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2014年7月31日木曜日

ランドル・コリンズ 著. 井上俊・磯部卓三 訳(2013)『脱常識の社会学 第二版』岩波現代文庫

こんにちは。ご無沙汰しております。Ninsoraです。落ち着いてきたので、久しぶりにブログを更新しようと思います!

今回ご紹介する本は、社会学系の本の入門書です。読みやすさ、内容の面白さ、洞察の深さは、最近読んだ本の中では間違いなく一番です。この本を読んでから、ここに書かれている視点で物事を考えるようになってしまうぐらい、見え方考え方が変わってしまいました。そのぐらい影響されました。
今回、適宜私のことばに言い換えながら、一部抜粋しておいしいところを紹介させていただきます。

脱常識の社会学 第二版――社会の読み方入門 (岩波現代文庫)
脱常識の社会学 第二版――社会の読み方入門 (岩波現代文庫)ランドル・コリンズ 井上 俊

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■ 合理性の追求は何をもたらすか

私たちは社会を生きていくうえで、どうしても「合理的」であろうとします。そして、合理的であることを誇りにしています。

「だってその方が効率いいし。最短距離、最小の労力、最小のコストで目標を達成できたら嬉しいじゃん!だから無駄なことはしない、考えない!最高!」

レベルは違うにせよ、誰もがこのような思考は持っているはずです。そして、社会の流れも大体こんな感じかなと思います。

合理性を求めることを全て否定はしませんが、これを追求しすぎると実は矛盾が生じてきます。
例えば、究極に効率を追求した合理的システムの一つの例として官僚制が挙げられます。莫大な量の仕事を、各専門部署に振り分け、各専門部署では各個人に仕事を割り当てます。誰もが自分が専門とする仕事を短時間で終わらせることができれば、全体としての仕事量は多くても、すぐに片付いてしまいます。非常に合理的かつ効率的です。文句なし!

しかし、究極的に合理性を追求した官僚制の問題はそこにあります。
専門家集団である彼らは、特定の目的を達成するため、一定の結果をいかにすれば最も効率よく得られるかを冷静に計算します。
そのため、ある個人の守備範囲外の書類が舞い込んできたとしても、それは自分とは無関係、他人事とみなします。つまり、自分の仕事と関係がないと思われる仕事は「たらい回し」にされます。

これは極端な例ですが、即ち、誰の守備範囲でもない小さなバグが生じただけで、誰かがその合理性を超えて動かなければ、官僚制自体が機能しなくなります。言い換えれば、合理性の追求は、結果的に不合理な結果をもたらしてしまいます。

■社会を支える「非合理的基礎」

コリンズは、デュルケムらの論と、合理性を追求する社会を支えるのは「合理性」ではなく、それらを超えた所にある「非合理性」であると指摘します。

「私たち一つの契約を結ぶとき、意識的な契約以外にも『お互いがこの契約を守る』という信頼関係に基づく契約を行う」という【契約の前契約的基礎】の話も面白いのですが、今回は本書中の「ただ乗り問題」を取り上げて「社会を支える非合理性」を紹介します。

人々の生活を支える無料の乗り合いバスがあるとします。バスに乗ること自体は無料ですが、乗客は任意でガソリン代や運転手の給料などのバスの諸経費を「募金」という形で求められます。もちろん、募金しなくても、乗客は咎められませんし、責任も問われない。ずっと利用可能です。

このとき一番合理的な判断は、他の人の募金に頼って、自分はただで利用し続けることです。しかし、乗客全員が同じ判断をした場合、どうなるでしょうか。
たちまちバスは運行できなくなり、自分を含めてバスを利用していた人は交通手段がなくなってしまいます。
これも、個人の合理性を追求した結果、個人にとって非常に大きな損失・非合理的な結末を迎えるという好例でしょう。
即ち、無料バスの運行は、諸個人が持っている集団への愛着や集団への帰属意識といった、非合理的な感情に支えられているのです。

■「集団」の形成と維持のための儀礼行為

上で、私たちの集団への愛着や帰属意識などの非合理的感情が社会を支えていると述べました。では、そもそもなぜ私たちは集団を形成し、維持しようとするのでしょうか。

一番大きな理由としては、それが「合理的であるから」と言えるでしょう。また、集団の持つ感情エネルギー増幅機能も理由として挙げられます。(詳しくは本書をご参照ください)

集団を構成するとき、必要不可欠な要素が3つあります。それが以下の3つです。

①集団は集まらなければならない
②集団がみな同じ感情を抱き、その感情を共有していることを意識せねばならない
③集団がそれ自身について抱いている観念を鮮明に示す象徴的事物がある。(道徳的な影響力・見えない力を具象化する)

今回は、特に②の要素について紹介します。
社会(集団)は、非合理的感情に支えられているということは何度も述べている通りですが、このことから、社会(集団)を維持するためには非合理的感情を形成しなければならないといえます。
そのために私たちが行うのが、「行為の儀礼化」です。

例えば、カトリックでは毎週日曜日に「教会に行く」、「聖書を読む」などが儀礼行為に当たります。儀礼行為は、目的を達成することよりも、厳密に規定された形式を最も重要視します。儀礼を正確に遂行することそれ自体が目的であり、それが聖なるものへの忠誠・信念とみなされるからです。
このような儀礼行為は、自身がその集団の構成員であると自覚するのと同時に、集団が同じ儀礼共同体に属していることを気づかせます。つまり、連帯意識が高揚します。

このことを踏まえつつ、「安全な社会を維持するためには、警察や司法、立法機関はどのようなことをするだろうか」ということを考えてみます。

通常なら、取締りを強化するだとか、罰を厳しくするとか、危険人物を逮捕できる法律を新たに作るといった対策を考えるでしょう。
しかしながら、私たちの社会では、「犯罪者を捕まえ、起訴し、裁判にかけ、罰を与えること」自体が、社会集団を結束させ、維持するための儀礼行為となります。
ですので、警察も司法も、私たちが属する社会集団の結束を高めさせる目的で、あえて一部の人が新たな犯罪を生み出すように仕向けているのです(ラベリングなど)。

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長くて読みにくい文章ですが、今回は「社会を支える非合理性」に絞って本書をご紹介させていただきました。

私たちの周りにはどのような非合理的感情があり、どのような儀礼行為が行われているのか、という観点から周りを見つめると、新たな発見がありそうです。
この本を読んで、私は教育の視点から、そこに存在する非合理性や儀礼行為に対して問題意識を持つようになりました。

コリンズは、他にも「なぜ自動車修理のおじさんは具合の悪い部分を直すということに関しては医者よりはるかに頼りになるのに、医者より高く評価されないのか」とか、「なぜ我々は結婚するのか」などを独自の視点で語っています。コリンズの答えを知りたい方は、是非ご一読ください。おすすめです。

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そういえば最近、僕の机の引き出しからお煎餅を盗んで食べていた研究室の友人がイギリスに発ちました。
安心したのもつかの間、今度は先輩に買い溜めしていたじゃがりこを奪われました。

その後ちゃんと新しいのを(こっそり)買ってきてくれるんですけど(優しいですよね)、彼らがお煎餅やじゃがりこを買うためにレジに並んでいる姿を想像すると、何だかほっこりした気分になってしまいます。
なので、また買って入れとこうかなって思うんですけど、僕 っ て 病 気 な ん で し ょ う か 。

2014年7月26日土曜日

村上春樹 (2012) 『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』文春文庫


教員採用試験の一次が終わり、少し身の回りが落ち着いたように思えます。集団討論の試験が終わって自宅に帰る途中、たまたま寄った本屋で本書を見つけました。前から読みたいと思っていたので早速購入。 (一緒に、『思い出のマーニー』の新訳も発売されていたので購入しましたが、こちらもかなり面白かった!友人に勧められたものだったので、早く感想を交流したいです。)

夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集1997-2011 (文春文庫)
夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集1997-2011 (文春文庫)村上 春樹

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本書は村上春樹のインタビューを19本採録したもので、彼の小説観や作品に関するコメントはもちろん、「ランニング」「集団と個」「無意識」といった多くのテーマについても語られており、大変読み応えがありました。最近『海辺のカフカ』の舞台版を観にいったり『スプートニクの恋人』を後輩に勧められて読んだりと、少しマイブーム状態だったので(笑)個人的にはとても面白かったです。

以下、印象に残ったテーマについて紹介します。ただし、予め断っておきますが、私自身村上春樹の作品それほど網羅しておらず、『ねじまき鳥』『アフターダーク』を始めとする多くの作品をまだ読んでいません。分かった風な口調で自分が本書を暴力的に翻訳してしまわないよう、できるだけ直接引用 (良識の範囲内で) と、それに対する自分の感想や個人的経験、という形で書きます。また選んだテーマも自分の関心に合うもののみで、以下が本書を要約できているとは到底思えません。どうぞご興味のお有りの方は、本書を直接手にとってお読みいただくことをお勧めします。

では、「身体」「無意識」「語り」「他者への説明」「翻訳」を観点に、以下にまとめます。



■ 身体は重要である

まずは、私が大学院に入った初日に教授から言われた話をします。これから研究を頑張ろう、たくさん本を読んでやろう、と意気込んで初日に教室に行くと、「研究をするのも大事だが、感性を忘れないで欲しい」「研究者は身体が第一ですよ。私はテニスをしていまして (ry) 」と仰ったために拍子抜けした記憶があります(笑)ただ本書を読みながら、やはり感性や身体といった部分の重要性を思い知りました。感性については後ほど「地下室」の項で紹介するので、ここでは身体について紹介します。


小説を書き出して、毎日毎日休みなくこつこつとそれを書き続けます。するとそのうちに、暗黒のようなものが訪れてきます。そして僕にはその中に入っていく準備ができている。でもそういう段階に達するためには、時間が必要です。今日書き出して、明日にはもうその中にすっと入れるというものではありません。日々の厳しい労働に耐えて、集中力を高めなくてはならない。それは作家にとってもっとも大切な要素だと思います。だから僕は日々走って、身体性を強化しています。身体トレーニングというのは大事なんです。多くの作家はそうは考えていないみたいだけど(笑) (p.27)

小説家、漫画家、あるいは研究者、....といった机に向かいっきりの時間が長い職業は、不健康なイメージがどうしてもついて回ります。なので村上氏の上の引用箇所はとても不思議に感じました。以下はさらに、身体トレーニングによって、「あたま」や「こころ」もよい影響を受けることを示しています。

フィジカルなことをやっていると、すごくラクになるんです。体育が嫌いな子どもだったから、昔は身体を動かすようなことはあまりしなかったけど、大人になってやると、フィジカルな作用とメンタルな作用がいかに結びついているかがよくわかる。それに、自分の身体に積極的な関心を持つのって、大事なことだと思うんです。ハンサムになることはなかなかできないけれど、身体を引き締めることなら意図的にできるじゃない(笑)。 (p.65)

最近はインタビューで得たデータの質的分析をしているのですが、どうも机に向かっていても良いカテゴリー分けが出てこなくて、むしろ家に帰る途中とか塾の授業中とかに、「おっ!」と閃くときの方が良いアイデアだったりします。質的分析をされている先輩にこのことを話したところ、先輩もお風呂に入ってるときの方がよく思い浮かぶと仰っていました。なので、身体トレーニングを研究の合間にしていればよい発想が閃くこともあるかもしれませんね。


ここまで読むと、研究者も身体が大事なのかという気がしてきますね。教授方がおっしゃる通り、自分も身体をなまらせないようにランニングを続けるよう頑張ろう!(三日坊主になりませんように...。)





■ 人間の存在は二階建ての家で、地下室に行って戻ってこれるのが小説家。

以下の引用箇所は、特に本書でも重要だと思いました。


仮に、人間が家だとします。一階はあなたが生活し、料理し、食事をし、家族といっしょにテレビを見る場所です。二階にはあなたの寝室が在る。そこで読書したり、眠ったりします。そして、地下階があります。それはもっと奥まった空間で、ものをストックしたり、道具を置いたりしてある場所です。ところがこの地下階のなかには隠れた別の空間もある。それは入るのが難しい場所です。というのも、簡単には見つからない秘密の扉から入っていくことになるからです。...そこでは、奇妙なものをたくさん目撃できます。目の前に、形而上学的な記号やイメージや象徴がつぎつぎに表れるんですから。それはちょうど、夢のようなものです。無意識の世界の形態のようなね。けれどもいつか、あなたは現実世界に帰らなければならない。そのときは部屋から出て、扉を閉じ、階段を昇るんです。 (p.165)


私は普段、意図的に「地下」へ向かったりそこから出たりという経験はしません。ただ、稀に〈良いもの〉と触れ合った時に、自分が普段日常生活ではしないような感じ方をすることはあります。あるいは、とても落ち込んだ時に心のどす黒い部分と直面させられることはあります。そのときの地下室との往来は self-uncontrollable なため、地下に行こうと思って行けるものではないし、抜け出そうと思っても抜け出せないかもしれません。

ミヒャエル・エンデの『モモ』でも、マイスターホラによってモモが自分の心の中の花畑に連れて行かれる描写がありました。上の引用箇所を読んだとき、自分は『モモ』のそのシーンのことを思い浮かべていました。もしかしたらモモのように花畑だけではなく、闇のような部分も地下室には隠れているでしょうし、意識が考え付かないようなものが潜んでいることもあるかもしれません。しかしモモのその場面で、誰しもそのような世界を持っているという希望があるように思えます。

また、『海辺のカフカ』で佐伯さんが最後カフカに言うのは「あなたは元の世界に戻って」で、カフカ君が地下に居続けることは許されませんでした。彼は再び現実世界へと戻ります。彼もまた地下との往来を体験したのかもしれません。映画『風たちぬ』のラストも菜緒子さんが「あなたは生きて」といって夢の世界で消えていく場面でしたが、これも主人公に地下から地上へ帰って欲しいという思いがあったのではないでしょうか。

少し話は変わりますが、小説家のみならず人は、ときに地下室へ行くことを無性に求めるのかもしれません。そんなとき、人はファンタジー・虚構世界を求めて小説に手を伸ばし、作品の世界に浸りながらそこに自分の地下室を映すのではないでしょうか。 (少なくとも『思い出のマーニー』を読んでいる時も自分はそのような気持ちになりました。「輪」の内側と外側という感覚は多くの人が共感するのではないかと推察します。)

あるいは自分の地下室に少しでも入ってみようと臨むとき、老松先生の「モバイル・イマジネーション」が地下室を少し覗いてみるための方法論と言えるのではないかと思います。以前自分がモバイルイマジネーションを実践したときは、暗い部屋から白い影がどんどん出て行き、明かりが次第に消えていくというイメージを見ました。そのときは意識では「まだ大丈夫」と思っていた時期だったので、地下室に潜むどす黒い部分を垣間見たときに恐ろしく感じたのを覚えています。

作家の場合はこのような自らの毒と向き合うことも必要と、村上氏は言います。


小説を書いているとき、僕は暗い場所に、深い場所に下降します。井戸の底か、地下室のような場所です。そこには光がなく、湿っていて、しばしば危険が潜んでいます。その暗闇の中に何がいるのか、それもわかりません。それでも僕はその暗闇の中に入っていかなくてはならない。なぜならそれこそが、小説を書いているときに僕がいる場所だからです。僕はそこで善きものに巡り会い、悪しきものに巡り会い、ときには危険に遭遇します。そしてそれらを文章で描写します。 (p.359)

作家が物語りを立ち上げるときには、自分の内部にある毒と向き合わなくてはなりません。そうした毒を持っていなければ、できあがる物語は退屈で凡庸なものになるでしょう。ちょうど河豚のようなものです。河豚の身はとてもおいしいのですが、卵巣、肝臓などの部位には致死量の毒を含んでいることもあります。僕の物語は、僕の意識の暗くて危険な場所にあり、心の奥に毒があるのも感じますが、僕はかなりの量の毒を処理することができます。それは僕に強い肉体があるからです。 (p.442)

ここまでで、地下室には希望(e.g.花畑)と毒(e.g.部屋から抜ける影)があることが分かってきました。もちろんこれは自分が読んで思った感想ですが、意識が推し量れない「無意識」のメッセージにより寛大になるためにも、物語を私たちは必要としているのだと思いました。ときには読むことも、たまには書く(語る)ことも。そして語るためには、自分の話を聴いてくれる存在も。




■ 一貫した自己を持つことが強要される現代、物語(語り)が果たす役割


「ありのままの姿見せるのよ」という歌があるのですが、それを聴くたびに私は、ありのままの姿などあるのだろうかと疑問に思ってしまいます。私が私たりうる所以や本質といったものなどあるのでしょうか。ルーマンが認識論の議論を「観察という作動の結果」としましたが、私も「自分自身」というのは後になって「こうだったのか」と分かるものと (特に最近) 強く感じます。

しかし、日常生活に「ありのままの自分」という言葉がよく登場するからこそ、私たちは観念的に「ありのままの自分」を想定しているのでしょう。村上氏は、そのような自分らしさは「語る」(あるいは「書く」)という行為に表れると言います。


今、世界の人がどうしてこんなに苦しむかというと、自己表現をしなくてはいけないという強迫観念があるからですよ。だからみんな苦しむんです。僕はこういうふうに文章で表現して生きている人間だけど、自己表現なんて簡単にできやしないですよ。それは砂漠で塩水飲むようなもんなんです。飲めば飲むほど喉が渇きます。にもかかわらず、日本というか、世界の近代文明というのは自己表現が人間存在にとって不可欠であるということを押し付けているわけです。教育だって、そういうものを前提条件として成り立っていますよね。まず自らを知りなさい。自分のアイデンティティーを確立しなさい。他者との差異を認識しなさい。そして自分の考えていることを、少しでも正確に、体系的に、客観的に表現しなさいと。これは本当に呪いだと思う。だって自分がここにいる存在意味なんて、ほとんどどこにもないわけだから。タマネギの皮むきと同じことです。一貫した自己なんてどこにもないんです。でも、物語という文脈を取れば、自己表現しなくていいんですよ。物語がかわって表現するから。 (pp.115-116)


あるいは大学院の授業で紹介された "Who you are depends on how you act." という言葉も、これに近いことを言っているように思います。学校現場でも「自己紹介しましょう」とか「自分のアピールポイントを書いてみましょう」といった実践が多くなされるように思えますが、これらの活動を苦痛に思う子も上に述べた理由でいるのかもしれません。

私が大学院で所属しているゼミでは年に1回合宿が開かれます(と言ってもまだ1回しか開催されていませんが笑)。そこでは先生とゼミ生がこだわっていることについて語る20分間のプレゼンテーション発表会がメインにされます。たとえばバドミントン部に所属される先輩は、バドミントンのプレーについてや英語教育とバドミントン指導の共通点について熱弁をふるっていましたし、ギターが大好きな先輩は、自分のギターの弾き方とプロの引き方をビデオで見せながらその違いについて解説していました。他にも、写真や漫画、映画、麻雀(!?)、オーケストラ、など、とにかく自分がこだわるトピックについて語ります。合宿で感じたのは、自分が好きなことについて語るときにその人らしさが表れるかもしれないということでした。現にどの発表者も自分のこだわりについて語るときは楽しそうにしていました。

国語教育の実践に「偏愛マップを用いた話す活動」というのがあるらしいです。上と同様に自分がとことん好きなものを書いていって、それについてペアやグループで話し合うというものです。偏愛マップ実践も体験しましたが、自分がとことん好きなもの(好きな居酒屋のビール、ハリーポッターのルーピン先生、中川家の漫才、etc...) について話していると、自分について語っているわけでないのに自分が語られている感じがしました。

もしかしたら、英語教育でも偏愛マップの実践は可能かもしれませんね。(ある程度の英語技能は必要ですが。)好きなことを語るときに自分らしさが出る、だからこそ「語る」ことが自己治癒効果があったり、自己(他者)理解につながったりするのではないでしょうか。





■ 「何かを人に呑み込ませようとするとき、あなたはとびっきり親切にならなくてはならない」

上の題は、教師を目指す自分にとってとても印象に残りました。人に何かを説明するときや文章を書くとき、それを聞いたり読んだりする人に親切にならなければなりません。村上氏は特に地下室からイメージが出てくるのを待ち、出てきたものを言葉にして表すため、私が塾で3単現のSを教えるよりずっと伝えるのが難しいはずです。氏はどのように読者に伝えるのでしょうか。

最初にひとつのイメージがあり、僕はそこにあるひとつの断片を別の断片に繋げていきます。それがストーリーラインです。それから僕はそのストーリーラインを読者に向かって提示し、説明する。うまく呑み込ませる。何かを人に呑み込ませようとするとき、あなたはとびっきり新設にならなくてはならない。「いや、自分さえわかっていればそれでいいんだ」という態度では、ほとんど誰もついてきてくれない。簡易な言葉と、良きメタファー、効果的なアレゴリー。それが僕の使っているヴォイスというか、ツールです。僕はそのようなツールを使って、ものごとを注意深く、そしてクリアに説明します。 (p.210)

ここでは大前提として読者に親切であることが挙げられます。氏は「簡易な言葉」「メタファー」「アレゴリー」をツールとして用いていると言います。確かに『スプートニクの恋人』では「僕」の台詞中に登場するメタファーの数が尋常ではありません。他にも『海辺のカフカ』の大島さんが「万物はメタファー」というゲーテの言葉を引用しており、作中の象徴的なもの(入り口の石など)が何を象徴しているか考えることも読者はできます。これくらい親切にしてようやく人に何かを呑み込ませようとできるのです。

ただし、氏の作品の多くは解釈が定まらず、なにか1つの答えを呑み込ませようとしているわけではないことが分かります。現に『海辺のカフカ』の解釈について読者から質問が来ても、氏は「わかりません」と返すそうで(舞台版『海辺のカフカ』パンフレットより)、呑み込ませる何かは厳密な答えではなくてルースな意味での答えなのだと思います。

ここからはまた個人的な話になってしまいますが、先日院の研究発表でデータの質的分析結果を提示したときに、自分の分析結果のみを本文に載せて、インタビューのデータをAppendix に載せて各自参照という形にしました。この提示方法が聴き手に不親切だったという指摘を後に頂き、本当にその通りだと感じました。その後ゼミの先生に、「ではどのように提示すれば最も親切なのでしょう」と相談に言ったところ、「いやいや、それは一般論で語ることではない」といわれました。自分の発表の聴き手が誰かによって、その人の関心や背景知識の量などは当然異なります。あるいは自分が扱うデータの質によってもふさわしい提示方法は異なるでしょう。

Ninsora 君と行っている関連性理論勉強会でも、相手が処理労力をかけないでより多くの認知効果を得られるような伝え方には、一般法則などなくて、読み手・聴き手次第ではないか、と結論が出ました。一文の長さを例にとっても、「どれくらい長い文だったら2文に区切った方がいいんすか?」という質問は意味をなしません。その文章を読む人、その文が含む情報量、段落内での文の位置づけなど多くの要因を踏まえたうえで、読者にとびっきり親切になってようやく決定できることです。

タイトルには「とびっきり親切に」と軽く書いてしまいましたが、実践するのは本当に難しいことだと思います。心がけだけでなく、とびっきり親切な伝え方を考えて伝え、その結果を自己反省することで伝え方がうまくなるのかもしれません。




■ 翻訳は、その作品を好きな人が訳すべき。

最後に、翻訳について本書が言及する箇所を紹介します。といっても、村上氏の翻訳論は『翻訳夜話』シリーズを読まれることをお勧めしますので、ここでは簡単にご紹介します。



私 (mochi) は翻訳経験が浅く、まるで自分自身が苦手だから研究テーマに選んだのではないかと思うほどです。また読書経験もあまりないため、翻訳をしていて苦痛に感じることが本当に多いです。でも、その中に楽しみが見出されることがあります。たとえばBBSのスローガンの翻訳は本当にわくわくしましたし、好きな漱石の作品の特定部分がどう翻訳されているだろうとあれこれ考える分にはとても楽しいです。

翻訳は多大な労力をかける作業で、それを続けるにはやはり訳す本人が楽しむことができなければならないでしょう。村上氏も多くの翻訳経験を積んでいるのでこの点を強く言います。

―あなたの本の翻訳についてうかがいたいのです。あなた自身が翻訳者であるから、翻訳の持つ危険性についてよくご承知だと思うのです。どのようにして翻訳者を選んでいるのですか? 
(村上)僕には英語に限っていえば、今のところ三人の翻訳者がいます。...彼らが僕の小説を読み、誰かが「これは素晴らしい!」と思う。それがいちばんいいやり方だと思うのです。気に入った人が訳してくれればいい。僕自身の翻訳者としての経験からいえば、熱意というのは翻訳にとってとても大事な要素です。たとえ優れた翻訳者であっても、彼がテキストをそんなに好きでなければ、まったく話になりません。長い小説の翻訳はひどく骨が折れるし、時間もかかります。深い愛情と共感がものを言う作業なのです。 (p.236)


翻訳する際の情意面やモチベーションの研究も翻訳プロセス研究では行われており、やはり作品への思い入れがないとやっていけないのだろうと思います。

逆に言えば、こだわりのある作品だったら翻訳してやろう!という気も起きるのでは??とも感じます。中高生(あるいは大学生)が本当に好きな日本文学や英文学作品を1つ選び、その1節でも訳してみるという経験は、どこかであっても良いのかもしれません。最近塾の子が課題ノートに「アナと雪の女王」の原作本の一節を書き抜いて翻訳してきてくれましたが、それも好きだからやるわけで、やらされる翻訳はしんどいだろうと思います。





教採や特研が終わって、このような良書をゆっくり読むことができて本当に良かったです。村上春樹の本は、今日『スプートニクの恋人』を読み終えましたが、これもかなり面白かったです!(特に今の自分には相当ひびきましたw)先ほど『女のいない男たち』を買ってきたので土日に読み、夏休み中に『羊を巡る冒険』『ダンス・ダンス・ダンス』『ねじまき鳥クロニクル』などを読んでいきたいと思います (^^)

(追記)2014/08/25
村上春樹氏の英語でのインタビューが紹介された記事を見つけました。上で述べている内容を、英語ですが、村上氏のことばで語られています。もちろんここで紹介しなかったことについても多く述べられていますので、どうぞご覧ください。

Haruki Murakami: 'My lifetime dream is to be sitting at the bottom of a well'

2014年7月25日金曜日

関連性理論まとめ①

せっかくブログに参加させてもらったのにも関わらず、更新をほとんどmochi君に任せてしまっていて申し訳なく思っているNinsoraです。ご無沙汰しております。

最近mochi君と関連性理論についての勉強会を始めました。
そして、その復習も兼ねて、お勉強ノートを当ブログにUPすることになりました。
よろしければご覧ください。

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■関連性理論とは

 以前は、話し手の思考が話し手によってコード化 (encode) され、聞き手はそのコードを解読 (decode) するという「コードモデル」によってコミュニケーションを解釈しようとするのが主流であった。しかし、コードモデルでは話し手の意図がそっくりそのまま受け手に伝わらなければならないことやencodeされていない部分に関しては言及できないなど、その限界が指摘されるようになった。これらの限界を指摘したSperber and Wilson (1986/1995) は、Grice (1989) Cooperative Principle(協調の原理)の maxim of relation(関係性の公理)をより詳細に説明するような形で、「関連性理論 (Relevance Theory)」を提案した。関連性理論は、伝達者の意図と受け手の推論を分けて考える「意図明示推論的コミュニケーション」を前提としており、最終的には人間の脳内モジュールのシステムの解明を目指している。

■ 関連性の原理
 関連性 (relevance) は、認知効果 (cognitive effects) と処理労力 (processing effects) によって決定される。認知効果とは、私たちの頭の中の知識の総体に何らかの影響を与えることであり、新情報と既知情報の相互作用により新たな想定を作り出す「文脈含意」と、「既存想定の強化」、「既存想定の削除」の3つがあるとされる。
例えば、お金持ちのAさんの家にBさんが遊びに行ったとする。そこでAさんが「おやつを持ってくるからちょっと待ってて」と言ったとする。「Aさんがお金持ちである」という既知情報に「Aさんがおやつを持ってくる」という情報が加わったことにより、Bさんは「Aさんがケーキを持ってくるのではないか」という想定を立てる。これが「文脈含意」である。数分後、Aさんがお洒落なティーセットとフォークを持ってきたとする。するとBさんは、「やっぱりAさんはケーキを持ってくるに違いない」との確信を強めるだろう。これが、「既存想定の強化」である。しかし、もしティーポットの中身が梅昆布茶だったらどうであろうか。恐らく、「Aさんはケーキを持ってくるのではないか」という想定は棄却されるであろう(もしかすると新たな想定が生まれるかもしれない。)これが、「既存想定の削除」である。
一般的に、以上で述べたような「認知効果が大きいほど」関連性は高く、それを処理する「労力が小さいほど」関連性は高いとされる。認知効果と処理労力という2つの要素を踏まえて、Sperber and Wilsonは「認知原理と伝達原理」の2つの「関連性の原理」を唱えた。

認知原理…人間の認知は、関連性が最大になるようにできている。
伝達原理…全ての意図明示伝達行為は、それ自体最適な関連性の見込みを伝達する。

伝達原理の中の「最適な関連性の見込み」を簡単に述べると、以下のようになる。
 a. 伝達者が伝える内容は、受け手がそれを処理する労力に見合う価値があり、
 b. それが受け手に必要以上の労力をかけさせることなく伝わること


即ち、認知原理とは「発話は、できるだけ小さな処理労力で相手ができるだけ多くの認知効果を達成できるようになっている」という原則であり、伝達原理とは「コミュニケーションの相手は、自分に対して最大の関連性を持つように伝達しているという前提をもつ」という原則である。関連性理論のこれらの原則は、程度に差はあれ、全ての人間が例外なく持っているものであるという点で、他の語用論などの原則や公理と異なっている。


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途中で雑談が入ったりお互いの研究と関連させた話になったりしたため、一度に進んだ量としては少ないですが、これからペースを上げていこうと考えております。

できるだけ読者のみなさんの処理労力が少なくなるように注意したつもりですが、読みにくい文章になってしまって申し訳ないです。

また、間違い等を発見してくださった方は、是非ともご指摘いただけたら幸いです。

今後とも、当ブログを何卒よろしくお願いいたします。
(自分も少しずつ更新しないとな…)

2014年7月13日日曜日

佐藤郁哉. (2008). 『質的データ分析法ー原理・方法・実践』. 新曜社.


質的研究に関する記事を最近更新していますが、特に本書は入門にはもってこいだと思います。以下、まとめノートです。


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■ 今日では質的研究がブームになりつつあり、誰でも質的研究ができるようになった。質的研究が始まった頃は研究者間に緊張があり研究の質を保証できていたが、今は一般化したがゆえにすぐれた質的研究を見極めるのが難しくなった。

⇒質的研究がしやすくなった分、良い質的研究をしなければならないという緊張感がなくなりつつあるのかもしれない。この時期だからこそ、質的研究をする私たちには改めて研究作法を丁寧に学ぶことが求められるのだろう。


■ 「いま日本では質的研究のクオリティを問うべき時期にさしかかってきている」 (p.4)

■ 「分厚い記述 (thick description)」は、フィールドノーツの詳細な記述を通して現地社会の人々の行為の意味を明らかにすることや、丹念で地道な研究や実践にもとづいたていねいな記述を指す。

■ その一方で、「お手軽な (雑な) 記述 (quick description) 」が増えてきてしまっている。大きく分けて以下の7パターンに分けられる。
① 読書感想文
② ご都合主義的引用型
③ キーワード偏重型
④ 要因関連図型
⑤ ディテール偏重型
⑥ 引用過多型
⑦ 自己主張型

■ 分厚い記述は、「WHAT」「HOW」だけでなく、「WHY」も扱うべき。

分厚い記述というものは、本来、ある物事や出来事が「どのようなものであるか」「どうなってるか」という、主として記述に関わる問いに対する答えだけでなく、「なぜ、そうなっているのか」という、説明に関わる問いに対してきちんとした答えを提供しようとするものである (p.13)

■ 質的研究と量的研究は敵ではなく、お互いを補う役割がある。お互い根本的に性質が異なるため、その扱い方に気をつけるべき。

⇒質的研究と量的研究には、共約不可能性があるため、お互いが分かり合うことはできないかもしれない。しかし、それでも「科学」という共通の土台に立つことで、両者を組み合わせることはできるかもしれない。詳しくは、「竹内・水元 (2012) 『外国語教育研究ハンドブック』の「第IV部:質的研究」該当部分のみまとめたお勉強ノート」をご覧ください。

■ 質的研究は特に、量的データには還元しつくせない、人々の語りや発話の「意味」を明らかにしていくことを目指す。

■ 質的データ(定性データ)は、以下の特徴がある。
(1) 最も本質的な部分が数値で表現されていない (p.18)
(2) 最も本質的な情報というのが、私たち自身が現実社会の生活から読み取り、感じ取っている豊かな意味の世界に関わるものである (p.18)

■ 文字テキストデータは、個人的あるいは社会的な意味の世界を明らかにしていこうとする時に重要である。非言語情報(ビデオや沈黙など)も扱うことはできるが、一度はそれらを言葉に直すことも必要である。

■ 文化の翻訳として質的データを分析し、報告すべきである。

質的データに含まれる意味内容をその豊かさをできるだけ損なわないようにしながら解釈していく作業と、文学作品を翻訳していく作業とのあいだには、多くの共通点がある (p.23)

cf) 『翻訳理論の探求』には、以下のような説明がある。

民俗学者は、遠隔の文化を記述する...時、実際にはその文化を自らの専門用語に翻訳している...。民族誌学者は、根源的な文化の差異 (その場合、記述や理解は不可能) や、完璧な同一性 (その場合、記述は不要) を想定できない。しかし、この両極の間で、「翻訳」ということばが何かを物語ることは可能だろう。 (ピム, 2011, pp.254-255)

質的研究者にとって、研究協力者は「他者」であり、自分とコンテクストを共有していない「ズレ」の部分があるはずである。その「ズレ」の部分をいかに翻訳するかが、翻訳者=質的研究者の腕の見せ所なのかもしれない。


■ 翻訳同様、質的データ分析には「文脈」の考慮が必要不可欠である。
(例) ある人物の特定時点における語りの一節・一語
特定人物の特定時点における行動
特定人物の複数時点での行動の内容
特定人物の複数時点での語りの内容
複数の人物の行動の内容
複数の人物の語りの内容
複数の人物から構成される集団や組織の状況


■ 生のデータと理論を行き来することで意味を理解して伝えられる。


⇒ただし、これらはすぐにできるわけではない。質的研究は、中間的なレポートを定期的に作成することが非常に重要である。少ない情報であっても文章化しながら、欠けてしまった要素はないか、曲げられた意味はないか、という点を批判的に検討し、再度データ収集・分析にあたり、欠点を克服(乗り越え)して成長していくのだろう。


■ 質的研究者はよい翻訳者であるべき。

すぐれた翻訳者は、単にある言語に属する語や文を別の言語の語や文に置き換えていくだけでなく、2つの言語のあいだを頻繁に行き来しながら、作品全体の内容と作品にこめられたメッセージを深い共感と理解にもとづいて別の文脈へと移し変えていく。それと同じように、すぐれた質的研究者は、当事者たちの世界を一方に置き、研究者コミュニティの世界を他方において、そのあいだを媒介する翻訳者ないし「バイリンガル」としての役割を果たしていくのである。 (p.33)

■ 「コード」とは、「それぞれの部分が含む内容を示す一種の小見出しのようなものをつけていく作業」 (p.34) 、あるいは「「現場の言葉」の一つひとつの意味を理解し、また、原文の意味や文脈を理解した上で、それを理論の言葉に置き換えていき、さらに、いくつかの基本的なテーマを浮き彫りにしていく上での貴重な道しるべを提供している」 (p.37) といえる。

■ コードをつけていくと、さらに抽象度の高い「概念的カテゴリー」へとまとめあげられる。

■ 定性的コーディングの場合は、文字テクストからコードへ、またコードから文字テクストへと行き来することが必要である。


■ 脱文脈化とは、テクストから特定の部分を切り取って抜き出すことをいう。脱文脈化したテクスト(セグメント)には、必ず「出所の提示」が必要である。さもなければ、セグメントから生のテクストに戻ることが難しくなってしまう。

⇒本書で紹介される「事例ーコードマトリックス」も、ある意味セグメントかもしれない。このセグメントは文脈や状況から研究者が距離をとってデータを見るのに便利である。しかし、

■ データ分析における単位は、セグメントである。

データ分析における基本的な意味の単位になるのは、あくまでのセグメントそれ自体なのである。 (p.48)

⇒卒論のときに分析単位で困っていたが、セグメントは自分がコード化したものがそのままセグメントとなる。だから、コード化のときにすでに単位は決まっていると考えれば良い。

ちなみに、ストラウス・コービン派のグラウンデッド・セオリー・アプローチでは、初学者は行ごとに分析を行うことが推奨されている。

■ 再文脈化は2段階ある。第一はデータベース化であり、第二はストーリー化である。データベース化はセグメントの形で切り取って分類・配列することであり、ストーリー化はセグメントを取捨選択しながら報告書の形にまとめあげることである。

⇒論文も結局はストーリーであることが求められる。ストーリーであるがゆえに、研究者の分析結果が完全に報告できるとは限らない。(この点については、『物語と共約幻想』という本で詳しく記述されています。つい本日届いたばかりの本なので、まだレビュー記事は書くことはしませんが、いずれまとめられればと思います。)



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竹内・水本 (2012) 『外国語教育研究ハンドブック』の「第IV部:質的研究」該当部分のみまとめたお勉強ノート



質的研究勉強会が来週に院生有志で開催されるため、自分も『外国語教育研究ハンドブック』で質的研究に該当する第IV部を読んで、少しお勉強をしておくことにしました。本書を手にとったのは初めてですが、改めて必読書であったことを実感しました。(特に院試受験をするみなさん、少なくとも本書のt検定や分散分析、推測統計の章は読んでおくことをおすすめします~。)

外国語教育研究ハンドブック―研究手法のより良い理解のために
外国語教育研究ハンドブック―研究手法のより良い理解のために竹内 理 水本 篤

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細かい質的研究の方法論は、佐藤 (2008) やウィリッグ (2003) などの良書がありますが、本書は質的研究が依拠するパラダイム・認識論的前提も丁寧に述べているところが良いと感じました。そして、量的研究との共存のために質的研究者が留意すべきこともまとめられていて、自分の研究指針にも大変役に立ちました。(やはり、昨年に読んでおくべきだったorz)


以下、お勉強ノートで恐縮ですが、よろしければご参照ください。



■ 質的研究は「意味・場・行為・文脈」を研究対象とする。 (p.243)

■ 実験や観察、調査をすることで、科学は客観的に世界を理解しようとしてきた。しかし、実験や観察をする私たちこそその世界の中から抜け出すことはできない。 (p.243)

⇒「私たちは主体として社会という客体(対象)を研究している」という考え方は、従来の社会学が抱えてきた認識論的障害だったと言ったのは社会学者の二クラス・ルーマンでした。彼にとっては、社会を研究する社会学者がまるで社会から一歩飛び出して記述しているような感覚があったわけで、上の箇所が指摘することと近いように感じます。


■ 科学哲学では、世界の見方について以下の2つの立場があった。1つは、私たちの認識の外に客観的な世界の存在を認める立場で、主体(観察者)と世界(対象)を切り離して考える。そのため、量的研究が近いといえる。それに対してもう1つは、私たちの主観から独立した客観的な世界の存在を前提としない立場で、「言葉」を用いて意味づけする限りで世界を構成すると考える。そのため、質的研究が近いといえる。 (pp.244-245)


■ このように立場(価値観)が異なる量的研究と質的研究は、「共約不可能性」(パラダイムの違い) があるため、このままでは組み合わせることはできない。しかし、「構造構成主義」の考え方を用いれば組合せることが可能となる。 (p.247)


■「構造構成主義」では、研究者の「関心相関性」によって、量的か質的のどちらを選択するか決定される。 (p.247)

⇒先日ゼミの先生と話したことだが、「量か質か」という問いかけではなく、「いかに読者を知的に納得させるか」と考え、そのために質を選ぶか量を選ぶかは結果的について来るものとのことだった。ただし、なんでもかんでも量や質を組み合わせてよいというわけではないので、構造構成主義の以下の考え方は理解しておく必要がある。以下、直接引用。

構造構成主義は、すべての現象には、その現象を成立させている構造と秩序が存在し、科学の目的は、言葉または記号を使って、現象を成立させている構造と秩序を抽出し、一般化可能な知識を獲得することだと考えています。そしてこの目的は、量的研究と質的研究に共有可能なものだと考えています (西條, 2005) 。ここでの一般化とは、客観性を前提とした一般化ではなく、共通了解可能な知識を獲得することという意味になります。 (pp.248-249)

⇒共通了解可能な知識、という言葉づかいは、現象学でも用いられていた。現象学の発想は質的研究にやはり影響を与えているのだろう。

■ 量的研究と質的研究は、上で述べたように、異なる前提にたっていた。そのため、両者が共存するためには、共通の土台が必要となる。本書は、それを科学的論理性としており、演繹法や帰納法がもつ課題を自覚しておくことの重要性を指摘している。特に帰納法が抱える自然の斉一性原理問題は、カール・ポパーの「反証主義」によって一定の解決をみた。 (pp.249-250)

⇒特に、帰納法が抱える問題については、バートランド・ラッセルの『哲学入門』 (Problems of Philosophy) が参考になる。(参考:On Induction

簡単にまとめると、帰納法が成立するためには、「自然の斉一原理」が必要である。「自然の斉一原理」とは、過去に起きたことが同様に今後も起きるという原理である。ただし、この原理を証明するためには、帰納法を用いなければ成らない。つまり、帰納法と斉一原理は循環証明の形になっているため、厳密に証明することはできない。

■ 構造構成主義は、科学性を保つために質的研究者がすべきこととして、以下の2点を指摘している。 (p.315)
(1) 現象を構造化する (「構造」とは、ことばとことばの関係式であり、ある現象を記述することを指す。)
(2) 構造にいたる軌跡を開示する (→「データと分析プロセスの開示または明示」参照)


■ カール・ポパーが述べた「反証主義とは、設定された仮説が、反証されなかった場合には、その仮説は成立するという考え方」 (p.250) で、原理的に反証できない仮説は科学的論理性が認められないと主張する。

⇒たとえば、「あなたが今現実だと思っているこの世界は、実は夢である」というのはどうだろうか。もしかしたらそうかもしれないが、これを反証することは原理的に不可能なはずである。 (映画『マトリックス』の問題と同じですね。) したがって、上の夢に関する仮説はそもそも科学的に認められないこととなります。それに対して、「学習者は、翻訳をすることによって、言語体系の違いに関する気づきを述べる」という仮説であれば、実際に実験することによって反証することは可能なため、一応仮説としては成立するはずです。

■ 質的研究が科学であるためには、(1)「厚い記述」、(2)「リフレクション」、(3)「データと分析プロセスの開示または明示」が必要である。 (pp.252-255)

(1) 厚い記述
・実際に起きた現象(歴史)は動かせないものと考え、その現象を相手が納得できるように良心的に記述する必要がある。こちらも直接引用。

現象は一回起性であり、刻々と移り変わっていきます。相互作用を通じて表出・交換・更新された意味は、「その場」に保存することができません。そこで質的研究では、言葉による記述によって、現象の移り変わりを写し取り、現象をデータ化します。調査者は、言語データから表出・交換・更新された意味を再構成すると同時に、現象を成立させている構造と秩序を抽出します。 (p.253)

⇒ひょっとしたら、質的研究の記述もGrice の Cooperative Principle ( Maxims of Quality, Quantity, Relevance, and Manner) があてはまるのかもしれません。すなわち、相手が理解するために必要な量のデータを出し、そのデータに偽りがない前提で、読み手にとって関連のある情報のみを出し、適切な言い方を心がける。当たり前のことを言っているのかもしれませんが(笑)、いざ記述してみると難しかったので、データ記述の際にこの視点はもっておくようにしたいと思います。

cf) 「厚い記述」と対比して「薄い (お手軽な) 記述」を理解すると良い気がする。佐藤 (2008) の第1章では、「薄い記述」には以下の7パターンがあることが示されている。これらは、Maxims のいずれかを破っていると考えられる。
①読書感想文
②ご都合主義的引用型
③キーワード偏重型
④要因関連図型
⑤ディテール偏重型
⑥引用過多型
⑦自己主張型

また、佐藤氏は分厚い記述が「WHAT」や「HOW」だけでなく、「WHY」も扱うべきと述べる。
分厚い記述というものは、本来、ある物事や出来事が「どのようなものであるか」「どうなってるか」という、主として記述に関わる問いに対する答えだけでなく、「なぜ、そうなっているのか」という、説明に関わる問いに対してきちんとした答えを提供しようとするものである (佐藤, 2008, p.13)



質的データ分析法―原理・方法・実践
質的データ分析法―原理・方法・実践佐藤 郁哉

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(2) リフレクション

・リフレクションとは、「分析をする調査者が、どのような関心を持って、どのように調査に関わりデータの分析をしたのかを記録すること」 (p.253) である。量的研究は数字によって議論の妥当性を示すことができるが、質的研究は調査者のリフレクションが代わりとなる。

⇒したがって、フィールドノーツや分析ノートをこまめにつけることが超重要となる。(焦)

(3) データと分析プロセスの開示または明示

・質的研究では、なぜそのような分析に至ったかを読者が納得できなければ議論が受け入れられない。したがって、「どのように」「何を」分析したかを論文中に示す必要がある。

→ここが不透明だと、さすがに読者は納得できないですね。ただ、実際に卒論を書いたとき、どのような分析プロセスをしたか、という説明はすごく難しく感じました。分析しながら自分が感じたことは、(2) のリフレクションで指摘された通り、細かくメモをしておくことが重要ですね。


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本書はそのあと、第18章でKJ法、第19章でGTA(グラウンデッド・セオリー・アプローチ)の解説を行っています。特に第19章は、自分にとってはこれまで読んだ概説書の中では非常にうまくまとまっているように感じました。修正版グラウンデッド・セオリー・アプローチの認識論的前提が現象学的発想に基づいていることも示唆されており、自分の研究の立場に合うように感じました。修正版グラウンデッド・セオリー・アプローチについては、以下の木下氏の書籍がもっとも良いそうで、早速購入しました。


ライブ講義M-GTA 実践的質的研究法 修正版グラウンデッド・セオリー・アプローチのすべて
ライブ講義M-GTA 実践的質的研究法 修正版グラウンデッド・セオリー・アプローチのすべて木下 康仁

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本書を読んで、今日はもはや質か量かという二項対立は通用しないということ、そして、両者が前提とする認識論的前提を考慮したうえでお互いが納得できるように歩み寄るべきということを感じました。以前、中国地区英語教育学会で、卯城先生が「今日の英語教育学会で、質的研究の中ですごいものはまだない」という趣旨の発言をされていました(メモのため正確ではありません、ご容赦ください)。近年は質的研究が少しずつ広がっていることは事実なので、研究者である私たちが被害者意識で「質も大事だ!」と叫ぶのではなく、いかに歩み寄るかが議論されるべきかもしれません。本書はそのための一歩として大変意義があるように思えます。


どうぞ、質的研究を考えていらっしゃる方はご一読をお勧めします。また、本書の量的研究の説明はまだ完全に目を通しておりませんが、こちらも分かりやすそうなので日を改めて通読したいと思います。

さて、教採勉強に戻ります(汗)。

(追記)2014/08/20
タイトルの水本先生の漢字が誤っておりました。大変失礼いたしました。

2014年7月8日火曜日

やまだようこ(2007)『喪失の語り』新曜社


毎週木曜日5コマに、「探究勉強会」を開いています。これは、英語教育と初等言語教育(国語・外国語活動)の有志で企画しているもので、お互いの関心のあるテーマをできるだけ他者に分かりやすくプレゼンテーションしながら、討議を行うというものです。


これまでは、ユング心理学、翻訳、社会学(道徳性)、日本文化と西洋文化の比較、といったまじめなものも行ってきましたが、旅行や映画といった趣味の話もあり、個人的にはとてもリラックスして参加できる勉強会として楽しませてもらっています。しかも討議も各々の視点が独特なため、毎回時間が足りなくなるほど盛り上がります。(個人的には1週間の中でも癒してきな存在かつ知的刺激を受ける場なので、本当に充実していると思います。)


そんな探究勉強会ですが、もともとはやまだようこ先生の『喪失の語り』という本の輪読と討議をベースにした読書会を行っていました。以前からまとめようと思っていたのですが、質的研究の勉強をするにつれて、改めてやまだようこ先生のご姿勢から多くを学ぶべきと思い、今回は『喪失の語り』からナラティヴ研究、質的研究、などに関わる点を中心に、それと本書のテーマである「喪失」について、簡単なまとめをさせていただきます。


喪失の語り―生成のライフストーリー (やまだようこ著作集 第 8巻)
喪失の語り―生成のライフストーリー (やまだようこ著作集 第 8巻)やまだ ようこ

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なお、本記事は勉強会で使用したまとめノートやレジュメを基にしております。討議では自分のレジュメの記述について質問や批判をしてくれた友人たちのおかげで改良することができました。ここに感謝申し上げます。


■「語る」ことと「喪失する」こと

経験をことばで語ることはとうていできない。不可能といってもよいかもしれない。流れ去っていく川の水を小さな手で掬い取ろうとしても大部分がこぼれてしまう。掬った水をバケツに入れても、すぐに死んで濁ってしまうから、さらさらと流れていた川の水とは似ても似つかぬものになってしまう。 (p.14) 
語ることは、それ自体が「喪失」を経験することである。 (p.15) 
ことばが人と人とのコミュニケーションの道具であることは確かである。しかし、ことばで伝えられないものもそれ以上に大きい。…はじめから語ることの不可能性や喪失を自覚しているといったほうがいいかもしれない。 (p.15)


語りという行為にはそもそも喪失がつきまとう。それは、頭の中で考えていることすべてをことばによって表すことができなからである。たとえば、自分がなにか文学を読んでその解釈を伝えるときも、自分がイメージをしたことをそのまま相手に伝えられれば良いのだが、実際にはそううまくはいかず、ことばにすれば自分のイメージは変ってしまう。

あるいは、現在修士論文の一環でインタビュー調査を行っているが、インタビュー協力者が頭の中で考えていることすべてがインタビューデータに反映されているとは到底思えない。もちろんインタビュアーとしての自分の力量のなさもらうのだが、頭の中で考えたことをことばにするときは、やはりどこか抜け落ちてしまうものがあるように思える。(だからこそ文字データを見ながらとことん解釈したりフォローアップインタビューを行ったりする必要があるのだが。)


■物語

物語とは、「(私たちが)経験に意味を付与する様式」なのである。 (p.51)

ブルーナー (Bruner, 1986) によれば、物語モードは、論理-実証 (パラダイム) モードとは区別される。論理-実証モードは、論理的に生み出される原則や観察可能な仮説を、観察された事実によって検証する、科学的心理学が範型としてきた様式である。 (p.51) 

→割り切れる (ration) ことのみを扱おうとする科学に対して、割り切れない (irrational) ことをも扱おうとする物語。物語で重要なのは「その出来事をどのように認識しどのように感じ意味づけるかが問題である (p.52) 」ため、ある意味全てのことが研究対象となりうる。現に、「喪失」について量的統計をとる調査もあるが、個々人のもつ複雑な感情や背景情報を汲み取ろうとすれば、必然的にインタビュー調査となり、協力者の語りを頼りにするのではないだろうか。


・物語の3要素 (p.54)
他の人を「私 (たち) 」にかかわらせる行為 (engagement) 
私の世界に巻き込む行為 (involvement)
コミュニケーションによる共同行為 (joint action) 
→物語によってカタルシスの解放という効果もあるだろう。つまり、語る主体が変容する。しかし、それだけではなく聴く主体も変容されるのかもしれない。


■語りの生成力-他者のことばを自分のことばで語りなおす

このように時間をへて、「もう一度、想い出す」行為は大変重要で、他者のことばを「腹話」して自分の声で「語りなおす」行為になっている。「腹話」とは、バフチン (Bakhtin, 1981) の「言語のなかの言葉は、なかば他者の言葉である」という考えを拡張したワーチ (Wertsch, 1991) の概念で、他者の言葉を対話的に自己の内に響かせて自分の声に変えていくプロセスをさす。 (p.58)

⇒翻訳で行うこともこれに近いのではないか。他者 (原典、起点テキスト) のことばを自分の声 (目標テキスト) で語りなおす行為こそ翻訳である。

⇒(追記)最近、学習塾でのバイトで、高校生には「受験訳」と「要するに訳」の2つを書かせるようにしている。つまり、受験問題として正解をもらえる正確・原典忠実な訳(受験訳)はもちろん作成できるようになってほしいが、それ以上に英文が言っていることを自分の言葉で、簡単で短くて良いので言い換える(要するに訳)力をつけたい。これによって、学習者が自らの腑に落ちる日本語を用いて英文内容を表出したり、日常経験などとつなげて理解したりすることを期待している 。


■喪失はマイナスの経験としてのみならず、成熟をもたらすプラスの経験としても機能しうる。

従来の心理学 (フロイト、ボウルビィ、パークス、キュブラー・ロスら) では喪失をマイナスの経験としてみなすパラダイムの下にあったといえる。そこでは、喪失を喪の作業によって受容し、回復することが主眼とされた。

しかし、喪失は、常にマイナスの経験だろうか。確かに「二人称的死」は、劇的な喪失体験であり、人生に危機をもたらす出来事 (life event) である。だが、生涯発達的にみれば危機は、生の意味が問われ、生活が再構造化され、人生を変容させ、成熟をもたらす発達の契機にもなるのではないだろうか。 (p.81)

読書会でも話題となったが、喪失からわたしたちは学ぶことができる。大切な人を亡くしたり、友人が自分のコミュニティからいなくなったりしたとき、私たちは心にぽっかりと穴があいたと感じる。しかし、その穴を埋めようとしたり、穴のおかげで今あるものの大切さに気づいたり、喪失によって私たちは新たな何かを得ることも経験的に理解しているのではないか。換言するなら、「教育機能」(p. 106) が喪失体験にはある。


■ 時間による喪失への対処

私たちは日常、「時間が癒してくれる」「時間をおく」「ねかせておく」という言葉で、喪失に現実的に対処している。しかし、ここで「時間」といわれている中身は何だろうか。ただ単に物理的時間が過ぎていけばよいということではないだろう。時間をおくことによって、心理的に何が起こるのかを見ていかなければならない。森 (1978) がいうように、「経験」は、刻々の「体験」とは区別される。経験とは、時間のなかでの結晶化作業、時間を経て自分の中で出来事を再構成する作業である。 (p. 83)


時が熟すことで、私たちは喪失から回復し、さらに新しいなにかを生成する。だから、心に傷を抱えた時も、心療医は特効薬を処方することはない。むしろその人の語りに耳を傾け、時間と共に当人が頭の中で整理をしたり、無意識が喪失を乗り越えたりするのを待つだけなのかもしれない。


ただ、時間が過ぎるのを待つだけでは乗り越えられないかもしれない。多くの人は、通過儀礼としての喪の作業を行うだろう。著者は以下の2つに分類している。

(1) 「象徴化作用」: 「死者」の追悼や記憶を形に残す、過去の愛着を残す、「内化」、「意味化」
(2) 「移行のための緩衝作用」 : 「生者」が危機的事態から抜け出す、離脱、「回復」「適応」

たとえば、ハリーポッター「死の秘宝」で、ハリー一行がベラ (敵) のもとから抜け出す際にドビーが死んでしまったとき、ハリーは「魔法の力ではなく、自分の手で埋葬したい」と語り出す。このときの彼の喪の作業には象徴化作用が強いのかもしれない。あるいは、生きている者が危機的事態から抜け出すために亡くなった人との思い出に関する品物を捨てたり壊したりするかもしれないが、それは(2) の移行の為の干渉作用に入るだろう。


■ 質的研究で重要と思われる視点のまとめ

・語りのデータは、生で語られたもののみならず、文学などの作品も含まれる。両者は相補的に活用される。
人生と深く切り結んで、ぎりぎりの表現に結晶する芸術は、日常生活ではいいかげんに妥協してしまう感情表現をとことん形にして見せてくれる。研究者と芸術家は表現方法としては極限の際に立つが、「とことん形にする」メビウスの輪で結ばれている。 (p.147)

・ナラティブ研究では誰が語るか、という点だけではなく、「誰が聴くか」という部分が重要ではないか。あるデータも数多の解釈方法があるわけで、語りに沿って丁寧に分析をすることでさらに深い考察へ進む。

・データの選定が恣意的にならず個人差があまり出ないように、組織的事例選択をする必要がある。また、データが典型性・代表性をもつ事例が好ましい。 (p.158)
※ 組織的事例選択:同一人物の複数の状況を複数名分データ収集し、比較検討しやすい形で分析できるようになる。 (p.156 参照)

・研究者の視点や解釈を取り入れた分析および仮説

① 研究者が単に外側からの分析におわらず、語り手の心理の内側に入り込んで推測を含んだ心理状況を分析すること。
② 語り手の内側に入り込んだ分析を、同じ記述言語で表現することによる、トートロジーや検証・再現困難性
③ 一つの仮説の中に「事実」と「解釈」「考察」を混合して入れたり、複数の意味を含んだ長い仮説を提示する問題。 (pp.159-160)

・先行研究からの発展 (仮説の検証・修正を基に生成継承的に発展) 

① 新テクストによる事例の追加と仮説検証
② 修正仮説の提示
③ 修正仮説による先行テクスト事例の検討 (p.154)

→既に先行研究によって提出された仮説に関して、後続の研究者は別の事例を用いて仮説検証を行う。すると、新たなテクストでは先行研究の仮説を修正する必要があるだろう。その際は仮説を修正し、修正仮説を用いて先行研究で出されたテクストを再分析する。これにより。先行研究の仮説が継承されつつ新たなものを生成する、という生成継承性がはっきりと研究方法自体に現れるようになる。

⇒特に③の段階は忘れてしまいがちだが重要であろう。 (個別事例にのみ当てはまるという批判に耐えるためにも、質的研究ではこのような手順を取るのが好ましいかもしれない。)




データ分析をしながら、改めて質的研究の所作が身についていないと実感します。最近、佐藤郁哉先生の以下のご著書を用いて勉強しなおしていますが、とても分かりやすくまとめられています。(また時間ができれば、この本もまとめを載せたいと思います。)



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さて、そろそろ研究に戻りましょう。(笑)

教採を受けられる方は頑張ってください~。

2014年7月1日火曜日

「日本における英語教育の現状と課題」のまとめ&感想

2014年6月29日 (日) 、獨協大学で開かれたシンポジウム「日本における英語教育の現状と課題」(獨協大学創立50周年記念事業外国語教育研究所第4回公開研究会)に行ってきました。

江利川先生、斉藤先生、大津先生、鳥飼先生、という「4人組」によるシンポジウムが開催できるのは、今年度でこの日だけだったそうで、とても貴重な機会に参加できたと思っています。当日は700人の参加で、後のレセプションでもたくさんの方々が参加されていました。

※上の先生方の昨年のシンポジウムについては、以下の記事をご覧ください。

参考記事:「英語教育、迫り来る破綻」のまとめ&感想


今回のテーマは「英語教育目的論」に絞られていました。おそらくこの背景には、昨年のシンポジウムの質疑応答で目的論に関して議論が足りないという発言が先生方から出たことにあるのではないかと邪推しております。また、寺沢先生の『「なんで英語やるの?」の戦後史』にも以下のような記述があります。

その意味で、現代の英語教育の目的をあらためて構想するうえでは、哲学的・倫理学的な検討が不可欠である。もちろん「哲学」と言っても、「人生哲学」のような人生論の類ではない。英語教育への「熱い思い入れ」だけを唯一の糧にして、人正論的な「べき論」を披瀝するような研究者・英語教師にはそもそも困難な仕事だろう。むしろ、この種の研究は、教育哲学にも関心のある研究者・英語教員・学生に期待したい。...
重要な点は、「英語はそもそも何のために教えるのか」という「本質論」に踏み込まないことである。なぜなら、そのように「本質」をあらかじめ決め、天下り的に目的を導出するやり方は、その「本質」から遠く離れた場所にいる人々にとって、合意不可能なものになるからである。 (寺沢, 2014, p.255)

これを踏まえれば、英語教育目的論の議論は、短絡的な「べき論」「本質論」ではなく、冷静かつ複眼的な「対話」としての議論が求められると言えるでしょう。この意味で、4人組の先生方は同じ方向を見ていても先生方の視点や専門分野が異なるため、大変面白く聞かせて頂くことができました。

以下に当日のまとめを掲載します。ただ、より詳しい議論をお知りになりたい方は、同日発売のブックレットをご参照ください。(自分も帰りの飛行機で読みましたが、今回のシンポジウムの発表内容がまとめられており、聞き逃した点もカバーできました。)特に、内田先生と鳥飼先生の対談企画については、英語教育、翻訳、コミュニケーション論、といった多くの分野を跨って語られており、大変読み応えがありました!


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cf) そういえば、昨年の大学院入試はこのブックレットの内容が多く出ていましたね~(笑)英語教育界でホットな話題が多く紹介されていたので、今年英語教育の大学院を受験される予定の方がいらっしゃれば、目を通しておくとお得かもしれませんね (^^)


なお、
「・」:当日の先生方の発言やスライドの文言(できるだけ忠実に)
「→」:先生方の発言を受けて、自分が考えたこと(できるだけ我流に)
ページ数:特に指定がなければ、上のブックレットをさします。

(追記)2014/07/01
「○○な英語教員に、おれはなる!!!!」というブログでも上のシンポジウムに関するレビューがされています。(さんだーさんの記事は昔から読ませて頂いていて、いつも記事の質の高さに感銘しております。)内容が非常に詳しく、当日の雰囲気もよく伝わってきますので、ぜひこちらもご覧ください。

「日本における英語教育の現状と課題」(獨協大学創立50周年記念事業 外国語教育研究所 第4回公開研究会)

江利川春雄先生「学校の英語教育は何を目指すべきなのか」


■誰のための英語教育?

・日本の学校英語教育(以下、英語教育)は、誰のためのものだろうか。たしかに英語が必要な社会人は全体の1割程度という研究結果もあるが(ブックレット参照)、「国民教育」として英語を教えるなら、当然「国民全員のため」という答えになるはずである。

・グローバル人材育成、といった文言には、一部の能力の高い人への期待が込められているのかもしれない。

・他にも、塾に行っている子の法が成績が上がっている、中下位層が下落傾向にある、という事実から、本来「国民全員のため」の英語教育が、エリートのみを対象としつつあることに目を向けるべきである。

■英語教育はすぐに使える力(スキル)のみを育成するわけではない。

・教育の目的である「人格の完成」を鑑みれば、英語を教えることは生徒の人格形成に寄与しなければならない。であればスキルのみ、という視点ではもはや通用しないのではないか。

cf) 現代外国語教育に関するユネスコ勧告 (1965) には、以下のような文言がある。英語教育はたしかにスキル重視かもしれないが、スキルのみではないことがここから明らかである。

[8] 外国語教育の目的 [aims] は、教育的であると同様に実用的である。現代外国語学習のもたらす知的訓練は、その外国語の実用的使用を犠牲にしてなされるべきではない。他方、その実用的運用がその外国語の言語的特徴を十分に学習することを妨げてもならない。
[9] 現代外国語教育はそれ自体が目的 [an end] ではなく、その文化的及び人間的側面によって学習者の精神と人格を鍛錬し、よりよい国際理解と、民族間の平和的で友好的な協力関係の確立に貢献すべきである。

・英語教育の目的には、思考力や感性といった基盤づくりも含まれるべきである。

■実践としての協働学習

・競争と格差が今日の英語教育にみられるが、それでは子どもは育たない。

・むしろ、自分が仲間の役に立っている感覚が居場所間、自己肯定感を育てるのではないか。(そうすればいじめも減るかもしれない。)



斉藤兆史先生「英語学習・教育の目的」


■小学校英語教育の必修化・教科化

・母語習得が阻害されない程度で英語教育が可能なら、もちろんやったらよい。しかし、現実的にそれができなさそうだから反対の立場を斉藤先生は取られている。つまり、完全な反対派ではない。(そもそも、完全な反対派などいないかもしれないが。)

・ピアノの喩え

たとえば、A村とB村があるとする。A村では1人の子どものために、ピアノが弾けない大人が100人がかりで教える。しかしA村の子どもはピアノを弾けるようにならない。それに対して、B村では1人のピアノが弾けるおとなが100人の子どもを教えて弾けるようにする。したがって、A村は①ピアノを弾ける大人を育てる、②ピアノを弾ける大人を連れてくる、③子どもをB村に連れて行く、といった選択肢しか用意されていない。ピアノを弾けない大人が子どもに教えたとしても、(そしていくら子どもが目を輝かせていたとしても)それは子どものためにはならない。

→『英語教師夏目漱石』という書籍でも、漱石が英語教師として優れた英語力を有していたことが強調されていたが、究極的に英語を教える者としての力は、その人がどれだけ英語に精通しているか、という点にかかっているかもしれない。(参考記事:「英語教師夏目漱石」

■「英語の授業は英語で」

・100のクラスがあれば100通りの授業がある。その中には文法が得意な学習者も教師もいるはず。だから、授業のやり方まで上から縛ることはすべきではない。

・母語を土台にした英語教育というのも可能ではないか。現に難解な構文の英文を解釈するなら、ある程度の母語によるやり取りも必要である。

・Guy Cook によれば、訳は禁止したとしても頭の中で行われる過程だから、禁止しても仕方ない。

・私たちが考えるべきは、日本語を禁止することではなく、効果的な日本語の使用を探究することである。

→しかし、「効果的な日本語の使用」をはっきりと定義することはできない。自分の翻訳に関する研究が「効果的な日本語の使用」の探究の一助となれればよいと感じた。

・ものをきちんと読んで考えることができなくなっているのではないか。例えば難しい英文をじっくり読んでじっくり考えるという作業は失われているかもしれない。

→概要・要点を重視する英語教育のみではたしかにこのような力はつきにくいかもしれない。もちろん概要・要点を得るための読み方も戦略として必要だが、上のような精読的読みも必要な気がする。

■英語学習の目的は人それぞれ

・昨年のシンポジウムの質疑応答でおっしゃった部分が改めて強調されていた。

・英語学習の目的は人によって当然異なる。ある生徒は「翻訳家」になりたいだろうし、他の子は「パーティーでペラペラ会話する」、「海外旅行に行く」、という目的がある。これらを一律に固定することは不可能である。

・したがって、学校英語教育は個々人がそれぞれの動機に基づいて後々必要な英語力をつみあげるための基礎を授けることを目的とすべきではないか。



大津由紀雄先生「母語と切り離された外国語教育は失敗する:日本の学校教育における英語教育の目的を探る」



■英語教育の目的

・学校英語教育の目的は、母語に対する気づきの発達を支援し、それによって、母語を効果的に運用できる力を増進させることである。

・その背景として、母語の日本語を運用できない人が増えていたり、外国語をきちんと使いこなせない人が多かったりする点が挙げられる。

・諸外国では "Language Arts" という形で、母語での気づきの教育を行っているが、日本ではあまり盛んに行われない。

・大津先生が「ことば」の視点を強調すると、「最近の若者は言葉がなっておらん、というお説教と同じだ」と思う人もいるが、それは違う。言語と思考には何らかの関係があるため、ことばを使うということは思考を整理(メタ認知)したり外部化(表現)したり、あるいは文化の伝播・伝承をしたりすることに関わる。単に日本語が乱れているという議論以上のことを言っている。

→この指摘はとても重要だと思った。翻訳重視や母語重視の立場に対してはこのような批判は容易に行われるだろうが、「日本語を正しく使いましょう」ということを言っているわけではなく、母語を使うということの意味を説明できるようにすべきだと感じた。

・母語という礎なしの外国語運用力はハリボテの英語力である。

→岐阜大学の寺島先生であれば、「英語バカになるな」といった言葉でおっしゃるかもしれない。ブックレットにも発音がきれいだが中身のない英語しか話せない学生の例が挙げられているが、そのような人は現に多いと思う。「母語を耕す」という作業は必要であろう。

・「ことば」の基礎という視点が欠落している英語教育論には、「ことばへの気づき」概念が必要。つまり、母語を使ってことばの性質にきづかせるということである。その際、英語という特定の言語に偏る必要はない。

→ドイツ語を学び始めて一年になるが、いまだに日本語との違いが見つかる。このような違いによって、再び自分の日本語体系は変容するだろうし、自分のことば体系も変容するだろう。言語学習が生きている限り一生続くことばの変容の過程だとすれば、母語以外の言語との接触によって改めて自分の母語体系と外国語体系が区別され、ことば体系が変容されるのだろう。

→大津先生はこの「ことばへの気づき」について、これまでよりも議論が進んだとおっしゃっており、具体的には「英語教育と母語教育(国語教育)は言語教育として本来一体であるべきだ」という点に踏み込んでいる点が違います(p.82)。 たしかに、awareness や noticing といった概念との区別が難しいかもしれませんが、「ことばへの気づき」という視点は大変重要なもののように思えます。また大津先生のゼミ生が執筆した修士論文のリストもブックレットに紹介されているので、「ことばへの気づき」概念を援用した研究をされる方は是非チェックするべきだと思います。今後の「ことばへの気づき」概念に動向も注目しておきたいです。



鳥飼玖美子先生「なんで英語の勉強すんの?」


■学習者の視点からの英語教育目的論
・鳥飼先生は、これまでの3名の先生方の意見に賛同しつつ、学習者の視点に立って英語教育目的論を整理する。

・会津市の中学生からの意見で、「なんで英語やるのか」という疑問が中1段階から多く上がっていた。このような質問には大人も答えられない。

・中津 (1974) の『なんで英語やるの?』には「世界共通の英語をしらなければ不便だから」という答えが用意されていた。鳥飼先生はこれをさらに発展しようと、岡倉由三郎の『英語教育』や平泉議員の「英語選択科目化」などを紹介された。(くわしくは、鳥飼先生の新刊『英語教育論争から考える』をチェックしたらよいかもしれません。)

・鳥飼先生の議論は以下の図に集約されます。



→この図の指摘は本当に重要だと思います。英語教育が技能教科のみではない、という上の3名の先生方の議論をより具体に述べています。この図の根本には、そもそも分かり合えない「他者」の存在が前提されており、いかにしてわかりあうかという平田オリザ氏の主張に通じるような気がしました。

cf)関連記事:言語教育における「他者」

cf)関連記事:平田オリザ「わかりあえないことから」

・異質な他者と対峙したとき、私たちはどう対応できるか。英語教育で重視するのは、他者との対話能力ではないか。すなわち、分かり合えない他者と言語を用いて「何とか」コミュニケーションしようとする能力を伸ばすのが英語教育ではないか。

→平田オリザの「会話」と「対話」の説明を借りると、英語教育ではもちろん仲良しの友達とおしゃべりをする力(会話)も必要かもしれませんが、考えや価値観が異なる他者と関係を築いてお互いの意見を一致させなくとも、刷り合わせようとする力(対話)こそ必要なのかもしれません。

→さらに敷衍させれば、翻訳とは、分かり合えない他者のことばを自分の言葉に変換したり、他者に分かってもらえるように他者のことばを言い換える営みと言えるかもしれません。

・自分の主張ばかりを述べる力だけではなく、相手と折り合いをつける力も育成すべきではないか。

・英語スキルのみを重視するだけではない。小学校外国語活動の学習指導要領には、「コミュニケーション能力の素地を養う」とあるが、それで良いのではないか。

・日本国内でもグローバル化が始まっている。(内なるグローバル化)

→そもそも外国人のみが他者なのではない。他者は私たちの身の回りにもちろん存在している。自分のことを100%わかってくれていると思っている友人ですら、急に他者として目の前に現れうる。他者といかに分かり合えるかというテーマが自分の目下の関心の1つなので、この点について提起された鳥飼先生の発表は大変刺激的でした。

■子どもの「英語はどうして学ぶの?」という質問に、どう答えるか。

・最後に鳥飼先生なりの上の問いへの答えが示されました。

外国語は、異文化をのぞく窓。外国語を学ぶと、見える世界が広がる。母語以外の言語を学ぶと自分の言語と文化が分かる。異言語や異文化を知ると、楽しいし面白い。自分自身の世界も豊かになる。だから英語を学ぶ。

→自己変容を伴う外国語学習については、藤本先生の『外国語学』でも述べられていました。(参考記事:藤本一勇(2009)「外国語学」ーなぜ外国語を学ぶかー

→鳥飼先生の子どもの視点の議論は、とても説得力がありました。改めて、「4人組」の先生方のバランスがきれいだと感服しました。


質疑応答(一部抜粋)

※以下、発表された先生方の敬称略しております。ご了承ください。

■「英語は英語で」について

江利川:医療界では、同じ薬をすべての患者に配ったりしないではないか。しかし、教育現場では同じ方策をトップダウンに一律に行っている。目の前にいる子にとって最善の方法を取るための余白は必要。

斉藤:必ずしもオールイングリッシュの授業が悪いとはいえない。効果的な授業もあるし、そういうものはまったく問題ない。大事なのは目の前にいる子どもが理解できる限りで質のよい英語を聞かせること。目の前の子たちにとって最も良い授業をすればよい。

大津:先生が最初から最後まで全て英語で授業する、というわけではないことを改めて強調すべき。英語で授業を全て展開するだけが趣旨ではない。



■ 今後求められる英語教師
斉藤:臨機応変に行うことができる教師が必要である。長文を英語で読む授業をしたあと、どうも文法構造の理解が怪しいと感じたら、日本語で文法構造の説明をする、ということも必要のはず。目の前の子どもに合わせて指導できる臨機応変性がこれから求められる。

鳥飼:今後、児童英語を専門とする教員を育成する必要がある。ことばを使うという視点から教育課程を見直すべきではないか。

江利川:現在の国立大の教員養成課程では削減が行われているという実態があるが、その中でもできることをすべき。

斉藤:教員養成課程では方法論を多く教えるが、英語自体の勉強がもっと必要ではないか。

大津:教員養成課程では、「ことば」をもっと意識する必要がある。




まとめ・感想


■英語教育目的再区分

以前、英語教育の目的論について当ブログで記事を書いたときに、便宜的に以下の区分を用いました。(参考記事:(第5回英語教育ブログ、みんなで書けば怖くない)なんで英語なんか勉強しなくちゃいけないんですか?



この図でいうと、江利川先生や大津先生は(1)の制度面に多く言及されており、斉藤先生や鳥飼先生は(2)や(3)の面について多く言及されていたように思いました。「4人組」としての意見をあえてこの図にしたがってまとめてみると、

(1) 制度としての英語教育目的:スキル重視のみならず、母語を礎としたことばの教育の一環。

(2) 教師としての英語教育目的:(各教師が持つべき)

(3) 学習者としての英語教育目的:学習者ひとりひとりが自分なりの目的を持てばよい。そのための基礎部分は、学校で教えてくれる。

となるでしょう。

(2)の点については、自分個人的には

(2) 教師としての英語教育目的:他者という本来分かりえない存在に少しでも近づくため。

と書きたいところです。


■目的論は本質論ではない。

もう一度、冒頭の寺沢先生の引用箇所をご覧ください。

重要な点は、「英語はそもそも何のために教えるのか」という「本質論」に踏み込まないことである。なぜなら、そのように「本質」をあらかじめ決め、天下り的に目的を導出するやり方は、その「本質」から遠く離れた場所にいる人々にとって、合意不可能なものになるからである。 (寺沢, 2014, p.255)

今回の「4人組」の先生方のご講演を踏まえれば、「母語を教えるために英語を教えるのだ!それしかない!!」とか「スキルよりも人間性ですよね~。ヒューマニズム、行け行けドンドン!!」と合点することもできます(笑)。しかし、それが今回のシンポジウムのまとめだとすると、少し悲しい気もします。むしろこのシンポジウムやブックレットを踏まえた私たちが次は英語教育の目的を語り続ける必要があるのかもしれません。

社会学者のニクラス・ルーマンが「コミュニケーションについて、私たちはコミュニケーションを続けなければならない」という趣旨の発言をされていますが、これと同様に英語教育目的論も語り続けることで発展するのではないでしょうか。途中で思考停止をして「とりあえず英語を教えておけばよいか」となれば、アーレントのいう「凡庸な悪」とか「アインヒマン」となってしまう危険もあるのではないでしょうか。あるいは、4人組の先生方のご意見をただ復唱するだけでもなく、自らの英語学習歴や教育歴を振り返って、自分なりの英語教育目的論を構築しながら語り、語りながら変容させて、少しずつ発展していくのでしょう。進化に終わりやゴールがないように、コミュニケーションにも終わりはありませんし、英語教育の目的についてのコミュニケーションも同様でしょう。

と、現場も社会も何も知らない大学院生が言うのはどうかと思いますが (汗) 。


■最後に

しかし、改めて本シンポジウムに参加することができて本当に幸せな思いでした。レセプションでは英語教育の関係者の方々とのみならず、一般企業の方ともお話でき、非常に充実した時間を過ごさせていただきました。また、斉藤先生から自分の研究に関して大変温かい言葉をかけていただき、改めて今後の研究へのモチベーションが上がりました。

また、「目の前の子どものために」ということばを聴くたびに、「まだまだ自分には教師としての英語力、指導力、人間性、感性...と、どれをとってもまだまだ」と実感しました。勉学に勤しまなければ。ということで、明日の大学院の課題に取り組みたいと思います(笑)。


長々と読んでいただき、まことにありがとうございました。



「なんで英語やるの?」の戦後史 ——《国民教育》としての英語、その伝統の成立過程
「なんで英語やるの?」の戦後史 ——《国民教育》としての英語、その伝統の成立過程寺沢 拓敬

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