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2016年3月30日水曜日

バフチン (2002) 「生活のなかの言葉と詩のなかの言葉」 のpp.6-37のまとめ

卒業式、謝恩会を経て、無事に大学院を退院・・・ではなく、修了することができました、mochiです。

いよいよ新年度が始まります。 本ブログの経営であるmochiとNinsoraは大学院を修了し、晴れて高校教員となります。

きっとうまくいかないこともたくさんあると思いますが、まずは目の前のことを謙虚にがむしゃらにやっていきたいです!そして院生生活で培った理論と実践を往復しながら、自分の得てきた知をより確かなものにし、その知を少しずつ他者の幸せのために役立てられたらと思います。(あ、もちろん自分の幸せにもw)

さて、前々から興味があったバフチンの言語論を扱った『バフチン言語論入門』。M1の頃に図書館で借りたのですが、歯が立たずに断念しました。しかし今読んでみると、これがめっぽう面白い・・・。時間がなかったので最初の30ページほどですがまとめを作りました。自分の理解が混じっているのでお気づきの方は誤っている箇所を御指摘していただければ助かります。

バフチンの「対話主義」に関しては自分の英語授業でも参考にしたいなと思います。日本語教育では大阪大学の西口先生の理論や、細川先生をはじめとする多くの先生方による実践例を聞きますが、英語教育ではどうなのでしょう。(京都教育大学の西本先生の論文はかなり拝読していますが、そこまで「対話」に関する理解が進んでいないような気がします。)

バフチンやブーバーといった対話論は、大学院を修了したこれからも勉強してみたいなと思いますし、教育学の多田先生らの著書、演劇の平田オリザ先生の論などは時折参照し続けるつもりです。



バフチン言語論入門
バフチン言語論入門ミハイル バフチン Mikhail Mikhailovich Bakhtin

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1.内在的に社会学的な芸術
理論的詩学において、社会学的方法はこれまで適用されてこなかった。
・文学史研究においては社会学的方法が取られるが、詩学(詩の芸術性を扱う学問)においては作品や作者を単体で扱うことが多い(というメッセージ)。
・マルクス主義の一元論・歴史主義が社会学的方法論にも影響を与えている。
 マルクス主義の一元論は価値(すなわち貨幣)、歴史主義は「弁証法的唯物論」か?

サクーリン教授の主張:文学研究は「内在的系列」と「因果論的系列」に区別される。
内在的系列:文学の芸術的中核。固有の特殊な構造と法則性を有し、「本性上」独立して発展。
因果論的系列:芸術外の社会的環境からの影響。

(例)芸術には固有の価値観がある。たとえば「おもしろい」「おもしろくない」

「客観的」な社会学的方法と「主観的」なほかのすべての「内在的」方法
・バフチンによれば、社会学的方法こそ「客観的」であり、その他は主観主義から抜け出せていない。
従来の「主観/客観」の用法と区別すべき。おそらくマルクスの影響が強い。

cf) マルクスにおける「客観」:経済的な「価値」
(→この用語法はアーレントにも引き継がれる)

たしかに、化学式は社会学の方法によっては見いだせない。しかし、イデオロギーのどんな分野であれ、それにたいする科学的「公式」は社会学的方法によってはじめて見いだすことができる。他のすべての「内在的な」方法は、主観主義のなかに迷い込んでおり、さまざまな見解や観点の無益な争いからいまなお抜けられず、また、厳密で精密な化学式にかすかなりとも似ているようなものを提供する能力にもっとも欠けている。イデオロギー的創造物の研究が真に科学的なものにはじめて最大限に近づきえたのは、マルクス主義的に理解された社会学的方法に依るところが大きい。 (pp.10-11)

イデオロギー的形成物は内的、内在的に社会学的 (p.11)
・政治や法律について研究する際に、イデオロギーに着目するのは当然である。

・芸術に関してもイデオロギー的形成物であるという点では(政治・法律と)同じである。

・まとめの一文

美的なるものは、法や認識にかんするものと同様に、社会的なるものの一変種に過ぎず、したがって芸術理論は芸術社会学としてしかありえない。いかなる「内在的」課題も芸術理論にはのこっていない。 (p.11)


ルーマンの芸術論と非常に近いのではないか。そもそもルーマンは社会学の巨視的理論の構築を狙ったわけであり、彼の社会学では芸術も扱われていなければならないために、バフチンの社会と芸術のつながりへの主張とルーマンの理論枠組みが近いのは当然とも言える。(おそらくルーマンであれば「構造的カップリング」として説明するのではないか。)



2.美的交通
芸術論に関する誤った信念
1) 物としての芸術作品の物神化
2) 創作者や鑑賞者の心理の研究への限定

たとえばHarry Potter という作品の美的交通を扱う場合。文章のレトリック研究のみでは完成せず(1)J.K. Rowlingへのインタビューだけでも(2)完成しえない。むしろ両者を合わせて初めて、Harry Potterという作品がどのようなものであり、それがどのような思いで書かれたのか、そしてどう読まれたのかという全体像が浮かび上がることになる。

つまるところ、どちらの観点も、おなじ欠陥をもっている。すなわち、それらは部分のなかに全体を見いだそうとしており、全体から抽象的に引き離した部分の構造を全体の構造と偽っているのである。しかるに、総体としての<芸術的なるもの>はモノや、孤立してとりだした創作者の心理や、観照者の心理のなかにはない。<芸術的なるもの>はこれら三つの契機すべてを包含している。それは、芸術作品のなかにとどめられた、創作者と観照者の相互関係の特殊な形式なのである。 (p.14)

・芸術的交通は、他の社会的形式と共通の土台から育ってくるが、ただし、他の形式と同様に、その独自性を保っている。 (p.14)

この1文もルーマンと照らし合わせると納得できる。芸術システムは<面白い/面白くない>というコードによってすべてのコミュニケーションを区別し、法システムは<合法/違法>というコードで区別する。ただしこれらのシステムは、そもそも土台となる全体社会があって初めて成り立つものである。さらに言えば、土台となる社会が今後どのように変わったとしても、たとえ思想弾圧による表現統制や事実上の無法状態が続いたとしても、芸術システムや法システムのコード自体が変わることは考えにくい。表現が取り締まれても、「面白い」とか「面白くない」という区別は継続されるだろうし、法の力が弱まっても「これは合法」とか「それは違法だ」という区別は残る。



3.言外の意味

生活のなかの言葉は、言語外の生活状況ときわめて緊密な結びつきを保っている。
・生活上の個々の発話には、「それは嘘だ」「真実だ」「よくぞいったものだ」「いわなければよかった」といった特徴づけや評価が与えられる。

こうしたたぐいの評価は、倫理的、認識的、政治的その他のいかなる基準にもとづいていようとも、発話における語そのものの契機、言語学的な契機のなかに含まれているものよりも広くて大きなものをとらえている。つまり、言葉といっしょになってこれらの評価は、発話の言語外の状況をも包み込んでいる。こうした判断や評価はある全体に属しており、そこでは言葉は生活上の出来事と直接に接触し、不可分の統一をなしている。 (pp.16-17)

情報統合理論の意味論と似ている。すなわち顕在的意味(ことばに表れる部分)と潜在的意味(言外の意味)の統一体(統合体)としての「意味」観である。

以下の一文はとても強い一文である。(強調箇所はレジュメ作成者による)

発話の純粋に語としての部分にいかにかかりきりになろうとも、また「tak」という言葉の音声学的契機、形態論的契機、意味論的契機をいかに繊細に定義づけようとも、やりとりの総体的意味の理解には一歩たりとも近づきはしないであろう。 (pp.17-18)

言語外のコンテクストの3つの契機
1) 話し手同士に共通する空間的視野(見えているものの共通性)
2) 状況にかんする、双方に共通する知識や理解
3) この状況にたいする、双方に共通する評価

たとえば劇の台本だけを読んでも登場人物の心情や声の調子(「イントネーション」)を理解できないことがある。それは、上でいう1~3が抜けているからであり、実際に舞台上に立って、同じ空間を共有して、役者同士でお互いの理解・評価を刷り合わせながら徐々に言語外のコンテクストが徐々に形成されるのではないだろうか。


バフチンの信号的言語観の否定

なによりもまず、まったく明らかなのは、この場合の言葉は、鏡が対照を反映するようなかたちでは言語外の状況をけっして反映していないということである。 (p.19)
信号的言語観の否定

信号と記号
・「信号」:11の関係。不変(静的)なもの。(関連性理論でいうところのcode的)
・「記号」:動的で常に意味が揺れ動くもの。(関連性理論でいうところのinferential的)

発話によってコンテクストを共有し、コンテクストの共有によって参加者は結び付けられる。

すなわち、いかなるものであれ、生活の中の発話は状況の参加者どうしを、この状況をおなじように知り、理解し、評価している共参加者として、つねにむすびつける、ということである。したがって、発話は、参加者が同一の存在部分に現実に物質的に所属しているということに立脚しており、この物質的共通性にイデオロギー的表現やその後のイデオロギー的展開をあたえている。 (pp.19-20)

cf) 平田オリザの「コンテクスト(の共有)」の語法と似ていないか?

・言外に示される評価は、個人的主観が強いように思える。しかし、主観は後方に退いており、社会的客観が前方にある。

個人的情調の方は、倍音としてのみ、社会的評価の基本的トーンに伴うことができる。<わたし>は<われわれ>に依拠してはじめて、言葉のなかで自己を現実化できるのである。 (p.21)

コンテクストの範囲は、2人の会話という狭い場合もあれば、家族・氏族・民族・階級・日々・数年・幾時代といった広範・恒常的な場合もある。

・広範なコンテクストでは、言外の社会的評価が発話されることはふつうない。

要するに、そのグループの経済面での生活環境の特徴から直接生じてくるすべての基本的な社会的評価は、ふつう発話されない。それらはこのグループの全員の血肉となっているのである。それらは行動や行為を組織しており、相当する事物や現象といわば癒着している。それゆえに、特別な言語表現を必要としない。 (p.22)

→たとえばヘイトスピーチにみられる差別意識。はっきりと「私たちは○○のことを差別している」という形で言語化されることはほとんどないだろうが、差別者の発話のどこかには被差別者を蔑視する口調がこめられている。あるいは差別意識によって、言葉の選択や言語表現の形式が規定されることも想像できる。(「あの野郎」「のび太のくせに」)
むしろ、「ABを差別する」という文が用いられるのは、その差別意識が問題視されるときのみかもしれない。(自明視された価値観を摘発する社会学を思い浮かべよ。)

⇒対象化することによって自らを取り巻く環境やその根本にある意識を観察できる。



4.イントネーション
イントネーションは言語と非言語の境界にある。
イントネーションはつねに、言語的なものと非言語的なもの、言われたことと言われなかったことの境界上にある。イントネーションにおいては、言葉は生活と直接に接している。 (p.24)

cf) コロスの支え…古代ギリシア演劇における唱歌隊。舞台世界を観客に伝えるのを助ける役割を持っていた。

イントネーション:2つの方向への定位
(1) 同調者や承認としての聞き手に対して
(2) 第三の生きた参加者としての発話の対象
発話の対象は、文学作品であれば主人公である。


私的言語に対する否定的立場
・私的言語(自分ひとりだけの言語)に関して、バフチンは否定的な見方をしていることが伺える。

創造的で、確信に満ちた、豊かなイントネーションは、前提にされている「コロスの支え」を基礎にしてのみ可能である。それがない場合には、声はかすれ、そのイントネーションは貧弱になる。それは、笑っている者が、笑っているのは自分ひとりであることにふと気づくといったような、よくあるケースに似ている。 (p.25)

言外に示されている基本的評価の共通性とは、人間の生きた動的なことばがイントネーション模様を刺繍するカンヴァスなのである。 (p.26)


言語的交通に関する結語

このようにして(いまや断言できるが)、辞典のなかにまどろんでいるのではなく、実際に発せられた(あるいは意味をもって書かれた)あらゆる言葉は、話し手(作者)、聞き手(読者)、話題の対象(主人公)という三者の社会的相互作用の表現であり所産なのである。 (p.30)

(言語学的抽象化ではなく)具体的な発話は、発話の参加者たちの社会的相互作用の課程で生まれ、生き、死んでいく。発話の意味や形式は、基本的にこの相互作用の形式と正確によって規定される。発話を、発話を培っているこの現実の土壌から切りはなしたならば、われわれは形式への鍵も意味への鍵も失ってしまい、手中にのこるのは抽象的な言語学的外皮か、やはり抽象的な意味図式(古めかしい文学理論家や文学史家たちの悪名高き「作品のイデー」)だけである。これら二つの抽象化は、生きたジンテーゼのための具体的な土壌がそれらにとって存在しないために、たがいに結合されえない。 (pp.30-31)



cf) 台詞とシナリオに関するmochiの理解


★強引に翻訳論と絡めて話すと、翻訳者に求められるのは「台詞」を緻密に分析したり辞書にある訳語を参照したりするだけでなく、原典テクストの「シナリオ」を理解し、そのシナリオを目標言語話者に再現させることといえないか。原典テクストの話し手・聞き手がいて、その話題の対象がその文化・社会ではどのように認識されているかを総合的に理解することが第一である。英語教育で翻訳をするとしたら、翻訳の過程でシナリオの再構築を行い、それが読解作業になるのではないか。

5.芸術的発話

日常生活の言葉は言外のコンテクストに参照することで意味が生成された。詩ではそれが通じず、すべて言語的に表現しなければならないと考えられがちである。

しかし、実際には詩も言外のコンテクストが必要である。

文学においてとくに重要なのは、言外に示されている評価の役割である。詩的作品とは、発話されていない社会的評価の強力なコンデンサーなのであり、あらゆる言葉が社会的評価で充満している、といってもよい。この社会的評価こそが、その直接的表現として芸術的形式を組織しているのである。 (p.34)

詩人というものは、辞書から言葉を選び出すのではなく、言葉が評価によって支えられ満たされていた生活上のコンテクストのなかから言葉を選び出すのである。 (p.34)

「素材」「形式」「表象」
・彫像を例にとると・・・
素材:大理石
形式:人体
表象:「英雄化したり」「いつくしんだり」「おとしめている」

→上の例を「形式の意味は、素材ではなく内容に関係している。」 (p.35) に当てはめると?





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