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2014年1月27日月曜日

苫野一徳 (2011) 『どのような教育が「よい」教育か』講談社

卒業論文の執筆が終わり、ふとカレンダーを見ると大学生活が終わりに近づいていることに気づく。スケジュール帳には追いコン(学部、サークル、BBS)や卒業旅行(学部、BBS)など、通過儀礼的な行事が並んでいる。教育学部に在籍していることもあって、周りの友人の多くはこれから教員になろうとしている。自分はもう少しの間大学院で研究を続けてから教壇に立つが、その間も彼らは現場にいるわけである。

そんな折、本書を手に取る機会があった。去年からチェックしていたブログで紹介されていたため読み始めると、とても面白く、久しぶりにノートを取りながらの読書をした。読み進めるにつれて、本書は自分の友人にも読んで欲しいと感じた。

自分のまとめノートを読み返し、特に心に残った部分を本書の大筋に従ってまとめたい。至極良書なので、興味をお持ちの方はぜひ手にとってください。

どのような教育が「よい」教育か (講談社選書メチエ)
どのような教育が「よい」教育か (講談社選書メチエ)苫野 一徳

講談社 2011-08-11
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1. 教育学では、「よい教育とはなにか」という問いはアポリア(難問)化しており、答えを出すことができない。

「あなたはどのような教育がしたいですか」という問いは、 3 年生の時の「教職入門」の際の論述問題だった。このような問いにこれまで何度か取り組んできて、自分はいつかこのような問いに対する絶対的な答え(唯一の答え)を手に入れられるのだろうと感じていた。

しかし、そもそも「よい」というのは価値判断であり、価値は人によって異なる。ある人が「子どもの経験を大事にしたい」と言っている間に、別の人は「いや、系統こそ最も大事だ」と言うだろう。なにか理想を掲げていても、相対主義の立場では唯一の理想を掲げること自体が原理的に否定される。

「ゆとりか詰め込みか」「叱るか誉めるか」という問いをよく耳にするが、このような問いも実は答えることはできない。レトリックでは虚偽二者択一 (fallacy of false dilemma) と呼ばれており、いかにもこれら2つの選択肢しかないように思わせるが、実際は両者は相補的なものである。(ゆとりのみでも詰め込みのみでもなく、両者が互いに交じり合って教育を成す。)

これと同じで、「よい教育とは何か」というのも、上で述べたように絶対的な教育の在り方があるような(存在論的な)問い方をしているため、満足のいく答えを出すことは困難で、現に教育(哲)学でも避けられてきた。

(※)にも関わらず、「よい教育」「よい教授法」を求めてしまう。もしかしたら、自分には教育学を神学化してしまう傾向があるのかもしれない。そうであれば、アーレントの「イェルサレムのアインヒマン」で指摘されたような、思考停止状態に陥るのも時間の問題かもしれない。


2. フッサールの現象学的姿勢を用いることで、これまで教育学が答えられなった問いへの道が開ける。

フッサールの現象学について、苫野氏は以下のように説明している。

確かに私たちは、これこそが絶対に正しい教育であるなどということはできないだろう。絶対的真理を認識することは不可能である。ということは、現代ではほとんど常識であろうし、現象学にとってもいわば前提である。しかし現象学の考えからすれば、だからといって、「よい」「正しい」教育など一切ない、と、完全に相対化してしまうにもおよばない。
というのも、私達はそれぞれ、「よい」あるいは「よくない」教育に関する何らかの「信憑」や「確信」を、多かれ少なかれ抱いている、あるいは少なくとも抱きうるはずであるからだ。 (pp.20-21) 
その時、私はなぜ、そしてどのようにこれを「よい」教育と感じてしまったのか、その「確信」成立の条件と構造を問うことはできるはずであり、そしてそのような問いの立て方こそが、教育を問うための最も根本的な思考の出発点なのである。 (p.23)


つまり、私達が直観的に「よい」と思ったこと自体は疑えないため、どうして「よい」と思ったのか(確信の成立条件)を自分に問い続けることで、上でアポリアとした問いにも答えることができるようになる。

さらに、アーレントが「複数性」「活動」と言ったように、自分の「確信の成立条件」を他者と照らし合わせることで、共通了解を得ようとすれば、さらにその営みは発展しうる。

→少し回りくどく感じるが、簡単に言えば「よい教育とは~~だ」という解答形式ではなく、「~~はよい教育だと思った、その理由は・・・・・・だ」という解答形式に変えるべきということ。定義方法で言えば、規範的定義から記述的定義への転換(参考:定義を定義する)であり、これによって私達は再び上の問いに取り組むことができる。

「よい」と思う時、私達には「欲望(~したい)」がある。私達は見たいようにものを見聞きしているように、考えたいように考えている。リーガルハイ第9話でも、自然広がる村を守りたいと考えれば「世界遺産に登録すべき」という価値判断になるが、生きたいように生きたいという欲望であれば「世界遺産登録反対すべき」という判断になることをよく示している。(やはりリーガルハイは名作w)

苫野氏は欲望論的アプローチと呼んでいる。

私達は自らの教育論をナイーヴに主張し合うのではなく、それを支える欲望・関心の次元まで遡り、これを常に自覚的に問い直す必要がある。そしてその欲望・関心が、他者にとっても十分に納得のいくものであるかどうか、問いあい吟味する必要がある。 (p.74)

3. 「よい教育」は<自由>の相互承認ができる社会を形成することである。

■ <自由>
ここでもう1人の哲学者、ヘーゲルが登場する。ヘーゲルは、<自由>を以下のものと苫野氏は述べる。

要するに私たちは、自らが絶対的な無限性を求めるということを知りつつも、なお、自らが諸欲望によって規定されているということを十分に自覚しているところに、初めて<自由>の可能性を手にすることができるようになる、そうヘーゲルはいうのである。すなわち、自らが自らの諸欲望に規定されているということを十分自覚した上で、それでもなお、自らの意志を持って自己決定し(§12)自己選択しうる(§14)というところに、私達は初めて<自由>の本質を手にすることができるようになる。 (p.111)

<自由>とは、私達を制限している自らの諸欲望を十分自覚し、その上で、できるだけ納得して、さらにできるなら満足して、「生きたいように生きられている」という実感を得ることにある (p.112)

→ここが最も理解しにくかった。誤解を恐れずに換言すれば、私達は前項で述べた欲望によって規定されているが、そのこと自体を理解した上でやりたいようにすることが<自由>なのだろう。(まだよくわからんw)

さらに懲りずに卑近な例で説明を試みる。
例えば、他人のことを傷つけたいと本能的に思う人がいるとする。彼がワガママであれば、どんどん周りの言うことを否定したり人間関係を失ったりしていくだろう。そうではなく、<自由>とは、自分の欲望を理解した上でそれを我慢した上で、自分がしたいことをする(例:サークルに入る、バイトをする)。


■ 他人からの承認

とりあえず、人間的欲望の本質が<自由>であることは分かった。さらに、ヘーゲルは以下のように続ける。

ヘーゲルはいう。それは、各人が互いの<自由> ――各人が<自由>への欲望を持っているということ――を相互に認め合うという、<自由の相互承認>のほかにない。 (p.121)

→先ほどの<自由>は、互いに認め合われることが必要である、ということ。
(ヘーゲルの有名な主―奴の件はカットします。)

これによって、社会では<自由の相互承認>ができれば良いということが原理として導出される。であれば、よい教育の探究は、<自由の相互承認>ができるようになるための実践理論の探究となる。

■ 教育で身に着けるべき<教養=力能>(Bildhung)

教育で身に着けるべきは、以下の3点である。

① 諸基礎知識

 ・読書算
 ・コミュニケーション能力

ホワイトヘッドは「多くのことを教えすぎるな」「教えるべきことは徹底的に教えよ」 (p.152) と述べており、この諸基礎知識は広範である必要はない。むしろ基礎部分(寺島隆吉氏の水脈?)を徹底的に教えるべきである。




② 学び・探究の方法

これは、学び方(調べ方)を教えるということである。ドラゴン桜では、目の前に腹が減っている生徒がいたら、魚をあげるか、魚の釣り方を教えるか、という問いが出されているが、ここで釣り方を教えるというのは、勉強のやり方を教えるということになる。
英語科であれば、辞書の使い方を、有益なウェブサイト(TEDなど)を、あるいは音読のやり方を教えることかもしれない。その場で教える知識のみではない、ということである。

③ 相互承認の感度(ルールを守ること)

・自らが<自由>になるためには、他者の<自由>もまた承認んできる存在足りえなければならない。
・もっともルールとは、それ自体として犯すべからざるものであるわけではない。むしろルールは、私達が互いのよりよい関係のために、常に作り直し、また編みなおしあっていけるものである。
・そのためにこそ、私達はまずもってルールを守るべきことを知らなければならない。 (p.159)


自分だけが満足であるのみならず、周りも<自由>を追求できるように、他者を承認する力を教育でつける必要がある。ルールを守らせるのはそのためである。

私が携わっているBBSというサークルは更生保護の理念に基づいているが、更生保護では「許しと約束」(アーレント)の原理が底にある。以下の引用箇所は、まさにBBSの考えに適っているのではないだろうか。

私達が人を許すことができるのは、今回は過ちを犯してしまったかもしれないが、しかし本来、彼/彼女は、約束を守ることができる人と信じているからなのである。...
一度の過ちも許されない厳罰主義的な社会より、互いが互いに許しあうことのできる寛容な社会の方が、私たちは豊かな社会だといえるだろう。お互いがお互いに、一定程度までであればやり直しがきくことを認め合える社会は、亜k脳性に開かれた社会だといえるだろう。しかしまさにだからこそ、私たちには「約束の能力」が求められるのである。 (p.159)


4. 最後に(感想)

やはり難しい本だったが、とても良い本に出合えた。

今回のまとめには載せなかったが、「よい教師とは何か」の部分や「関心・意欲・態度」、「経験主義対系統主義」、「理想・当為主義~相対主義~規範主義」についても、とても面白かった。(「理想・当為主義と相対主義」は、ゼミ合宿の発表にも含めたい。)

このような本を読んでいて、哲学はあくまでも自分の考える枠組みを得る手段と思う。自分は哲学にはつくづく向いていないと思う、というのもカントのアンチノミーやウィトゲンシュタインの論理哲学論考などはさっぱり分からない。むしろ、言語ゲームという考え方であったり、今回のような現象学的姿勢であったりは、自分の今後の手札の1枚にする程度でありたい。

また、本書でもいくつか疑問に残るところはあった。「私達は各自の欲望を問いあうことでその確かめ可能な本質を見出し、その上でこの各人の本質的欲望を、どうすれば最も十全に達成するかという方向に向けて考えていくことができる (p.101) 」の、「本質的欲望」とは何か。また、<自由>を軸に後半は議論が進んでおり、一見スムーズだが、これが教育原理と呼べるほど汎用可能なのだろうか。これらの点は、いつかまた本書を読み返した時に分かればよいと思う。



残りの2ヶ月間、楽しい思い出を作りたい。そして、教員生活を先に迎える学友の健闘を祈りたい。


2014年1月6日月曜日

映画「ハンナ・アーレント」を観て

明けましておめでとうございます!! (^^)

昨年は拙文ばかりのブログで大変恐縮でした。相変わらず2014年も読みにくく面白くない記事ばかりになる予感ですが(汗)、また気の向いた際にお読み頂ければとても嬉しいです。


今年のお正月に「ハンナ・アーレント」という映画を観てきました。本映画はタイトルにもあるアーレントという哲学者の生涯の一部を描いています。もちろんアーレントの思想も大きく触れていますが、彼女の人間面も描いているため、彼女の思想を知らない方でも楽しめると思います。

とは言いつつも、この映画は背景知識を多少持っておくとより楽しめると思います。自分はこの映画に向けて「今こそアーレントを読み直す」を読んでおり、細かい部分も分かった気がします。

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なので本書からアーレントの思想のうち、映画に関係しそうな部分を、簡潔に紹介しておきたいと思います。「ちょっと観てみようか」とお考えの皆様も、よろしければぜひお読みください。最後に少しだけ、自分の感想も書いてあります。

※注※
本記事では、映画の内容に関わる記述があります。公式サイトや宣伝などで触れられている以上のことは述べていませんが、映画の内容を知りたくない方はお読みにならないで下さい。

全体主義 (totalitarianism) はもともとイタリアのファシズム運動で「脱個人主義」を指すポジティブな意味で用いられた言葉(p.31) でした。しかし第二次世界大戦をきっかけに、非西欧近代主義の集団主義的体制を形容するネガティブな言葉として使われるようになりました。アーレント自身は以下のような立場でこの言葉を用いています。

「全体主義」は、前近代的な野蛮の現れではなくて、むしろ西欧社会が近代化し、大衆が政治に参加する大衆民主主義社会になったことに起因する問題だと見た (p.33)

この引用箇所が、『全体主義の起源』というアーレント (1951) の著書をよく表しているように思えるのですが、もう少し詳しく説明します。

第一章で反ユダヤ主義について述べられています。全体主義は昔、ユダヤ人を差別する際に、ユダヤ人以外とユダヤ人という区別をしだしたところから始まります。ユダヤ人以外にとっては当時、ユダヤ人は<他>の存在であって、<自>とは異なるグループを見なすようになります。それによって、<自>である自分達と、<他>であるユダヤ人とカテゴリー分けを行って、彼らを蔑視したり迫害したりという歴史的事件につながります。
これについて、アーレントは以下のようにみています。

彼女はそこに、「同一性」を求める国民という集団が、自分達の身近に「異質なるもの」を見出し、「仲間」から排除することによって、求心力を高めていこうとする「自/他」の弁証法のメカニズムを見る。 (p.43)

次に第二章では、19世紀末の帝国主義でも同じように同一性の原理に基づいて国民国家を形成し、国民国家をベースにして資本主義が発達し、帝国主義政策が完成した歴史背景を概観します。

第三章では、大衆社会において受動的にただひたすらついていこうとする「大衆」について考察をします。

政治における「大衆」とは、自ら政治に積極的に参加し、自らの理想を追求するのではなく、政治家あるいは政治が約束する利益と引き換えに、それらの政党や政治家を選挙などで支持し、ただひたすらついていこうとする受け身的な存在である。(p.49)

大衆は無構造性を特徴としているため、その時々の気分に流されやすい。誰かが“もっともらしい”ことを言っていれば、「そうかもしれない」と言って無批判的に受け入れてしまうのも大衆です。そうならないためにも私達は思考することを常に続けなければなりません。

※雑談※
そういえば、私も sava 君も大好きだったドラマ、「リーガルハイ」が終わってしまいました。

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先月放映された第9話でも、「民意」が1つのキーワードになっていました。古美門先生の「民意」演説で他の人と同調する民衆の愚かさが焦点となりますが、彼の演説もアーレントの「大衆」観に近いのではないでしょうか。彼が「本当の悪魔とは巨大に膨れ上がった時の民意だよ」と言っている通り、アーレントも民衆の思考停止状態を危惧し、思考 (denken) の意義を主張していました。そう思うと、リーガル・ハイスペシャルで、中学生の1クラスが「羊の群れ」と喩えられていました。これも誰かが先導するわけでもなし、皆についていけば大丈夫だろうという中学生たち(ないし大人たち)の心理を見事についていたように思えますし、アーレントの「大衆」と近いのかもしれません。 (中学生の場合はまた別の要因もあるかもしれませんが...。)

...悪い癖で、またまた脱線してしまいましたw本書に戻ります。

他の物語の可能性を完全に拒絶すると、思考停止になり、同じタイプの物語にだけ耳を傾け、同じパターンの反応を繰り返す動物的な存在になっていく。 (p.58)

この「大衆」「無批判性」「思考停止」などに関わっているのが、『イェルサレムのアインヒマン』(1963) という作品で、本映画の中心となる話です。

アインヒマンは戦時中にユダヤ人を収容所へ移送する責任者で、戦後裁判にかけられます。当時は“悪の根源”とも世間では見なされていましたが、アーレントが彼の裁判を傍聴すると、どうもアインヒマンが大悪人であったという世間のイメージは誤っていることに気づきます。

アインヒマンは、ユダヤ人を抹殺することに使命感を感じていたわけではなく、たまたま与えられた仕事を順調にこなしていただけである。 (p.63) 
法廷に立たされたアインヒマンの内にアーレントが見たのは、決められたことに従うだけのあまりにも平凡な市民だった。...アーレントは、平凡な生活を送る市民が平凡であるがゆえに、無思想的に巨大な悪を実行することができる、という困惑させられる事態を淡々と記述した。 (p.65)

アインヒマン裁判に関するこのような記事(当時はまだ本になる前でした)を出版し、世間からのバッシングに対してどうアーレントが反応するか、というのが映画の大きな軸になります。

映画の終盤では、アーレントが学生(世間)に向かって 8 分間にも及ぶ講義を行います。そこでのスピーチは分かりやすいながら力強い言葉で語られ、大変圧巻でした。その一方で映画中の彼女は友人や夫との会話で冗談を言ったり、昔の恋人であるハイデッガーとの恋であったり、とても人間味あふれるキャラクターにもなっています。

最後に、個人的な映画の感想になりますが、とても良かったです!
会話中にさりげなく混ぜた機知に富んだ言い回しであったり、相手によって英語とドイツ語を使い分けることであったりというシーンでアーレントの知性を伝えるといった細かい描写が良かったように思えます。また、アーレントの他の著作である『人間の条件』の公的領域・私的領域が映画中でもはっきりと分けられていたり、アーレントが色々な立場の人と議論するシーンも多く、彼女の思想がとてもよく出ているのでは?とぼんやりと感じました(それ以上のことは、勉強不足でよく分かりませんが...泣)。

この映画は公開劇場が限定されているようで、ご興味のある方は、公式サイトでお近くの場所を探してみてください。


さて、映画と本のレビューが混ざってしまい大変読みにくいかと存じますが、最後に本書で最も印象的だった、とても短い1文を引用しておきます。

「私」自身も「アインヒマン」になり得る。 (p.66)

事実はともかく、アインヒマンは悪人だったからあのようなことをしたのだ、と考えることで私達は安心することができます。しかし、上の一文にもある通り、アーレントの主張では、大衆である私達も思考停止を止めれば「アインヒマン」になり得るわけです。

教師になってからも、思考停止をしてしまうと、自らが「アインヒマン」となるかもしれないと思うと、恐ろしいと感じます。とは言っても、世間知らずの甘ちゃん大学生のたわ言ですが(^^;)

というわけで、脈絡のない記事でしたが、どうぞ興味のおありの方はご覧になってください。

本年もよろしくお願いします(^^)