2015年12月28日月曜日

西口光一 (2013) 『第二言語教育におけるバフチン的視点ー第二言語教育学の基盤として』くろしお出版の「対話・対話原理」に関する勉強ノート

mochiです。

最近、対話論にはまっており、ふとM1の頃に買ったこの本を読み返していました。

第二言語教育におけるバフチン的視点-第二言語教育学の基盤として
第二言語教育におけるバフチン的視点-第二言語教育学の基盤として西口 光一

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去年の自分にはちんぷんかんぷんだった箇所も、多少は理解できるようになりました。

思えばバフチンは、ヘーゲルや柄谷行人、バイラム、オープンダイアログなど、大学院で出会った多くの本で繰り返し言及されていました。まだ内実はよく理解できていませんが、少なくともバフチンの言語観で鍵概念とされるいくつかの語(宛名性、ポリフォニー、言語的交通、信号-記号)はだいぶ分かってきました。


以下は、特に第8章の中で重要と思った箇所の書き抜きノートです。


なお、著者の西口先生は、1月に『対話原理と第二言語の習得と教育 ―第二言語教育におけるバフチン的アプローチ』という本を出される予定です。そちらも大変興味深い内容になりそうなので、ご興味をお持ちの方はぜひお読みください。

対話原理と第二言語の習得と教育 ―第二言語教育におけるバフチン的アプローチ
対話原理と第二言語の習得と教育 ―第二言語教育におけるバフチン的アプローチ西口光一

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第8章 対話と対話原理


はじめに

対話原理とは、文字通り人間の社会的な相互行為についての対話的な見方と言うことである。(が、実際はそこまで単純ではない。)

1. 発話の対話的定位
1.1. 対話的定位再考

言語的交通において相手の発話を理解するというのは、信号としてではなく、具体的な脈絡の中において、それに対して然るべき位置を見出してやることである。

「あらゆる理解が、対話性をもっているものです」 (『マル言』pp.226-227) (p.123)

これ以降、「発話」 (yskazyvanie) 3つの特性 (境界性、完結性、対話的定位) について考察する。

1.2 発話の第1特性: 境界性

言語コミュニケーションにおける具体的発話の単位は、話者が交代することにより決定される。

⇒つまり、発話権 (floor) を受けてから相手に渡すまでが一単位ということか。

⇒口頭発話なら分かりやすいが、書き言葉の場合はどのように定義するのだろうか。

1.3. 発話の第2の特性: 完結性

発話の完結性は「すべて言い終えた(あるいは書き終えた)ことで成立する」。 (p.126)

どのような発話であっても、返答することが可能であり、その発話に対して返答の立場を占めることが可能である。そして、返答可能になるには、(i) 意味内容が尽くされている、(ii) 発言の意図・意思が理解できる、(iii) 発話を完成させる構成上・ジャンル上の類型的な形式が観察されること、の3要因が結びついている。

(ii) 我々が発話を聞くとき、相手の発話の意図・意思をすばやく理解し、その発話の全体を察知する。

このコミュニケーションの直接の参加者たちは、状況や選考する発話のなかでみずからを定位しつつ、話者の発言の意図、発言の意思を容易にすばやく把握し、そのことばを耳にするなり、これから展開する発話の全体を察知するのである。 (『ジャンル』p.147) (p.127)

⇒即興対話でも同じようにいえる。他者が発する言葉を理解し、自分がとるべき立場を瞬時に理解し、その発話の行き先を考えながら自分も言葉を発するという関係が二重に(お互い)成り立っているのだろう。

発話を聴く側は、発話の意味を推測しているのではない。むしろ発話そのものを推定しているのである。そしてこの過程は社会歴史的な能力というヒューリスティックによって可能となる。

⇒ウィトゲンシュタインの「ライオン」の言語ゲームの例を思い出す。

1.4. 発話の第3の特性: 発話の対話的定位

文や語は作者を持たない。それが全一な発話として機能することによって、語る個人の立場を表す。(発話の対話的定位)

言い換えれば、「文」や「語」は脱身体化・脱文脈化された抽象的・理念的なラングであるのに対し、「発話」は身体化・文脈化された具体的状況におけるパロールである。

発話の対話的定位は、(i) 対象意味上の課題、(ii) 発話の表情、(iii) 対話的な立場取り、の3つの要因がある。

(i) いかなる発話も対象意味内容の課題(意図)によって第一にジャンルが選択される。(発話の対象定位)

(ii) 表情の要因とは、話者がその発話の対象意味内容にどのような態度を取るかである。

⇒ここまでの話を「時計が壊れた」という文で考えてみたい。「時計が壊れた」という「文」自体には、一切の感情が排されている。この文には悲しみも喜びも憎しみも何も込められていない、中立的-さらにいえば機械的な-文と言える。ところが、一度この文が「発話」として発せられた瞬間、この「発話」には表情が込められる。時計が壊れて残念なのか(「あぁ、彼女からもらった大切な時計なのに」、嬉しいのか(「やった、次の時計を買えるぞ」)、表情豊かなイントネーションが込められる。

(ii) 特に、「イントネーション」は聞き手・言葉の選択・意味づけなども規定する。また、イントネーションは、聞き手に対してと、第三の生きた発話の対象に対してという二つの方向に向けられている。

⇒つまり、イントネーションによって、その言葉の宛て先 (address) が明らかになるし、イントネーションによっては既に使われえない言葉が排除され、意味も排除される。さらに、そのイントネーションは、聞き手に対する表情 (utter to whom) と発話対象 (utter about what) に対して表情を見せるということ。

1.6. 対話的定位の第3の要因: 対話的な立場取り

文体論によって扱えるのは、上の (i) (ii) のみである。しかし実際の発話のスタイルや構成は、はるかに複雑である。

なぜならいかなる発話も、その発話がなされる前に同じ領域で発された発話に対して返答しているとみなされるからである。

発話をするということは、ある場において、自身の発話が何かしらの立場を取る行為である。

⇒以下の一文が面白いが、まだ理解が完全にできていない。

何かについて語るとき、話し手はそれについて語った専攻する諸々の(他者のあるいは自身の)発話の中からいずれかを選んで語る。逆の言い方をすると、一つの発話(外言)は、実際には言われなかった諸々の発話を後に残して行われるのである。 (p.135)

⇒つまり、ある発話を行うということは、それ以前になされた発話と何かしら結びつき、さらにそれ以降になされるであろう発話と何かしら結びつくであろう、ということか。

発話は宛名性 (addressivity) をもつ。

⇒「文」や「語」には宛名がないが、「発話」は作者によってある他者に対して宛てられる。

話し手は、自分の発話を構築するときに、受け手の返答を「能動的に確定しようとする」 (p.137)

⇒能動的に確定しようとする際のメディアは、潜在的にそのコミュニケーションの地平下に隠れている。そのメディアとは、それ以前になされた発話およびそれ以降になされるであろう発話である。一つの発話がなされるということは、そうした潜在的な発話との対話によって生まれるということであり、その意味で多くの声が鳴り響いている (polyphony)


2. 対話的交流と対話原理
2.1. 対話的空間と対話的交流

対話的空間には、多くの(潜在的な)声が鳴り響いている。

言語活動に従事する主体においては、現下の問題あるいは対照についての過去及び先行する様々な発話及びそれに対する応答、そしてそれらの応答に対するさらなる応答などのさまざまな声が、さまざまな意識レベルで交錯し共鳴する対話的な空間が立ち現れる。そのようなポリフォニックな対話的空間にある他の主体はその声を耳にしてその声に対してまた応答するのである。 (p.138)

さらに意識内では、内言として新たなポリフォニックな対話的空間を作り出す。

このように、ことばのやり取りを観察可能な表面として人と人の間で行われる相互的な行為は、実際には、内言としてそこでたち現れるさまざまな声を含めた変化し続ける一つのポリフォニックな対話的空間ともう一つのポリフォニックな対話的空間との間で行われる相互作用なのである。 (p.139)


今後もバフチンに関する勉強は少しずつ続けていきたいなと思います!

2015年12月26日土曜日

多田孝志 (2011) 『授業で育てる対話力―グローバル時代の「対話型授業」の創造―』教育出版


こんにちは!mochiです!2015年もあと少しですね。


大学院の課題で、ある研究授業の分析をすることになりました。その授業は私が尊敬する先生がされたもので、自分がその公開授業の場で感じた「すごい!」という感覚を、なんとか言語化して自分の授業にも取り入れたいと思って取り組むことにしました。

その研究授業の構成は、前半が学習者のプレゼンテーション発表を中心にしたクラスディスカッション、後半が本文を通して自分を見つめなおして考えたことを話すミニスピーチでした。そのどちらも大変面白く、また生徒さんの英語力や学習への取り組みも素晴らしかったです。

自分のような大学院生に到底分析できるような代物ではありませんが、せっかくの機会なので自分の関心である「対話」を分析の観点として、対話授業における先生の役割や対話活動の分析をしようと思っています。

「対話」に関する漠然とした興味はあったものの、教育実践としての「対話」についてはまだまだ無知です。そこで、対話研究の専門家でいらっしゃる多田先生のご著書に当たることにしました。多田先生の名前は恥ずかしながらつい最近知ったばかりで、以前日本語教育学の細川先生と対談をされていた際の動画を拝見し、この先生から学べることがたくさんあることを確信しました。

今日紹介する本も、「対話」授業に興味をお持ちの方には大変お薦めです。本書の構成を簡単に説明すると、対話が必要な時代背景の説明、対話実践を支える理論的根拠、そして実例を交えながら対話実践の方法論、となっています。授業で取り入れるなら後半のみで十分ですが、個人的には前半の理論部分が大変面白く感じられました。

授業で育てる対話力―グローバル時代の「対話型授業」の創造
授業で育てる対話力―グローバル時代の「対話型授業」の創造多田 孝志

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以下、特に面白いと思った箇所を紹介します。




■ 多文化「共生」の「グローバル時代」に求められる「対話」

多田先生は序文で「グローバル時代」における対話の必要性を強調します。ここで言う「グローバル時代」とは、「多文化共生社会の現実化を直視し、多様性を尊重し、生かし合う時代」(p. iv) という意味で用いられており、流行言葉として巷で言われるグローバルとは必ずしも一致しません。

さらに、「共生」という言葉は「多様な人々との相互理解を深め、親和的かつ相互扶助の関係を醸成し、また、文化や価値観・立場の違いや、異なる意見による対立を乗り越え、対話や共同活動を通して、新たな知見や価値を生み出し、そのプロセスで創造的な関係を築きあげていくこと」(p.33) と説明されています。ここから、「共生」も決して理想観望的な言葉でなく、現代の状況を冷静に分析した上でお互いの存在を承認し合う必要性を直視しており、地に足がついた議論であることがわかります。
(とは言いつつ、対話論が多少の理想を含むことは否めないとも思います。その点については最後に感想で書いています。)

本書の論立ては、ただ単に「対話をしましょう」と無闇に対話活動を礼賛するだけではありません。(その意味では重い文章だとも思います。)対話相手が「他者」―すなわち根源的にわかりあうことのできない存在―であることを自覚し、価値観や利害関係、文化・歴史的記憶が異なることを踏まえて、その上でいかに共に生きることができるかを探究することが求められるという点も踏まえられています。

このようなグローバル時代に、筆者は「合意形成を唯一の目的としない・話し合うこと自体に意味をもたせる対話」 (p.12) を体験する必要があると言います。たとえば共通コミュニティの成員同士として社会・未来のあり方に関して話したり(例:「楽しい学級にするには」「地域社会を希望あるものとするためにできることは」、多様な知見を結びつけて知的連帯を楽しむ対話をしたり(例:「生きがいのある人生とは」)することが考えられます。これらの問いに対してクラス全体で絶対解を出す必要性はなく、そのクラスとしての納得解を各々が持っている状態であれば良いはずです。

多田先生は、そのような対話に不可欠な5つの対話方法(留保条件、部分含意、段階的解決、発想の転換、第三者による調整)を示しています (p.13) 。ここでは詳説を避けますが、このような対話方法を明示的に学習者に指導しておけば、コミュニケーションがクラッシュしそうになったときに学習者間で調整し合い、対話が「自己治癒」しながら継続することも可能となるかもしれません。





■ 「どの子にも語る力、考える力はある」「どの子も認められたい、発言したいと願っている」

多田先生の理論の根底にあるのがこの考え方です。先生の高校時代のある経験から、大前提としてクラス全員に語る力・考える力があることを学んだそうです。(この経験については本書を読んでお確かめください。)

思えば自分も、クラスではあまり活発でありませんでした。クラスの雰囲気やペア相手の子との人間関係など、他者の目が怖くて話せないという生徒はたくさんいると思います。それでも多田先生の仰るとおり、全ての子は「話したい」「聞いてもらいたい」「認めてもらいたい」という欲求を持っているのだと思います。

(※この点は、苫野先生の「承認欲望」の議論とも似ていると思いました。まだきちんと比較検討ができていませんが、両者の議論は非常に相性が良いのでは、というのが自分の意見です。)

さて、このような寡黙な子どもも対話授業に参加できるために、教師は「コメント力」 (p.72) が求められます。コメント力を学ぶのに最も良いのは、ハーバード大学のマイケル・サンデル氏の授業だといいます。自分もマイケル・サンデル氏の授業は、学部生の頃にはまっていました。対話授業をする際、サンデル氏のコメント力から学べることも多そうです。以下はほんの一例です。

・確認
・補説の要求
・反対意見の指名
・新たな視点を導入して「どう思うか」と問い掛ける
・別のケースを導入して新たな問いを出す

サンデル氏のビデオはもう一度じっくり観て、対話を促す声かけとして整理したいと思います。


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■ 「浅い対話」と「深い対話」

ただし、何でもかんでも「対話」をすればよい、という話ではありません。この部分が本書の最も魅力的な箇所だったのですが、「対話」の中でも浅い対話は避けて、「深い対話」を志向すべきという議論もされています。

「浅い対話」は情報の共有や指示伝達を主目的とします。そのため、権力構造の雰囲気で、閉鎖的・パターン化された発言がなされます。浅い対話の参与者は必ずしも相互理解をする必要はなく、上辺だけの人間関係で成立します。

それに対して「深い対話」の主目的は、「叡智の出し合いによる共創」です。複数の人間が集まって交流することで、知的爆発・知的化学反応が起こり、そこから新たな考え方が生み出されます。そのために、自由に意見を言い合う雰囲気が成立し、多様性が尊重され、相互理解を深めていきます。

本書はもちろん「深い対話」を成立させることに主眼を置いており、実践紹介でも「深い対話」をする生徒の姿が描かれています。その中でも特に私が重要だと思ったのは、教師が「ねらい」を分析することの必要性についてです。



■ 「ねらい」の分析

私たちが授業のために作成する指導案には、必ず「ねらい」(目標)が明示されています。英語科であれば、「読んだことや経験に基づいて、自分の考えを口頭で表現する」や「文章の要点を理解するために読む」などです。教師のねらいは通常一文で書くことが一般的です。教師がその時間中に身につけさせたい知識や技能を明確にするためです。

多田氏は、教師が「ねらい」を分析しなければ深い対話にすることができないといいます。これは氏が小学校の道徳の授業を見学した際のことですが、授業のテーマは「友情」で、二人の小人を主人公にした読み物教材が用いられたそうです。ストーリーとしては、せっかく見つけた食料をもう一人の小人が持っていってしまうというもので、授業の中心発問はその友だちの気持ちを考えさせることでした。

多くの子が「許してあげる」という意見を述べる中で、「本当の友だちなら許さない」という発言をした子が一人いたそうです。その先生はあまりその発言に注目せずに次の子の発言に向かったそうです。これについて多田先生は、もし授業者の先生が「友情について考えさせる」というねらいについて、より多角的な分析考察をする必要があったと評されています (p19) 。たしかに、「友情が大事」という意見のみに収斂しないで、「ではどんな友だちが良い友だちだろう」とか「友だちが悪いことをしたときはどうする?」といった次の発問につながっていたかもしれません。

もちろん対話授業以外のすべての授業にも当てはまることですが、指導案にねらいを1文で書く際も、より具体的・多角的に考える必要があるなと実感しました。



■ 最後に

以上が本書のまとめです。改めて、本書から多くのことを得られたことに気付かされます。ただし、以下の点について疑問が残りました。

(1) 「システム」という言葉が本書で繰り返し出てきましたが、きちんと規定されていなかった印象があります。たとえば以下の文。

かかわり・つながりを重視する時代ともイメージしています。時間・空間・問題とのかかわり、自己や他者・社会や自然とのかかわりを基調にものごとを考え、感じ、判断し、行動する――換言すれば「システム思考」の時代と捉えています。 (p.iv)

ここで「システム」という語がどのような意味合いで用いられているのかがピンと来ませんでした。仮に「システム」を「要素と連関を持ったひとつの体系」とでも定義するなら、世界を生態系として捉える姿勢のことを言いたいのだと類推できますが。

(もしかしたら私が「システム」という言葉に想いを込め過ぎているのかもしれませんが。笑)


(2) 本書は対話の必要性を丁寧に説明されていました。ただ、対話論の限界もあるのではないでしょうか。たとえば今問題になっているISやヘイトスピーチの問題に、「対話」論はどこまで対応できるのでしょうか。あるいは対話を放棄するような相手に対してどのように対話を持ちかけるか、という点については対話授業で前提とされていない印象をうけました。(かなり発展的な内容になるのも事実でしょうが。)


(3) 最後に英語科の視点からですが、英語科はあくまでの技能育成の教科として位置づけられます。とすると、「題材について」対話する(例:読んだ文章から分かったことを話し合う、筆者の意見を批判的に検討する)ことも考えられますが、「言語について」対話する機会、言い換えればメタ言語的な視点で対話をする機会もあって良いなと思いました。
同じ「吾輩は猫である。名前はまだない。」という文を、A君とB君が異なった訳し方をする、というのも立派な「他者性」で、対話の契機になりうると思います。(このような対話についてはあまり本書では扱われていなかった印象があります。)



以上が感想です。

私が本書を読んで「対話」について考えをゆっくり深められたことは事実で、良い買い物だったと思います。

「対話」教育についてご意見やご経験をお持ちの方がいらっしゃれば、ぜひコメント欄にお書きいただければ大変幸いです。

今年も多くの方に来訪いただきありがとうございました。
来年も時間を見つけて読書記録や思考の整理をして、さらにブログ記事も書きたいと思っています。
来年もどうぞ「もちサバニン日和」をよろしくお願いします!
それでは、よいお年を!

mochi

2015年12月21日月曜日

Anthony Pym 教授の講演会に参加して

こんにちは。mochiです。
2015年もあと10日ですね。
今年も本当に色々なことがあって、充実した経験を積ませて頂きましたが、同時に反省すべき箇所も多かったなと思います。

とりあえず修士論文を書き終えて、4月からの教員生活に向けてできることを一つずつやりたいと思います。

今回は研修ノートです。

2015年12月14日 (月) 、立教大学異文化コミュニケーション学部主催2015年連続講演会に参加させて頂きました。

講演は、翻訳論の大家であるAnthony Pym 氏が話されていて、テーマは"Where Translation Studies lost the plot: creating knowledge when everyone can translate"でした。

ちょうど自分の修士論文のテーマと関心が重なっており、大変刺激を受けてきました。ここに、講演の要点と、自分の感想をまとめたいと思います。


■ 要旨 (公開されている英語版アブストラクトのまとめ)

・翻訳学は1972年の設立当初 (Holmes のmap) 、翻訳の技術と言語学習のためのテストとしての訳に関して研究するものとしていた。

・ただし、翻訳学が学際性を帯びて、外国語学習での訳使用に関して無視をするようになったため、コミュニカティブアプローチが訳を退け、翻訳を専門性の高い行為とするようになった。

・ところが、機械翻訳の進展によって翻訳の全営化が起き、誰もが翻訳を行えるようになった。また、機械翻訳の推敲によって良質の訳文を作れるという結果もあり、これからは、訳行為は必ずしも専門家に限られる行為ではなくなる。


■ 翻訳学と言語教育の断絶

・応用言語学の大家であるNunanの書籍は20億部以上売れるのに対して、翻訳学の本の市場はとても小さい。


・Holmes(1972) は、翻訳学の設立当初から外国語教育における翻訳の技術とテストについて研究すべきとしていた。しかし、翻訳学が西洋で自立した学問となるにつれて、言語教育との接点が次第に薄れていった。


■ 翻訳学の「二項対立」

・翻訳学は「直訳と意訳」「同化翻訳と異化翻訳」「形式的等価と動的等価」のような二項対立的思考で止まっていたのではないか。

・近年の翻訳学では、この二項対立を脱するための提案もなされている。(Translation Solutionsの議論など)


■ 今後の方針

・外国語教育でもcommunicative translation が重要になるのではないか。
→この概念に関してはあまり説明がされなかった。参考になるのは、House (2008) などであろう。英語教育で翻訳活動を行う際には、形式的等価や訳語の正確さといった観点のみならず、その文が伝えるべきメッセージを十分伝えているか、といった観点も評価規準に入れるべきだろう。

・Malmkjaer の言葉を借りれば、 “Isn’t translation communicative?” である。

→当然、Pym氏の立場は “Yes! (Why not?)” である。ただし、現場で教える身としては、文法訳読式教授法のように、 “un-communicative translation” が歴史的になされてきたという反省も怠ってはならない。そのために、訳活動を行う場合は、「なぜその文を訳すのか?」「誰がその訳文を読むのか?」といった細かい場面設定も踏まえたタスクとして開発する必要があるだろう。

・機械翻訳の教育的使用も考慮されるべきである。たとえば、機械翻訳で出された文を下訳(叩き台)にして、より良い訳文を作成するというタスクも考えられる。

⇒後述。


■ 講演会の感想

以上が講演会のまとめです。
最後に、この講演会を踏まえて考えたことや学んだことを載せます。

(1) 翻訳学の学際性

西洋で翻訳学が自立した学問として成長する中、日本でも翻訳学が自立した学問体系となるような努力が積み重ねられています。今年の日本通訳翻訳学会の年次大会でも、翻訳者や通訳者の地位が不当に下げられてはならないという趣旨の発言がシンポジウムでされていました。(東京オリンピックに向けて翻訳や通訳のボランティアが増える中、専門職としての翻訳者・通訳者の位置づけに関しては、今後も問題となりそうです。)

しかし、教育学がそうだったように、翻訳学も「科学 (Wissenschaft) 」になることだけを目指してしまうと、西洋のTranslation Studies のように、他の分野との連携が薄くなっていくのかもしれないと感じました。翻訳学が単一の学問に固執するのではなく、翻訳という複雑な行為を多くのアプローチ (言語・文化・社会…) で分析し、その応用を議論していくべきだと思いました。

(2) 「翻訳」と「英文和訳」の二項対立性の克服

Pym氏によれば、翻訳学は「直訳」と「意訳」という伝統的な二項対立法から抜け出しきれていません。(「同化翻訳と異化翻訳」、「明示化と暗示化」、「形式的等価と動的等価」…。)

考えてみれば、英語教育学で馴染み深い「翻訳と英文和訳」という分類も二項対立的に語られることの多い概念だと思います。ただし、個人的にこの分類は、訳されたプロダクトのみならず、訳プロセスや訳文の機能、訳行為の依拠するコミュニケーションモデルなどの多くの観点から総合的に判断されるべきであり、必ずしも静的な二項対立的区分ではなくて動的な分類法として考えるべきだと考えております。

このような多重的観点から、中高英語教育における「訳」が一概に否定されるのではなく、場面によっては学習効果があるのではないかと思っており、今後もこの点について考えを深めたいと思います。

(3) 英語教育学と翻訳学との対話

講演会後に質疑応答の時間があり、その最後に英語教育との連携に関して以下のような質問をさせて頂いた。「post-editingを英語教育で実践するのはもちろん面白いが、日本語を日本語で書き換えるという活動に止まってしまうと英語学習とは呼べないのではないか。」

というのも、自分が実践したときもそのような問題意識があって、去年フリースクールで『映画名探偵コナン』の英語版教材を用いたpost-editingの実践を行った際に、不自然な日本語を自然な日本語に言い換えるという作業で終わってしまうのではないかという疑問が残ったためでした。授業は盛り上がったのですが、生徒さんの何人が英語の学びとして授業を受けてくれたのかと考えると、たしかにクエスチョンマークが消えませんでした。

Pym教授の答えは、「もちろん英語学習だよ。翻訳しているじゃないか。」というシンプルなものでした。時間が限られていたこともあり、それ以上の議論ができなかったのが大変心残りです。英語教育学の人と話していて一番焦点になるのが「日本語に訳したものについてあれこれ指導したら、それは日本語学習ではないか」という点なので、もう少し納得のできる説明ができないかと考えています。

そもそもお互いの「コミュニケーション」や「言語学習」の考え方が異なっているため、かみ合わないような気もします。翻訳活動が他者(原著者と読者)を意識したコミュニケーション活動であり、そこに「英語」学習も絡むような活動を提案する必要があると感じました。

※そもそもPym氏は大学での英語教育を念頭に入れていると考えられるので、中高英語教育を前提とする自分ともまた前提が異なっているのだと思います。

2015年12月20日日曜日

授業準備・英語授業が捗るお役立ちPCソフト

こんにちは。Ninsoraです。寒くなってきましたね。
先日、先輩と話をしていて、授業の補助教材の話題になりました。

英語の授業って、視覚情報や音声情報を扱う機会は他の教科よりも多いですよね。
だからいろいろ準備をしないといけないし、拘ろうと思えば際限なく時間が必要になります。
でも、先生の仕事は授業だけではないので、できるだけ授業準備にかける時間を効率化したいという方も多いはずです。

CDはもちろんのこと、最近は出版社から電子データや授業プリントが売られることもあるようですが、やはりまだPCでオリジナルのプリントやオリジナルの音源を作る方も多いと思います。

忙しい先生方の作業がちょっと楽になればと思って、僕がよく使う「普段の授業準備・英語授業が捗るPCソフト」を紹介します。

先生だけではなく、教育実習に行かれる学生さんも、パソコンに入れておくと何かと役に立つかと思います。
一応リンクも貼っておきますので、ご参考になさってください。

※ 尚、今回紹介するソフトはほとんどがフリーソフトですが、寄付も募っているそうです。

★プリント・スライド作成お役立ちソフト

PDF Xchange Viewer

PDFViewerとしてはもちろん使いやすいのですが、なによりキャプチャ機能が優秀です。
PDFはフォーマットが崩れない分、編集が難しいところがあるので、一部を切り取ってプリントに補足的に載せたいときなどは非常に便利です。

カメラのマークをクリックした後、指定ページをクリックすればページ全体が、ドラッグして範囲を指定すればその範囲が、一瞬でキャプチャされます。

また、PDFにテキストを書き込んだりもできるので、PDFファイルのプリントに補足的に説明を加えることも簡単です。多分一番使っているソフトです。

Xn View

視覚情報として写真を使用することは多いと思いますが、このXn Viewは素早く欲しい画像にアクセスできるので、とても便利です。

でも、それ以上に画像や写真を編集するソフトとして非常に優秀です。
非常に細かく明度・彩度等も変更できますし、フィルタも種類があって面白いです。
また、画像の形式を変更することもできます。

それ以上に、自分の一押しのポイントは、画像の傾きを「1度単位」で調整できることです!
気にするほどではないが、写真が真っ直ぐじゃないとなんとなく気持ち悪い!という自分みたいな人間にはありがたい機能です!

JTrim

これも画像の編集ソフトです。UIがシンプルで使いやすいのと、動作が軽快なのが特徴です。

教科書や問題集のデータ、スキャンした生徒のノートなどで、次のページに数行だけ書いてあって、そのままだと何となく勿体なく感じてしまうっていうこと、よくありますよね。

そんなときに、指定範囲を切り取って、ちょっとずつ動かして一枚に収める、なんて使い方もできます!

◇画像梱包

上で紹介したようなソフトで出来上がったJPEG画像などを、PDFとしてひとつにまとめることが可能です。

まとめるときは、ファイル複数指定してドラッグアンドドロップするだけなので、とても楽チンです。

タブレットやラップトップなどで写真を紹介するときなど、プレゼンテーションソフトだと容量が大きくなってしまったり、もともと入っているViewerだと動作が重かったりすると思います。

提示する順番が決まっているならば、一つのPDFとしてまとめてしまえば軽快になる(かも?)です!

動作OSWindows XP/ Me/ 2000/ 98 と書いてありますが、Windows 7の僕のPCでは動作確認できています。(Windows8以降のOSはちょっと分からないので、試してみてください)


★ 思考ツールとしてのテキストエディタ

Mery

プリントを作り始める前に要点をまとめたい、指導の流れをシンプルにイメージしたいという方にはテキストエディタがおススメです。

一押しはWZ Editor http://www.wzsoft.jp/wz9/index.html )というエディタなのですが、有料なので、今回はMeryというフリーのソフトを紹介します。

UIがシンプルで使いやすいのがテキストエディタの特徴なのですが、このMeryというソフトは普通のメモ帳アプリと違って、「アウトライン機能」があることが特徴です(WZ Editorが使いやすい所以でもあります)。

ピリオドを一つ打てば第一命題、二つ打てば第二命題という風に、階層をつけることができます。しかも、階層を指定して展開が可能です。
適当で申し訳ないですが、ちなみに下のような感じになります。左側がアウトラインです。



このように、説明する事柄や授業展開について、階層をつけてまとめると、言いたいことがよく伝わると思います。

また、このアウトライン昨日は論旨の流れを見たいときにも非常に使えるので、論文執筆やWritingの指導にも生かせるかなと思います。

★ 音源編集ソフト
Audacity

使いこなせば、音源を自由自在に編集できるソフトです。

不要な音の一部やノイズを消去したり、ディクテーションの際にポーズを挿入して書く時間をとったり、同一ファイルの中で音量を調節して音読などに役立てたり、複数の音源をつなげて一つにしたり、工夫次第で用途は様々です。

MP3等で書き出しもできるので、CDに焼いてコンポで使うこともできます。
リスニングテストの作成にも使えるかなと思います。

――――――――――――――――――
いかがでしたでしょうか。
他にもみなさんのおススメのPCソフト、あるいはタブレットのアプリなどがあれば、是非紹介してください。

僕も他に良いソフトがあれば、どんどんシェアしていきたいと思います!

それでは良いお年を。

2015年11月29日日曜日

教育研究大会に参加して

こんにちは。Ninsoraです。

先日、私の某国立中高併設校の教育研究大会に参加してきました。

英語科は「思考力・判断力・表現力の育成」をテーマとして設定しており、その実践・達成の場として、高校1年生と中学3年生の授業を参観させていただきました。また、学校をあげた英語プレゼンテーションの取り組みに関する実践報告も伺うことができました。
(以上は本来公開されている情報ではあるのですが、第三者が特定の学校のことについてどこまで述べてよいのか不確かであることと、生徒さん・先生方・学校への一応の配慮といたしまして、校名や個人名は伏せさせていただきます。)

今回は単なる授業の様子や感想を述べるために記事を書くのではありませんので、授業展開やテクニック・実践報告の内容等の詳細をお知りになりたい方は、別のブログを探して頂いた方が賢明かと思われます。(と言いますか、授業展開の詳細等はほとんど書きません。)
また、以下は私の主張と主観の書き殴りになりますが、それでも良いという方はご覧になってください。

◆ 「流石、理想はこれか」という生徒と授業

 授業の中身について少しだけ書きますと、高校1年生は日米文化を比較したポスター発表(プレゼンテーション)とリテリング、中学3年生は複数の帯活動と本時活動を組み合わせた「オムニバス形式」の授業展開で、まとまりのある英文を書いたり話したりすることを目標にした授業でした。
両者ともアウトプットが重視されており、それらの活動を通して「思考力・判断力・表現力を育成する」という到達目標がかなり意識されていたものでした。
特に授業展開の新鮮さと、それに由来する生徒の英語使用量の多さと流暢さには目を見張るものがありました。

先生方の日ごろの熱心なご指導と学校をあげた英語力育成への取り組み、また生徒の日々の努力の賜物であると素直に思います。

◆ 理想を見せつけられて・・・
 
 このような研究会などで、凄腕の先生の凄い授業を見て多くの人が抱く感想は、

「凄いものを見た!早速次の授業でやってみよう」という熱心(だが危険)なものか

「今の自分の授業はダメだ。改善しなきゃ」という反省か

「これは○○先生だからできるんだ」
「これは△△中学(高校)の生徒だからできるんだ」という諦めか

のどれかには当てはまるのではないかと思います。

今回、自分も「凄い先生の、凄い生徒に対する、理想の授業」を見せつけられて、正直なところ

「△△中学(高校)全体としてのサポート体制が出来上がってるから上手くいくんだ」
「やっぱり△△中学(高校)の生徒だからできるんだ」

と思ってしまいました。

現在、私にも中高生を教える機会があります。今持っている生徒には、英語が好きで頑張る子もいます。頑張っても、頑張ってもなかなか英語が伸びない子もいます。そもそも英語が大嫌いで、全く向き合おうとしない子もいます。こういう生徒達にはこれから何十年、幾度となく出会うと思います。

ですので、「今持っている生徒」と「これから持つ生徒」の顔を思い浮かべると、単なる諦めや反省で終わらせるのではなく、「何か」を盗んで自分のものに昇華させなければならないなと思うわけです。

◆ 確かに存在する障壁

しかし、

「△△中学(高校)全体としてのサポート体制が出来上がってるから上手くいくんだ」
「やっぱり△△中学(高校)の生徒だからできるんだ」

と思ったのは確かな事実であり、そしてこの考えは間違いではないのだろうと思います。故に、今回の研究授業における先生方の提案を、そのままの形で私の現在・これからの授業に取り入れることは極めて困難であると考えます。特に、以下で述べる2点に関しては、今とこれからの確かな障壁として立ちはだかるだろうと思います。

① カリキュラム・指導の連携上の壁

今回私が特に興味を引かれたのは、複数の帯活動と本時の活動を組み込んだ「オムニバス形式の授業展開(中3)」でした。「授業の活動同士に繋がりをもたせよ」と言われるこのご時世において、この単元・授業構成自体は非常に画期的(独創的)です。しかし、単元の中の長期的な視点で目標達成を目指すということや、その授業展開の想いや意図を伺うと、今後は主流な選択肢の一つとなりえる授業構成だと思います。

ただ、これを一般的なの公立中高や私立中高で行おうとするとき障壁となるのは、各学年のクラス間に生じる「カリキュラム・指導の連携上の壁」だろうと考えます。

一般に、クラス間で「学習内容」や「進度」の差を極力生まないよう、学年団の教科担当の先生はそれぞれ連携をとりながら授業を進めます。使用するプリントでさえも学年で共通のものを使用し、オリジナルで作成するワークシート等の配布・使用、特定のクラスでのみ行う活動などを控える学校もあるそうです。このため帯活動のための外部教材を追加で購入させるとなると、特定のクラスのみというわけにはいかず、結果的には全ての保護者の経済的負担も増えてしまうことになります。

そのため、今回の授業のように、外部教材の使用も含めた複数の「帯活動」を取り入れたオムニバス形式の授業は、学年団の共通理解が大前提となります。加えて、綿密に練った単元計画をきちんと遂行していくことができないと、一つの単元に相当の時間を要してしまいます。そうなると、短期的には定期考査等には影響があるでしょうし、長期的には年度内に終わらせるべき範囲が終わらず次年度に影響が出たり、生徒が身につける英語の力がぶれてしまったりします。こう考えると、学年団としてはこの形式の授業に反対される先生もいらっしゃると思います。

② 「想像力」「創造力」の壁

 これはこれまで私が出会った具体的な生徒のことを考えながらのことですので、一般的に当てはまるかといえば疑問ですが、書かせてください。

やはり中3の授業になりますが、文を4つ提示し、「それらの文を全て使用する」という条件で、ペアでストーリーを作りながら会話を続ける、という帯活動がありました。
即興で英語を使用する力や、相手の発言の意図を汲み取りながら応答するための「適応力」、その場でストーリーラインを作る「想像力」や「創造力」などが鍛えられ、発揮される活動であるなと感じました。
授業者の先生が「自己表現ではないけれどクリエイティブ」な活動であると仰っていた通り、この活動なら多種多様なストーリーが出来上がる面白みもありますし、何より授業でも簡単に取り入れることができるものだと思います。

ただ私が思うのは、「クリエイティブな活動をするための前提となる『想像力』や『創造力』はどのようにして培われるものなのか」ということです。或いは、「そもそも『想像力』や『創造力』は、英語の授業で培えるものなのか」ということです。

大学の先生方に言うと怒られるかもしれませんが、以前、会話文問題がどうしてもできないということで、使用されている英語の表現が日本語ではどのようなニュアンスになるかを確認しながら、日本語の文脈で会話を考えさせたことがあります。それでもその生徒は、次にどのような発話が来るのが自然なのか、かなり迷っていました。聞くと、「ニュアンス」や「文脈」というものがいまいち分からないそうで、本を読んでも意味が分からないので全く読まなくなった、と。即ち、発言から話し手の意図・意向を「想像」して読み取ったり、関係性や文脈からストーリーを「創造」したりということが、日本語であっても苦手なようなのです。

「それはそういう生徒なんでしょ」
「英語だからできないだけでしょ」

そう言われるとそうなのですが、上で書いたような活動を目にすると、その活動の「前提となっている力」の部分の涵養について、どのようにすればいいのだろうかと考えるわけです。
私を含め、英語の授業中の発問などをする際に、それこそ「行間を読み取って~」だの「文脈から~」だの言ってしまうと思いますが、その「前提となる力」に困難さを抱える生徒からすると「それができないんじゃい!」と言いたくなると思うのです。

「じゃあそれができるような『ヒント』を与えながら考えればいいじゃん」
「活動の手立てを工夫すればいいじゃん」

という人ももちろんいらっしゃると思いますし、間違いだとは思いませんが、私が個人的に考えているのは授業中の手立てではなく、「活動の前提となる力」ですので、「ヒント」を与えてそこまでのお膳立てをしてしまうと

「それは教員の用意した文脈・ストーリーでしょう?」
「この活動の醍醐味である『生徒のクリエイティブさ』は失われてしまいませんか?」
「ヒントつきの活動を繰り返せば、『想像力』『創造力』が涵養できるのですか?」

という気持ちになるわけです。「想像し創造する」ことが苦手な生徒からすれば、「じゃあ実際のコミュニケーションやテストの時には、誰がヒントをくれるの?」と言いたくなるはずなのです。

自分は昔から運動が得意ではなかったので体育の授業は嫌いだったのですが、サッカーならパスを受けてからシュートする練習、バレーボールならトスを上げてもらってアタックする練習なら上手にできました。
でも、実際のミニゲームになるとその練習が全く役に立たないのです。
それはそもそもの運動能力のせいもありますが、ダイナミックな競技スペースのなかで自分がどう動けばよいのか、あるいはどのようにゲームを組み立てるのか、上のようなセットプレー的な練習から、ほとんど鍛えられなかったのです。

ここでの「パス」や「トス」を英語授業で言う「ヒント」、「動き方」や「ゲームの組み立て方」を英語授業での「想像力」や「創造力」と読み替えていただければ、私の考えていることが分かりやすくなるかな、と思います。(んー、でもこれはあまり共感を得られないかもしれませんね。)

英語を即興で話す力や相手の発言に応答する力は、表現を知る、実際に練習してみる、などを通して、英語の授業でつけることのできる力だと思いますし、今回のような活動を繰り返すことで高まっていくと思います。
では、活動の肝になる「クリエイティブさ」の前提にある「想像力」「創造力」は、英語の授業でどのように担保していけばよいのだろうか、そもそも担保できるものなのだろうか、そう考えてしまうのです。(もちろん、使える表現を増やしたり、読解の中で気づかせたりというのも一つの手ではあると思うのですが・・・)

◆ 壁を取り払い、自分のものに昇華させるには

 正直言って、これらの壁を取り払うために、具体的に何をどうすればよいのか、全く分かりません。凄い授業を見るたびに、何かを盗みたいと思うのですが、いつも分からなくなります。(実際の学校現場を自分はまだまだ知らないので、当然といえば当然なのですが・・・)なので、考えすぎとも言われますし、どうでもいいじゃんと言われることもあります。その度に「諦めろ、お前には無理だよ」と言われている気がして、実は結構凹むのです。でも、「お前が未熟なんだ、もっと勉強しろ」と言われているのだと脳内変換して、今回の学びを無駄にせず、壁を乗り越え克服するための方法を模索し続けようと思います。このように思えたことも、今回の研究会の大きな収穫だったと思います。

長駄文を最後まで読んでくださり、どうもありがとうございました。

率直なご意見やご感想などがあればコメントを下さると幸いです。

2015年11月19日木曜日

高尾隆・中原淳 (2012) 『インプロする組織-予定調和を超え、日常をゆさぶる』三省堂

こんにちは (^-^) mochi です。

最近、コミュニケーションにおける「即興性」という言葉が気になっています。

英語教育でも、次の学習指導要領で「他者の尊重」ということばが目標に含まれるようですし、次の展開が予測できない「他者」に対峙し、即興的に対話をする力が求められるのかもしれません。

私は言語教育と「即興」について考えるとき、即興劇 (impro) の発想が大変参考になると考えています。そこで高尾・中原 (2012) 『インプロする組織』(三省堂) を手にとってみると、これが大変面白かったです!

Learning × Performance インプロする組織  予定調和を超え、日常をゆさぶる
Learning × Performance インプロする組織  予定調和を超え、日常をゆさぶる高尾 隆 中原 淳

三省堂 2012-03-16
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この本は、昨年末に国際表現言語学会に参加した際にも気になっていたのですが、やっと手にとって読むことができました。

以下、面白かったところを中心に紹介します。

■ 伝統的な授業の問題点

高尾氏は今日の授業を講義型の知識伝授行為として、以下のように批判しています。

1) 知識の活用がしにくい
2) 自分で知識を探したり作ったりすることができない
3) 知識を伝える方が自らの振る舞いを見直すことがない

ここで断っておく必要があると思うのですが、必ずしも今日の学校授業が上のような知識伝授とは限定できないと思います。このような問題意識は教育現場にも教育政策にもあって、「アクティヴ・ラーニング」の必要性も叫ばれています。

また、必ずしも知識伝授式の授業が否定されるべきだとは思いません。正確な発音の仕方や英文法の形式の説明などは、メタ言語を使用した丁寧な説明が効果的な場合も多いと思いますし、知識伝授式の授業が得意とする領域まで「アクティヴ・ラーニング」に取って代わられる必要もないでしょう。

とはいうものの上の留保をつけてでも高尾氏の主張は意義深いと思います。高尾氏の主張は現象学と批判理論を基盤としており、知識伝授式の授業が信頼している確かな真理・知識といったものがそもそもないのではないか、また、教える側の権力性によって無批判に正当化されている部分が教育行為にあるのではないか、といった批判意識に根ざしています。そこで高尾氏は、これまでの「学び」に排除されてきた要素を見つめなおします。

学びから排除されたものは、有利な立場に立っていた人が、これらのことが学びに入っていると自分たちを守っている既存のルールが脅かされ都合が悪い、と考えて排除した可能性があるからです。…それは「からだ」です。 (pp.24-25) 

■ 「からだ」の重視-パフォーマティブ・ラーニング

高尾氏は「からだ」をメルロ=ポンティの身体論を援用しつつ、「主体としてのからだ」と「物としてのからだ」の両義的な性質を持ったものと位置づけます。「主体としてのからだ」は意識の源としてのからだで、そもそも私たちがからだなしには何も考えられないことからもからだを我々の主体といえるでしょう。「物としてのからだ」は物理的な対象としてのからだで、たとえば私たちが鏡で自分のからだを見たり、他者によって自分のからだを触られたりすることもできます。このようにからだを「主体/物」(あるいは「見るもの/見られるもの」という両義性で捉えています。

この両義的なからだは、時にずれ(矛盾)を生み出すこともあります。ベイトソンのダブルバインドの議論と似ていますが、私たちが「愛しているよ」と言いながらも顔が引きつっている場合などが、「主体としてのからだ」が出したがっているメッセージと「物としてのからだ」が出してしまっているメッセージのずれ(矛盾)に当たります。

この「ずれ」は無意識に起こってしまうものなので、社会生活では不便なものと感じられて抑圧されてしまいます。特に管理社会であれば、「物としてのからだ」から自ずから出すメッセージを無視して、「主体としてのからだ」が論理や言語を用いることの方が都合が良いでしょう。

しかし、高尾氏は逆の見方をしています。「主体としてのからだ」が「物としてのからだ」を操作・支配するだけでなく、「物としてのからだ」も同様に「主体としてのからだ」に影響を与えていると。さらに言い換えるなら、「からだ」が行うパフォーマンス (performance) によって主体の自己同一性 (identity) が変化するような考え方といえます。このパフォーマンスと自己同一性が表裏一体の関係にあると考えるのがパフォーマティビティ (performativity=performance+identity) で、これこそがパフォーマティブ・ラーニングの軸となる考え方です。

パフォーマティブ・ラーニングは (1) からだを動かして表現する、(2) 他者へ向けて表現することで自分を解体・再構築する、という2つの意味が込められています (p.40) 。ここで具体的な教育方法論として用いるのがインプロ (impro) です。インプロは、「主体のからだ」と「物としてのからだ」がそれぞれ調和・統一した状態でパフォーマンスをする状態を指します。パフォーマティブ・ラーニングは「物としてのからだ」が管理下されて固定化してしまうと不可能になってしまうので、からだを解放させて自然発生的な反応 (spontaneity) が生まれるように環境整備する必要があります。


■ 合目的的教育観とパフォーマティブ・ラーニング観

近代以降我々が有している教育観は、しばしば「合目的的教育観」と批判されます。合目的的教育観とは、手段―目的図式が強固に用いられている様子を指します。たとえば私たちが授業を行う際は、常に目標を設定して、それに従って計画を立てて実行し、評価をすることで次に生かそうとします。このような目的の強調は、アメリカの教育哲学者のデューイも述べているとおり、大変重要なものです。

ただし、インプロでは計画が行われず、むしろ「即興的かつ局所的な対応」 (p.61) が求められます。そもそもインプロという言葉は、「予-見」 (pro-vision) することができない (im-) という語源を有しています。そこで、「未来」に見通しを持つのではなく、「今・ここ」で、「身体」をメディアとして用いることで、物事の多用な見方や意味づけを学びます。

このようなパフォーマティブ・ラーニング観は、ある意味無計画で無謀なように思えるでしょう。ただし、合目的的教育観が見逃している部分に関して、パフォーマティブ・ラーニングには可能性があるようです。

既述したように「即興的」で「創造的」で「協同的」で「脱権力(民主的)」で「共愉的」なインプロは、一見、論理では説明がつかない、「費目的思考の行為」「経済的合理性に反した行為」「非科学的・非論理的な行為」に見えます。しかし、それは、不確実な世の中を生き抜く知恵の一つであり、うまく奏功した場合、「目的志向の行為」「経済的合理性のある行為」「科学的・論理的な行為」を、陰ながら生み出す可能性も持っているのではないか、と僕は感じています。 (p.69) 

この箇所に関する自分の意見は、「そりゃ、どっちも大事だろう」というありきたりなものです。(笑)

もし「合目的的」な授業ばかりをデザインし続けると、コミュニケーションが本来有する偶発性や複雑性といった部分を学習者に体験させる機会が少なくなってしまうかもしれません。そこでインプロが使えるわけですが、かといってインプロばかりやっていては、学習者への学力保障が必ずしもできるとは思えません。

(先日、某県立中学校の授業を参観させて頂きましたが、その先生の授業では、この「合目的性」と「インプロ性」が非常にバランスよく取り入れられていたように思えます。おそらくこのバランスのとり方が最も難しいのだと思いますが・・・。)

■ インプロの原則

ここで、著者の両氏が重視されているインプロの原則を確認します。

1) 無理しない
2) Give your partner a good time.
3) 自分も楽しむ

これらは、「からだ」を解放するためにも、また自然な即興性を表現するためにも、「無理をしない」「お互い愉しむ」ということが重視されます。

ここで、2)に注目したいと思います。両氏は「他者」を学びの根本的存在として捉えています。

人は一人では学べない、人は一人では代われないということなんです。「学ぶ≒変わる」ためには、他者がどうしても必要です。究極的に言うと、自己を自己で認識し、律するためには、どうしても他者の助けや他者の視点が必要だということです。…「学びの他者性」なんです。 (pp.217-218)

私たちは「他者」と関わることで、自己を認識することができます。この辺をヘーゲルの概念で語れば、「他者の内に自己を見出す (sich-im-Anderen-anschauen) 」に近いかと思います。つまり、最初は「他者」として立ち現れる存在のうちに「自分」を見出し、もともとの自分 (即自的存在としての自分) と他者のうちに見出す自分 (対自的存在としての自分) が弁証法的な統一を遂げることで、「成長」「学び」を起こすことができるといえるのでしょう。

(この具体的なインプロのエピソードまでは本記事では紹介しませんが、本書の最大の魅力はこの豊富なエピソードにあります。他者と接して、偶発的なコミュニケーションが連続しつつ、会話の参与者で共通の土台を協働的に作る参加者の姿が詳細に記述されています。)

■ 身体と言語―裂け目を入れるための振り返り

最後に、インプロやパフォーマティブ・ラーニングにおける「言語」の役割について確認しておきます。著者らは「言語」の役割を「振り返り」に帰します。現に、本書で紹介されるワークショップでは、アクティビティが終わる毎に参加者と「今のどうでした?」「ここでこうしてたらどうなってたと思いますか?」と、参加者がインプロで行ったことについて言語化を促します。高尾氏はこの役割を「“裂け目”を入れる」という比喩で語ります。

からだを動かすこと事態で“裂け目”は入らないんですよ。からだを動かしたあと、それを言葉にしたときに裂け目が入る。言葉にすることが効いている。ただからだを動かして、「はい、今日はからだをたくさん動かしましたね」っていうワークショップでは、たいてい何もおきていない。それでは「エクササイズ」ですよね。 (p.202) 

また、中原氏も以下のように語ります。

「からだを動かすこと自体で“裂け目”は入らない」とは慧眼ですね。そこで起こったできごとのプロセスを、一人称で、自分の言葉で表現したときに、内省が駆動し、裂け目が入る。同じ言葉にするにしても、自分に起こったできごとのプロセスを、一人称で、自分の物語として書き留めていくことが大事なんですよね。 (pp.202-203)

前節までで述べてきたように、「物としてのからだ」によってできるだけ自然な動きをインプロでした後、再び「主体としてのからだ」と「物としてのからだ」のずれ・矛盾に目を向けるためにも、言語化を行う必要があります。言語化は「裂け目」をいう比喩が用いられていますが、ルーマンに倣えば「区別」と言っても良いでしょう。インプロ中はできるだけ区別を敢えて引かずに進めますが、それが終わった後に敢えて「主体としてのからだ」の視線で区別を引くことで、言語化された自分と、言語化されなかった自分の身体知のギャップへの気づきが起きやすくなるのでしょう。


■ 最後に

「偶発性」や「即興」「対話」といった要素が、しばらくの自分にとってのキーワードになるだろうと思います。できれば大学院にいる間に、「即興性」という概念について自分なりの定義が提出できればと思うのですが、どうなることやら。(笑)

本書は、自分の固まりきった考え方を対自化するためにも、とても読み応えがありました。

ただし、一般書なので、インプロに関する理論面については少し物足りない感じがあります。言語教育とインプロで調べたら、以下の洋書を見つけたので、次の読書はこれにしようと思っています。


Improv for Teaching Foreign Languages (English Edition)
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また、パフォーマティブ・ラーニングという概念は、アクティブ・ラーニングと対置したときに、どのような点が異なるのでしょうか。個人的には、「からだ」「即興性」の重視というのがオリジナリティといえても、系譜として両者は非常に似ているのではないか、という考えです。

また、自分自身がインプロの体験をする必要もあると思うので、今年の年末も演劇ワークショップに参加してこようと思っています。


2015年11月16日月曜日

日本翻訳ジャーナルの記事に紹介して頂きました!

こんにちは。 mochi です。
某看護学校での非常勤勤務も無事に終えて、あとは修士論文に向けてまっしぐら!のはずが、ほとんど筆が進まずに悩んでおります(笑)。

学部の卒論の二の舞にならないよう、もう少しこれから研究時間を割きたいです。

さて、突然ですが、先日学会で口頭発表した内容について、『日本翻訳ジャーナル』の記事でご紹介いただいたので、ここにリンクを掲載させていただきます。(なお、編集者の方の許可は頂いております。)

日本翻訳ジャーナル イベント報告


『日本翻訳ジャーナル』は、一般社団法人日本翻訳連盟(JTF)の機関誌です。翻訳に関する行事の案内や興味深い記事も多かったので、興味をお持ちの方はぜひご覧ください。

そこで、今年の9月に青山学院大学で開催された日本通訳翻訳学会第16回年次大会の紹介記事で、自分の拙い発表に言及して下さいました。学会では、

英語教師志望者の「英文和訳」と「翻訳」:プロダクトとプロセスの観点から

という題目で発表をさせて頂きました。当日は自分の方が多く学ばせていただき、足を運んでくださった皆様には心より感謝申し上げます。

手前味噌で恐縮ですが、当日配布したスライドを共有させて頂きますので、よろしければご覧ください。





論旨としてはざっと以下の通りです。


(1) 私たちが用いる「訳」という言葉には、「翻訳」と「英文和訳」が混ざっている。


(2) 英語教師も授業場面によって、「翻訳」も「英文和訳」もすることがある。


(3) 実際に英語教師志望者に中学校検定教科書の英文を「翻訳」してもらうとより日本語らしい文になり、「英文和訳」してもらうとぎこちない日本語になった。そしてこれらは言語類型論のIモードとDモードという分類で分析することができた。


(4) また訳した人たちにインタビューをすると、物語の世界に入り込んで訳そうとしていたことが明らかになった。


(5) しかし、「翻訳」文の中には、まだぎごちない箇所もあり、今後英語教員養成課程で「翻訳」指導を行うことで補完できるのではないか。


(具体的な訳文データやインタビューデータは、当日配布資料のスライドをご覧ください。)






以下、簡単な振り返りと自己批判を。

(1) については、日本の英語教育に関する議論の際にもこの分類は便利だと思います。ただ、これらの分類が必ずしも万能ではありません。何を以って「翻訳」とするか、といった操作的な定義は、どうしても主観による部分が出てきてしまいます。本発表はスコポス理論に基づいて暫定的に区別を引きましたが、やや強引だったかもしれません。


(2) は、英語教育学では馴染み深い「和訳先渡し」授業を取り上げて、訳文も学習者にとってはインプットの一つであると主張しました。そして、学習者の実情や単元目標によっては、訳文の言葉遣いを教師が調整したり、教師自身が訳出したりすることも時に必要なのではないかとしました。

(もちろん現場で毎回そのようなことをする時間はないかもしれませんが、たとえば授業で英語の歌を作るときなど歌詞を先生が訳す場合もあるのではないでしょうか。)


(3) は、従来の「翻訳」「英文和訳」の定義にはない、認知言語類型論の枠組みを用いた分析になっています。この部分については、修士論文でさらに明確に分析できればと思います。


(4) は訳者のナラティヴを用いて、訳文プロダクトには反映されなかった訳者の思いをできるだけ汲み取ろうと試みました。まだ分析の目ができていないのですが、物語世界に視点を内置しようとしている姿を紹介できたのではないかと思います。


(5) の主張は暫定的なものです。この点については、後に先輩の先生方からもご指摘を受けました。今後は、データの解釈を進めて、そのデータから言えるリーズナブルな主張になるように気をつけようと思います。



ということで、まとめて言うと「途中段階」という恥ずかしい発表になってしまい、また言語学も生半可な理解で通してきたため、多くのご指摘も頂きました。(ご指摘・ご質問下さった皆様、本当にありがとうございました。)


ただ、これまでの学会発表の中で一番手ごたえがあったというか、少なくとも、自分の言いたいことがこれまでの中で一番伝わった、という気持ちになれました。

来年度からは学会に参加できる時間もなくなっていくのでしょうが、時間を見つけて、翻訳や英語教育関係の学会には顔を出しておきたいものです。




ちなみに、来月に開催されるJALT Hiroshima のmini-conference で、大学院生活最後の発表を行わせて頂くことになりました。(と、さりげなく宣伝。笑)

A Proposal of Teachers' Questions Using a Translated Text


発表テーマは「翻訳発問」にしました。M1の頃にためていたネタだったのですが、翻訳を題材にして、翻訳論的視点(等価理論や文化翻訳など)から発問を作ってみたらどうだろう、という提案ができればと思います。


当日は、自分が模擬授業を行った後、皆様と「翻訳発問」や英語教育における訳活動に関して議論させて頂ければ幸いです。


また、当日はたくさんの興味深い発表が準備されているそうですので、どうぞお時間のある方はお越しください。




最後になりますが、「日本翻訳ジャーナル」の皆様、特に記事執筆者の三宅様には、心より感謝申し上げます。


2015年10月31日土曜日

山本おさむ (2000) 『わが指のオーケストラ』秋田書店

こんにちは!
早いもので、明日から11月ですね!

私は、非常勤先の授業も少しずつリズムがつかめて来て、楽しくやっております。
と同時に、刻一刻と修士論文提出期限が近づき、焦りつつもありますが(笑)。


友人から、『わが指のオーケストラ』という漫画を教えてもらいました。非常勤の行き帰りで一気に読んでしまいました。

とても良い作品だったので、ここに紹介させてもらいます。




わが指のオーケストラ 文庫版 コミック 全3巻完結セット (秋田文庫)
わが指のオーケストラ 文庫版 コミック 全3巻完結セット (秋田文庫)山本 おさむ

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◆ 作品の紹介(1)

この物語の背景は大正~昭和にかけてのろう学校で、主人公は高橋潔という実在の人物です。(今は特別支援教育と言われていますが、当時はまだろう学校・盲学校などが分かれていた時代です。)

本作品は秋田書店版で全3巻となっています。第1巻は、高橋氏がろう学校に赴任するところから始まります。当初は音楽教員を志望していた氏でしたが、少しずつ子ども達と体当たりでコミュニケーションを取れるようになり、手話を(自身も学びながら)子ども達に教えることで、少しずつ子ども達が変化していく様子が描かれます。それはまるで、ヘレンケラーが「水」という語を覚えたときのように、子ども達にとっては1つ1つの手話によって、これまでの世界とは異なる見方ができるようになり、問題ばかり起こしていた子も落ち着いていきます。

第一巻の最後では、高橋先生が「ずし王」という絵本を手話で子ども達に伝える場面があります。文字を読めない子たちも、先生の手話を目で追っているうちに、次第に心が動き出します。高橋先生はここで、「手話で音楽をする可能性」というものに気づきます。


◆ 手話の魅力

閑話休題。

上で出てきた「手話と音楽」について、つい最近TEDで紹介された動画ですが、非常に啓発的でした。




「手話で音楽」など可能なのかと思われるかもしれませんが、ここでいう「音楽」は「空気の振動のまとまりが聴覚で受信されて感性的に把握される作品」という意味ではありません。むしろ、「リズムを伴って心が動かされるという事態」を指すのだと思います。

自分も学部生の頃に手話を少し習っていましたが、手話をするときは表情や体の動きをふんだんに使って表現するように言われます。

そのせいか分かりませんが、自分が授業やプレゼンなどで前に立つときは、ジェスチャーなどの表現が多くなります。イギリスの小学校で授業をした時も、子どもから、「先生は手話をやっているでしょ?だって身振りが多いもん」と言われたほどです。(やはり、子どもは侮ってはいけませんね。笑)

このように、指・手・腕の動きのみではなく、表情や身体全体、そして動きのスピードやリズムなどを組み合わせれば、可能な表現様式は無数になると思われます。その複雑な体系の中で、伝えたい思いにそって手話表現を行えば、たとえ耳が聞こえない方にも「音楽」が伝わるのかもしれません。

以前、「演劇大学 in さかいで」という企画でパントマイム体験のワークショップに参加したときも、パントマイムは声が使えない分全身を使えるだけ使え、といわれました。だから、動作だけでなく、目線や表情、息づかいなどもパントマイムの表現には含まれます(し、実は細かい動作のテクニックよりも、全身の表現力の方が重要だと学びました。)手話もそれと同じなのだと思いました。


◆ 作品の紹介(2)

第2巻では、米騒動や関東大震災などの対象自体の出来事を背景に、ろう教育の主流が手話法から口話法へと移り変わっていく様子が描かれます。

ここで簡単に紹介すると、口話法とは、先生が話すときの口の動きをよく見て(読唇術)、音を発する練習をし、最終的には話せるようになることを目指します。相手の唇の動きから相手の発話を理解して、それに対する返事を言葉で発することができれば、将来就職するときも有利になるのかもしれません。また、親としてはわが子が話す姿を見て、嬉しい気持ちになるのかもしれません

ただし口話法は、その指導法の特性上、手話の使用を禁止します。手話を使っても良い環境下にいると、意思伝達を手話で行うため、なかなか口話が身につかないと想定したためです。大正時代は、手話を使わないように体罰を与えたり手を縛ったりしたといいます。

口話法は日本全国で広まりますが、手話を奪われた子たちが次第に不満を募らすようになります。そこで、主人公の高橋先生が、手話法の復権を目指して奮起します。

第3巻のテーマは、手話法と口話法の対立にあります。どちらも子ども達のために行っていることは否めませんが、高橋先生は手話法の存続が子ども達のためになると信じて活動を続けます。

第34話「記念すべき日」では、高橋先生が全国聾唖学校校長総会で、口話主義の校長たちの前でスピーチをします。

◆ 高橋先生のスピーチから

まずは、言語の権力性に関わる以下の発言。これを敷衍すれば、外国で言語が話せない「言語弱者」にも当てはまるのかもしれません。
(だからこそ、看護学校の生徒さんには、ほんの少しでも、英語でのコミュニケーションに熟してもらいたいと願います。)


聾唖者は少数者であり手話は少数者の言語です
正常者は多数者であり音声言語は多数者の言語であります
故に少数者は多数者の犠牲になれと申されるのでしょうか
正常者の立場に立ち彼等に正常者の言語を強要し正常者と同様になれと申されるのでしょうか
聾唖者が聾唖者である事をなぜ恥じねばならないのでありましょう (pp.203-204)

また、子供の構築する世界を豊かにするためにも、手話が必要なのではないかと訴えます。
このへんの議論は自分が疎いのでなんとも言えませんが、説得力はあると思います。
(お詳しい方がいらっしゃいましたら、ご教示ください。)

子供には子供の世界があります
我々教師は一日一日成長していく生活者としての彼等にその精神生活に糧をあたえてゆかねばなりません
それには彼等のことばであるところの手話に依らねばならないと考えます
彼等には手話こそ最も自然で解り易い言葉なのです (p.208)

◆ 英語教育と母語

私はこれらの箇所を見て、ふと英語教育を思い出しました。思えば、2013年から高等学校の英語の授業が「原則英語」と学習指導要領で指定され、着々と英語で授業をすることが(浸透した、とまでは言いませんが)当たり前になりつつあります。

予め断っておきますが、上の高橋氏の主張を機械的に英語教育に当てはめることは危険でしょう。すなわち、「英語の授業で日本語を禁止するのは、子供の世界を奪い取ることになる!」とか「だから英語の授業は訳読式教授法に戻るべき」と主張する気は毛頭ありません。可能な限り授業は英語で行うべきでしょう。

ただし、これが過熱すると、上の事態と似た状況になることも否定できません。英語という「他者の言語 (Fremdsprache) 」を押し付けられ続け、学習者の感性や生活経験が押し殺される事態があるとしたら?もはや象徴的には、手話を禁止して手を縛ろうとした大正時代の口話法とあまり変わりがないのではないでしょうか。


現代の特別支援教育の議論は追っていないので分かりません(し、今後勉強する必要があると思います)。しかし、殊に英語教育に限定すれば、私たちは英語を教える中で、「母語」の役割についてもきちんと検討すべきではないでしょうか。

それが訳読式教授法である必要はありませんし、わざわざ一単元を取って翻訳教育をすべきだとも思いません。自分も将来現場に出たときは、英語で行える部分ならもちろん英語で行う方が学習者のためになると思います。ただ、英語を学ぶ学習者が有す言語的背景にも留意した上で、英語を教える必要があるのではないかと思います。



◆ さいごに

山本おさむさんの作品は他にも、『どんぐりの家』などがあるようです!
まだ読めていませんが、時間ができたら読んでみたいと思います。

皆さんも読書の秋に漫画などいかがでしょうか? (^^)