2015年10月31日土曜日

山本おさむ (2000) 『わが指のオーケストラ』秋田書店

こんにちは!
早いもので、明日から11月ですね!

私は、非常勤先の授業も少しずつリズムがつかめて来て、楽しくやっております。
と同時に、刻一刻と修士論文提出期限が近づき、焦りつつもありますが(笑)。


友人から、『わが指のオーケストラ』という漫画を教えてもらいました。非常勤の行き帰りで一気に読んでしまいました。

とても良い作品だったので、ここに紹介させてもらいます。




わが指のオーケストラ 文庫版 コミック 全3巻完結セット (秋田文庫)
わが指のオーケストラ 文庫版 コミック 全3巻完結セット (秋田文庫)山本 おさむ

秋田書店 2000-07-01
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◆ 作品の紹介(1)

この物語の背景は大正~昭和にかけてのろう学校で、主人公は高橋潔という実在の人物です。(今は特別支援教育と言われていますが、当時はまだろう学校・盲学校などが分かれていた時代です。)

本作品は秋田書店版で全3巻となっています。第1巻は、高橋氏がろう学校に赴任するところから始まります。当初は音楽教員を志望していた氏でしたが、少しずつ子ども達と体当たりでコミュニケーションを取れるようになり、手話を(自身も学びながら)子ども達に教えることで、少しずつ子ども達が変化していく様子が描かれます。それはまるで、ヘレンケラーが「水」という語を覚えたときのように、子ども達にとっては1つ1つの手話によって、これまでの世界とは異なる見方ができるようになり、問題ばかり起こしていた子も落ち着いていきます。

第一巻の最後では、高橋先生が「ずし王」という絵本を手話で子ども達に伝える場面があります。文字を読めない子たちも、先生の手話を目で追っているうちに、次第に心が動き出します。高橋先生はここで、「手話で音楽をする可能性」というものに気づきます。


◆ 手話の魅力

閑話休題。

上で出てきた「手話と音楽」について、つい最近TEDで紹介された動画ですが、非常に啓発的でした。




「手話で音楽」など可能なのかと思われるかもしれませんが、ここでいう「音楽」は「空気の振動のまとまりが聴覚で受信されて感性的に把握される作品」という意味ではありません。むしろ、「リズムを伴って心が動かされるという事態」を指すのだと思います。

自分も学部生の頃に手話を少し習っていましたが、手話をするときは表情や体の動きをふんだんに使って表現するように言われます。

そのせいか分かりませんが、自分が授業やプレゼンなどで前に立つときは、ジェスチャーなどの表現が多くなります。イギリスの小学校で授業をした時も、子どもから、「先生は手話をやっているでしょ?だって身振りが多いもん」と言われたほどです。(やはり、子どもは侮ってはいけませんね。笑)

このように、指・手・腕の動きのみではなく、表情や身体全体、そして動きのスピードやリズムなどを組み合わせれば、可能な表現様式は無数になると思われます。その複雑な体系の中で、伝えたい思いにそって手話表現を行えば、たとえ耳が聞こえない方にも「音楽」が伝わるのかもしれません。

以前、「演劇大学 in さかいで」という企画でパントマイム体験のワークショップに参加したときも、パントマイムは声が使えない分全身を使えるだけ使え、といわれました。だから、動作だけでなく、目線や表情、息づかいなどもパントマイムの表現には含まれます(し、実は細かい動作のテクニックよりも、全身の表現力の方が重要だと学びました。)手話もそれと同じなのだと思いました。


◆ 作品の紹介(2)

第2巻では、米騒動や関東大震災などの対象自体の出来事を背景に、ろう教育の主流が手話法から口話法へと移り変わっていく様子が描かれます。

ここで簡単に紹介すると、口話法とは、先生が話すときの口の動きをよく見て(読唇術)、音を発する練習をし、最終的には話せるようになることを目指します。相手の唇の動きから相手の発話を理解して、それに対する返事を言葉で発することができれば、将来就職するときも有利になるのかもしれません。また、親としてはわが子が話す姿を見て、嬉しい気持ちになるのかもしれません

ただし口話法は、その指導法の特性上、手話の使用を禁止します。手話を使っても良い環境下にいると、意思伝達を手話で行うため、なかなか口話が身につかないと想定したためです。大正時代は、手話を使わないように体罰を与えたり手を縛ったりしたといいます。

口話法は日本全国で広まりますが、手話を奪われた子たちが次第に不満を募らすようになります。そこで、主人公の高橋先生が、手話法の復権を目指して奮起します。

第3巻のテーマは、手話法と口話法の対立にあります。どちらも子ども達のために行っていることは否めませんが、高橋先生は手話法の存続が子ども達のためになると信じて活動を続けます。

第34話「記念すべき日」では、高橋先生が全国聾唖学校校長総会で、口話主義の校長たちの前でスピーチをします。

◆ 高橋先生のスピーチから

まずは、言語の権力性に関わる以下の発言。これを敷衍すれば、外国で言語が話せない「言語弱者」にも当てはまるのかもしれません。
(だからこそ、看護学校の生徒さんには、ほんの少しでも、英語でのコミュニケーションに熟してもらいたいと願います。)


聾唖者は少数者であり手話は少数者の言語です
正常者は多数者であり音声言語は多数者の言語であります
故に少数者は多数者の犠牲になれと申されるのでしょうか
正常者の立場に立ち彼等に正常者の言語を強要し正常者と同様になれと申されるのでしょうか
聾唖者が聾唖者である事をなぜ恥じねばならないのでありましょう (pp.203-204)

また、子供の構築する世界を豊かにするためにも、手話が必要なのではないかと訴えます。
このへんの議論は自分が疎いのでなんとも言えませんが、説得力はあると思います。
(お詳しい方がいらっしゃいましたら、ご教示ください。)

子供には子供の世界があります
我々教師は一日一日成長していく生活者としての彼等にその精神生活に糧をあたえてゆかねばなりません
それには彼等のことばであるところの手話に依らねばならないと考えます
彼等には手話こそ最も自然で解り易い言葉なのです (p.208)

◆ 英語教育と母語

私はこれらの箇所を見て、ふと英語教育を思い出しました。思えば、2013年から高等学校の英語の授業が「原則英語」と学習指導要領で指定され、着々と英語で授業をすることが(浸透した、とまでは言いませんが)当たり前になりつつあります。

予め断っておきますが、上の高橋氏の主張を機械的に英語教育に当てはめることは危険でしょう。すなわち、「英語の授業で日本語を禁止するのは、子供の世界を奪い取ることになる!」とか「だから英語の授業は訳読式教授法に戻るべき」と主張する気は毛頭ありません。可能な限り授業は英語で行うべきでしょう。

ただし、これが過熱すると、上の事態と似た状況になることも否定できません。英語という「他者の言語 (Fremdsprache) 」を押し付けられ続け、学習者の感性や生活経験が押し殺される事態があるとしたら?もはや象徴的には、手話を禁止して手を縛ろうとした大正時代の口話法とあまり変わりがないのではないでしょうか。


現代の特別支援教育の議論は追っていないので分かりません(し、今後勉強する必要があると思います)。しかし、殊に英語教育に限定すれば、私たちは英語を教える中で、「母語」の役割についてもきちんと検討すべきではないでしょうか。

それが訳読式教授法である必要はありませんし、わざわざ一単元を取って翻訳教育をすべきだとも思いません。自分も将来現場に出たときは、英語で行える部分ならもちろん英語で行う方が学習者のためになると思います。ただ、英語を学ぶ学習者が有す言語的背景にも留意した上で、英語を教える必要があるのではないかと思います。



◆ さいごに

山本おさむさんの作品は他にも、『どんぐりの家』などがあるようです!
まだ読めていませんが、時間ができたら読んでみたいと思います。

皆さんも読書の秋に漫画などいかがでしょうか? (^^)

2015年10月10日土曜日

菊地多嘉子 (2015) 『看護のなかの出会い-“生と死に仕える”ための一助として』日本看護協会出版会



今年度後期から某看護学校で英語を教えるお仕事が始まり、その関係でケア論や看護関連の書籍を手にとる機会が増えました。この本も本屋で看護英語のテキストを立ち読みしていたときに目に留まったものです。小さい書籍だったので「とりあえず読んでみようか」くらいの気持ちで買ったら、非常に奥深い記述で心に残りました。

本来、自分のような人生経験の浅い薄っぺらい院生が評するべき本ではないのかもしれません。そのくらい「生」「死」について深く考えさせる文章で、あまり軽々しく論じるのが憚られる気がします。しかし、最近の自分の関心(「他者」「承認」「ケア」)と密接に関わる豊かなエピソードが紹介されており、また、教育の文脈で読み解ける場面もあるため、ここで紹介したく存じます。

※後記※
書いていたら、情けない自分の反省文のようになってしまいました。(笑)私の懺悔文はあまり値打ちがありませんがw、本書はとても良書だと思います。
本書に興味をお持ちでしたら、どうぞ手にとってお読みください。それくらいの値打ちはあると思います。

■ 他者による無条件の受容

私たちは承認欲求、すなわち他人に自分を認めてもらいたいという気持ちを持っています。この承認欲求は大きく分けて2種類あり、「英語力という条件においてこの生徒はすごい」とか「仕事という面でAさんを認めている」といった条件的な承認と、「あるがままの自分を認める」という無条件な承認(あるいは全人的な承認)があります。本書では後者の無条件の受容に、すなわち、この世に生きている私として相手に認めてもらうことに焦点が当てられています。

本書では、母親に赤ん坊が生まれ、分娩室で初めて対面したときの母親の姿が描かれます (pp.14-16) 。「ぼっちゃんですよ。おめでとう。」と言われた母親は、「涙をたたえた目で」「わか子の運命まで見通そうとするまなざし」で、「かけがえのないわか子の苦しみをも喜びをも、ともにになおうとするまなざし」でしっかりと見つめます。このとき、赤ん坊を条件的に見なそうとする姿勢は一切ありません。

しかし、時が経ると、あるがままに受容することができないようになってしまいます。小学校に入学した最初は、通知表に5があれば「すごい」と誉めてくれたお母さんも、次第に、「まあ、5がたった1つだけ」と価値付けてしまいます。ここではお母さんは「通知表の成績」という「条件」で子どもを承認しており、それによってだんだんとやる気をなくす子どもの気持ちが描かれます。


人と人との出会いは、他者による無条件の受容に始まるのではないでしょうか。 (p.14) 
まず、親、そして兄弟姉妹、先生や友人から、あるがままあに受容され、大切な、かけがえのない存在として愛された体験をもつ人は、どんなに幸せでしょう。 (p.17)

そして無条件の受容は、人を変える力を有します。これはアドラー心理学でも言われていることですが、私たちは社会(対人関係)から離れることはできず、したがって私たちが抱える問題や悩みは他者とのつながりや人間関係によって規定されてしまうことがあります。そのような他者に対して無条件の受容をすることで、個人としての問題も解消されて成長できる可能性があります。英語ができないから、という条件付きの理由で生徒を見放すのではなく、「この子の可能性を見据えよう」と無条件に認め、全人的な関わりを持つことで、その人の成長の余白を念頭に入れることができます。

受容する、とは、相手の欠点や短所に目を閉じて正しい評価を放棄することではありません。つまり、賛成することとはちがいます。賛成が静止的であるのに対して、受容はダイナミックな、想像する力にみなぎっています。今あるがままの相手を肯定し、受容することによって、その人を新しい人に変えていくことができるのです。理想像を押し付けて打ちのめすのではなく、世界中にたった一人しか存在しない相手が、いかにもその人らしく成長するのを助け、支え、励ます力、これこそ、受容のダイナミズムといえるでしょう。 (pp.18-19)

受容の「ダイナミズム」と表現するということは、受容は運動を孕む営みで、常に変わり行く他者である相手に対して、自身も受容の仕方(言葉かけ・表情・視線…) を調整しつつ、長期的な視点で他者が変わるのを待つことを指します。

(ここまで書いて、自分は上の「承認」を普段少しでもしているか、と恥ずかしくなりました。塾や学校の生徒さん方、大学院の友人と、このような関係を築けているかと思うと、顔を上げられません。)

■ 「どなたかに合っている時間は私のものではなく、そのかたのものです」

看護場面は激務であり、短時間で仕事を終わらせて次の仕事に向かう毎日だといいます (p.31) 。しかし、そのようなときでも、患者さんに関わるときは、患者さんのためにその時間を使うことが重要だといいます。

みなさまは患者の側に居る時間を、必要ならば三分でも五分でも延長してあげたい、と思っていらっしゃることでしょう。でも現実にはそれさえできない。…患者はこうした事情をわきまえて、長い時間とはいわない、ほんのひとときであっても、真剣に自分に向き合ってほしい、「脈をとる一分一秒だけでもいい。その間だけは『私の看護師さん』であってほしい」と、切に願っております。この望みに応えうるか否かは、仕事の量の問題井ではなく、心の問題なのではないでしょうか。たとえ短い時間にすぎなくとも、その間中、世界に相手と自分しか存在しないかのようにかかわること、これこそ真実のやさしさのあかしなのですから。 (p.30) 

「どなたかに会っている時間は私のものではなく、そのかたのものです。たとえ数分であっても、世界中にそのかたと私しか存在しないかのように、自分を差し出さなければなりません。」(p.32) とはマザーテレサの言葉です。業務を効率化して、複数の仕事を並列的に処理することも必要かもしれませんが、相手が殊に人間であれば、患者さんに対しての時間は、患者さんのためだけに使う必要があるとも思えます。

病人の顔を見に行っても、思いは次の仕事に向けられているなら、病人は痛いほど、その人のこころの動きを感じとってしまいます。看護師のこころが全面的に自分に向けられてはいないと知ったとき、病人は進んでこころを開こうとはしないでしょう。このようにして、毎日病室に足を運んでいながら、患者との出会いをもたずに終わってしまうのなら、それはほんとうに残念なことと思います。お互いにとって。 (pp.32-33)

そしてここまでの記述は全て、「教師―生徒」関係にも当てはまります。日々業務に負われる教師にとって、生徒と接する時間は大事だ、とか、生徒理解が授業の基礎だ、とは頭では分かっていても、なかなか実践してみれば、難しいかもしれません。(少なくとも自分が塾や看護学校ではそのように接することができているとは、口が裂けても言えません。)

■ 仕える手を持つこと

本書では、看護学生の事例も紹介されます。ある看護学生が重傷の患者に歯を磨いたか確認する場面で、その実習生は歯を磨くことの重要性を延々と説きます。そうして帰っていく看護学生に、患者は以下のように感じたといいます。

「まあ、お説教が上手なこと。両手をうしろにしてあんな説明を聞かせるよりは、歯ブラシとコップを取ってくださるほうが、よっぽどありがたいのに。若いっていうのは、ああいうことなのね」。 (p.36)

(この言葉も、教師としての自分に反照的に立ち返ってきました。自分は教えるという行為を上の実習生の説教と同じようにしてきた(あるいは、している)のかもしれません。むしろ、コップを手にとって渡してあげて歯を磨く間横に座っているように、私も、英文が読めないで困っている方に、「辞書を使うのは大事です」と講ずるばかりでなく、ときに単語リストを作成して配布することも大事かもしれません。音読したくない方に「音読は大事!」とスポ根精神を語るのみならず、英語に振り仮名(発音記号)を振って、英語をまずは読めるようにしてあげることも重要かもしれません。)


ほかにも、「他者を認めるための自己否定」 (p.48) や「死あっての生」 (p.59) など、非常に奥深いエピソードが多く紹介されています。もちろん看護に携わる方には(もう馴染みの教訓も多いかとは存じますが)時折振り返る必要のあるテーマだと思いますし、ぜひ教育に携わる方にもご一読して頂きたい本だと思いました。

自分の読みの範囲ですが、本書はキリスト教の隣人愛の精神が通底しているように感じます。その意味では、ブーバーの「我と汝 (Ich-und-du) 」にも非常に似ていると思えます。ただ、こういった「承認」や「他者」の問題は、哲学的な考察や「べき論」で終えるより、こういった臨床場面での具体例を踏まえて考察することが重要だと改めて実感しました。

さて、看護英語の授業を作らなければ。(笑)

看護のなかの出会い―“生と死に仕える”ための一助として (Nature of Nursing)
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