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2014年12月16日火曜日

「いじめ」と「イジリ」の区別:他者の視座から


学部の頃に心理学を勉強していたとき、新潟青陵大学の碓井真史先生のサイトは大変参考にしていました。



最近、碓井先生の記事にこのようなものがありました。




子どもの頃から抱いていた疑問に対する答えの1つを知れた思いで、熱中して読みました。最近の自分の関心である「他者」にも絡めて、いろいろ感じることがあったので、以下は自分なりの感想です。よろしければ、碓井先生の記事をお読みになった上で、本記事をご覧頂ければ幸いです。


イジリは笑いの中でも高等テクニック。コミュニケーション(特に、笑いに特化したコミュニケーション)に長けていなければ、簡単にいじめになってしまう。


外部観察 (eticな視点) によってはこれら2つの区別をすることは難しい。なので、当人たちはおふざけで言い合っている場合も、教員によってしかられてしまう。その時、大きな違和感を覚えるだろうが、言語ゲームを共有しない相手には分かりえないだろう。(もし教員が子どもたちの言語ゲームを丁寧に観察して、時折そのゲームの参入者として入っていれば分かるかもしれないが。)


当事者 (emicな視点) には、いじめとイジリは区別できるだろうが、その中でも「イジる側」と「イジる側」が互いに他者であることを強調すべきだと思う。すなわち、「イジる側」が相手の幸せのため、と思っていても、それが「イジる側」の幸せになると決定することは、原理的に不可能である。


だから、テレビで行われているイジリは名人芸であることがもっと分かるべきではないか。他者に対して~~をしたら必ず喜ぶ、という確定はできない (二重偶発性) わけで、もしイジられた相手が機嫌悪くなったら「これくらいのことで怒るなよな」と、急にeticな尺度を出すこともイジる側にはできてしまう。イジられる当人が望まないのに相手によって変化させられるのは、「暴力」ととらえることもできる。


厄介なことに、当人は暴力をふるっているつもりがない場合も多いはずである。なにしろ、イジリという行為・構造自体に暴力性が隠蔽されているからである。つまり、イジリをする者が「雰囲気を明るくしよう」とか「いつものように楽しもう」という善意の下にイジリを行ったとしても、イジられる当人の受け取り方次第で「イジリ」にもなれば「いじめ」にもなる。このような構造に隠された暴力性をイジられる側は認識すべきかもしれない。だからこそ、イジリという行為は危険な笑いの取り方で、それなりのリスクを背負った上で使うべきと思った。


と。なにやら感想文まがいの文章になってしまいましたが(笑)、ご意見ございましたら、コメント欄にお願いします。


(参考)二重偶発性 [Doppelte Kontingenz] および、「分かり合えない他者」について

「他者は分かり合えない」ということを言う例として、ウィトゲンシュタイン『哲学探究』の「かぶと虫の問題」があります。

293. 誰もが箱をひとつもっていて、そのなかには、私たちが「カブトムシ」と呼んでいるものが入っている、と仮定してみよう。誰もほかの人の箱のなかをのぞくことはできない。そして誰もが、「自分のカブトムシを見ただけで、カブトムシとはなにかを知っている」と言う。
この場合、どの箱にも別のモノが入っている可能性があるだろう。おまけにそれが変化しつづけていることも考えられるかもしれない。しかし、このとき、その人たちの「カブトムシ」という単語の使い方があるとしたら?それは、モノの名前の使い方ではないだろう。


他にも、ルーマンの「二重偶発性」の原理があります。

すべての自己にとって他者はもう一人の自己であり、その振る舞いは予測不可能で可変的である。自己も他者も自分の振る舞いを自分の境界内で自己言及的に決定する。だれもが、他の人にとってはブラックボックスである。なぜなら、その人の選択の基準を外部から観察することはできないからである。自己に見えるのは、他者の閉鎖した作動の結果としての選択性のみである。いずれもが他者を、環境-内-システムとして観察し、その他者に関しては、環境からの、そして環境への、インプットとアウトプットを観察することができるだけであり、自己言及的な作動自体は観察することができない。いずれのシステムも、他者に対して示すのは、自分の選択を決定できると同時に、その自己言及は不確定であるという事態である。 (ルーマン『GLU』, p.255)


「他者はわかりあえない」という前提を受け入れることで、相手に歩み寄れるのではないかと最近考えますが、教育哲学の授業では「他者論は常に具体例を念頭にして議論して欲しい」と言われます。一般論や抽象的レベルでは語りつくせず、ケースバイケースで考える必要があるからでしょう。今回は、「イジる」「イジられる」を具体例に考えて見ましたが、本例においても別様の見方ができるでしょうし、別の例の検討も今後必要になると思います。

また、「他者は分かり合えない」という前提の下で、次に何を議論すべきかについても考える必要があると常々考えます。「互いに歩み寄るべきだ」とか「承認すべきだ」といった肯定的な意見にいくのか、「一人ひとり違った意見で良いではないか」「多様性を認め合えるべきでないか」といった解釈学的な考え方になるのか、もう少し考えをつめる必要があるようにも思います。


2014年12月15日月曜日

第6回国際表現言語学会に参加して

あと少しで2014年も終わりますが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。

12/14 (日) 、文教大学で開催された「第6回国際表現言語学会」に参加してきました。(表現言語は英語で performing language と訳されるそうです。)

本学会の存在を知ったのもつい最近のことでしたが、自分のような新参者も学会に溶け込みやすく、とても充実した一日を過ごすことができました。

記憶の新しいうちに、本学会で学んだことを整理しておきます。



■ 語学教育としての演劇

パネルディスカッション「言語教育の実践とドラマの融合」では、平田オリザ先生・原口友子先生・塩沢泰子先生による議論がありました。(個人的に、平田オリザ先生の大ファンなので、お話が伺えて感無量でした・・・。) 以下、先生方の議論を歪曲することはできるだけ避けたうえで、自分なりの言葉でまとめたいと思います。

平田先生は、演劇的手法の外国語教育が大学をはじめ、小・中・高でも徐々に広まっている点を指摘しました。英語教育であれば、英語ができるかできないかという一元的なものさしが支配的ですが、演劇の魅力は、語学が苦手な子でも活躍できて自信をつけられることです。たとえば英語の発音が上手であっても演技がうまいとは限りませんし、その逆も然りです。実際に、初日の諸大学による発表ビデオを見ても、発音があまり上手でなくても人前で堂々と演技したり役に成りきっている人たちは、劇中でも際立っていました。つまり、演劇には英語が苦手な子でも輝ける場を作る力があります。「英語ができる子が上、できない子が下」というものさしを一時的にでも覆い隠すことができれば、クラスの多くの子が英語にかかわることができるかもしれません。

塩沢先生は、英語授業のドラマ活用によって、生徒の英語力と人間性の伸長の両方につながりうるという主張をされました。英語力については、授業の英語を覚えるのが苦痛であっても、演劇の台詞は「流れ」があるから覚えやすいという子が学生の中にも多いそうで、長い間続けていると英語の力が伸びていくということでした。それにとどまらず、演劇によって学生の人間性も伸びるため、「語学教育」を超えた魅力が演劇にあるとのことです。ここらへんは定量化することが難しく、「なぜ文学が英語教育で扱われるべきか」と同様に実証が難しい領域でしょう。先生としては「この子たち一回り大きくなった」ということが十分伝わるのに、その文脈を共有していない人には伝わりにくいのだろうと思います。

(私は、そういった実証しづらいが効果があるであろうを認める寛容さと、そういった主張を説得力あるものとする努力の両方が必要なのではないかと感じました。もちろん科学的には棄却せざるをえませんが、こと人間科学でそこまで厳密な定量化が本当に必要か疑問に思います。)

原口先生は、演劇を通して学生が「英語を使う楽しさ」に触れ、主体的に英語学習に参加するという報告をされました。劇では受動的な参加では進まず、主体的に創作・練習する必要があるために、よりかかわりを持った学びになります。たとえば、劇の練習で「自分は周りの子より遅れてる」と感じる子は、みんなの足を引っ張らないように家で練習してくることがあるそうです。

「英語ができない」という子の中には、主体的に英語に取り組む機会がなかったために英語を使う楽しさ・喜びを体験できなかった子もいるでしょう。演劇の練習は、周りの教員から見たら遊んでいるようにしか見えないこともあるかもしれませんが、その遊びの中で学ぶこともあるという点を忘れるべきではありません。


以下は、議論で出た主な要点です。「→」マーク以降は自分なりの感想です。

・今日グローバル人材やリーダーシップの育成を目標に掲げた教育がなされているが、今の子たちにはどのような英語力が求められるかという議論が抜けた状態で進んでいるようである。

→まさにそのとおりだと思いました。「グローバル人材」「コミュニケーション能力」といった言葉が独り歩きしている感じは否めず、これらの概念の意味することをまずは議論する必要があるはずです。そして、一部のリーダーを育てるエリート教育ではない「公」教育として、英語教育で育成すべき能力を議論する必要があるでしょう。この点は、4人組の講演会でも同様に議論されていました。

・演劇は短期的暗記力なら役に立たない。期末試験のための勉強に演劇を取り入れるのはあまり効率的でない。しかし、長期的な力としては、五感をフルに使う演劇は役に立つだろう。そのためにも、今後は追跡調査を通して演劇経験が英語力にどのように貢献するかを実証することも考えるべきである。

→平田オリザ先生の『わかりあえないことから』でも、流動性知能と結晶性知能という用語で説明されていました。ワークショップを通して、体験して学んだことはなかなか忘れないという経験は自分にも多くあります。また、演劇の効果を英語教育学会などで示すためには、エビデンスの提出も今後求められるのだろうと感じました。

・授業構成は、Context-BaseからPersonal-Baseへ。

→授業をするときは、まず文脈を伴った例から導入して、慣れてきたら個々人の特有な文脈を用いておのおのが理解を深めるという手順が良いそうです。

たとえば、英語の授業で比較級を学ぶ際に、まずは「ドラえもんとルフィのどちらが伸長が高いでしょう」「体重はドラえもんの方が重いね」のような文脈を伴った例(Context-Base) から導入することができます。生徒が少しずつ比較構文の形に慣れてきたら、「じゃあ、次は君たちが好きなキャラクターや動物、人間で同じように書いてみよう」と伝え、各々が「じゃあ巨人と妖怪の強さを比べてみる」のように自分の好きな例に置き換えて理解を深める(Personal-Base) ことができます。あまり演劇と言語教育という文脈には関係ありませんが、個人的には授業観としてとても共感しました。

・学習者が必要な英語と、教える英語が一致していないのではないか。

→たとえば、臓器移植について英語で討論する力がある生徒たちがいるとします。もちろん高度な議論をする力は将来必要になるでしょうが、必ずしも全員が臓器移植の議論をする必要はなく、中には電車で隣の人に英語で話しかけられれば良い子もいるでしょう。negotiated syllabus という議論もありますが、教師の教えたいことと学習者の学びたいことがうまく一致したときに、実りのある英語学習になるのかもしれません。



最後に、「演劇と言語教育」の議論に関する自分の感想です。

(1) 演劇の虚構性

演劇は、現実の世界(アクチュアルな世界)ではない仮想世界を演じることで、普段自分を規定している「自分」から一時的に離れることができます。たとえば「普段英語ができない」、「人前では話しにくい」自分、などがありますが、これらから一時的に抜け出して演じることができます。ある先生が「ロールプレイは嘘だ」と発言されていましたが、個人的にはこの「嘘」(虚構性)がたまには必要なのではないかという気がします。英語の授業で「将来の夢を語る」といったタスクもありますが、思春期の子たちがこれに正面から取り組むのは難しいかもしれません。こんなとき、わざわざ正直に自分の夢を語らせる必要はなく、仮の自分が仮の夢を語る場を作っても良いのではないでしょうか。英語の授業で何かを演じることで、「他者としての自分 (me as Other) 」を表出させる経験をつめば、いずれ「自分 (myself) 」を出すのにつながるかもしれません。(実際には「将来の夢」の単元はキャリア教育・道徳教育との兼ね合いで行われることが多いでしょうから、現実味はありませんが...。)

なお、以下のブログでも「英語の授業における虚構性」が議論されています。大変刺激的な議論で、授業という営みに隠れる「虚構性」をむしろ肯定的に捉えるという論旨でした。


また、演劇を遊び (play) の一種としてみれば、ガイ・クックの以下の議論も参考になるかもしれません。


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自分が翻訳を言語教育で用いたいのも、英語力のみで勝負する英語の授業だとどこかでつまづく生徒がいる気がするからだと思います。そこに創作的な翻訳活動が伴えば、英語が苦手な生徒でも名訳を生む可能性があるため、いつもの英語力による序列をいったん崩すことができます。これで英語が苦手な子も活躍できるなら、演劇でも翻訳でも英語授業に取り入れる余地があると思います。(あくまで「取り入れる余地」の議論なので、「翻訳だけやればいい」といったラディカルな主張はしません。笑)


(2) 劇化の可能性

しかし、演劇を英語授業で取り入れるにはなかなか時間がなく、プロの先生にワークショップをやってもらうことが必ずしも可能でないかもしれません。そこで、英語授業で取り入れるには、教科書の「劇化」が有効かもしれません。「劇化」は、教科書のダイアログを実際に演じてみることで、キャラクターの視線や発話時の感情、場面などを推論する必要が前景化し、表面的な理解にとどまらない解釈を必要とします。また、実際に演じてみることで、五感を使ってテキストを体験することができ、身体をともなった理解に通じるかもしれません。(ああ、ここらへんの言葉使いが浮付いている気が・・・。この点は、また(3) で述べます。)

たとえば、以下の台本だったらいかがでしょう。(たしか、Widdowson の本に載っていた例だと記憶しています。曖昧な記述で申し訳ございません。)

A : This is the telephone.
B : I'm in the bath.
A : OK.

これを音読するのは容易ですが、場面を理解するには、以下の点を考慮する必要があります。

・AとBの人間関係はどのようなものか。
・2人はどこにいるか。
・"This is the telephone." はどのような意味か。「これは電話です」ではだめか。
・なぜAは”OK"といったか。このあと、Aはどうするか。

これらの点を考慮すれば、Aが子供、Bが母親であり、家で電話がなっていることを知らせる子供に対して、入浴中の母が「今電話に出れない」ことを伝える場面と理解することができます。

さらに、これを劇化するには、以下の点にまで踏み込む必要があります。

・子供は何歳くらいだろう。
・母親はどのような性格だろう。入浴中に電話があったら、自分ならどのように対応するだろう。
・子供は家の中のどこにいるのだろう。風呂場の近くだろうか、遠くだろうか。
・母親は風呂場でどうしているだろう。入浴しているか、髪の毛を洗っているか。
・そもそも母親でなくて父親ではだめだろうか。
・電話はコードレスだろうか、それともコードつきの電話だろうか。

もちろんこれらの点はテクスト中に明示されておらず、想像する必要があります。この過程で、自分の生活とのつながりも生まれ、ただのテキストが「意味を持った文章」となるはずです。そして、生徒によってこれらの解釈が生徒間で異なっているため、複数の生徒に演じさせてみても「個性」が見えるはずで、見ている側も楽しむことができるでしょう。


(3) 理論言語・実証の必要性

「知性」と「感性」をつなげる、五感を総動員して学ぶ、英語の楽しさを実感できる、・・・など多くの演劇の魅力が本学会で語られましたが、これらをさらに理論言語で説明する必要があるように感じました。「劇はいい」というテーゼにはもちろん賛成しますが、これらは学会などでどこまで受け入れてもらえるのかという点が今回の一番の疑問でした。「劇をやったことがあればわかる」「本物がわかる人ならわかる」でもいいのですが、もし理論や実証研究、哲学などがここに入り込む余地があるなら、演劇の効果を“客観的”に伝えることができるのに、と感じます。(あるいはそのような研究があれば、今後読みたいとも思いました。)

演劇のよさを語る人たちの「言葉」があれば、さらに演劇と言語教育はつながれるだろうと強く思いました。


■ 演劇的手法を活用したワークショップ

四国学院大学の千石先生による研究発表でした。四国学院大ではdrama education (演劇教育) が盛んで、福祉系・教育系の現場に出る人たちは演劇のワークショップを必修とするようです。

発表では千石先生がされているワークショップの報告がありましたが、そこで面白いと感じた点をまとめます。

・インプロ(即興劇)をするとき、「がんばらない」「相手に良い時間を与える」「誰かが話しているときは聴く」を最初に伝える。

・90分の授業が8回あるとき、最初の5回はアイスブレイキング(アイブレ)に費やす。

→いきなし演劇的手法を用いてしまうと、ついてこれない学習者もいます。そこで、心の緊張やバリアを和らげるための活動(アイスブレイキング;アイブレ)を行うのですが、8回の授業があるとき、うち5回をアイブレに費やされていました。アイブレの中でも難しさが異なるため、5回目の授業ではかなり高度なアイブレ活動を行うそうです。(なので、あまり先生の中ではアイブレという位置づけではないのかもしれませんが...。)これにより、6回目以降の授業ではShow & Tellなどの発表活動や、演劇手法を用いた活動が可能となるようです。逆を言えば、演劇的手法を英語授業などで扱うときも、アイブレを念蜜に行う必要がありそうですね。もし演劇に慣れていないクラスで「今から即興劇をやってもらいます」としてしまうと、・・・恐ろしい結果になりそうです。(笑)インプロの手法ももう少し自分で勉強したいと思いました。

・授業は、知識注入型授業と獲得型授業に大別される。獲得型授業では全身で学ぶことが求められ、そこで得られるのは「演劇的知」である。「演劇的知」とは、身体、こえ・ことば、かかわりの3要素によって構成される。

→「演劇的知」という概念に関して、面白いと思った。英語授業で「こえ・ことば」のみが(あるいは「こえ」が骨抜き状態の「言葉」かもしれない)教えられるとしたら、「演劇的知」から英語授業が学ぶことも多いかもしれない。千石先生は「耳が聞こえない子供」を事例に、「こえ・ことば」が使えなくても演劇的知を体得できるような実践を試みており、英語教育の「ユニバーサルデザイン」と似ているように感じた。すなわち、英語の授業で「こえ」が欠かせないように思えるが、「こえ」がなくとも、身体やかかわりを体験することはできるだろう。

performative learning (高尾, 2012) : パフォーマンスすることで自分を崩し、再組織化すること。

→とにかくやってみて、他者に表現して、そこで初めて自分を相対化して新しい自分を創るという理念を表す語のようです。デューイの learning by experience などと近い概念かもしれません。哲学用語であれば、「他者との出会いによって<自分>と<相対化された自分>が弁証法的に昇華され、<新たな自分>が生まれる」と言い換えられるかもしれません。(こんな言い換えに意味はありませんが。笑)

peformative learning も「ことばより身体の重視」という信念があるようで、身体性の勉強をする際に今後参照したいと思った。


演劇ワークショップに自分が参加したことがなかったので、目から鱗の思いでした。できればワークショップに参加してみたい・・・と強く感じました。(もし広島近辺で情報をお持ちの方がいらっしゃれば、ぜひ教えて頂けると幸いです。)




■ 小噺ワークショップ

続いて、畑佐先生による「小噺ワークショップ」に参加しました。先生は日本語教育の場で小噺を導入し、学習者が日本語をもっと学びたいと感じられるよう(動機付けの手段となるよう)、実践を続けられています。

小噺は私たち日本人が行ってもある程度はできますが、「目線」「声の調子」「動作」など考える点は多々あり、とても奥深いものだと感じました。(先ほどの「劇化」に似ているかもしれません。)

たとえば、以下の小噺。

「手術」 
患者:「先生、私、手術するの、初めてなんですけど、大丈夫でしょうか。」
医者:「心配することはありません、私だって、(手術するの)初めてなんですから。」

まず、これを日本語学習者が覚えて披露する際には、「手術」という日本語が言えるかどうかという問題があります。患者の一言目の「手術」という言葉を効いたときに始めて、聞き手は「病院のできごと」というスキーマ・スクリプトを想起することができます。ここで発音指導・暗唱といった従来の言語教育の手順が必要となります。

ある程度読めるようになったら、ある程度の笑いは取れるかもしれません。しかし、これも実際に小噺する際には、

・患者は寝ているのか、座っているのか、歩いているのか。
・医者は手術中なのか、座っているのか、歩いているのか。
・では、2人は目線をどこに合わせるのか。
・医者は不安気に話すのか、自信ありげに話すのか。
・医者はなにか手に持っているか。なにも持っていないか。

など、想像力を働かせる点はいくらでもあります。

実際に、畑佐先生や平田先生、また多くの会員の方々のパフォーマンスは大変面白く、同じ小噺でも雰囲気がまったく異なることに驚きを覚えました。


もし学習者が完全にこれを覚えて、上の解釈をした上でオリジナルの小噺をし、笑いを取ることができれば・・・もっと日本語学習しようという気になりそうですね!(英語学習におけるジョークの指導にも同じことが言えるかもしれません。)

さらにこの指導が面白いのは、「外国語学習者が母語話者にできないことをする」「初級者も上級者より笑いを取る可能性がある」という点にあります。先ほどの「一元的なものさし(語学力)を覆い隠す」という点と似ていますが、言語弱者としての言語学習者へのエンパワメントという観点からもこの指導は大変面白く感じました。

もしよろしければ、以下のサイトで「手術」の小噺をご覧ください。私はこの動画に「言語学習者」という枠組みを越えた可能性を感じました。



■ Readers Theatre / 朗読劇ワークショップ

最後に、上の2つのワークショップで学んだことを列挙します。Readers Theatre の担当をされた浅野先生は、南山短期大学の先生で、自分の母校とのつながりもありワークショップ後も個人的に多くのお話を伺うことができました。(本当に貴重なお話をありがとうございました。)

Reders Theatre (RT) とは、"a rehearsed group presentation of a script that is read aloud rather than memorized" (Flynn, 2004) で、日本語では「朗読(劇)」「群読(劇)」「表現読み」「ストーリー・テリング」「読み聞かせ」などとしばしば呼ばれます。普通の音読や劇と異なるのは、RTでは台本を隠すことなく音読する点、グループで行い必要に応じてジェスチャーを用いる点、道具や衣装・効果音は用いない点などが挙げられます。

授業で使う際は、教科書本文の内容理解を済ませた上で、内容を改変しないように区切り(文中で区切っても可)、それぞれのパートに分けて読む練習をします。練習したら、最終的に全体の前で発表します。

初日の発表では、ジョン・レノンの Imagine という歌の歌詞を、3人の大学生が RT 方式で読み披露しました。3名ともとても表情豊かで大変引き込まれました。

自分たちもO. Henry の "The Gift of Magi" という作品で行いましたが、ただ読むだけでなくノンバーバルコミュニケーション(ジェスチャー、表情、イントネーションなど)にも気を払い、できれば読むときは目線を上げて (look-up) 披露する必要があり、意外に難易度が高かったです。もし学校現場で実践するなら、練習時間やアイスブレイキングの時間を長めに取る必要があります。特に、内容理解ができていないときにRTをしてもあまり意味がないはずです。まずはテキストの内容理解を行い、適当な箇所で文章を区切って読み、アイブレをしながら人前で話す抵抗を取り除いた状態で、最終的に RT を行う(そして行く行くは drama performance につなげる)というように、スモール・ステップを意識した授業設計が必要でしょう。(逆に、みんなの前で失敗するという経験をさせてしまったら、その子が英語学習から遠ざかるきっかけにもなってしまいます。指導者は、失敗経験をさせないという信念も同時に求められると感じました。)

これも、同じテキストを使ったとしても、グループの個性が強く出ており、見ていて大変楽しむことができました。正直、言語化できない、ビビッとくるようなものを発表を見ながら感じました。朗読劇のワークショップ後に、「どうして朗読をするとワクワクするんでしょうね」という質問がフロアから投げかけられていましたが、自分も同じ感想を持っていました(笑)。

朗読劇は、グループ毎に1幕ずつ練習をし、最終的に3班で3幕分の劇を完成させるというワークショップでした。グループで戸惑いながらも1つの作品を作り上げるというのが、新鮮で面白く、ほかの班との違いも感じることができてとても楽しかったです。

技能育成の重要性を否定するつもりは毛頭ありませんが、このようなワクワク感を授業において演出する必要もあると改めて感じました。


■ 全体を通じて

英語学習における演劇活動の効力を実感することができました。上でも書きましたが、英語を使う楽しさ、身体で英語を味わう感覚、成功したときのワクワク感などはやはり英語学習のモチベーションに大きく寄与すると思います。

今後、平田オリザ先生の問題提起にもあったとおり、「演劇が英語学習においてどのような位置づけがされるか」が問題だと思います。そのための研究も今後進むと良いと感じました。

演劇は敷居が高く感じていましたが、上で紹介したような手軽な活動から入ることもでき、授業にも取り入れやすいように感じました。

ただし、「演劇だけで英語の授業はバッチシ!」ということはもちろんなく、文法学習や静かな学習(座学)、訳、テスト、評価など、英語教育における他の要素とどう結びつくかを考えた上で、さらに演劇が広まると良いと思います。

とても実りのある1日でした。当日、お話いただきました先生方、準備・企画をされました事務局の皆様、本当にありがとうございました。



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(追記)2014/12/29

南山大学の浅野先生に本記事を紹介したところ、以下のような御意見を頂戴しました。
先生に許可を頂きましたので、貼り付けます。
もし先生にコメント等されたい方は、以下のコメント欄へご記入下されば、ブログ運営者が転送させて頂きたいと思います。
先生には、お忙しい中このようなコメントを下さり、改めて感謝申しあげます。

(以下、貼り付け)

1.RT導入の目的の1つは,読解力の養成です。
和訳やその後の問題演習をして理解したことに
している英文読解授業をいかにして改め,英文
の読みを深め,かつ読みを楽しませるか,が私の
課題でした。しかし,学生の中・高を通して慣れ
親しんだ経験を改めさせるのは容易ではなく,
困り果てましたが,逆に闘志も沸いたことを記憶して
います。つまり,読解のための手段が,RTという位置づけです。


2.短大の学生の英語学習動機は常に「英語が話せる
ようになりたい」です。RTはこのことに必ず貢献できる,
というのが導入の二番目の理由です。ただし,この
点に関する研究は少なく,まだ不十分です。セリフの音読
という手段による意味生成が,自分の言葉となる経過に
パフォーマンス系の英語授業がどう貢献できるかです。


3.政府による「グローバル化」などという方向付けを
待つまでもなく,これまでの言語知識教授に偏る
英語教育が,現代の要請にマッチしないのは明らか
です。しかし,グローバル化の具体論があまりに乏しく,
「リスニングを増やせばよい」,「コミュニケーション重視を」
「学校英語開始年齢の引き下げよ」いう議論に終始している
という印象です。

Drama (Theatre) in Educationなどの研究と実践が
今後の日本の外国語(英語)教育には必要ですが,
守田さんが,メモの最後にお書きの点が非常に大切です。
「演劇を導入すれば全て解決」などということはなく,それを
支える日常的な教育が必要ですね。文法も和文訳もテストも
です。このご意見には深く賛同します。
(詳しいことに関心をお持ちの方は,ご連絡ください)

(以上)