観という図式を排した。

・かわりにカオス (混沌) とその解釈という二項を提示する。

⇒ウィトゲンシュタインや野矢茂樹氏は「アスペクト的」という言葉でこれを説明するかもしれない。あるコップ1杯の水も、喉が渇いた人にとっては飲み水に見えるが、ガーデニング中の人にとっては「花にやる水」として映る。現実世界はカオスであるが、それをどのように解釈するかは、その人によって当然異なるだろう。

・現実客観は存在せず、私たちの認識は現実をどう解釈するかにすぎないとした。

・認識は「力」に奉仕する。 (p.32)

⇒強いもののいうことは通る。弱いのものの意見は通らない。強いものの言うことは、次第に他の人たちへ影響を与える。すると、市民はパラダイム・イデオロギーとなった価値観によってものごとを見るようになり、それが認識となる。これは私たちの直観に非常に近い。研究者が論文を多く執筆する必要があるのも、この「力」を得るためなのかもしれない。

・しかし、この認識論は、「共通認識」を説明することはできなかった。

⇒これら4人の哲学者のそれぞれの反省点を見つけながら、フッサールの議論(第二章~)へと入っていくことになる。