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2015年10月10日土曜日

菊地多嘉子 (2015) 『看護のなかの出会い-“生と死に仕える”ための一助として』日本看護協会出版会



今年度後期から某看護学校で英語を教えるお仕事が始まり、その関係でケア論や看護関連の書籍を手にとる機会が増えました。この本も本屋で看護英語のテキストを立ち読みしていたときに目に留まったものです。小さい書籍だったので「とりあえず読んでみようか」くらいの気持ちで買ったら、非常に奥深い記述で心に残りました。

本来、自分のような人生経験の浅い薄っぺらい院生が評するべき本ではないのかもしれません。そのくらい「生」「死」について深く考えさせる文章で、あまり軽々しく論じるのが憚られる気がします。しかし、最近の自分の関心(「他者」「承認」「ケア」)と密接に関わる豊かなエピソードが紹介されており、また、教育の文脈で読み解ける場面もあるため、ここで紹介したく存じます。

※後記※
書いていたら、情けない自分の反省文のようになってしまいました。(笑)私の懺悔文はあまり値打ちがありませんがw、本書はとても良書だと思います。
本書に興味をお持ちでしたら、どうぞ手にとってお読みください。それくらいの値打ちはあると思います。

■ 他者による無条件の受容

私たちは承認欲求、すなわち他人に自分を認めてもらいたいという気持ちを持っています。この承認欲求は大きく分けて2種類あり、「英語力という条件においてこの生徒はすごい」とか「仕事という面でAさんを認めている」といった条件的な承認と、「あるがままの自分を認める」という無条件な承認(あるいは全人的な承認)があります。本書では後者の無条件の受容に、すなわち、この世に生きている私として相手に認めてもらうことに焦点が当てられています。

本書では、母親に赤ん坊が生まれ、分娩室で初めて対面したときの母親の姿が描かれます (pp.14-16) 。「ぼっちゃんですよ。おめでとう。」と言われた母親は、「涙をたたえた目で」「わか子の運命まで見通そうとするまなざし」で、「かけがえのないわか子の苦しみをも喜びをも、ともにになおうとするまなざし」でしっかりと見つめます。このとき、赤ん坊を条件的に見なそうとする姿勢は一切ありません。

しかし、時が経ると、あるがままに受容することができないようになってしまいます。小学校に入学した最初は、通知表に5があれば「すごい」と誉めてくれたお母さんも、次第に、「まあ、5がたった1つだけ」と価値付けてしまいます。ここではお母さんは「通知表の成績」という「条件」で子どもを承認しており、それによってだんだんとやる気をなくす子どもの気持ちが描かれます。


人と人との出会いは、他者による無条件の受容に始まるのではないでしょうか。 (p.14) 
まず、親、そして兄弟姉妹、先生や友人から、あるがままあに受容され、大切な、かけがえのない存在として愛された体験をもつ人は、どんなに幸せでしょう。 (p.17)

そして無条件の受容は、人を変える力を有します。これはアドラー心理学でも言われていることですが、私たちは社会(対人関係)から離れることはできず、したがって私たちが抱える問題や悩みは他者とのつながりや人間関係によって規定されてしまうことがあります。そのような他者に対して無条件の受容をすることで、個人としての問題も解消されて成長できる可能性があります。英語ができないから、という条件付きの理由で生徒を見放すのではなく、「この子の可能性を見据えよう」と無条件に認め、全人的な関わりを持つことで、その人の成長の余白を念頭に入れることができます。

受容する、とは、相手の欠点や短所に目を閉じて正しい評価を放棄することではありません。つまり、賛成することとはちがいます。賛成が静止的であるのに対して、受容はダイナミックな、想像する力にみなぎっています。今あるがままの相手を肯定し、受容することによって、その人を新しい人に変えていくことができるのです。理想像を押し付けて打ちのめすのではなく、世界中にたった一人しか存在しない相手が、いかにもその人らしく成長するのを助け、支え、励ます力、これこそ、受容のダイナミズムといえるでしょう。 (pp.18-19)

受容の「ダイナミズム」と表現するということは、受容は運動を孕む営みで、常に変わり行く他者である相手に対して、自身も受容の仕方(言葉かけ・表情・視線…) を調整しつつ、長期的な視点で他者が変わるのを待つことを指します。

(ここまで書いて、自分は上の「承認」を普段少しでもしているか、と恥ずかしくなりました。塾や学校の生徒さん方、大学院の友人と、このような関係を築けているかと思うと、顔を上げられません。)

■ 「どなたかに合っている時間は私のものではなく、そのかたのものです」

看護場面は激務であり、短時間で仕事を終わらせて次の仕事に向かう毎日だといいます (p.31) 。しかし、そのようなときでも、患者さんに関わるときは、患者さんのためにその時間を使うことが重要だといいます。

みなさまは患者の側に居る時間を、必要ならば三分でも五分でも延長してあげたい、と思っていらっしゃることでしょう。でも現実にはそれさえできない。…患者はこうした事情をわきまえて、長い時間とはいわない、ほんのひとときであっても、真剣に自分に向き合ってほしい、「脈をとる一分一秒だけでもいい。その間だけは『私の看護師さん』であってほしい」と、切に願っております。この望みに応えうるか否かは、仕事の量の問題井ではなく、心の問題なのではないでしょうか。たとえ短い時間にすぎなくとも、その間中、世界に相手と自分しか存在しないかのようにかかわること、これこそ真実のやさしさのあかしなのですから。 (p.30) 

「どなたかに会っている時間は私のものではなく、そのかたのものです。たとえ数分であっても、世界中にそのかたと私しか存在しないかのように、自分を差し出さなければなりません。」(p.32) とはマザーテレサの言葉です。業務を効率化して、複数の仕事を並列的に処理することも必要かもしれませんが、相手が殊に人間であれば、患者さんに対しての時間は、患者さんのためだけに使う必要があるとも思えます。

病人の顔を見に行っても、思いは次の仕事に向けられているなら、病人は痛いほど、その人のこころの動きを感じとってしまいます。看護師のこころが全面的に自分に向けられてはいないと知ったとき、病人は進んでこころを開こうとはしないでしょう。このようにして、毎日病室に足を運んでいながら、患者との出会いをもたずに終わってしまうのなら、それはほんとうに残念なことと思います。お互いにとって。 (pp.32-33)

そしてここまでの記述は全て、「教師―生徒」関係にも当てはまります。日々業務に負われる教師にとって、生徒と接する時間は大事だ、とか、生徒理解が授業の基礎だ、とは頭では分かっていても、なかなか実践してみれば、難しいかもしれません。(少なくとも自分が塾や看護学校ではそのように接することができているとは、口が裂けても言えません。)

■ 仕える手を持つこと

本書では、看護学生の事例も紹介されます。ある看護学生が重傷の患者に歯を磨いたか確認する場面で、その実習生は歯を磨くことの重要性を延々と説きます。そうして帰っていく看護学生に、患者は以下のように感じたといいます。

「まあ、お説教が上手なこと。両手をうしろにしてあんな説明を聞かせるよりは、歯ブラシとコップを取ってくださるほうが、よっぽどありがたいのに。若いっていうのは、ああいうことなのね」。 (p.36)

(この言葉も、教師としての自分に反照的に立ち返ってきました。自分は教えるという行為を上の実習生の説教と同じようにしてきた(あるいは、している)のかもしれません。むしろ、コップを手にとって渡してあげて歯を磨く間横に座っているように、私も、英文が読めないで困っている方に、「辞書を使うのは大事です」と講ずるばかりでなく、ときに単語リストを作成して配布することも大事かもしれません。音読したくない方に「音読は大事!」とスポ根精神を語るのみならず、英語に振り仮名(発音記号)を振って、英語をまずは読めるようにしてあげることも重要かもしれません。)


ほかにも、「他者を認めるための自己否定」 (p.48) や「死あっての生」 (p.59) など、非常に奥深いエピソードが多く紹介されています。もちろん看護に携わる方には(もう馴染みの教訓も多いかとは存じますが)時折振り返る必要のあるテーマだと思いますし、ぜひ教育に携わる方にもご一読して頂きたい本だと思いました。

自分の読みの範囲ですが、本書はキリスト教の隣人愛の精神が通底しているように感じます。その意味では、ブーバーの「我と汝 (Ich-und-du) 」にも非常に似ていると思えます。ただ、こういった「承認」や「他者」の問題は、哲学的な考察や「べき論」で終えるより、こういった臨床場面での具体例を踏まえて考察することが重要だと改めて実感しました。

さて、看護英語の授業を作らなければ。(笑)

看護のなかの出会い―“生と死に仕える”ための一助として (Nature of Nursing)
看護のなかの出会い―“生と死に仕える”ための一助として (Nature of Nursing)菊地 多嘉子

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