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2015年7月30日木曜日

石戸教嗣 (2003) 『教育現象のシステム論』勁草書房 第3章「オートポイエーシスとしての『学習』」

「学習」ということばは、教育学部にいる以上いつまでも付きまとってきます。「学ぶ」「学習」とは何か。自分も教育学を6年「学び」ながら、未だに分かったような分からんような、という感じです。

今回は、「学習論」の1つとして、以前紹介した『教育現象のシステム論』の第三章をまとめました。

本章では、「学習」とは何かを、ベイトソンとルーマンの学習論から論じています。以下のまとめでは、両者の主張を確認するとともに、英語教育、特に訳活動を例にとって説明したいと思います。

最終的には、「1対1対応の訳」から「1対多対応の訳」の議論に結び付けられればと思います。


第三章 オートポイエシスとしての「学習」
-ベイトソンからルーマンへ-


1 学習論の端緒

 近代教育における学習観は、(1) 体系的知識を選択して、学習可能な形で配列するというあな考え方と、(2) ルソーやペスタロッチが提唱したように、子どもの中の本来の状態を引き出す自然主義的な考え方に二極化されていた。しかし実際、近代教育の主流は、前者の合理的な学習観であった。合理的な学習観は、ポストモダンの相対化の議論による批判を受けてきたが、その一方で多様な学習論を展開してきた (e.g. 科学主義-経験主義、系統主義-問題解決学習、…など) 。この多様な学習論は巨大な理論に統一化したり、どれか一つに縮減するのが困難である。授業やカリキュラムをデザインする際、ある特定の考え方のみに従って作成することは想定しづらく、むしろ状況に応じて、多様な学習観の中から「選択」するものとして考えるべきである。


 本章は、システム論の観点から、学習を、生徒が世界に対してどのような構えを取るかの選択として捉える。生徒個人 (心的システム) にとって世界は複雑であり、何かしら予期を持たなければ世界と関わることは難しい。その予期を変更することの行動様式が「学習」と定義される。

「学習」は環境の複雑性をそれぞれの個人が自分なりに縮減する試みとしてなされる。…
不確定な世界においては期待はずれに直面することは避けられないが、そのときに、期待をそのまま維持するか、期待を変更するかの選択において、後者を採用するときの行動様式 が「学習」なのである [Luhmann 1972=1979: 50] 。(p.49)

2  ベイトソンの学習階梯理論

ベイトソンの学習理論は、<ゼロ学習>から<学習I><学習II><学習III>へとレベルを上げていく姿を描く。

<ゼロ学習>とは、反応が一つに定まっている点にあった。その特定された反応は、正しかろうと間違っていようと、動かすことのできないものだった。
<学習I>とは、反応が一つに定まる定まり方の変化。すなわちはじめの反応に代わる反応が、所定の選択肢群のなかから選びとられる変化だった。
<学習II>とは、<学習I>の進行プロセス上の変化である。選択肢群そのものが修正される変化や、経験の連続体が区切られる、その区切り方の変化がこれにあたる。
<学習III>とは、<学習II>の進行プロセス上の変化である。代替可能な選択肢群がなすシステムそのものが修正されるたぐいの変化である。 (p.51)

これを、英語学習に仮に当てはめて説明してみたい。amount to (動詞) の語彙学習を例に、以下の表現を見せられたときを考える。

(a) The repair bill amounts to $300.
(b) It is stated differently but amounts to the same thing.
(c) With his intelligence, he should amount to something when he grows up.


ゼロ学習の段階であれば、まず、すべての文に対して「わかんない」「ん~」のようなワンパターンな反応を返すだろう。これは、英語をまったく知らない人にとっては、何といわれようと「わからんもんはわからん」のと同じである。(ドイツ語のCDを聞いていても、分からない単語だらけであれば、例文Aも例文Bも「わからんもんはわからん」。)


学習Iでは、先生から『ほい、いいか~。「amount to = ~に値する」と訳すんだぞ』と教わり、学習者は以下のように反応するだろう。
(a’) 修復費用は300ドルに値する。

しかし、学習Iでは、「~に値する」という訳語のみのため、以下のように反応する。
(b’) 書き方は違うけど、同じもの「に値する」。
(c’) 彼の賢さであれば、大きくなったら大物「に値する」はずだ。
このように、amount to がでてきたら、「~に値する」という訳語をあてることはできていても、それぞれの文脈でぴったりの語を当てることはまだできない。

学習IIの段階は、あまりに多種類の学習が当てはまってしまうため、石戸氏の分類ではIIAとIIBの2段階が設定されている。学習IIAは性格を形成したり強化したりする段階であり、学習IIBはそれまでの学習パターンの変更を指す。たとえば、IIAでは、amount to の訳語として、「やはり『~に値する』と訳せばいいのだ」と考えたり「いや、『~になる』と訳した方がいい」と別の選択肢を得たりすることが考えられるだろう。そこで、先ほどの例文たちはこう訳される。

(a’) 修復費用は300ドルに値する。
(b’) 書き方は違うけど、同じものに値する。
(c’) 彼の賢さであれば、大きくなったら大物に値するはずだ。

しかし、IIA で「もっと色々な訳語を覚えないといけない」と考えている段階から、「訳語を覚えるのではきりがない。英英辞典で語のもつ原義やスキーマをつかんで、あとは例文の文脈に合わせて意味をとったり訳したりした方がいいのではないか」と発想を変えるようになるかもしれない。この転機がIIBにあたるのではないか。

野村氏の『やさしいベイトソン』の解説によると、環境は刻一刻と変化するため、私たちには常に新たな適応が求められる。そのため、学習Iで獲得した習慣を変更するのが学習IIの目標とされる。つまり、学習IIは、自分が得た知識や習慣を一度捨て去る段階 (“un-learn”する段階) と言えるだろう。

学習IIIは、創造的な段階であり、もしかしたら辞書に載っていないような訳語が出せるかもしれない。なぜなら、学習IIAで「訳語を探す」ことを目指していた頃に比べれば、英文の意味することにぴったり当てはまる語を自らの日本語経験から生み出すためである。

ここまで読んで、学習IからIIA、IIB、IIIへ段階的に発展するということが分かる。また、学習者は環境 (現実世界での言語使用) と円環的な関係が結ばれており、両者の間に生まれるパラドックスを克服することが学習と捉えられる。

システム論的に言えば、ベイトソンの学習論は、学習者とその環境との間の円環的関係が基本的なイメージとしてある。すなわち、学習者という下位システムは、それを取り巻く情意システムに組み込まれており、学習者が固着的な性格を形成することによって、情意システムとの関係においてパラドックスが生じ、その克服を通じて、上位システムと調和的関係に入ることが想定されている。 (p.56)

それに対して、ルーマンの学習論では、学習者と環境の関係が、円環的関係 (包含関係) ではなく、互いに独立するシステムであると想定される。

3 ルーマンの学習論
(1) 期待変更プロセスとしての学習

■ 「認知的予期」と「規範的予期」
ルーマンの術語のひとつとして、「認知的予期」と「規範的予期」を導入しておく。「予期」とは、複雑な環境に対応するために形成されるものであるが、その予期が必ずしもうまくいくとは限らない。その場合、「予期」を変更・棄却する場合と、固持する場合が考えられる。このときの前者に当たるのが「認知的予期」であり、後者が「規範的予期」である。

ルーマンは、構造は不確定性が内在しており、そこからもたらされる「予期の違背」に対して二つの対処の仕方があると考える。それは、「違背された予期を変更して、予期に反した現実に適応する方法と、予期を固持し、予期に反した現実にさからってそのままやっていく方法」の二つである [Luhmann 1972=1979: 49] 。そして、前者は「認知的予期」、後者は「規範的予期」と呼ばれる。 (p.58)

たとえば、言語使用が行われる世界は大変複雑であり、amount to という語の意味も文脈や発話者によっていちいち変化するだろう。そこで学習者は「amount to=~に値する」と訳せば良いだろうと予期を形成する。しかし、先ほどの (c) のような英文に出会ったとき、学習者は「amount to=~に値する」という予期を変えて、その文に適するように反応するかもしれない (認知的予期) し、「amount to=~に値する」を変えずに、全ての文に対して「~に値する」と訳す (規範的予期) ことで強行突破(笑)するかもしれない。

このとき、認知的予期の場合は「学習」と呼んでも良いだろうが、規範的予期の場合は「学習」と呼びがたい。どちらの場合も、学習者は予期に反した事態が生じ、それに対処するという点で「機能的に等価」である。つまり、ルーマンにとって不確定な環境に対して「認知的予期」か「規範的予期」のどちらを選ぶかは選択する余地がある。その一方、先ほどのベイトソンの学習論は段階的発展を基盤としている点が異なっている。

簡単に言い換えれば、ベイトソンは学習段階と捉えているが、ルーマンは学習を選択(認知的予期でいくか規範的予期でいくか)と捉えている。

以下の引用箇所はベイトソンとルーマンの学習論の対比をはっきりと示している。

ベイトソンの学習論は、行動パターンの獲得プロセス、すなわち、期待形成のプロセスに焦点があてられていた。これに対して、ルーマンの学習論は、獲得された行動パターン(期待構造)の適用の仕方に焦点づけられる。学習は、期待の獲得プロセスであるとともにその獲得された期待の適用をも伴うものである。 (p.59)
石戸氏の論考によれば、ベイトソンの学習I・学習IIAは、ルーマンの規範的な対応に相当し、学習IIB・IIIは、認知的対応(学習的対応)に値する。 (p.61)

感想

■ 認知的予期を学習者が選択できるようになるには?

選択するには、学習者は必要性がないといけない。もし学校のテストで c の例文を「値する」と訳して丸がもらえるなら、わざわざ他の訳語を覚えようとはならない。しかし、もし訳活動が、「他者」に向けて行われるなら、言い換えれば、ある英語テクストを日本語読者に伝わるように訳せといわれたなら、不自然な日本語では都合が悪く、他に良い訳語はないだろうかと考えて、自分の持っている既存知識のみならず、新しい知識を求めて辞書を開いたり、自分なりにぴったりくる訳語を書こうとするだろう。

このような学習環境の調整によって、学習者が認知的予期を選択しようとする可能性は十分広がりそうな気がする。




■ un-learn するということ

一度学んだことを「否定」して、新たな知識を得るというのは、そう容易いことではありません。そういう意味では、私たちは多くの英単語を最初に「1対1」で覚えます。amount to の例はもちろん、身近な例ではexcite を「わくわくさせる」と覚えた方も多いのではないでしょうか。

もちろん1対1対応の訳を否定することはできません。ただし、どこかでこの「1対1」を破棄 (aufheben) して、別の訳し方も知ることで、幅広い言語使用に対応できるようになります。

つい先日 (2015年7月20日) にご冥福なさった鶴見俊輔氏の言い方であれば、unlearn (学びほぐし) と言えるかもしれません。一度習った知識に執着して固定化してしまうことでは、その後の成長は望めません。むしろ、習ったこと・学んだことを一度リセットすることで、新しい場面にも対応できるようになるはずです。







2015年7月7日火曜日

櫻井よしこ(2014)『議論の作法』文春新書

こんにちは。しばらくぶりの更新となります。Ninsoraです。
最近は研究の傍ら、現場での実践の機会にも恵まれ、忙しくも充実した日々を送っています。

ちなみに最近、自分が現場で感じたことなどをベースに、mochi君や他の学部生・院生を誘って週1ペースでちょっと特殊な(笑)模擬授業会を行っています。
こちらについてもいつかまた時間を見つけて記事を書けたらなと思っています。

積ん読状態の本が増えすぎていたので、最近意識して本を読むように心掛けているのですが、
今回はやっと手に取って読んだ本をご紹介します。

議論の作法 (文春新書)議論の作法 (文春新書)
櫻井 よしこ

文藝春秋 2014-10-20
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著者は、日本を代表する論客、ジャーナリストの櫻井よしこ氏。
彼女が議論をするシーンはTVやネットで何度も見たことがあるのですが、とにかく「強い」。本当に強い。
冷静かつ論理的に、時に笑顔で相手を説得していく姿は非常にカッコいいのですが、実際に論争をする場面があったら、怖くて泣いてしまうだろうなと思います。笑

本書はそんな櫻井氏の「議論の強さ」の秘訣を、実際の議論の場面から学ぶ事のできる良書です。
ただ、多少ラディカルな議論も少なくないので、櫻井氏の考えを学ぶというよりも、「問題への斬り込み方や議論の進め方を参考にしよう」ぐらいの気持ちで読んでいく方が気が楽かもしれません。


■ 櫻井流「議論の作法」

櫻井氏は本書冒頭 (p.4) で、以下の5つの「議論の作法」を掲げています。

 ①「事実に」忠実であり続けること

 ②相手の言い分に、十分に耳を傾けること。

 ③自分が正しいと確信していることは譲らないこと。

 ④ユーモアのセンスを忘れないこと。

 ⑤日本人としての誇りを基本とすること。

まず、櫻井氏に関して私が純粋に凄いと感じるのは、その下調べの量というか、知識量の多さです。
事実、本書の中でも櫻井氏は「歴史問題」「環境問題」「教育問題」「憲法問題」などの多岐に渡る問題について、その道のエキスパート達に引けを取らない白熱した議論を展開しています。

中でも櫻井氏は「事実」を大切にした議論を進めることを信条にしておられるようですので、その部分についての妥協が一切ありません。
議論の際の彼女の口からは、本当にスラスラと根拠となる年号だの引用だの出典だのが出てくるんですよね。
映像で見ると余計にその凄さが伝わると思います。

やっぱり人って具体的な根拠とか数字とかを出されると弱いんですよね。
で、それに反論できるのは、別の「事実」しかない。
だからこそ櫻井氏は下調べを大事にされているのかなと思います。
実際、櫻井氏は根拠の曖昧な「事実 (?) 」 に対しては、別の根拠ある「事実」をぶつけて論破していました(怖)

挙げられた「事実」が確かなら、あとはそれに対してどのような斬り込み方(解釈)をするかが議論の本質になってくる訳ですから、「そんな事実は嘘だ!そうに違いない!」という感情的な論で反論するのは、確かに的外れな議論になってしまいますよね。

――――――――――――

…少し話が逸れるかもしれませんが、TVなどを見ていると、時々感情論で議論をしようとする人がいますが、議論云々に関わらず、僕もその点に関しては気をつけなきゃなって思います。
もちろん、感情を一切抜き去った議論はいかにもお役所風と言うか、ロボットみたいで逆に説得力がなくなってしまうように思いますが、感情ばかりになってしまうと議論の落としどころがいつまでも見えず、喧嘩別れみたいになってしまいますよね。

これは議論に限ったことではなくて、人を叱ったり、人と関わって説得したりしようとする場面では常に大切にすべき考え方のような気がします。

結局は「事実に基づく論理性」と「感情」双方のバランスをいかに保つかが大事なんでしょうけど、櫻井氏はこのあたりも凄く上手いんですよね。
「事実」をベースにした冷静な語り口なのに、内に秘めている熱い気持ちがちゃんと伝わる。
こんな風に人を説得できるようになりたいとは思いますが、やっぱり相手となるとかなり怖いですね笑

――――――――――――

また、櫻井氏はまず相手の話をきちんと聞いて、相手の主張、その根拠となる事実をきちんと踏まえたうえでジワジワと反論していきますから(笑)、相手としては武器を奪われた状態で議論を進めなければならなくなります。

このように書くと櫻井氏を悪く言っているように聞こえてしまいますが、着目すべきは彼女の「相手の主張の引き出し方」の巧さです。
彼女が相手から意見を引き出そうとするとき、大抵は「根拠ある事実」を突き付けるか、それをベースにした「具体的な質問」を投げかけます。
この「質問の具体性」というのが恐らく議論を有利に進める際のミソなんだろうなと思います。

例えば、櫻井氏はしばしば

「~についてあなたの意見を聞かせてください」

というざっくりした質問の体を取るのではなく、

「○○年に△△という調査があって、こういう結果になりました。つまりこれは●●ということであり、先ほどあなたの言った△△という意見は、××という点で間違っているのではないですか。」

というかなりの具体性をもって質問をします。

具体的な論拠のある質問に対しては具体性をもって答える必要がありますので、ここで相手は櫻井氏を説得できるだけの具体的な論拠を持ってこないといけない訳です。

つまり、ここできちんと反論できるだけの論拠を持っていないと、単に辟易してしまい、いわゆる「論破された状態」になってしまうのです。

一般に議論においては「質問に答える方がその答えに責任を負う」とよく言われますから、彼女の「相手を具体的に喋らせる質問術」は議論に勝つのにとても理にかなった方法で、この質問の仕方が櫻井氏の強さの秘訣なのかもしれないですね。



■ まとめ

最初にも述べた通り、本書は割とラディカルな議論が展開されているため、本書の登場人物の「思想」や「対立」の部分から何かを学ぶというのには少し慎重になった方がいいかもしれません。
(もちろん、いま議論の渦中にある様々な問題についての教養を得るという点では非常に有益な本だと思います。)

それよりもむしろ、櫻井氏の「議論の強さ」「議論の作法」に触れながら、「どのようにすれば議論を有利に進めていくことができるか」という点に関して学んでいく方が、より多くの人が本書の面白さに気づくことができると思います。

また本書には、議論の場面のみならず、多くの別のコミュニケーション場面や教育現場でも大切にすべきエッセンスが含まれているので、その視点で読み進めてみても面白いかもしれません。

本書の後半では割と「ほっこり」する対談も載っているので、「内容が難しそうだ」と気張らず、肩の力を抜いて是非一読してみてはいかがでしょうか。

お粗末な書評でしたが、お読みいただきありがとうございました。