2014年6月22日日曜日

英語教育と創作活動



創作活動というのは、英語教育ではあまり縁がないのかもしれません。しかし、自己表出・自己変容を伴う創作活動を媒介としたコミュニケーションも、英語と絡めて行うことができないでしょうか。最近の自分の経験、大学院で受けている初等国語の授業、今日参加してきた中国地区英語教育学会、といったところで感じたことを頼りに、以下3点でまとめてみることとします。


(1) 語りによる自己解放・吐き出すための語り

一つ目に、語りによる自己解放が上げられます。先日の石戸先生の記事や、やまだようこさんの「喪失の語り」などでたびたび言及してきましたが、私たちは「語る」という行為によって自己解放することができるのだと最近強く思います。



学部の頃に観た英語授業のビデオで、中学3年生が中学校生活の思い出や将来の夢について英語でスピーチをしながら、自分の気持ちが抑えきれなくなって涙してしまうという場面がありました。これも、自分のカタルシスを英語という媒体によって表出することで、「自分はこれだけ中学生活に思い出があった」「もうすぐ目の前の友達と別れるのだ」ということを実感したために泣いたのだと思いました。私たちはそのような思いを直接語ることに、しばしば抵抗を感じます。しかし、英語という日常生活で用いない言語のおかげで、しばしば言いにくいことが言いやすくなるのではないでしょうか。


あるいは、「語り」は自己浄化作用があるのかもしれません。たとえば、千と千尋の神隠しに登場するカオナシというキャラクターがいます。カオナシは欲望を軸にコミュニケーションすることで、多くの不純物を体内に摂取します(暴飲暴食の結果)。また自分が気に入らない相手を丸呑みしてしまい、彼らを自分に「取り込んで」しまいます。そこで千がカオナシと対峙するときに、河の神様からもらった苦団子を食べさせます。するとカオナシは、自分がこれまで溜めてきたものを全て吐き出します。カエルまで全て吐き出したカオナシは、もとのカオナシになり、千とともに銭婆の元へ向かうこととなり、自分が自分でいられる場所を見つけるのでした。

カオナシの例は「語り」という例としては不適切かもしれませんが、吐き出すという行為の重要性は示してくれるように思えます。英語が先ほど述べたように日常使うことばではないため、吐き出すためには便利なことばなのかもしれません。




(2) 物語という虚構内でのストーリー作成

大前提として、物語は虚構世界です。だから、起き得ないことなど虚構世界にはありませんし、思ったこと全てを出しても良いのだと思います。

私は学習塾で中学2年生の英語の授業を担当していますが、そこで Andy and Jimmy という教材を扱いました。内容としては、猫のAndyがねずみのJimmy を食べようと捕まえたら、Jimmyが「自分の家族にさよならを言わせて」と言いますが、Jimmyの家族は100匹以上いるため、AndyはJimmyを待っていることができずに諦めて帰ってしまいます。

授業ではこの文章を1ヶ月かけて内容理解・文法解説・音読・朗読してきました。現在は時間を測って音読する練習をしている段階で、もうじき朗読的な指導をしようと計画しています。先日、「Andy and Jimmy という作品の another story を作れ」という課題を出しました。最初は戸惑っていた彼らでしたが、次の週には色とりどりの個性的な(なかには残酷なw)作品が出揃いました。

彼らが書いてくれた文章を読み返して思うのは、ストーリー作成というのは、自分の内的世界で行う作業であるということです。今日求められる外的世界でのコミュニケーション活動とは、一見つながりがないように見えますが、合理的な生活を求めるほど私たちが虚構世界やフィクションを欲することは、経験的にも私は納得できます。ストーリー作成のタスクは、自分の内的世界から紡がれることばを英語で表す活動といえないでしょうか。

→ストーリーテリングの活動は、協働学習の方法論として取り上げられるのを見聞きしてきましたが、上で述べた理由から、個人で行うストーリーテリングもアリではないか、という気もします。(もちろん思いつかない子が多い、という問題もありますね...。)




(3) こだわりを持った翻訳 (creative translation)

最後に、こだわりを持った翻訳を、しれっと追加しておきます(笑)。

翻訳過程において、訳者がこだわりを表すことができるのは以下の5点です。

・言語間の言い換え(このときはあまり解釈を介しませんが、少なくとも訳者の経験が反映されます。)
・原文の中からどの要素を訳そうとするか選ぶ作業
・原文から読み取ったイメージに、自分で付け加えをする
・イメージを、目的に応じて訳先言語で表す
・新しい言葉を創って、イメージを表す

上の分類は、Kussmaul (2000) Types of creative translating という論文のまとめで、さらにこれを自分なりに図示したのが下になります。









翻訳も創造である、という点をこの論文から改めて学びました。この「こだわり」は文法や語彙の選択という点に現れるかもしれませんし、原文を読んだときの自分の世界観が反映されるかもしれません。訳がただの言語変換作業のみならず、それぞれの個性が表れるものとみなされれば、お互い比べてみたり発表しあったりする協働学習も可能となるかもしれませんね。







と、いきおいに任せて書いてみましたが、最後に述べるべきは以下の点ですね。


英語教育の目標は、コミュニケーション能力を養うことである!


上のような活動を提案してみましたが、これらが4技能のいずれかの能力の伸長に関わることはやはり必要だと思いますし、ただのパフォーマンスをするだけなら英語授業で扱う必要はないと思います。

ただ、英語に対して本当に拒否反応を示す生徒さんや、高校に行くことを考えておらず英語学習の必要性を感じていない子も、創作活動としての英語には興味を示してくれるのではないか、と感じます。

今回は、「創作活動」とか「感性」といった、自分の苦手分野(笑)で記事を書いているので、あまり筋が通っていないところが多いかと存じます。よろしければ皆さんのご意見も教えて頂ければ幸いです。


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2014年6月15日日曜日

石戸教嗣 (2003) 『教育現象のシステム論』勁草書房

こんにちは。mochiです。
昨晩、学部の頃の友人(現在社会人)と研究室仲間の計5人で飲みに行きました。社会人の友人に、「院生に足りないものは何だと思う」と尋ねたところ、「常識」と即答されてしまいました(反省)。

塾や英会話教室のバイトはもちろん、できるだけ外に出ながら院生生活をしないと、社会から排除されてしまうな~と感じた次第です(涙)


この1年くらい私は「ルーマン読書会」という会合に参加しています。そこでは、『システム理論入門』『社会理論入門』といったルーマンの講義録を各章担当者がレジュメ形式で発表し、議論するというものです。生憎、社会学もルーマンもかじったことすらなかった自分ですが、「どうせ素人なんだから、できるだけ素朴な疑問を出してください」と先生方からおっしゃっていただき、気楽に参加させていただいています。最近は院生の友人も一緒に参加し、ルーマンの用語のどくとくの使い方(ルーマン語?)にも少しずつ慣れてきて楽しくやっています。


本日は、そんなルーマンの社会システム理論を援用しながら教育現象について考察した『教育現象のシステム論』をご紹介します。



教育現象のシステム論 (教育思想双書)
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とても面白く読んでいますが、やはりルーマンの用語が分かっていた方が読みやすいので、もしお読みになりたい方でルーマンの用語が心配でしたら、以下の用語集を参照しながらだと分かりやすいと思います。


GLU―ニクラス・ルーマン社会システム理論用語集
クラウディオ バラルディ エレーナ エスポジト ジャンカルロ コルシ Claudio Baraldi
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また、今回のまとめノートでは「第1章」と「第2章」のみを扱っています。第3章以降は、学習やカリキュラムなどの少し踏み込んだ話になっているので、社会背景やルーマンの教育に関する概観を扱うには第1・2章の方が良いと思ったからです。

そして、自分にはまだルーマン語を翻訳する力はないので、以下のノートではルーマンの用語をそのまま使っています。分かりづらく申し訳ございません。


(※)記号としては、
■:項目タイトル(自分で勝手につけています。)
・:できる限り本書の内容を忠実にまとめた箇所
⇒:自分なりの言い換え、意見、感想、批判
△:疑問点

でまとめています。



第1章 公共圏としての学校のシステム論的再編
アレントの「見捨てられた境遇」からルーマンの「尊厳」へ



■ 教育における「公共性」とは、ネオリベラリズムの論理で排除された存在を再度社会システムに組み込むプロセスである。

・ネオリベラリズム(新自由主義)の論理によって、1990年代以降の教育は行われてきた。

・ネオリベラリズムは、競争から敗退する者を必然的に多く生み出すが、その理論的根拠は保たれる。

・その「排除された存在」を再度社会システムに組み込む必要がある。その組み込みプロセスが「公共性」である。

・第1章ではアーレントとルーマンの公共性概念を比較検討する。

・ネオリベラリズムとコンサーバティズムという二項対立では、もはや今日の教育問題を捉えられず、システム論的に以下の3区分が必要である。 (pp.5-6)

(1) 空間概念としての公私(組織システム)
→学校という公的期間は家庭という私的機関との空間的差異において存在する

(2) 関係概念としての公私(相互作用システム)
→学校における教師と生徒・保護者はそれぞれ公と私の側に立つ関係にある

(3) 心理システムとコミュニケーション・システムの間のシステム準拠の差異を指示する概念としての公私(心理システム)
→同時に、学校においては<心理システム=私>/<コミュニケーション・システム=公>というシステム区分も存在する (つまり、教師と生徒はともに私的関心を持って公的コミュニケーションに参加する




■ 学校が「市民にさせる場」であると同時に、生徒個人の心理システムの居場所となるべき。

・学校は生徒たちが社会化し、市民としての資質を身につける場である。しかし、それと同時に生徒の心理システムの居場所となるべきである。

・それは、「われわれの目の前にいる子どもは多様なニーズを抱える生身の一個の存在として学校に関わるようになってきている」 (p.7) からである。

→ 教育システムのコードはあるだろうが、学校という空間は生徒が安心して居られる場所でもあるべき。どこか息が詰まったような学校空間も日本にはあるだろうが、そのような学校では生徒は居場所を見出すことができているのだろうか。

→家族の弱体化によってもこの傾向は顕著にあるのかもしれない。



■ アーレントの「学校」観と問題意識

・アーレントにとって学校とは、公共性を身につける場所。

・学校はそもそも家族(私的領域)から世界(公的領域)への移行を可能にするために、その中間の段階として設置したものである。

・学校で学ぶのは、家庭(私的領域)ではなく、国家・公的世界(公的領域)が要求すること。

※「私的領域」:private として、発揮すべき人間的能力が剥奪されている場。暴力によって支配される。
※「公的領域」:人間的本質が現れる場。価値観の異なる相手と対話することが求められる。

→もともと私的領域で公的に出せない部分を出しておき、公的領域では適切に振舞うことができた。しかし、近代では私的領域を公的領域が厳密に区別されなくなり、社会的領域という新たな空間が生まれる。アレント自身は社会的領域の出現に対して否定的にみている。

・学校が機能するには、私的領域としての家庭が機能することが前提条件。
アレントは、異質で多様な存在としての子どもが大人に庇護されつつ互いに出会う空間としての学校を理想としたが、そのためには、子どもが隠れる場所としての家族が確立されていることが条件となる。家族における庇護を失って、むきだしのまま学校にやってくる子どもたちを目の当たりにしている。 (p.12)

すなわち、子どもを保護する機能を家族は果たせていない。それゆえに、子どもを見捨てているのは家族であると。

⇒今日、家族とも良好な関係を築くことができず、いわば私的空間を持たないままで学校にやってきてしまうため、ストレスを発散できなかったり息苦しさを感じてしまう子が多いのだろうか。

・子どもが社会的領域において見捨てられるのと、私的領域が機能しない、というのは実は同じ問題である。

・近代社会では、すべての市民が機能システムへと「組み入れ」られる。しかし、その「組み入れ」られたシステム内で自分の存在を見出すことが求められる。

→学校教員は、教育システムに組み入れられて、子どもたちの発達に寄与する。しかし、その教育システムに自分が完全に組み入れられれば「オレの人生って何だろう」と悲観的になるかもしれない。学校教育に携わりながらも「自分」というものを見出さなければならない。




■ ルーマン的解釈:語りによるシステムへの再組み込み

・ルーマンは上のように大衆社会(社会的領域)が人格を排除するとは考えない。

・社会が機能的に分化すると、人格に依拠するようになる。

→(全体)社会は「経済システム」「政治システム」「教育システム」「学問システム」「芸術システム」「医療システム」...と各々の機能によって分化していく。その機能システムでは、人格(心理システム)の持つ影響が強くなる。

・「排除」は機能システムへ「組み入れ」ることで必ず起きる影としてとらえるべき。

・システムからの排除とは、システムのなかで人的ネットワークが形成されない状態(p.18) 。

→システムから排除されるとき、人は物理的にそのシステムに属しているが、そこで自分の尊厳を見出せない。

⇒学校で教育を受けている子の中にも、自分の尊厳が見出せないで苦しんでいる子は多いだろう。(自分もそんな時期がありましたが。)

・自分の尊厳を見出せないとき、私たちは自己表出(語り)を行う。

・ルーマンは自己表出の条件として、「自由」(制度的条件)と「尊厳」(人的条件)を挙げている。「自由」は環境としての「語りやすい雰囲気」であり、「尊厳」は当人の内面としての「語りたいという欲求」である。これら両方がなければ、自己表出は起きない。

cf) 村上春樹『風の唄を聴け』の冒頭部も、主人公が語りによって救われるというエピソードからはじまる。

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・子どもが排除された状態にあるのなら、彼(女)らに「語る」ことができる相手を保障することが必要である。そうすることで、自己表出の条件としての「自由」は少なくとも提供でき、彼らが再度システムの人的ネットワークに組み入れることができるだろう。

・では、ルーマンのいう「公共性」とはなにか。

・それは、システムから見捨てられた者を可視化するプロセスである。

→つまり、システムに属している人とシステムから排除された人を区分することによって、システムから排除された人を指示し、その人たちが語ることができるようにするのが公共性である。

・家族システムが自己表出・語りをしやすい場として機能しないのなら、学校(教師)が彼らの話を黙って聴くことも必要かもしれない。あるいは、語れる場を提供することが必要かもしれない。





第2章 「個を生かす教育」を生む社会システム


■ 「個性化」

・「個」を尊重する、ということが絶対的善としてとらえられ、子どもを野放しにすることが「もの分かりのよさ」と混同されている。また、個性重視の教育が進められているが、従来の受験競争の構造がまだ存在してしまっている。これらの課題から、「個を生かす教育」はいかに可能であるか。

・高度経済成長が危ぶまれ、人々の関心が内面に向くようになった。それによって、教育においても内面を重視しようという動きがある。また、現代社会が政治・法・経済・家族・教育など多くの機能システムへと分化して複雑化したことにより、「個」が全体像を持ちえず<分裂した自己>となることにも、「個」を重視しようとする原因があるのかもしれない。

→「私とはなにか」という問いに対して、「私とは××である」と一言で言えるほど個性とは単純なものではない。むしろ、Aという場面では「△△」で、Bという場面では「~~」で、Cという場面では...としか言うことができないものである。本質主義的な定義(「AはBである」)では、複雑化した今日における個性概念を把握できない。むしろ、オートポイエーシス的な定義(「AはAである」)を用いて、「私は、私である」とトートロジー的に定義することが限界である。


■ 「個」の再帰性

「個」は、自分について、あるいは他者について観察した心理システムのあり方に他ならない。 (p.27)

・個人が「個性的」存在であるのは、それが内面において独自な自己言及を行うからである。

・現代の「個」は、他者による評価を気にしすぎており、自分の空虚さにも気づかされるという苦境に立たされる。

・そのような背景もあり、今日は「共依存」関係が注目を集めている。

・「共依存」とは、複数の心理システムが互いに依存することで、社会的システムに拘束されることである。しかし、彼ら彼女らが自ら抱える空虚さを埋めるための準拠対象としては、他人という心理システムは身近である。

・例として「家庭」を挙げている。

・家族は地域と離れることで、「閉鎖的」システムとしての性格を強く帯びる。そのような閉鎖システムの中で、子どもたちが親の期待に応えようとするが、それによって彼らの内面や身体にはストレスがため込まれる。なぜなら、子供たちは「家族システム」を維持するために、「心理システム」としての子どもが自らの役割を演じる必要があるためである。そのような子どもの将来を思いやる母親、そんな家族を支える父親は自分の存在を実感できる。
家族システムが循環するためのメディアとして「成績」がある。子どもたちが成績を追求しても自己評価が低いのは、空虚な成績という価値でさえ、それをともに追求することで家族システムが維持できるからである。

・家族システムが子どもたちの心理システムの空虚さを埋めきれないとき、別の場所で自己アイデンティティを得ようとする。たとえばいじめーいじめられる、の関係に安住したり、シンナーや万引きといった非行社会で活躍したりする。

・さらに、「依存的自己」の問題もある。

依存的自己とは、自己という心理システムがより大きなシステムに組み込まれていることが見えなくなって、そこから抜け出せることができない状態にある自己のあり方である。 (p.36)

→いじめっこしか相手がいなくてついて回るいじめられっ子、非行社会にいる子どもたち、現場でトップダウンの指示を受け続けることで自分の存在を見失う教師、など。

⇒たとえば、ある大学院生が自分の存在意義を見出せないとする。彼が抱える問題は多くあるだろうが、システム論的に一分析を以下のとおり提示することができる。
彼の心理システムにおける作動が続いていると思っていて(自己言及していて)、自分のやりたいことをやりたいようにやっていると思っていたとする。しかし、そんな彼がどうも憤りを感じている。そのとき彼は心理システムよりもさらに広い「学問システム」というシステムにすでに組み込まれているかもしれない。つまり、「先行研究を調べなければならない」とか「先行の研究にいわれていないオリジナリティを出さなければならない」、「“客観的に”示さなければならない」といった焦りが出るかもしれない。これらの諸作動はすでに学問システムに組み込まれているのだが、問題は心理システムがこの事実に気づいていないという点である。もしも心理システムの観察により気づいていれば(あるいは自分の行っている作動を二次的に観察し、その区別の方法を客観視することで新たな地平を見出せることができれば)、もう少し余裕を持って行動できるだろうし、もはや「依存的自己」から脱しているといえるだろう。

(やはり、具体的な話をしてみると自分の理解はまだ不完全だと実感。う~む。反省。)



■ オートポイエーシス的自己論

・オートポイエーシス (Autopoiesis) とは、しばしば「自己創出」と訳される。これは、システムが環境との関係において、システム自体を定位しつつシステムの状態を常に更新し続けることである。 (p.40)

→たとえば、自分の生命システムは環境に応じて自らの生命体を他の環境と区別しながら、つねに内部で自分を生み出している。現に新しく免疫ができればそれまでの自分から「更新」されたことになるだろう。

・ルーマンによると、自己とは自分の視点を固定しないで柔軟に視点を変えながらものごとを考えること、自己を環境と区別しながら自分の行為やコミュニケーションを変化させることである。

→(1) 自分というシステムが定位する、(2) 自分というシステムが閉鎖的にならず、柔軟に環境や他システムと接触しながら変容をともなう、という2点が指摘されている。

・最後に、以下の引用文で締める。

「個性」とは、心理システムが環境との関係においてその心理システム独自に展開するしなやかなオートポイエーシスのあり方であるということになる。 (p.45) 







長々と読んでいただきありがとうございました。

自分用のお勉強ノートを、少しだけ分かりやすく書き直したものにすぎないので、興味をお持ちになった方は、ぜひ本書を読んでみてください。

本書から自分が学んだのは以下の点です。

★ 子どもが学校に入る瞬間教育システムに組み込まれるが、教育システムには峻別機能があるため一定の子を排除しようとするかもしれない。そのような子たちが自己の尊厳を再度見出して教育システムに参入するには、自己表出が必要であり、教師(としての自分)は少なくとも良い聴き手として機能することができる。

★最近「個性」を重視した教育が注目されているが、そもそも自分の「個性」なんて言葉で定義することはできなくて、自分の個性の全体像を把握することは不可能だろう。そのために共依存関係や依存的自己が問題となっている。しかしルーマンに言わせれば、自己というシステムはオートポイエーシス的に自己変容を伴いながら自分の存在を定位するという認識でよい。したがって「自分」というものがある、と信じて探し続けても答えは出ず、個性とはその変化自体と言っても良いだろう。

記事をまとめながら、やっぱりルーマンは難しいなあと実感したのでした。(泣)

2014年6月6日金曜日

C.G. ユング(1995)『自我と無意識』を読みながら考えたことを思うがままに綴った結果

こんばんは。 mochi です。

ユング『自我と無意識』を一部まとめました。作業や課題から解放されて少し落ち着いたからか、ようやくユングの無意識へと関心が戻ってきました。

自分は今後、質的研究という立場で「半構造化インタビュー」という手法を取るつもりですが、そこでは面接者がコントロールするのではなく、できるだけ被面接者が思ったことを言いやすい環境を作ることが最優先とされます。河合隼雄やユングらの著書を読んで「こうでなければ」と思いつつ、塾や研究室ではべらべら喋ってしまいます(オイ!)

自分が少しでも成長できるように、ということで、本書のまとめを試みます。ただ、翻訳学を勉強しているくせに、多くの曲解やミスリーディングな表現を用いています。興味のお有りの方は必ず本書を手にとってご覧下さい。また、本記事に関する訂正や指摘がございましたら、何卒お願いします。


自我と無意識 (レグルス文庫)
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■ フロイトは無意識を抑圧されたものとしてのみ考えたが、ユングは意識に上らないものすべてを指した。

・フロイトが提唱した無意識は、あくまで意識から抑圧されたものが押し込められる領域であった。しかし、ユングのいう無意識には、もうひとつのちがった側面がある。それは、抑圧された内容ばかりでなく、意識の閾にまで到達しないあらゆる心的要素も服務という点にある。

・ユング自身は「これらの要素が識閾下にあることを、すべて抑圧の原理で説明するのは無理である。 」(p.19)とのべている。


■ 患者の声を拾うために「夢」に着目する。

・あるときユングが相手をしたのは、父親コンプレックスを抱えた少女のカウンセリングであった。彼女はユングとの面接を行うにつれて、徐々にユングへ恋愛感情を持つようになった。その際ユングはそれを拒むでもなく、自然に任せながら「満足のいく解消」へと向かう道を探した。(もっと適切にいえば、ユング自身はそのような道が生まれるのを待ったのかもしれない。)

・その際にユングが着目したのは、患者の夢だった。夢に登場する象徴物の正体を対話によって少しずつ明らかにしていき、彼女が自分の気持ちと向き合えるようにした。(そこでもユングは自らの手で行った、という言い方はもちろん避けている。)


もとより私は、どんな混乱状態にあっても何をなすべきかが正確にわかるような良識なるものを、自分がもっているなどとはうぬぼれていなかったし、患者にしても同様だったので、せめて私たちの知ったかぶりや作意の通用しない心の領域からやってくる例の活動に、耳を澄ましてみようと彼女に提案した。それはまず第一に、夢であった。 (pp.25-26)

・夢は意識界で生活している私たちが、無意識からメッセージを受けられる場面である。
cf) 『ユング的悩み解消術』

夢には、私たちが意識的に意図してつくり出すのではないイメージや想念が含まれている。それらのイメージや壮年は私たちに関係なく自然発生的に生じ、したがって、私たちの恣意に左右されない心的活動を表している。だから夢は元来きわめて客観的な、いわば心の自然の産物なのである。 (p.26)



■ 自我肥大

・以下の図は、先日読んだ老松氏の『ユング的悩み解消術』のブログ記事に際して作成したものである。



・この図でいう意識の部分は時に肥大してしまい、個人としての限界を超えた人格の拡張がおきることがある。たとえば、家でも職場でも「先生」の顔をしているお父さんを考えよう。彼の職場での「先生」としての役割は集団の中での機能にすぎず、完全に彼の人格と同一視する必要はない。なのに「先生としてのわたし」を異常に拡張してしまい、家庭でも「先生」の顔のままになってしまうと、自分の外にある特性を簒奪することになる。

⇒自我肥大は、意識の暴走ともいえるだろうか。



■ 個性化

・個性化というと、私たちは「他の人とは違う」ということを考えてしまいがちではないか。(個性的な人、というと、どうも周りに溶け込めない人をイメージしてしまうのは私だけだろうか。)そうではなく、ユングは以下のように述べている。

個性化とは個性ある存在になることであり、個性ということばが私たちの内奥の究極的で何ものにも代えがたいユニークさを指すとすれば、自分自身の自己になることである。したがって、「個性化」とは、「自己自身になること」とか、「自己実現」とも言い換えることができるだろう。 (p.93)

⇒上田先生の『生きる意味』で述べられていた「original」の説明と近いかもしれない。


・個性化と似ているようで違うのが「利己的」という概念である。ユングは利己的が「集団における配慮や義務とは対立すると考えられた特質を意図的に際立たせ、強調すること」 (p.94) と述べており、上でいった個性化とははっきり区別している。

・個性化はそもそもなぜ行うか。それは、「ペルソナの偽りの被いから解放すること」と「無意識のさまざまなイメージの暗示的な力から解放すること」が目的である。 (p.95)

⇒さきほどの「家でも先生」を想い出していただきたい。彼は社会で被ってきたペルソナが外せなくなってしまっている。そんな彼が家庭で誰かに本当の自分をさらけだせるとしたら、それこそ個性化なのかもしれない。

⇒「ありのままの姿見せるのよ」という歌があるが、あれこそ個性化なのかもしれない(笑)



■ 無意識の不可侵性

・無意識は意識には持っていない考え方や特性があるかもしれない。だから私のような低俗な人間は、無意識に羨望のまなざしを向け、アクセスしたいと考えてしまう。

・しかし、ユングはそのような甘い考えを見破るかのように(笑)、「「自然の内奥に、被造物の精神は入り込めない」――無意識の中へも同様である。」(p.99)と、無意識への不可侵性を戒める。

⇒意識が無意識からのメッセージを受け取ることはできても、その逆はできないのだろうか。やはりまだまだユング心理学を理解するには人生経験が浅すぎるのかもしれないw



■ アスペクト的な自己

・アスペクト的(相貌的)とは、野矢茂樹先生の『語りえぬことを語る』から採った語である。すなわち、ある混沌とした対象も主観の観点(立場)によって解釈が異なるということであり、自己もどの立場から見るか、あるいはいつみるかによってまったく違った姿が立ち上がる。

・むしろ自己が完全に一貫している、という人の方が怖いのかもしれない。自己を「上位」のものとしてみなすことで、私たちは常に多面的な自己像を思い描くことができるのかもしれない。

われわれは、それぞれに部分的な魂をもっていると考えることができよう。そこでわれわれにとって自分自身をたとえばペルソナとして見ることはたやすい。しかし、われわれが自己として何ものであるか明らかにすることは、われわれの想像力を超えている。それには、さしずめ部分が全体を把握することができねばならない。われわれには、自己というものを近似的にさえ意識することが望めない。われわれがどんなに多く意識化することができようとも、さらに、無意識という無規定的で規定不可能な量は以前として存在するだろう。そして、それを除いては自己の全体像はありえないからである。こうして自己は常にわれわれの上位にあるものであり続けるだろう。 (p.100) 

⇒初等国語の授業でいわれたが、「複数の自己」とか「分裂した自己」と言い換えてよいかもしれない。













自分の気が向くままにまとめノートを作成したが、やはり分かっているようないないような...という感じである。(自分の理解力の限界を実感。)


最後に、無意識という点に直接関係ないために上で示さなかったが、これから質的研究の手法を勉強する際に、以下のユングの引用箇所は自分の原点としてもっておきたい。

もし、私が研究者であるよりも治療者であるならば、楽観的な判断を隠さないだろう。そのときはまなざしはどうしても、治癒された人間の数に行くだろうからである。しかし、私の研究者としての良心は、人間の数にではなく、質に目を向ける。自然はまさに貴族主義的であって、価値あるひとりの人間は、他の十人に匹敵する。私のまなざしは、価値ある人間の後を追い、彼らから純粋に個人的な分析の結果に見られる二義性を学び、さらにこの二義性の根拠について理解することを学んだ。 (p.54)

つまり、数によって、おきている事象が曲げられてしまうことを恐れるべきということであろう。今日の特研でも先生から、事象に立ち返れ、という話があった。いくら優れたデータを収集することができたとしても、そのデータを数値や偏った見方で分析してしまえば、事象が曲解される恐れがある。さらに、人間を相手にする研究をするのだから、自分が研究者としての良心・感性・倫理感を持たなければ成立しないだろう。私はこういった点には本当に自信がない。

ただ、ここでの考え方は教育現場に自分が出たときも生きると考える。目の前の生徒と対峙するときや授業を自己批判的に分析する際、事象に立ち返るということはまさに「言うに易し、行うに難し」だろう。少なくとも自分の修士での研究を通して、

・「相手を聴く」
・無意識からのメッセージを待つ
・コントロールするだけでなく、流れに身を任せる

といった点を少しでも体得したいと願う。


...なんか、すごく中二病的な締め方ですが(笑)、以上です。