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2015年12月28日月曜日

西口光一 (2013) 『第二言語教育におけるバフチン的視点ー第二言語教育学の基盤として』くろしお出版の「対話・対話原理」に関する勉強ノート

mochiです。

最近、対話論にはまっており、ふとM1の頃に買ったこの本を読み返していました。

第二言語教育におけるバフチン的視点-第二言語教育学の基盤として
第二言語教育におけるバフチン的視点-第二言語教育学の基盤として西口 光一

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去年の自分にはちんぷんかんぷんだった箇所も、多少は理解できるようになりました。

思えばバフチンは、ヘーゲルや柄谷行人、バイラム、オープンダイアログなど、大学院で出会った多くの本で繰り返し言及されていました。まだ内実はよく理解できていませんが、少なくともバフチンの言語観で鍵概念とされるいくつかの語(宛名性、ポリフォニー、言語的交通、信号-記号)はだいぶ分かってきました。


以下は、特に第8章の中で重要と思った箇所の書き抜きノートです。


なお、著者の西口先生は、1月に『対話原理と第二言語の習得と教育 ―第二言語教育におけるバフチン的アプローチ』という本を出される予定です。そちらも大変興味深い内容になりそうなので、ご興味をお持ちの方はぜひお読みください。

対話原理と第二言語の習得と教育 ―第二言語教育におけるバフチン的アプローチ
対話原理と第二言語の習得と教育 ―第二言語教育におけるバフチン的アプローチ西口光一

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第8章 対話と対話原理


はじめに

対話原理とは、文字通り人間の社会的な相互行為についての対話的な見方と言うことである。(が、実際はそこまで単純ではない。)

1. 発話の対話的定位
1.1. 対話的定位再考

言語的交通において相手の発話を理解するというのは、信号としてではなく、具体的な脈絡の中において、それに対して然るべき位置を見出してやることである。

「あらゆる理解が、対話性をもっているものです」 (『マル言』pp.226-227) (p.123)

これ以降、「発話」 (yskazyvanie) 3つの特性 (境界性、完結性、対話的定位) について考察する。

1.2 発話の第1特性: 境界性

言語コミュニケーションにおける具体的発話の単位は、話者が交代することにより決定される。

⇒つまり、発話権 (floor) を受けてから相手に渡すまでが一単位ということか。

⇒口頭発話なら分かりやすいが、書き言葉の場合はどのように定義するのだろうか。

1.3. 発話の第2の特性: 完結性

発話の完結性は「すべて言い終えた(あるいは書き終えた)ことで成立する」。 (p.126)

どのような発話であっても、返答することが可能であり、その発話に対して返答の立場を占めることが可能である。そして、返答可能になるには、(i) 意味内容が尽くされている、(ii) 発言の意図・意思が理解できる、(iii) 発話を完成させる構成上・ジャンル上の類型的な形式が観察されること、の3要因が結びついている。

(ii) 我々が発話を聞くとき、相手の発話の意図・意思をすばやく理解し、その発話の全体を察知する。

このコミュニケーションの直接の参加者たちは、状況や選考する発話のなかでみずからを定位しつつ、話者の発言の意図、発言の意思を容易にすばやく把握し、そのことばを耳にするなり、これから展開する発話の全体を察知するのである。 (『ジャンル』p.147) (p.127)

⇒即興対話でも同じようにいえる。他者が発する言葉を理解し、自分がとるべき立場を瞬時に理解し、その発話の行き先を考えながら自分も言葉を発するという関係が二重に(お互い)成り立っているのだろう。

発話を聴く側は、発話の意味を推測しているのではない。むしろ発話そのものを推定しているのである。そしてこの過程は社会歴史的な能力というヒューリスティックによって可能となる。

⇒ウィトゲンシュタインの「ライオン」の言語ゲームの例を思い出す。

1.4. 発話の第3の特性: 発話の対話的定位

文や語は作者を持たない。それが全一な発話として機能することによって、語る個人の立場を表す。(発話の対話的定位)

言い換えれば、「文」や「語」は脱身体化・脱文脈化された抽象的・理念的なラングであるのに対し、「発話」は身体化・文脈化された具体的状況におけるパロールである。

発話の対話的定位は、(i) 対象意味上の課題、(ii) 発話の表情、(iii) 対話的な立場取り、の3つの要因がある。

(i) いかなる発話も対象意味内容の課題(意図)によって第一にジャンルが選択される。(発話の対象定位)

(ii) 表情の要因とは、話者がその発話の対象意味内容にどのような態度を取るかである。

⇒ここまでの話を「時計が壊れた」という文で考えてみたい。「時計が壊れた」という「文」自体には、一切の感情が排されている。この文には悲しみも喜びも憎しみも何も込められていない、中立的-さらにいえば機械的な-文と言える。ところが、一度この文が「発話」として発せられた瞬間、この「発話」には表情が込められる。時計が壊れて残念なのか(「あぁ、彼女からもらった大切な時計なのに」、嬉しいのか(「やった、次の時計を買えるぞ」)、表情豊かなイントネーションが込められる。

(ii) 特に、「イントネーション」は聞き手・言葉の選択・意味づけなども規定する。また、イントネーションは、聞き手に対してと、第三の生きた発話の対象に対してという二つの方向に向けられている。

⇒つまり、イントネーションによって、その言葉の宛て先 (address) が明らかになるし、イントネーションによっては既に使われえない言葉が排除され、意味も排除される。さらに、そのイントネーションは、聞き手に対する表情 (utter to whom) と発話対象 (utter about what) に対して表情を見せるということ。

1.6. 対話的定位の第3の要因: 対話的な立場取り

文体論によって扱えるのは、上の (i) (ii) のみである。しかし実際の発話のスタイルや構成は、はるかに複雑である。

なぜならいかなる発話も、その発話がなされる前に同じ領域で発された発話に対して返答しているとみなされるからである。

発話をするということは、ある場において、自身の発話が何かしらの立場を取る行為である。

⇒以下の一文が面白いが、まだ理解が完全にできていない。

何かについて語るとき、話し手はそれについて語った専攻する諸々の(他者のあるいは自身の)発話の中からいずれかを選んで語る。逆の言い方をすると、一つの発話(外言)は、実際には言われなかった諸々の発話を後に残して行われるのである。 (p.135)

⇒つまり、ある発話を行うということは、それ以前になされた発話と何かしら結びつき、さらにそれ以降になされるであろう発話と何かしら結びつくであろう、ということか。

発話は宛名性 (addressivity) をもつ。

⇒「文」や「語」には宛名がないが、「発話」は作者によってある他者に対して宛てられる。

話し手は、自分の発話を構築するときに、受け手の返答を「能動的に確定しようとする」 (p.137)

⇒能動的に確定しようとする際のメディアは、潜在的にそのコミュニケーションの地平下に隠れている。そのメディアとは、それ以前になされた発話およびそれ以降になされるであろう発話である。一つの発話がなされるということは、そうした潜在的な発話との対話によって生まれるということであり、その意味で多くの声が鳴り響いている (polyphony)


2. 対話的交流と対話原理
2.1. 対話的空間と対話的交流

対話的空間には、多くの(潜在的な)声が鳴り響いている。

言語活動に従事する主体においては、現下の問題あるいは対照についての過去及び先行する様々な発話及びそれに対する応答、そしてそれらの応答に対するさらなる応答などのさまざまな声が、さまざまな意識レベルで交錯し共鳴する対話的な空間が立ち現れる。そのようなポリフォニックな対話的空間にある他の主体はその声を耳にしてその声に対してまた応答するのである。 (p.138)

さらに意識内では、内言として新たなポリフォニックな対話的空間を作り出す。

このように、ことばのやり取りを観察可能な表面として人と人の間で行われる相互的な行為は、実際には、内言としてそこでたち現れるさまざまな声を含めた変化し続ける一つのポリフォニックな対話的空間ともう一つのポリフォニックな対話的空間との間で行われる相互作用なのである。 (p.139)


今後もバフチンに関する勉強は少しずつ続けていきたいなと思います!

2015年12月26日土曜日

多田孝志 (2011) 『授業で育てる対話力―グローバル時代の「対話型授業」の創造―』教育出版


こんにちは!mochiです!2015年もあと少しですね。


大学院の課題で、ある研究授業の分析をすることになりました。その授業は私が尊敬する先生がされたもので、自分がその公開授業の場で感じた「すごい!」という感覚を、なんとか言語化して自分の授業にも取り入れたいと思って取り組むことにしました。

その研究授業の構成は、前半が学習者のプレゼンテーション発表を中心にしたクラスディスカッション、後半が本文を通して自分を見つめなおして考えたことを話すミニスピーチでした。そのどちらも大変面白く、また生徒さんの英語力や学習への取り組みも素晴らしかったです。

自分のような大学院生に到底分析できるような代物ではありませんが、せっかくの機会なので自分の関心である「対話」を分析の観点として、対話授業における先生の役割や対話活動の分析をしようと思っています。

「対話」に関する漠然とした興味はあったものの、教育実践としての「対話」についてはまだまだ無知です。そこで、対話研究の専門家でいらっしゃる多田先生のご著書に当たることにしました。多田先生の名前は恥ずかしながらつい最近知ったばかりで、以前日本語教育学の細川先生と対談をされていた際の動画を拝見し、この先生から学べることがたくさんあることを確信しました。

今日紹介する本も、「対話」授業に興味をお持ちの方には大変お薦めです。本書の構成を簡単に説明すると、対話が必要な時代背景の説明、対話実践を支える理論的根拠、そして実例を交えながら対話実践の方法論、となっています。授業で取り入れるなら後半のみで十分ですが、個人的には前半の理論部分が大変面白く感じられました。

授業で育てる対話力―グローバル時代の「対話型授業」の創造
授業で育てる対話力―グローバル時代の「対話型授業」の創造多田 孝志

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以下、特に面白いと思った箇所を紹介します。




■ 多文化「共生」の「グローバル時代」に求められる「対話」

多田先生は序文で「グローバル時代」における対話の必要性を強調します。ここで言う「グローバル時代」とは、「多文化共生社会の現実化を直視し、多様性を尊重し、生かし合う時代」(p. iv) という意味で用いられており、流行言葉として巷で言われるグローバルとは必ずしも一致しません。

さらに、「共生」という言葉は「多様な人々との相互理解を深め、親和的かつ相互扶助の関係を醸成し、また、文化や価値観・立場の違いや、異なる意見による対立を乗り越え、対話や共同活動を通して、新たな知見や価値を生み出し、そのプロセスで創造的な関係を築きあげていくこと」(p.33) と説明されています。ここから、「共生」も決して理想観望的な言葉でなく、現代の状況を冷静に分析した上でお互いの存在を承認し合う必要性を直視しており、地に足がついた議論であることがわかります。
(とは言いつつ、対話論が多少の理想を含むことは否めないとも思います。その点については最後に感想で書いています。)

本書の論立ては、ただ単に「対話をしましょう」と無闇に対話活動を礼賛するだけではありません。(その意味では重い文章だとも思います。)対話相手が「他者」―すなわち根源的にわかりあうことのできない存在―であることを自覚し、価値観や利害関係、文化・歴史的記憶が異なることを踏まえて、その上でいかに共に生きることができるかを探究することが求められるという点も踏まえられています。

このようなグローバル時代に、筆者は「合意形成を唯一の目的としない・話し合うこと自体に意味をもたせる対話」 (p.12) を体験する必要があると言います。たとえば共通コミュニティの成員同士として社会・未来のあり方に関して話したり(例:「楽しい学級にするには」「地域社会を希望あるものとするためにできることは」、多様な知見を結びつけて知的連帯を楽しむ対話をしたり(例:「生きがいのある人生とは」)することが考えられます。これらの問いに対してクラス全体で絶対解を出す必要性はなく、そのクラスとしての納得解を各々が持っている状態であれば良いはずです。

多田先生は、そのような対話に不可欠な5つの対話方法(留保条件、部分含意、段階的解決、発想の転換、第三者による調整)を示しています (p.13) 。ここでは詳説を避けますが、このような対話方法を明示的に学習者に指導しておけば、コミュニケーションがクラッシュしそうになったときに学習者間で調整し合い、対話が「自己治癒」しながら継続することも可能となるかもしれません。





■ 「どの子にも語る力、考える力はある」「どの子も認められたい、発言したいと願っている」

多田先生の理論の根底にあるのがこの考え方です。先生の高校時代のある経験から、大前提としてクラス全員に語る力・考える力があることを学んだそうです。(この経験については本書を読んでお確かめください。)

思えば自分も、クラスではあまり活発でありませんでした。クラスの雰囲気やペア相手の子との人間関係など、他者の目が怖くて話せないという生徒はたくさんいると思います。それでも多田先生の仰るとおり、全ての子は「話したい」「聞いてもらいたい」「認めてもらいたい」という欲求を持っているのだと思います。

(※この点は、苫野先生の「承認欲望」の議論とも似ていると思いました。まだきちんと比較検討ができていませんが、両者の議論は非常に相性が良いのでは、というのが自分の意見です。)

さて、このような寡黙な子どもも対話授業に参加できるために、教師は「コメント力」 (p.72) が求められます。コメント力を学ぶのに最も良いのは、ハーバード大学のマイケル・サンデル氏の授業だといいます。自分もマイケル・サンデル氏の授業は、学部生の頃にはまっていました。対話授業をする際、サンデル氏のコメント力から学べることも多そうです。以下はほんの一例です。

・確認
・補説の要求
・反対意見の指名
・新たな視点を導入して「どう思うか」と問い掛ける
・別のケースを導入して新たな問いを出す

サンデル氏のビデオはもう一度じっくり観て、対話を促す声かけとして整理したいと思います。


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■ 「浅い対話」と「深い対話」

ただし、何でもかんでも「対話」をすればよい、という話ではありません。この部分が本書の最も魅力的な箇所だったのですが、「対話」の中でも浅い対話は避けて、「深い対話」を志向すべきという議論もされています。

「浅い対話」は情報の共有や指示伝達を主目的とします。そのため、権力構造の雰囲気で、閉鎖的・パターン化された発言がなされます。浅い対話の参与者は必ずしも相互理解をする必要はなく、上辺だけの人間関係で成立します。

それに対して「深い対話」の主目的は、「叡智の出し合いによる共創」です。複数の人間が集まって交流することで、知的爆発・知的化学反応が起こり、そこから新たな考え方が生み出されます。そのために、自由に意見を言い合う雰囲気が成立し、多様性が尊重され、相互理解を深めていきます。

本書はもちろん「深い対話」を成立させることに主眼を置いており、実践紹介でも「深い対話」をする生徒の姿が描かれています。その中でも特に私が重要だと思ったのは、教師が「ねらい」を分析することの必要性についてです。



■ 「ねらい」の分析

私たちが授業のために作成する指導案には、必ず「ねらい」(目標)が明示されています。英語科であれば、「読んだことや経験に基づいて、自分の考えを口頭で表現する」や「文章の要点を理解するために読む」などです。教師のねらいは通常一文で書くことが一般的です。教師がその時間中に身につけさせたい知識や技能を明確にするためです。

多田氏は、教師が「ねらい」を分析しなければ深い対話にすることができないといいます。これは氏が小学校の道徳の授業を見学した際のことですが、授業のテーマは「友情」で、二人の小人を主人公にした読み物教材が用いられたそうです。ストーリーとしては、せっかく見つけた食料をもう一人の小人が持っていってしまうというもので、授業の中心発問はその友だちの気持ちを考えさせることでした。

多くの子が「許してあげる」という意見を述べる中で、「本当の友だちなら許さない」という発言をした子が一人いたそうです。その先生はあまりその発言に注目せずに次の子の発言に向かったそうです。これについて多田先生は、もし授業者の先生が「友情について考えさせる」というねらいについて、より多角的な分析考察をする必要があったと評されています (p19) 。たしかに、「友情が大事」という意見のみに収斂しないで、「ではどんな友だちが良い友だちだろう」とか「友だちが悪いことをしたときはどうする?」といった次の発問につながっていたかもしれません。

もちろん対話授業以外のすべての授業にも当てはまることですが、指導案にねらいを1文で書く際も、より具体的・多角的に考える必要があるなと実感しました。



■ 最後に

以上が本書のまとめです。改めて、本書から多くのことを得られたことに気付かされます。ただし、以下の点について疑問が残りました。

(1) 「システム」という言葉が本書で繰り返し出てきましたが、きちんと規定されていなかった印象があります。たとえば以下の文。

かかわり・つながりを重視する時代ともイメージしています。時間・空間・問題とのかかわり、自己や他者・社会や自然とのかかわりを基調にものごとを考え、感じ、判断し、行動する――換言すれば「システム思考」の時代と捉えています。 (p.iv)

ここで「システム」という語がどのような意味合いで用いられているのかがピンと来ませんでした。仮に「システム」を「要素と連関を持ったひとつの体系」とでも定義するなら、世界を生態系として捉える姿勢のことを言いたいのだと類推できますが。

(もしかしたら私が「システム」という言葉に想いを込め過ぎているのかもしれませんが。笑)


(2) 本書は対話の必要性を丁寧に説明されていました。ただ、対話論の限界もあるのではないでしょうか。たとえば今問題になっているISやヘイトスピーチの問題に、「対話」論はどこまで対応できるのでしょうか。あるいは対話を放棄するような相手に対してどのように対話を持ちかけるか、という点については対話授業で前提とされていない印象をうけました。(かなり発展的な内容になるのも事実でしょうが。)


(3) 最後に英語科の視点からですが、英語科はあくまでの技能育成の教科として位置づけられます。とすると、「題材について」対話する(例:読んだ文章から分かったことを話し合う、筆者の意見を批判的に検討する)ことも考えられますが、「言語について」対話する機会、言い換えればメタ言語的な視点で対話をする機会もあって良いなと思いました。
同じ「吾輩は猫である。名前はまだない。」という文を、A君とB君が異なった訳し方をする、というのも立派な「他者性」で、対話の契機になりうると思います。(このような対話についてはあまり本書では扱われていなかった印象があります。)



以上が感想です。

私が本書を読んで「対話」について考えをゆっくり深められたことは事実で、良い買い物だったと思います。

「対話」教育についてご意見やご経験をお持ちの方がいらっしゃれば、ぜひコメント欄にお書きいただければ大変幸いです。

今年も多くの方に来訪いただきありがとうございました。
来年も時間を見つけて読書記録や思考の整理をして、さらにブログ記事も書きたいと思っています。
来年もどうぞ「もちサバニン日和」をよろしくお願いします!
それでは、よいお年を!

mochi

2015年12月21日月曜日

Anthony Pym 教授の講演会に参加して

こんにちは。mochiです。
2015年もあと10日ですね。
今年も本当に色々なことがあって、充実した経験を積ませて頂きましたが、同時に反省すべき箇所も多かったなと思います。

とりあえず修士論文を書き終えて、4月からの教員生活に向けてできることを一つずつやりたいと思います。

今回は研修ノートです。

2015年12月14日 (月) 、立教大学異文化コミュニケーション学部主催2015年連続講演会に参加させて頂きました。

講演は、翻訳論の大家であるAnthony Pym 氏が話されていて、テーマは"Where Translation Studies lost the plot: creating knowledge when everyone can translate"でした。

ちょうど自分の修士論文のテーマと関心が重なっており、大変刺激を受けてきました。ここに、講演の要点と、自分の感想をまとめたいと思います。


■ 要旨 (公開されている英語版アブストラクトのまとめ)

・翻訳学は1972年の設立当初 (Holmes のmap) 、翻訳の技術と言語学習のためのテストとしての訳に関して研究するものとしていた。

・ただし、翻訳学が学際性を帯びて、外国語学習での訳使用に関して無視をするようになったため、コミュニカティブアプローチが訳を退け、翻訳を専門性の高い行為とするようになった。

・ところが、機械翻訳の進展によって翻訳の全営化が起き、誰もが翻訳を行えるようになった。また、機械翻訳の推敲によって良質の訳文を作れるという結果もあり、これからは、訳行為は必ずしも専門家に限られる行為ではなくなる。


■ 翻訳学と言語教育の断絶

・応用言語学の大家であるNunanの書籍は20億部以上売れるのに対して、翻訳学の本の市場はとても小さい。


・Holmes(1972) は、翻訳学の設立当初から外国語教育における翻訳の技術とテストについて研究すべきとしていた。しかし、翻訳学が西洋で自立した学問となるにつれて、言語教育との接点が次第に薄れていった。


■ 翻訳学の「二項対立」

・翻訳学は「直訳と意訳」「同化翻訳と異化翻訳」「形式的等価と動的等価」のような二項対立的思考で止まっていたのではないか。

・近年の翻訳学では、この二項対立を脱するための提案もなされている。(Translation Solutionsの議論など)


■ 今後の方針

・外国語教育でもcommunicative translation が重要になるのではないか。
→この概念に関してはあまり説明がされなかった。参考になるのは、House (2008) などであろう。英語教育で翻訳活動を行う際には、形式的等価や訳語の正確さといった観点のみならず、その文が伝えるべきメッセージを十分伝えているか、といった観点も評価規準に入れるべきだろう。

・Malmkjaer の言葉を借りれば、 “Isn’t translation communicative?” である。

→当然、Pym氏の立場は “Yes! (Why not?)” である。ただし、現場で教える身としては、文法訳読式教授法のように、 “un-communicative translation” が歴史的になされてきたという反省も怠ってはならない。そのために、訳活動を行う場合は、「なぜその文を訳すのか?」「誰がその訳文を読むのか?」といった細かい場面設定も踏まえたタスクとして開発する必要があるだろう。

・機械翻訳の教育的使用も考慮されるべきである。たとえば、機械翻訳で出された文を下訳(叩き台)にして、より良い訳文を作成するというタスクも考えられる。

⇒後述。


■ 講演会の感想

以上が講演会のまとめです。
最後に、この講演会を踏まえて考えたことや学んだことを載せます。

(1) 翻訳学の学際性

西洋で翻訳学が自立した学問として成長する中、日本でも翻訳学が自立した学問体系となるような努力が積み重ねられています。今年の日本通訳翻訳学会の年次大会でも、翻訳者や通訳者の地位が不当に下げられてはならないという趣旨の発言がシンポジウムでされていました。(東京オリンピックに向けて翻訳や通訳のボランティアが増える中、専門職としての翻訳者・通訳者の位置づけに関しては、今後も問題となりそうです。)

しかし、教育学がそうだったように、翻訳学も「科学 (Wissenschaft) 」になることだけを目指してしまうと、西洋のTranslation Studies のように、他の分野との連携が薄くなっていくのかもしれないと感じました。翻訳学が単一の学問に固執するのではなく、翻訳という複雑な行為を多くのアプローチ (言語・文化・社会…) で分析し、その応用を議論していくべきだと思いました。

(2) 「翻訳」と「英文和訳」の二項対立性の克服

Pym氏によれば、翻訳学は「直訳」と「意訳」という伝統的な二項対立法から抜け出しきれていません。(「同化翻訳と異化翻訳」、「明示化と暗示化」、「形式的等価と動的等価」…。)

考えてみれば、英語教育学で馴染み深い「翻訳と英文和訳」という分類も二項対立的に語られることの多い概念だと思います。ただし、個人的にこの分類は、訳されたプロダクトのみならず、訳プロセスや訳文の機能、訳行為の依拠するコミュニケーションモデルなどの多くの観点から総合的に判断されるべきであり、必ずしも静的な二項対立的区分ではなくて動的な分類法として考えるべきだと考えております。

このような多重的観点から、中高英語教育における「訳」が一概に否定されるのではなく、場面によっては学習効果があるのではないかと思っており、今後もこの点について考えを深めたいと思います。

(3) 英語教育学と翻訳学との対話

講演会後に質疑応答の時間があり、その最後に英語教育との連携に関して以下のような質問をさせて頂いた。「post-editingを英語教育で実践するのはもちろん面白いが、日本語を日本語で書き換えるという活動に止まってしまうと英語学習とは呼べないのではないか。」

というのも、自分が実践したときもそのような問題意識があって、去年フリースクールで『映画名探偵コナン』の英語版教材を用いたpost-editingの実践を行った際に、不自然な日本語を自然な日本語に言い換えるという作業で終わってしまうのではないかという疑問が残ったためでした。授業は盛り上がったのですが、生徒さんの何人が英語の学びとして授業を受けてくれたのかと考えると、たしかにクエスチョンマークが消えませんでした。

Pym教授の答えは、「もちろん英語学習だよ。翻訳しているじゃないか。」というシンプルなものでした。時間が限られていたこともあり、それ以上の議論ができなかったのが大変心残りです。英語教育学の人と話していて一番焦点になるのが「日本語に訳したものについてあれこれ指導したら、それは日本語学習ではないか」という点なので、もう少し納得のできる説明ができないかと考えています。

そもそもお互いの「コミュニケーション」や「言語学習」の考え方が異なっているため、かみ合わないような気もします。翻訳活動が他者(原著者と読者)を意識したコミュニケーション活動であり、そこに「英語」学習も絡むような活動を提案する必要があると感じました。

※そもそもPym氏は大学での英語教育を念頭に入れていると考えられるので、中高英語教育を前提とする自分ともまた前提が異なっているのだと思います。

2015年12月20日日曜日

授業準備・英語授業が捗るお役立ちPCソフト

こんにちは。Ninsoraです。寒くなってきましたね。
先日、先輩と話をしていて、授業の補助教材の話題になりました。

英語の授業って、視覚情報や音声情報を扱う機会は他の教科よりも多いですよね。
だからいろいろ準備をしないといけないし、拘ろうと思えば際限なく時間が必要になります。
でも、先生の仕事は授業だけではないので、できるだけ授業準備にかける時間を効率化したいという方も多いはずです。

CDはもちろんのこと、最近は出版社から電子データや授業プリントが売られることもあるようですが、やはりまだPCでオリジナルのプリントやオリジナルの音源を作る方も多いと思います。

忙しい先生方の作業がちょっと楽になればと思って、僕がよく使う「普段の授業準備・英語授業が捗るPCソフト」を紹介します。

先生だけではなく、教育実習に行かれる学生さんも、パソコンに入れておくと何かと役に立つかと思います。
一応リンクも貼っておきますので、ご参考になさってください。

※ 尚、今回紹介するソフトはほとんどがフリーソフトですが、寄付も募っているそうです。

★プリント・スライド作成お役立ちソフト

PDF Xchange Viewer

PDFViewerとしてはもちろん使いやすいのですが、なによりキャプチャ機能が優秀です。
PDFはフォーマットが崩れない分、編集が難しいところがあるので、一部を切り取ってプリントに補足的に載せたいときなどは非常に便利です。

カメラのマークをクリックした後、指定ページをクリックすればページ全体が、ドラッグして範囲を指定すればその範囲が、一瞬でキャプチャされます。

また、PDFにテキストを書き込んだりもできるので、PDFファイルのプリントに補足的に説明を加えることも簡単です。多分一番使っているソフトです。

Xn View

視覚情報として写真を使用することは多いと思いますが、このXn Viewは素早く欲しい画像にアクセスできるので、とても便利です。

でも、それ以上に画像や写真を編集するソフトとして非常に優秀です。
非常に細かく明度・彩度等も変更できますし、フィルタも種類があって面白いです。
また、画像の形式を変更することもできます。

それ以上に、自分の一押しのポイントは、画像の傾きを「1度単位」で調整できることです!
気にするほどではないが、写真が真っ直ぐじゃないとなんとなく気持ち悪い!という自分みたいな人間にはありがたい機能です!

JTrim

これも画像の編集ソフトです。UIがシンプルで使いやすいのと、動作が軽快なのが特徴です。

教科書や問題集のデータ、スキャンした生徒のノートなどで、次のページに数行だけ書いてあって、そのままだと何となく勿体なく感じてしまうっていうこと、よくありますよね。

そんなときに、指定範囲を切り取って、ちょっとずつ動かして一枚に収める、なんて使い方もできます!

◇画像梱包

上で紹介したようなソフトで出来上がったJPEG画像などを、PDFとしてひとつにまとめることが可能です。

まとめるときは、ファイル複数指定してドラッグアンドドロップするだけなので、とても楽チンです。

タブレットやラップトップなどで写真を紹介するときなど、プレゼンテーションソフトだと容量が大きくなってしまったり、もともと入っているViewerだと動作が重かったりすると思います。

提示する順番が決まっているならば、一つのPDFとしてまとめてしまえば軽快になる(かも?)です!

動作OSWindows XP/ Me/ 2000/ 98 と書いてありますが、Windows 7の僕のPCでは動作確認できています。(Windows8以降のOSはちょっと分からないので、試してみてください)


★ 思考ツールとしてのテキストエディタ

Mery

プリントを作り始める前に要点をまとめたい、指導の流れをシンプルにイメージしたいという方にはテキストエディタがおススメです。

一押しはWZ Editor http://www.wzsoft.jp/wz9/index.html )というエディタなのですが、有料なので、今回はMeryというフリーのソフトを紹介します。

UIがシンプルで使いやすいのがテキストエディタの特徴なのですが、このMeryというソフトは普通のメモ帳アプリと違って、「アウトライン機能」があることが特徴です(WZ Editorが使いやすい所以でもあります)。

ピリオドを一つ打てば第一命題、二つ打てば第二命題という風に、階層をつけることができます。しかも、階層を指定して展開が可能です。
適当で申し訳ないですが、ちなみに下のような感じになります。左側がアウトラインです。



このように、説明する事柄や授業展開について、階層をつけてまとめると、言いたいことがよく伝わると思います。

また、このアウトライン昨日は論旨の流れを見たいときにも非常に使えるので、論文執筆やWritingの指導にも生かせるかなと思います。

★ 音源編集ソフト
Audacity

使いこなせば、音源を自由自在に編集できるソフトです。

不要な音の一部やノイズを消去したり、ディクテーションの際にポーズを挿入して書く時間をとったり、同一ファイルの中で音量を調節して音読などに役立てたり、複数の音源をつなげて一つにしたり、工夫次第で用途は様々です。

MP3等で書き出しもできるので、CDに焼いてコンポで使うこともできます。
リスニングテストの作成にも使えるかなと思います。

――――――――――――――――――
いかがでしたでしょうか。
他にもみなさんのおススメのPCソフト、あるいはタブレットのアプリなどがあれば、是非紹介してください。

僕も他に良いソフトがあれば、どんどんシェアしていきたいと思います!

それでは良いお年を。