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2014年7月31日木曜日

ランドル・コリンズ 著. 井上俊・磯部卓三 訳(2013)『脱常識の社会学 第二版』岩波現代文庫

こんにちは。ご無沙汰しております。Ninsoraです。落ち着いてきたので、久しぶりにブログを更新しようと思います!

今回ご紹介する本は、社会学系の本の入門書です。読みやすさ、内容の面白さ、洞察の深さは、最近読んだ本の中では間違いなく一番です。この本を読んでから、ここに書かれている視点で物事を考えるようになってしまうぐらい、見え方考え方が変わってしまいました。そのぐらい影響されました。
今回、適宜私のことばに言い換えながら、一部抜粋しておいしいところを紹介させていただきます。

脱常識の社会学 第二版――社会の読み方入門 (岩波現代文庫)
脱常識の社会学 第二版――社会の読み方入門 (岩波現代文庫)ランドル・コリンズ 井上 俊

岩波書店 2013-03-16
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■ 合理性の追求は何をもたらすか

私たちは社会を生きていくうえで、どうしても「合理的」であろうとします。そして、合理的であることを誇りにしています。

「だってその方が効率いいし。最短距離、最小の労力、最小のコストで目標を達成できたら嬉しいじゃん!だから無駄なことはしない、考えない!最高!」

レベルは違うにせよ、誰もがこのような思考は持っているはずです。そして、社会の流れも大体こんな感じかなと思います。

合理性を求めることを全て否定はしませんが、これを追求しすぎると実は矛盾が生じてきます。
例えば、究極に効率を追求した合理的システムの一つの例として官僚制が挙げられます。莫大な量の仕事を、各専門部署に振り分け、各専門部署では各個人に仕事を割り当てます。誰もが自分が専門とする仕事を短時間で終わらせることができれば、全体としての仕事量は多くても、すぐに片付いてしまいます。非常に合理的かつ効率的です。文句なし!

しかし、究極的に合理性を追求した官僚制の問題はそこにあります。
専門家集団である彼らは、特定の目的を達成するため、一定の結果をいかにすれば最も効率よく得られるかを冷静に計算します。
そのため、ある個人の守備範囲外の書類が舞い込んできたとしても、それは自分とは無関係、他人事とみなします。つまり、自分の仕事と関係がないと思われる仕事は「たらい回し」にされます。

これは極端な例ですが、即ち、誰の守備範囲でもない小さなバグが生じただけで、誰かがその合理性を超えて動かなければ、官僚制自体が機能しなくなります。言い換えれば、合理性の追求は、結果的に不合理な結果をもたらしてしまいます。

■社会を支える「非合理的基礎」

コリンズは、デュルケムらの論と、合理性を追求する社会を支えるのは「合理性」ではなく、それらを超えた所にある「非合理性」であると指摘します。

「私たち一つの契約を結ぶとき、意識的な契約以外にも『お互いがこの契約を守る』という信頼関係に基づく契約を行う」という【契約の前契約的基礎】の話も面白いのですが、今回は本書中の「ただ乗り問題」を取り上げて「社会を支える非合理性」を紹介します。

人々の生活を支える無料の乗り合いバスがあるとします。バスに乗ること自体は無料ですが、乗客は任意でガソリン代や運転手の給料などのバスの諸経費を「募金」という形で求められます。もちろん、募金しなくても、乗客は咎められませんし、責任も問われない。ずっと利用可能です。

このとき一番合理的な判断は、他の人の募金に頼って、自分はただで利用し続けることです。しかし、乗客全員が同じ判断をした場合、どうなるでしょうか。
たちまちバスは運行できなくなり、自分を含めてバスを利用していた人は交通手段がなくなってしまいます。
これも、個人の合理性を追求した結果、個人にとって非常に大きな損失・非合理的な結末を迎えるという好例でしょう。
即ち、無料バスの運行は、諸個人が持っている集団への愛着や集団への帰属意識といった、非合理的な感情に支えられているのです。

■「集団」の形成と維持のための儀礼行為

上で、私たちの集団への愛着や帰属意識などの非合理的感情が社会を支えていると述べました。では、そもそもなぜ私たちは集団を形成し、維持しようとするのでしょうか。

一番大きな理由としては、それが「合理的であるから」と言えるでしょう。また、集団の持つ感情エネルギー増幅機能も理由として挙げられます。(詳しくは本書をご参照ください)

集団を構成するとき、必要不可欠な要素が3つあります。それが以下の3つです。

①集団は集まらなければならない
②集団がみな同じ感情を抱き、その感情を共有していることを意識せねばならない
③集団がそれ自身について抱いている観念を鮮明に示す象徴的事物がある。(道徳的な影響力・見えない力を具象化する)

今回は、特に②の要素について紹介します。
社会(集団)は、非合理的感情に支えられているということは何度も述べている通りですが、このことから、社会(集団)を維持するためには非合理的感情を形成しなければならないといえます。
そのために私たちが行うのが、「行為の儀礼化」です。

例えば、カトリックでは毎週日曜日に「教会に行く」、「聖書を読む」などが儀礼行為に当たります。儀礼行為は、目的を達成することよりも、厳密に規定された形式を最も重要視します。儀礼を正確に遂行することそれ自体が目的であり、それが聖なるものへの忠誠・信念とみなされるからです。
このような儀礼行為は、自身がその集団の構成員であると自覚するのと同時に、集団が同じ儀礼共同体に属していることを気づかせます。つまり、連帯意識が高揚します。

このことを踏まえつつ、「安全な社会を維持するためには、警察や司法、立法機関はどのようなことをするだろうか」ということを考えてみます。

通常なら、取締りを強化するだとか、罰を厳しくするとか、危険人物を逮捕できる法律を新たに作るといった対策を考えるでしょう。
しかしながら、私たちの社会では、「犯罪者を捕まえ、起訴し、裁判にかけ、罰を与えること」自体が、社会集団を結束させ、維持するための儀礼行為となります。
ですので、警察も司法も、私たちが属する社会集団の結束を高めさせる目的で、あえて一部の人が新たな犯罪を生み出すように仕向けているのです(ラベリングなど)。

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長くて読みにくい文章ですが、今回は「社会を支える非合理性」に絞って本書をご紹介させていただきました。

私たちの周りにはどのような非合理的感情があり、どのような儀礼行為が行われているのか、という観点から周りを見つめると、新たな発見がありそうです。
この本を読んで、私は教育の視点から、そこに存在する非合理性や儀礼行為に対して問題意識を持つようになりました。

コリンズは、他にも「なぜ自動車修理のおじさんは具合の悪い部分を直すということに関しては医者よりはるかに頼りになるのに、医者より高く評価されないのか」とか、「なぜ我々は結婚するのか」などを独自の視点で語っています。コリンズの答えを知りたい方は、是非ご一読ください。おすすめです。

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そういえば最近、僕の机の引き出しからお煎餅を盗んで食べていた研究室の友人がイギリスに発ちました。
安心したのもつかの間、今度は先輩に買い溜めしていたじゃがりこを奪われました。

その後ちゃんと新しいのを(こっそり)買ってきてくれるんですけど(優しいですよね)、彼らがお煎餅やじゃがりこを買うためにレジに並んでいる姿を想像すると、何だかほっこりした気分になってしまいます。
なので、また買って入れとこうかなって思うんですけど、僕 っ て 病 気 な ん で し ょ う か 。

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