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2014年2月19日水曜日

姜尚中 (2014) 『心の力』集英社新書

こんにちは。 mochi です。


姜尚中 (Kang Sang-jung) 氏の新書、『心の力』を読みました。

心の力 (集英社新書)
心の力 (集英社新書)姜尚中

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氏は、漱石論やマックス・ウェーバーに関する著書を出されていて、本書では漱石の『こころ』とトーマス・マンの『魔の山』を基に、今日生きる上で必要な心の力について考察します。

本書の特徴は、『こころ』と『魔の山』の登場人物を基に氏が作ったオリジナルストーリー、『続・こゝろ』にあるでしょう。『こころ』で先生の遺書を読んだ「私」 (本書では、河出育郎)が、戦後に箱根、ドイツなどの場所を訪れてもう1つの物語の主人公であるカストルプと出会い、お互いの過去の経験(つまり、原作のストーリー中の経験)を語り合うというものです。氏は本論を進めつつも、『続・こゝろ』を各章ではさむことで、今はなき“ゆとり”を持って生活していた2人の姿を我々に見せ付けます。そこで私達の生活にはない何かを見せつけようとしているのだと思います。(また、「夢枕」などの小ネタが所々はさまれているのにもユーモアを感じました。)

本書の以下の箇所に、氏の姿勢を伺うことができます。

本書は、これを読めば心の実質を太くできるノウハウを説こうとするものではありません。むしろ、不確実きわまりない時代の中で、心の力とは何なのか、それは何を意味するのかを、物語の力を通じて型ってみようとする、いわば「物語人生論」なのです。 (p.18)

「物語人生論」というのは、物語を通じて他者の心について理解し、その理解を私達の生き方にも反映させようとする試みです。現に自分も『こころ』を読みながらKの悶々とした気持ちを追体験していますし、高校生の頃よりも大学生の方が少しはKの気持ちが分かるようになったと思います。したがって、本書が試みた『続・こゝろ』は文学的批評 (例えば、育郎の結婚相手とか、文体とかに関するいちゃもん) を行うためのものではなく、そこから私達が何を感じるかという点に重きを置くべきでしょう。

本書の概要は要約をしようとすればできるのかもしれません。(自分にできるかどうかはともかく。)しかし、上で述べた、「物語」を通して心の力を伝えるという試みを無視すべきではないので、最も印象に残った三つの箇所を示すにとどめたいと思います。

上にも述べましたが、本書は『続・こゝろ』を読みながらの方が趣旨にもあいますので、興味をお持ちのかたは、是非手にとってお読みください。

※引用箇所にページ数以外の詳細がない場合は、『心の力』からの引用を示します。

■代替案 (オルタナティヴ)

なぜ生きづらいのか、という問いに対する答として、氏は「代替案」の喪失を指摘しています。昔は、ある現実や価値観が絶対的ではなく、それ以外の道というのも残されていました。例えば、今生きている私達には、ぼんやりとした「王道の人生」というのがあるのではないでしょうか。高校を出たら大学に進学して、良い企業に就職をして、30歳までに結婚をして、...といったように、このように生きたいという価値観があります。しかし、この価値観が絶対化してしまうと、それ以外の道というものが考えられなくなってしまいます。

お世話になっているバイト先の方がよくおっしゃるのですが、大学に入らなければならない、というのは1つの価値観にすぎず、バックパックで世界中を旅したり、留年してでもやりたいことをひたすらやったり、そういったことをする人は最近少ないのではないでしょうか。(大概、この話になると、私の生き方はあまり面白くないとか、もっと冒険しなさいという話になるのですがw)

他にも、いじめを例に挙げて説明されています。中学生の頃は自分が属しているコミュニティは絶対的なものと捉えてしまいがちです。しかし、いじめられているコミュニティにずっと属している必要はなく、他の代替案 (注:氏はこの字にオルタナティヴという読みを振っています)を選んで、たとえば新しい部活に入ったり新しい学校を選んだりすることも可能性としては十分あるはずです。しかし、現実にそうする人は少なく、今自分がいるコミュニティに代替案を想定できる人は少ないのでしょう。個人的な話で恐縮ですが自分も中学の頃はいじめられていても、他のコミュニティ (主にボランティア) があったためにそこまで息詰まることなく過ごせたように思えます。(今となっては強がってこのように言うことができるだけかもしれませんが。)


(補足)
以前、「豊かさとは何か」という記事で、剰余性 (目的達成の手立て以外の無駄なこと) と指摘しましたが、これもある目的を達成するという価値観以外の代替案を得られるという点では、関連しているのかもしれません。

さらに、氏は代替案を考えることこそ心の豊かさであると述べています。

代替案を考えられない心は幅のない心であり、体力のない心だと思います。言い換えれば、心の豊かさとは、究極のところ複数の選択肢を考えられる柔軟性があるということなのです。現実派いま目の前にあるものだけではないとして、もう一つの現実を思い浮かべることのできる想像力のことなのです。 (p.71)

時代として、代替案を考えにくい世の中にあるのかもしれませんが、だからこそ想像力を働かせて代替案を求める姿勢を忘れたくないですね。学校の先生や予備校講師としては、王道コース以外になかなか目が行きにくいこともあると思いますが、それこそ文学などを通して「こうでもありえた世界」というのを体験することで、代替案を考える力はつくのかもしれません。



■卒業証書をもらっても

ちょうど大学を卒業しようとしている自分にはぴったりの話題だったのですが、大学を卒業することの意味とは何なのでしょうか。『こころ』の「私」もこれと同じ問いに直面していたようです。

私は式が済むとすぐ帰って裸体になった。下宿の二階の窓をあけて、遠眼鏡のようにぐるぐる巻いた卒業証書の穴から、見える丈の世の中を見渡した。それから其卒業証書を机の上に放り出した。そうして大の字なりになって、室の真中へ寝そべった。私は寝ながら自分の過去を顧みた。又自分の未来を想像した。すると其間に立って一区切を付けている此卒業証書なるものが、意味のあるような、又意味のないような変な紙に思われた。
(青空文庫、「先生と私」32、『こころ』より)

最近は自分自身、大学の追いコンに参加させて頂く機会が多いのですが、友人と「実感が湧かないね」とよく話します。そういう意味では、卒業証書を丸めて望遠鏡代わりにする「私」の気持ちが分からないでもありません。

そんな彼には、大学に行ったにも関わらず、官僚職などにつかないで本を読んでいる「先生」が興味深かったのかもしれません。『こゝろ』の冒頭部は、大学卒業を控えた青年が真の「先生」を見つけると言うこともできます。たとえ、「先生」は学校の先生ではなくても、青年にとっては「この人についていきたい」「学びたい」という相手こそが「先生」だったはずです。以下の引用箇所もそれに関するものです。

『こころ』を読んだ感想として、こんな声をよく耳にします。
「あの『先生』は、どうして『先生』なの?」
たしかにそれは『こころ』を初めて読んだときに感じる素朴な疑問です。先生は大学教授でもなく。高校や中学の教師でもありません。在野で何かの教えごとをしている人でもありません。それどころか、職もなく、地位もなく、親の遺産だけで食べている「高等遊民」です。...
では、なぜそこまで先生に入れこむのかと言えば、「先生」としか呼びようのない何かがその人にあるからです。凡百の教師にはない、たまらない魅力があるのです。 (pp.115-117)

『こころ』の英訳である "Kokoro" を最近、英会話教室の授業で使用しましたが、「先生」は Sensei と訳されていました。訳注として、
The English word "teacher" which comes closest in meaning to the Japanese word sensei is not satisfactory here. (McClellan, 2010, p.1)
と書いてあったので、職業上の先生ではない意味での「先生」に青年は出合えたのかもしれません。

すると、自分は先生にはたくさん出会ってきましたが、「先生 (Sensei) 」にはどれだけ出合えたのかまだ分かりません。本書を読んでいる自分自身もまた、大学卒業を控えた「私」であり、「先生」を探すことになるのかな、という思いが過ぎります。

■ 偉大なる平凡

この言葉はトーマス・マンの『魔の山』で出される言葉らしいのですが、何しろ自分は『魔の山』を読んでいないため、言及するのは本来避けるべきなのですが...以下の箇所は、とても面白く読みました。

私はここまで代替案の価値観、ということを再三述べてきましたが、それがまさにここに関係します。「項でなくても、あれがある」「あれでなくても、これがある」。できるだけたくさんの選択肢を考え、その中から自分がいちばんよいと思う方法をとる。それが、ハンス・カストルプ的な平凡なのではないでしょうか。それはただの凡庸ではなく、幅と深みと余裕のある「偉大なる平凡」です。 (p.143)

もちろん、社会や時代とまったく無関係に生活することなど不可能で、氏は決して、俗世間から離れろといった点を突いているのではありません。むしろこの世の中で生きる上で、唯一の価値観にとらわれずに、幅を持ちながら対応する。あるいは、他人の意見を聞きながらも、「染まらない」ということを大切にするべきなのかもしれません。

→そう言われると、自分は簡単に染まる人間な気がします....。自戒の意をこめてw。


とまあ、相変わらず、読書感想文なのかエッセイなのかよく分からない文章になってしまいましたが、本書を読みながら自分の考え方を顧みてこれからの生き方に反映させようとするという意味では、「物語人生論」の趣旨には意外とあっているのかもしれません (苦笑)。

古き良き時代の回想にとどまらず、今日の社会が持つ課題にも言及しながら論が進められており、納得もしやすかったです。簡単に読めますが、読み終わって考えると含蓄の多い文章だったと感じます。『こころ』や『魔の山』をまだお読みでない方も、説明があるので理解に支障はないと思います。



参考文献
Soseki Natsume. (2010). "Kokoro". [Translated by McClellan, E.] Peter Owen.
姜尚中. (2014). 『心の力』.集英社新書.
夏目漱石. (1914). 『こころ』. 青空文庫 (http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/card773.html)

2014年2月11日火曜日

第3章 方向的等価

こんにちは。

昨日、食堂のバイトに行くと、「チキン他人丼」というメニューが新しく出ていました。「鶏肉が入っているのに、どうして他人?もう親子で良いのでは?」という疑問が解決せず、バイトの先輩と話しこんでいた mochi です。(未だに謎が解けないw)


さて、翻訳勉強会の準備として、第3章のまとめを下に載せます。

引用箇所は最小限にとどめ、自分なりの解釈や具体例をはさんでいるので、本書に忠実というわけではありません。客観的な理解を望まれる方は、本書を手にとってお読み下さい。


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第3章 方向的等価



チェスタマンによる2つの類似性

前回の第2章と本章を結び付けるには、チェスタマンの以下の分類が分かっていると大変分かりやすいです。

(1) 分岐的類似性 (divergent similarity)

A → A’
    A''


これは、翻訳者が翻訳作業をどう見るかを表しているかもしれない。つまり、新しいテクストが生成され、それはいくつかの点で起点テクストに似ているが、起点テクストに取って代わるものではないし (起点テクストは存在し続ける) 。多数の可能な訳出のうちの一つにすぎない (他の翻訳も可能であり、将来は別の翻訳が生まれる可能性もある) 。 (p.44)

→ポイントは、①方向性がある、②多様な訳出の一つにすぎない、の2点である。たとえば、親が子どもに似る、ということはあるが、子どもが親に似る、ということは(遺伝では)考えられないため、方向性があるといえる。また、親(A)から子1(A’)が生まれても、子2(A’’)や子3 (A''') という他様な姿にもなりえたわけで、多様な選択肢の1つという点も合致する。

(2) 収束的類似性 (convergent similarity)

A ⇔ B

これは、翻訳の受容者が翻訳をどう見るかを表しているかもしれない。つまり、Aに求めるものがBにもあると想定している。  (p.44)


→ポイントは、①方向性がない、②唯一の訳出しかない、という2点である。翻訳をしたことがない人はしばしばこのような考え方をするわけで、塾で生徒にある単語の訳を複数 (then はそして、それから、そのときetc…) というと戸惑った顔をすることがあるのは、彼らが収束的類似性を持っているからだろう。また、この収束的類似性は自然的等価に対応しているのではないか。

⇒さらに追記。英英辞書 (monolingual dictionary) は分岐的類似性で、英和辞書 (bilingual dictionary) や単語帳は収束的類似性的発想とはいえないか。


■ 方向的等価とは

ここまで読むと、方向的等価は分岐的類似性に基づく概念であることが理解しやすい。

方向的等価とは、ある方向で翻訳した際に作り出される等価が、逆方向に翻訳した際には成立しない、というアシンメトリー (非対称的) な関係を指す。 (p.42)

※以下の動画は相変わらず分かりやすかったです。




例えば、ジブリ映画の翻訳を考えよう。「千と千尋の神隠し」は多くの言語に翻訳されており、英語版では "Miyazaki's Spirited away" とされている。もしも自然的等価の立場なら、「千と千尋の神隠し」と等価なものが自然にあると想定し、「千と千尋」という部分が抜けている英語版タイトルをあまり等価としないかもしれない。しかし、方向的等価では、日本語版から英語版に訳すときに、翻訳者が数ある訳出方法の中から "Spirited away" という表現を選ぶわけである。なぜ方向的かというと、ジブリ映画の場合は日本語から英語に訳すという方向性があるためである。

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ちなみにドイツ語版では、 "Chihiro's Reise ins Zauberland" (千尋の神の国での旅) と訳されており、日本語版での 「神隠し」 というニュアンスからは少し離れている気がしないでもない。


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↑ドイツ語勉強のため、ただいま注文中(^^) 春休みの楽しみの1つです!(笑)


方向的等価の特徴として、多くの理論が二項対立であることがある。たとえば、顕在化翻訳は潜在化翻訳と対立であるし、ナイダの形式的―動的も対比といってよいだろう。

さらに面白いのは、翻訳の定義にも方向性が見られることがあるということだ。以下は有名なナイダによる翻訳の定義である。

翻訳とは、起点言語のメッセージに最も近い自然的等価を受容言語にて再現することである。 (p.45) 

これも、「再現する」という語が示すように、起点言語から目標言語へという方向性が見られるため、方向的等価の立場にある。ただ、「再現」ということは、もともと自然に等価があることを含意しているため、まだ自然的等価の要素も残している。後のキャットフォードは「置き換える」という表現を用いており、その頃には完全な方向的等価しか感じられない。


■ カーデ (Kade) による等価の種類

カーデの分類は、以下の通り。無学なため、初めて知った区分なのですが、とても納得できるところがありました。

(1) 一対一 (Eins-zu-Eins)
起点言語の一つの項目が目標言語の一つの項目に対応する。特に専門用語の訳出は、起点言語にも目標言語にも対応するものが1つしかないことが多いため、一対一である。カーデ自身はこれを「完全等価」 (p.48) と説明している。

(2) 一対複数もしくは複数対一 (Viele-zu-Eins)
ある言語の一つの項目が、別の言語のいくつかの項目に対応する。先ほどの「千と千尋の神隠し」も色々な訳し方が英語では考えられたはずで、そのうちの1つの "Spirited away" を用いたのならば、これに属するだろう。

(3) 一対部分 (Eins-zu-Teil)
部分的な等価のみが可能で、その結果、「近似的等価」となる。中学1年生に英語を教えていて毎年起こることだが、「brother は兄・弟の両方を指すんだよ」と説明すると、「えー!?」「なんで!?」「兄さんだけを言いたいときはどうすればいいの?」と混乱する子も多い。これは、brother という単語の意味の一部のみが日本語の「兄」あるいは「弟」という語によって表されているからである。つまり、brotherには年上・年下の両方の意味があっても、「兄」には年上、「弟」には年下という意味しかない。


(4) 一対ゼロ (Eins-zu-Null)
目標言語において等価が存在しない。南蛮学時代に philosophy という単語を訳出するとき、フィロゾホと訳している。これは、 philosophy というものに対する等価が当時存在しなかったためだろう。(「哲学」という言葉は明治時代の西周まで使用されなかった。)一対ゼロの場合は、手法としての借用を行うこともあるだろう。


■ 方向的等価の二項対立性

キケは、ギリシア語からラテン語への翻訳における二つの異なる方法を概念化した。一つは ‘ut interpres’ (直訳主義の解釈者の如く) 、もう一つは ‘ut orator’ (演説者の如く) で、つまり、直訳的か意訳的かということである。 (p.51)

→この「直訳か意訳か」という対立は方向的等価によく見られる区分であり、その後以下のような理論へと派生していった。たとえばキケロの「直訳主義の解釈の如く」「演者の如く」は翻訳者の解釈が入り込む余地の違いで対立関係にある。他にも、シュライアーマハーの「異化作用」と「同化作用」、レヴィーの「反・幻想的 (翻訳にみえる翻訳)」と「幻想的 (翻訳にみえない翻訳)」などもある。

このような二項対立を知ると、その中間もないのかと気になるが、ピムはあくまで二項対立は翻訳者の思考様式の便宜上の区分にすぎないとしている。

翻訳には二つの側面(起点と目標)があるので、自己言及を達成するには二つの方法が可能であり、翻訳者がどの立場から訳すかには二つの可能性がある、ということだ。これは、方向的等価はある種の翻訳にとっては非常に適した思考様式であり、二側面のみに目を向けたそのような翻訳は、人々を個々の言語や国に振り分けて一方の側に留めておくのに特に適していると示唆しているかもしれない。 (p.58)


■ 関連性理論 (Gut)

ガットという人物は、自然的等価は無限の等価を作り出すことができてしまい、理論としては自由度が高すぎるという点で批判し、方向的等価の二項対立を二区分する。

まず、 顕在化翻訳(翻訳っぽい翻訳)と潜在化翻訳(翻訳っぽくない翻訳で、まるで原典などなく自分の言語で書かれたと思えるような翻訳)に区分し、顕在化翻訳のみを対象とする。そして、 顕在化翻訳の中でも、以下の通り区分した。 (p.59)
・「間接的翻訳 (indirect translation) 」・・・起点テクストの文脈への参照なしに成される全ての種類の翻訳
・「直接的翻訳 (direct translation) 」・・・起点テクストの元の文脈を参照するもの

少し話が抽象的になってきたので、ここで具体例をみてみましょう。(うちの大学の方はどこかで見たような例かもしれません。)

会社で夜遅くまで仕事をしています。皆さんの隣に座っている同僚は仕事に忙しそうで、コーヒーを入れてあげることにします。あなたは、 「コーヒーはいかが」と尋ねます。そのときに、相手が 「コーヒーを飲むと目が冴えるからね」 と言ったとき、あなたはコーヒーを相手に入れますか?それとも入れませんか?


この話の解釈には、相手のイントネーションや言い方も必要ですが、文脈によって私達は相手の意図を推定することができます。もし相手が今日中に仕事を片付けなければならないとすれば、「コーヒーを飲めば目が冴えるから、ありがたくいただくよ」という意味にとれるので、コーヒーを入れてあげるでしょう。

しかし、これが唯一の解釈ではありません。相手が明日朝早い仕事があるのかもしれません。今日はこの仕事が終わったら家に帰ってすぐに寝たいと思っているのかもしれません。それなら、先ほどの発話は「コーヒーを飲むと目が冴えてしまうから、今日は遠慮しておくよ」と、先ほどとは逆の意味になり、コーヒーの申し出を断る発話として解釈されます。

これが関連性理論のいう guided interpretation なのですが、翻訳学に話を戻します。

みなさんは、これから上の話を英語に訳すとしましょう。みなさんは翻訳者なので、この話の前後の関係も理解していて、正しい解釈が「発話者が今日中に大量の仕事を片付けなければならないので、コーヒーを欲しがっている」ということが分かっています。(先ほどの前者の解釈になります。)

このとき、翻訳者は以下の2通りで訳すことが可能だとしましょう。
(a) 「Coffee would keep me awake」
(b) 「Yes, please. Thank you.」

さて、どちらの方がよりよい翻訳なのでしょうか。

(a) の方が原典に忠実ですが、もし文脈が読み手に伝わらないなら、勘違いが起きてしまうかもしれません。 (b) (c) は解釈の可能性が限定されますが、原典から離れています。この問いに対して、ガットなら以下のように答えると想定されます。
つまり、この問いに答えるには、文脈が相手に伝わるかどうかが肝心で、 (b) を読む人は想像力を働かせる必要があります。(「コーヒーの申し出を受けたということは、まだ仕事がたまっているか疲れているかだろう。」)


関連性理論については、春休みの勉強会で使う以下の本が参考になります。(自分も格闘中ですがw)


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2014年2月8日土曜日

最高の離婚スペシャル

mochi です。


最高の離婚スペシャルが最高に面白かった!



いやはや、これまたひどい記事ですね笑。

それにしても面白かった!真木よう子の最後の長台詞シーンは圧巻で、瑛太がじっと黙って聞きながらお互い成長した姿を見せる、という演出がすごく良かったですね!まさに現在感の高まり。

それと個人的には冷凍たこ焼きが最も粋だったと思います。(それに対する瑛太のつっこみも。)


さて、次はちゃんとしたのを書きたいと思います。笑。



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2014年2月2日日曜日

第1章「翻訳理論とは何か」、第2章「自然的等価」



学部の友人と院の先輩と行っている翻訳学勉強会。次のテクストが「翻訳理論の探求」に決まりました。というわけで、早速まとめ。


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(注)勉強会用のまとめノートとは別にこの記事を書いているので、引用箇所が少なく、自分の主観だらけの記事になっています。正確・客観的な翻訳学のまとめが必要な方は、本書をぜひ手にとってお読みください。また、過去の記事で重複している内容や、「翻訳学入門」に詳しく載っている箇所についても省略しています。ご了承ください。

第1章 翻訳理論とは何か


■ 個人の「理論づけ」から公の「理論」、全体的な「パラダイム」へ

翻訳者は常に、「翻訳とは何なのか」、「翻訳はどのようになされるべきか」という問いに対するさまざまな考えを検討している。つまり、理論づけをしているのである。 (p.3)
しかし、個人レベルで内的に行われる理論づけが常に公的な理論になるわけではない。翻訳者の間では、議論になることもなく標準的な言葉が受け入れられることがほとんどだ。 (p.5)

→翻訳作業中の翻訳者の信念 (理論づけ) は、対立する主張と肉薄すると、明示化されて「理論」となる。たとえば、ある単語の訳に対して4人の翻訳者が各々の理論づけを述べ合う。

このような類の議論が起こると、翻訳作業中の理論づけが明示的な理論に転換する。その結果、ある理論の方向へ傾くこともあるし、当初は対立していた主張も、より大きな理論の中にあっては共存できるようになるかもしれない。しかし、多くの場合、人は自らの定位置を変えず、議論を続けるのである。 (p.5)

→理論によって思考の枠組みを獲得することで、他者との議論はしやすくなる。しかし、仲正氏が『今こそアーレントを読み直す』で警告するように、「他の物語の可能性を完全に拒絶すると、思考停止になり、同じタイプの物語にだけ耳を傾け、同じパターンの反応を繰り返す動物的な存在になっていく」だろう。

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さらに、理論が翻訳のさまざまな理論について説明していくにつれて、パラダイムが完成する。

ここでのパラダイムとは、さまざまな理論群の根底をなす原理の集合という意味である (Kuhn 1962 が概略した一般的な意味)。特に、全体的な思考、関係性、原理において内的な一貫性や共通する出発点をともなう場合、パラダイムは成立する。 (p.6)

→コンセンサスを得られるのがパラダイムの魅力。等価パラダイムについて議論する者同士であれば、個々の理論づけが異なっていても理解可能である。逆に言えば、パラダイムが異なる者同士の議論は噛み合わない。

英語教育でも「英語は技能教科 (teaching) 」というパラダイムか「言語感覚や人間性を含めた広い意味での教育 (education) 」パラダイムかによって、お互いの議論は噛み合わないだろう。(例:翻訳は英語教育にとって有用か?文学は英語教育の教材足りうるか?以下略。笑。)

さらに「等価のみ」とか「文化翻訳のみ」ではなく、翻訳学でこれまでに主流とされてきたパラダイムを概観することで、複眼的な思考が可能となる。


マンデイの『翻訳学入門』のとき、翻訳理論を一通り学んだと思い込んでいましたが、この「パラダイム」という視点を加えてみると、今までとは異なった理解が可能なのでは?と期待し、早速第二章へ。


第2章 自然的等価


■ 等価とは

等価といっても、原文と訳文の間には必ず不一致が起きている。音の響き、文の長さ、あるいは意味や指示対象など、何かしらのずれが起きる。そのため、等価概念ではつねに階層が意識される。(談話、文、形態、など。)全ての階層で等価が保たれることはおそらくないだろう。
等価といっても、言語そのものが同じということではなく、価値が同じでありうるということだ。 (p.11)
等価の概念はこうした全ての例の下敷きになっている。等価とは、先に定めたように、翻訳はその起点テクスト(のある側面)と同じ価値を持つということである。(p.14)

本書では等価概念を「自然的等価」と「方向的等価」に分類している。第二章で扱うのは自然的等価なのだが、とりあえず言語学の構造主義の台頭の話。(実はここがピムの最も強く主張している部分のように読める。)


■  言語の構造主義的見方では等価(さらに翻訳行為)など到底不可能である

言葉の間にあるこのような関係は、それぞれ異なる「構造」と見なされ、言語とは、そのような構造が集まったもの(つまり、「システム」)と考えられていた。こうして、構造主義 (structuallism) では、事物そのものを分析するのではなく、その関係を研究すべきだと主張された。 (p.17)

例えば、sheep という英語は牛でもなく羊肉でもない生き物としての羊を指している。しかし、フランス語ではmuttonが羊肉も羊も指している。構造主義ではこのような関係を想定するため、言語間の翻訳は不可能と考えた。現に、英語のsheepをフランス語でmuttonとすると、原典になかった「羊肉」という意味が加わってしまう。

仮に上の構造主義の主張を前面に取り入れてしまうと、そもそも翻訳など不可能な営みではないか。しかし、現実的に翻訳者が存在しており、多くの知識が翻訳によって自国に輸入される(特に日本では)。言語学は、意味成分分析や言語使用などを用いて、構造主義へ反論する。


■ 自然的等価

自然的等価は人工的に生み出されるのではなく、自然界にすでに存在しているものを翻訳者が見つけ出すのである。以下はYouTubeで公開されているピム自身の解説の一部と自分なりの翻訳である。



These theories suppose  that translator sees the problem, grasps the value and looks around in the target language and the target culture for the item with the same value. OK? So, the translator looks for an equivalent that exists already somewhere in the language and culture. That would be natural equivalence because the equivalence is presumed to exist prior to the act of translating. 
この理論 (自然的等価) では、翻訳者が問題を見つけ、どの価値か理解し、目標言語・文化の中から同じ価値の項目を見つけることになる。つまり、翻訳者はすでに言語や文化に存在する等価を見つける。このような等価は翻訳行為をする前から存在するとされているため、自然的等価になるだろう。(強調は訳者による)
この映像解説は本当に分かりやすかったので、ぜひご覧ください。(それにしてもひどい訳↑w)


■ ヴィネイとダルベルネの一般的手順 (procedures)

大まかな説明は「翻訳学入門」にもあったが、本書では「韻律効果 (prosodic effects)」も概説している (pp.25-26) 。

・拡大化 (amplification)・・・同じ考えを表現するのに訳文が起点テクストより多くの単語を使うこと。
・希釈 (dilution) ・・・拡大化が必須であるとき。
・縮小化 (reduction) ・・・拡大化の逆
・明示化 (explication) ・・・基点テクスト中では暗示されているにすぎない明細を翻訳が提供すること
・暗示化 (implication) ・・・明示化の逆
・一般化 (generalization) ・・・特定の言葉が、より一般的な言葉に訳されること。
・特定化 (particularization) ・・・一般化の逆

ここで重要なのは、拡大化―縮小化、明示化―暗示化、一般化―特定化がそれぞれ逆になっていること。それこそこれらが自然的等価であることを示している。というのも、もしも方向的等価であれば逆概念は生まれ得ない(方向的等価は一方通行だから)。

→ここから、「比較のための第三項」「意味の理論」などが紹介されるが、詳しくはJuliane House (2008) の記事参照。

■ 自然的等価への反論

もちろん自然的等価は全て否定されるわけではなく、構造主義の時代に翻訳の存在を擁護した点は認められるべきだろう (pp.33-34)。しかし、自然的等価に対しては多くの否定的議論も存在する。そのうち代表的なものに、ホーンビーの「 自然的等価は存在しないシンメトリーを前提としている」という反論がある。つまり言語間翻訳という変換に関して、どのような代数 (個別言語) を代入しても不変 (同じである) という言説である。自然的等価理論者全員がそのような前提を持っているわけではないが、確かに「全ての言語は同等の表現力を持つと想定する傾向がある」(p.35) らしい。


ピム自身は等価を「近年のパラダイムと並んで、また、それらのパラダイム内においても重要な位置を占めるに値する (p.12) 」と述べている。方向的等価では自然的等価の欠点を補いつつ新たな理論を構築していくと考えられる。